君は金子ゴジラを観たか 
01年02月18日


レルネット主幹 三宅善信

▼「平成のガメラ」シリーズ男

 宗教家である私にとって、もともと1年のうちで最も急がしいのが正月であるが、今年は特に、今年の正月はそれに加えて、312ページにも及ぶ新刊本の編纂、1月13日の人類共栄会創設50周年記念シンポ、27日の泉尾教会75年記念大祭とビッグイベントが目白押しで、「主幹の主観」ファンの皆様には、大変長らくお待たせした。そんな中で2時間の時間を無理やり創って、唯一観たクリスマス・お正月映画が、「平成のガメラ」シリーズで怪獣映画に新風をもたらせた金子修介脚本監督作品『ゴジラ・モスラ・キングギドラ〜大怪獣総攻撃〜』(以下、『GMK』と略す)である。


映画『ゴジラ・モスラ・キングギドラ〜大怪獣総攻撃〜』のサントラ版カバー

  金子修介の「平成のガメラ」シリーズへの評価については、かつて『ガメラ3:怪獣は地球環境維持装置だったのか?』と、その『続編』で詳しく述べたとおりである。「平成のガメラ」シリーズは、「東宝ゴジラ>大映ガメラ」という三十数年間固定していた「オリジナル>二番煎じ」あるいは「メジャー>マイナー」というゴジラ・ガメラ関係を完全に逆転させた。彼我の資本力の違いは当然のこととして、日米の宗教観の違いというものを見せつけた『南の島で観た「米製ゴジラ」』(4年前に上梓されたこの作品は、当「主幹の主観」シリーズの日米文化対比論の第1作でもある)は論外としても、「平成のゴジラ」シリーズのていたらく(たとえば、『モスラ3:大量絶滅物語に見る日米格差』や『ゴジラ観レネアム』で指摘した)を見るとき、金子修介の実力は相当のものであり、私は内心、今回の作品『GMK』に大いに期待していた。

  1960年代後半に、怪獣映画やウルトラマンシリーズや仮面ライダーシリーズなどの「特撮もの(変身ヒーローもの)」を見て育ったわれわれの世代にとっては、70年代後半〜80年代後半の「特撮もの」の"堕落"には許し難いものがあった(その辺りについては、『堕落したウルトラマン:異安心タロウ』に詳解されている)が、われわれの世代が直接作品制作に関わることができる年齢に達した、いわゆる「平成の○○シリーズ」、すなわち『ウルトラマン・ティガ』や『仮面ライダー・クウガ』あるいは「平成のガメラ」シリーズの登場を待たねばならない。そのような時代の流れの中で、特撮ものの総本家であるゴジラシリーズだけが、平成の御代(すなわち、ポスト冷戦・バブル崩壊時代)になって、いよいよ作品の質の低下に歯止めがかからなくなっていったことを嘆いていたのは、私だけではあるまい。まさに、デフレ・スパイラルの止まらなくなったこの国の社会状況そのものである。


▼怪獣界のオールスター映画

  怪獣映画を取り巻くそんな状況の中にあって、満を持しての金子修介登場である。話は数年前に遡る。「平成のガメラ」シリーズを観て、ゴジラ関係者は愕然としたであろう。誰の目から見ても、映画作品としての質が「ガメラ>ゴジラ」と、完全に形勢が逆転してしまったからである。特に、ハリウッド映画化によって「汚された(単なる獣に堕された)ゴジラ」を救い出すために1954年の『ゴジラ』第1作を意識して創られたという1999年末の『ゴジラ ミレニアム』(手塚昌明監督)が最低の出来であった(『ゴジラ観レネアム』ことに危機感を抱いたゴジラ関係者は、新世紀を目前にした2000年末の作品では、金子修介の『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』を完全に意識して、ガラリと雰囲気を変えた『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』(手塚昌明監督)を制作したが、この映画は、何もかもが中途半端の感を否めなかった。すなわち、ゴジラは、従来の人間の都合(感情移入)などというものをまったく無視した存在であり、地球生命圏全体の中での意味づけがなされようとしていたが、日本政府内にも民間にも、妙にゴジラに入れ込んでいる人々を描くことによって、かえって(人間の都合を織り込んでしまい)浅薄なゴジラ映画になってしまっていた。

  そこで、最後の手段として、三顧の礼をもって件の金子修介を最新のゴジラ映画の監督(脚本も)に招聘し、「平成のガメラ」3部作を凌ぐゴジラ映画の決定版を制作することになったのが、今回の『GMK』であった。怪獣映画に多少とも興味を持っている人にとって、ゴジラのメガホンを握ることは夢である。私だって、もし、東宝から「次期ゴジラ映画の監督(脚本)をお願いしたい」と頼まれれば、二つ返事で引き受けるであろう。素人の私ですらそのように思うくらいだから、プロの映画監督であり、マイナーのイメージがあったガメラをあれだけ立派に蘇らせた金子修介なら、当然、嬉々としてこの依頼を受けたであろうが、同時に、メジャーのゴジラだけに「絶対に失敗できない」というプレッシャーも大きかったに違いない。その証拠は、ゴジラひとりだけでなく、モスラ・キングギドラという、それだけでも1本の映画を制作することすら可能な名怪獣を総出演させ、all starのgala movieを目指したことからも容易に見て取れる。実際には、このオールスターの罠に絡み取られることになるのだが…。


