レルネット主幹 三宅善信
▼えひめ丸犠牲者を洋上で慰霊
昨年12月7日(日本時間では8日未明)、米国太平洋艦隊司令部のあるハワイの真珠湾(Pearl Habor)基地において、日米開戦60周年記念犠牲者追悼式典が米軍主催で開催され、日本からも宗教者が招かれたので、私も列席した。また、それに先立つ5日には、昨年2月に米海軍の原子力潜水艦Greenvilleと衝突、沈没させられた宇和島水産高校の実習船えひめ丸の慰霊祭がホノルル沖の洋上で行われたので、それにも参列し、戦争・事故と理由は異なるが、どちらも思いもよらないできごとで、いのちを散らし海の藻屑となった人々の魂について考える機会になった。
過去四半世紀の間に80回以上海外に出かけている私であるが、これまでどういうわけかハワイという場所に縁がなかった。たしか十数年前に、米国本土からの帰路、どうしても日本に帰る便が取れずに、「ハワイまで行けば、なんとか空席が出るかも」ということで、一晩だけ乗り継ぎのために滞在しただけである。そんな私に、今回思いがけない形でハワイを訪問する機会が回ってきた。
しかし、それでなくても忙しい師走に、海外出張の時間を取るのは大変で、事実、12月3日には平成神道研究会で比叡山を訪れ、渡邊恵進天台座主猊下から直接お話を承り、4日には第115回のIARF(国連経済社会理事会公認のNGO国際自由宗教連盟)日本連絡協議会の議長を務め、また9日には大切な祭事があるので、今年は日米開戦60周年ならびに、えひめ丸遭難という極めて日米関係にとってシンボリックな年であったが、私に許されたのは12月5日から8日までの2泊4日という強行スケジュールでハワイからとんぼ帰りすることであった。
12月5日の晩に関西空港を発った私は、時差の関係で同日(以下、現地時間)の昼前にホノルル空港に到着し、その足で港へ直行。ホノルル沖の沈没現場で行われる「えひめ丸」慰霊祭へと向かった。
12月5日午後、ホノルル沖9マイル(約15km)の洋上において、世界連邦日本宗教委員会(池田瑩輝委員長)主催の「えひめ丸犠牲者追悼慰霊祭」が仕えられた。この日のハワイ沖は、前日からの嵐の影響で大荒れ。われわれが乗船した小型のチャーター船は、波間に浮かぶ木の葉のように翻弄され、甲板にまで大波が被(かぶ)さった。慰霊祭参加者はずぶ濡れになり、何かにしっかりとつかっていなければ船外へ振り落とされてしまうくらいで、2月10日に起きた米海軍原子力潜水艦の浮上訓練による愛媛県立宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」沈没事件現場の恐ろしさを実感することができた。
ワイキキの高層リゾートホテル群が見渡せる程しかオアフ島から離れていない沈没現場で行われた慰霊祭には、神道・仏教・キリスト教・新宗教の代表が参加した。大波に揺れる船上では、立ち上がることすら困難なくらいであったが、それぞれ犠牲者に手向ける花や日本から持参した御神酒(おみき)を荒れ狂う洋上に捧げて、一瞬の事故で若いいのちを失った犠牲者の冥福を祈った。
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迎春準備が進むハワイ出雲大社
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テロ事件以後、星条旗を掲げてアメリカに同調する高野山真言宗ハワイ別院
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この日の夕方は、ホノルル市内にある日系の宗教、すなわち、ハワイ金毘羅神社・大宰府天満宮、ハワイ出雲大社、高野山真言宗ハワイ別院を訪問し、参拝。それぞれの代表者と会談することができた。外国における日本宗教の受容形態については、別の機会に譲りたい、ホノルルに住んでいても、京都と同じように「終い弘法」に「初天神」を経験できる。
▼際立った対照を見せた日本人への反応
翌6日午前中には、パールハーバー(真珠湾)基地内と戦艦アリゾナ記念館上において、日本側主催の真珠湾犠牲者慰霊祭が行われた。9月11日の同時多発テロ事件以来「戦争」状態に入っているアメリカの軍関連施設内で行われるということもあって、厳重な警戒態勢が取られる中での異様な雰囲気の慰霊祭実施となった。
日本軍の攻撃を受けて轟沈する戦艦アリゾナ
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今年の真珠湾基地内は、「日米開戦60周年」の記念の年でもあり、また、米国のマスコミでも報道されたように、世界貿易センタービルへの航空機による自爆テロ攻撃を「1941年12月7日の真珠湾奇襲攻撃」と類比させて、アメリカの国を挙げての「報復」が煽(あお)られる中で迎えられ、全米から「真珠湾の生存者(Survivor)」と称する平均年齢90歳くらいの退役軍人(Veteran)が多数参加していた。しかし、真珠湾基地内の展示物あるいは説明の文書や記録映画等では、「あの日のことを忘れない」ということは強調されていたけれど、私が思っていたよりもはるかに、日本軍とアメリカ軍との戦争の様子が、悪意のプロパガンダを交えずに客観的に論述されていることが意外であった。
教派神道の代表として慰霊の祈りをする筆者
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大日本帝国海軍連合艦隊機動部隊の奇襲攻撃により、わずか十数分で千名を超す乗組員もろとも海の藻屑となった戦艦アリゾナ撃沈場所を対岸に見渡せるテラスにおいて、世界連邦日本宗教委員会の第20回ハワイ平和使節団の慰霊祭が行われた。祭事はまず、神社神道代表(日本から参加した石清水八幡宮と地元ハワイの金比羅神社、出雲大社、ハワイ大神宮他)の神職たちによる修祓と大祓詞等が行われ、ついで教派神道の代表として私、三宅善信が霊前拝詞を奉唱した。さらに、新宗教を代表して立正佼成会が法華経を唱え、伝統仏教を代表して池田瑩輝真言宗中山寺派元管長の導師による高野山真言宗・智山派・豊山派・川崎大師・神護寺代表らによる般若心経の読経、最後にカトリック教会の神父による祈りが行われた。
この後、一行は、水深二十数メートルの浅瀬で撃沈された戦艦アリゾナの上に建てられた「アリゾナ記念館」にボートで渡り、戦艦アリゾナと命運を共にした1,177名の名前が刻まれた米海軍将兵の墓標の前で、それぞれ追悼の祈りを行った。「戦友」たちを弔うために、毎年真珠湾基地に戻ってくる退役軍人たちは、かつての「敵」であった日本人の宗教家が、今ではこうして、敵味方の恩讐を超えて祈ってくれていることに素直に感謝の意を表してくる人が多かったが、むしろ、太平洋戦争の「実際」を知らずに、5月に封切られた安物の恋愛映画『Pearl
Harbor(パールハーバー)』や、9月11日のテロ事件以来、マスコミが創り出したステレオタイプ化されたイメージでしか1941年に実際に起きた歴史上の「事実」を知らない若者たちのほうが、アリゾナ記念館に参拝する日本人にネガティブな反応を示していたことが印象的であった。
アリゾナ記念館で追悼の祈りを捧げる筆者
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▼地元の日系宗教者と懇談
続いて、われわれは、同じく真珠湾内のアリゾナ記念館から少し離れた位置に係留されている戦艦ミズーリを見学した。太平洋戦争が始まった1941年に建造が開始され、1960年代のベトナム戦争はおろか1991年の湾岸戦争にまで参戦した戦艦ミズーリは、1945年9月2日、東京湾内において、日本が連合国に対して降伏文書に調印した際の会場となった船として、歴史に名を留めている。太平洋戦争の始まりと終わりに大きく関わった2隻の戦艦を並べて展示しているところに、アメリカの国家としての意図が感じられる。連合国総司令官D・マッカーサー元帥と重光葵外務大臣の間で行われた降伏文書調印式の様子の再現の展示の仕方の演出には目を見張るものがあった。
降伏文書が調印された戦艦ミズーリを見学する筆者
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この日の夕方には、ワイキキのホテルで、地元ハワイの日系宗教者との間で、約40人が出席して懇談会が持たれた。日本側からは、特に、60年前の真珠湾攻撃を連想させるテロ事件以来の「反日」報道が、ハワイにおける日系人社会にどのような悪影響を与えているか等について質問が出され、ハワイの宗教者側からは、日本でいえば「靖国」に当たるパンチボウル(国立太平洋記念墓地)やアリゾナ記念館における日本人観光客のマナーがあまりにも酷すぎる旨の報告があった。
報道では、出口の見えない経済不況と、米国のアフガン攻撃に対する再度のテロ事件を恐れて、日本人の海外旅行者が激減していると伝えられているが、私が訪れた限りでは、この同じ週の日曜日(9日)にオアフ島で開催されるホノルルマラソンに参加するために、1万人もの日本人市民ランナーがホノルルの街を訪れており、どの高級リゾートホテルも満室で、街の目抜き通りは深夜にもかかわらず、買い物をする日本人観光客で溢れていた。ちょうど60年前、アジアや欧州での戦争など、どこ吹く風で繁栄を謳歌していたアメリカ人たちが、日曜日の朝、突如襲ってきた日本軍の攻撃によって泰平の眠りから目を覚まされ、太平洋戦争へと突入していったのと同じように、ホノルルの街に屯(たむろ)する日本人のあり方は、世界が激変してしまうかもしれない大事件の直前の「うたかたの遊び」のように思えてならなかった。