▼平和ボケした日本人の顔

  それでは、この『GMK』を映画館で見逃した人のために、まずこの作品の梗概を述べたい。最初にお断りしておかなければならないこの映画の場面設定は、これまで二十数作品が上映された「ゴジラ」ものとは、まったく関係ないということになっている。ただ、唯一関係があるのは、1954年に封切られたゴジラ映画オリジナル第1作『ゴジラ』によって壊滅的打撃を受けた日本(東京)から半世紀を経過して、物質的繁栄を謳歌するだけでなく、同時に、精神的退廃をきたしてしまっているごく近未来の日本(防衛庁が念願叶って「防衛省」に格上げされている)が舞台である。一般市民だけでなく政府首脳も含めて、日本人の記憶からは、50年前の悲劇は、広島・長崎の原爆同様、完全に風化してしまっていた。そこへ、日本近海で米海軍の原潜が謎の遭難事故を起こし、わが防衛海軍(海上自衛隊のこと)の広瀬大佐操る潜行艇が調査に向かい、原子炉が剥き出しになった米原潜の陰に、巨大な背鰭(せびれ)を持った生物(つまりゴジラ)を目撃するところから話は始まる。ゴジラは伊豆諸島の孫の手島を壊滅状態にするが、本土から遠く離れた島の出来事故、過小評価し、そこで、お決まりの(日本文化の本質ともいえる)政府や防衛当局関係者の「小田原評定」があり、後手後手の対応でゴジラの本土(静岡県焼津市)へ上陸を許してしまう。

  ここで、この映画の主人公のひとり、半世紀前のゴジラ襲来で両親を亡くしたことが大いなるトラウマになっていた防衛海軍准将の立花泰三(宇崎竜童)が登場する。ここ30年間くらいの日本の戦争映画(見れるのは『トラトラトラ』まで)や時代劇を見る気がしない理由のひとつに、軍人や侍の顔した役者がいなくなったことが挙げられる。長年にわたって平和ボケした日本人の顔がすべからく緊張感を欠いてしまっているので、この種の映画に今ひとつリアリティが湧かないのである。タリバンの兵たちの精悍な面構えと見比べれば歴然である。この映画の中でも「(日本軍は)実戦経験のない軍隊」であることを防衛軍の将校たちが、逆に自慢しているシーンがある。肝心の主演であるにもかかわらず、この立花准将がその典型である。側聞すると、この立花准将=宇崎のキャスティングは金子監督自らの推奨だそうであるから、この辺りの感性は私と大いに異なる。

  ただ、ゴジラが人間の都合や思い入れとは全く別の次元で、勝手気ままに暴れ回っているという設定には、大いに同意する。太平洋戦争で犠牲になった人々(人間の側の都合である連合国側や枢軸国側とかは全く関係ない)さらには、無数の山川草木に至るまでの怨念の結晶体としてゴジラを捉えている点は、金子修介の面目躍如である。それを典型的に現しているのが「白い眼」のゴジラである。これまでのゴジラ映画のゴジラとは「別物である」ということを無言のうちに物語っている。「目は口ほどにものを言う」と言うが、究極の無表情である「白い眼」のゴジラには、人間の側の「呼びかけ」が全く通じないことは明々白々である。それに、ゴジラ本来のテーマである反核思想がハッキリと表現されている。冒頭の米原潜の遭難事故から、あの第五福竜丸(映画『ゴジラ』作成のきっかけとなった1954年のビキニ環礁の水爆実験で被爆した日本のマグロ漁船)の母港である焼津市にゴジラが本土上陸第一歩を記し、しかも、ゴジラによって破壊し尽くされた焼津市から立ち上るキノコ雲がこれを象徴している。なにせ、ビキニ環礁で行われた核実験の水爆の威力は、そのわずか9年前に造られた広島型原爆の1,000倍に達するものであった。