▼怨親平等の12月7日
翌7日の朝、太平洋戦争が始まった日(1941年12月7日:日本時間では12月8日)と同じ時刻に、米軍主催の「真珠湾攻撃60周年記念式典」が始まった。テロを警戒する厳重な警備にも関わらず、パールハーバー基地内の式典会場には、立錐の余地もないくらいに軍関係者や見学の市民が集まり、テレビ局のカメラも多数取材に来ていた。全米50州の旗が風に舞う会場には、司会の合図で、陸海空軍および海兵隊の4軍の旗が入場し、アメリカ国歌『星条旗』が斉唱されて式典が開始された。その時、辺りに爆音が轟き渡った。日本軍の攻撃時刻に合わせて、米軍の戦闘機(たぶんF16)が真珠湾基地の上を地表スレスレに飛行するという演出で幕を開けた。鎮魂の儀式では、撃沈された米軍艦の生存者と、これを撃沈した帝国海軍急降下爆撃隊の元パイロットの2人が手を携えて献花をするシーンが感動的であった。
全米50州の州旗が掲揚された記念式典会場で
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続いて、軍関係者による挨拶や生存者による思い出話などがなされた後、日本平和使節団の名誉団長である池田瑩輝師が紹介されて、スピーチと平和の祈りを行った。池田師は、日本からの慰霊団の参加が20年に及んだことに触れ、「最初は、この活動が邪魔者扱いにされてきたが、徐々にアメリカ人にも理解されてきたことは、まさに『継続は力』の感を強くした」こと。さらに「『汝の敵を愛せ』というキリスト教の精神と、『怨親平等』という仏教の精神との出遭いである」と述べ、「世界が新たな戦争の危機にあるこの時こそ、『日米不戦の誓い』の精神に立ち戻るべきである」と締めくくり大きな拍手を受けていた。
真珠湾での公式記念式典の後、オアフ島内で日米両軍が相まみえたカネオヘ基地や太平洋戦争の戦没者が埋葬されているパンチボウルにおいても、慰霊と追悼の行事が行われたが、私はどうしても参列しなければならない行事が9日(日本時間)にあるので、真珠湾基地での米軍による公式式典に参列した後、その足でホノルル空港へ向かい、大阪への帰途へついた。わずか2泊4間という短い期間であったが、日米両国の慰霊感の違いを知ることができるいい機会であった。
▼水漬く屍
というのも、何百メートルもの海底に沈んだえひめ丸乗組員の遺体の引き揚げに徹底的に固執した日本人を、真珠湾内のわずか20メートル(海面から船の様子が透けて見える)のところに沈んでいるアリゾナと一緒に眠る1,177柱の戦死者の遺体を引き揚げようともせず、あまつさえ、その遺体ごと記念碑にしてしまう彼我の精神構造の差。一方で、あれほど苦労して引き揚げた遺体の変わり果てたわが子の姿に、「冷たかったやろ」「暗かったやろ」と泣きくずれながら弔いを済ませたら、今度は、あっさりと荼毘に付してしまう(この際、遺体は熱くないのであろうか?)感覚がないアメリカ人たちには理解できたのだろうか?
手の届くところにあるアリゾナと1,177人の遺体
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昨年2月9日のえひめ丸沈没事件後、米海軍太平洋艦隊司令部に、連絡要員として派遣されていた海上幕僚監部ハワイ連絡官林秀樹二佐と、船体引き揚げ責任者ウィリアム・クレム少将のコンビでことに当っていったが、当初米軍関係者の関心は、専ら、日米文化の表面的な違いばかり気にしており、日本式のお辞儀の仕方などを聞いたそうだ。当然のことながら、このような表面的な謝罪では、遺族の心の傷は癒される道理もなく、林二佐自身も「家族の心の傷と、米軍との間の溝は深すぎる」と半ば諦めていたそうだ。
水深数百メートルに沈んでいたえひめ丸
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ところが、海底からの引き揚げ作業が始まり、難航しつつも、水深30メートルの浅瀬までは曳航した後、船内捜索が10月から始まり、一体また一体と遺体が収容されはじめると、かたくなだった遺族の気持ちに変化が現れた。作業海域を見学に訪れた遺族のひとりが「必死で潜水作業する(米海軍の)隊員にお礼を言いたい」と言った。また、別の遺族は「生きている人が大切です。危険を感じたらいつでも作業を中断して欲しい」と訴えたそうだ。それを聞いたクレム少将らは泣き崩れたという。日米の文化的背景の違いだけでなく、被害者と加害者という立場の違いをも越えて、共同作業を通じて、お互いが理解し合える端緒が開いた瞬間である。
捜索作業のためえひめ丸をつり上げていたワイヤが11月25日、ハワイ沖30キロの洋上で切り離された。海上自衛隊救難艦を含む日米5隻の艦艇が汽笛を鳴らし、船影は深海1,800メートルに沈んでいった。ただ1人発見されなかった水口峻志さんの遺体もろとも…。