  それから、もうひとりの主役が、弱小BS放送製作会社デジタルQ社員レポーターの立花由里(新山千春)である。インチキオカルト番組ばかり制作しているC級デジタル局(実在する民放各社もオカルト=インチキ番組をよく作っているが)の企画番組がゴジラに対抗する3頭の怪獣(バラゴン・モスラ・キングギドラ)出現の謎を解いて行く。因みに、このレポーターの立花由里は、防衛軍の立花准将の一人娘である。軍人である立花は、男手一人でこの奔放な娘を育ててきた。この辺りは、映画『アルマゲドン』(http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r12-19.htmへ飛べるように)のブルース・ウイルス演じる石油掘削技師(地球人を代表して、宇宙空間で巨大隕石と格闘して、これを破壊し、人類文明滅亡の危機を脱っせさせる)と同じパターンである。この父と娘(当然、この娘に気を寄せている若い男たちがいる)が反発しあいながら、結果的には、共にゴジラに立ち向かっていくというストーリー展開である。


▼護国聖獣伝説

  この物語のもうひとつのプロットは、『護国聖獣伝説』という民間伝承である。最初にデジタルQが取材に行った新潟県の妙高山、それから鹿児島県の池田湖、さらには山梨県の青木ヶ原の樹海で、それぞれ「謎の怪獣」の仕業によると思われる怪事件が発生し、傍若無人な振る舞いをした若者たちが謎の死を遂げる。デジタルQにおあつらえ向きの「怪事件」を取材する立花由里は、サイエンスライター武田光秋(小林正寛)から『護国聖獣伝説』なる本の存在を知らされる。映画の中では、由里たちに警告を発する「謎の老人」伊佐山嘉利(天本英世)が登場する。そう『仮面ライダー』の「死神博士」役以来、この手の「怪しい人物」の役ばかり来る天本英世である。この映画の中でも、ある時は、森(妙高山)の中に突如現れては消える老人として、またあるときは、山梨県警本栖署に収監されている狂人(さかんに怪獣出現を説き、警世の鐘を鳴らして回る惚けた老人)として…。実は、この伊佐山老人こそ、50年前に初めてゴジラが出現したときに、ゴジラと戦い、『護国聖獣伝説』を著した伊佐山嘉利博士その人(の亡霊?)だったのである。

  映画の中では、原爆犠牲者(人間だけでない一切衆生)を代表とする恨みのエネルギーの権化であるゴジラによる破壊に対抗するために、このクニ(「国家」としての日本のことではなく、日本列島の山河そのもの)のアニマが生みだした護国の三聖獣たちが、いのちを賭して戦うことになっている。その間をチョロチョロ動き回る(飛び回る)防衛軍の存在など、取るに足らない存在である。今から2,000年ほど前にも出現したこの護国三聖獣たちは、当時の人々(の呪術)に封じ込められ、1万年という永い眠りについていたはずであった。これらの怪獣たちが傍若無人な若者たちの行為によって蘇ったというか、ゴジラの襲来を察知して蘇った訳であるが、いずれもまだ「完全体」というレベルにまでは成長していなかった(幼獣段階)。真っ先に、蘇った赤い怪獣(=後の狛犬のモデルになったと考えられる)バラゴンが土中から出現したとき、驚愕した人々はこれを「ゴジラだ!」と言って驚いたほどである。ことほど、半世紀前のゴジラの襲来は、人々の記憶から風化していたのである。


身長差を補うために断崖の上から何度もゴジラに飛びかかるバラゴン

  新潟から一直線に南下したバラゴンは、焼津から上陸したゴジラと御殿場で激突する。2匹の怪獣が暴れるのであるから、当然、建造物や人間に犠牲がでるのであるが、今回の『GMK』には、そんなことに関する感情移入など一切なされていない。そう、怪獣たちからすれば、人間の都合なんぞお構いなしである。デモーニッシュな「黒い怪獣」であるゴジラの圧倒的パワーの前に、身の丈がゴジラの半分ほどしかない「赤い怪獣」バラゴンは、果敢に攻撃を仕掛けるが、所詮は「大人と子供」の喧嘩である。踏みつぶされ放射能火炎(熱線)放射で焼き殺されてしまう。しかし、バラゴンの憤死は、日本列島の離れた場所に眠る他の「護国聖獣」に変化をもたらした。鹿児島の池田湖で発見された巨大な繭から怪獣モスラが出現し、富士山麓の樹海に凍り漬けになっていたギドラが蘇ったのである。

  バラゴンの健闘(可哀想なバラゴンは、映画のタイトルに名前すら出してもらえない)で一時時間稼ぎが行われたが、ゴジラは再び東京を目指して進撃を開始する。防衛軍は、横浜を防御ラインに設定して、ここでゴジラをくい止めようとするが、難なく突破されてしまう。ランドマークタワーの最上階に陣取った防衛軍がゴジラの熱線放射にやられかかった時、モスラとギドラが飛来する。怪獣出現に大混乱に陥り、逃げ惑う群衆の上をモスラが飛翔するシーンを見上げる美少女姉妹(前田愛と前田亜季)は、もちろん、モスラ映画につきものの美少女姉妹コスモス(もちろん、初代コスモスは、「モスラーヤモスラー♪ ドゥンガカサークヤイドゥムー♪」の歌でお馴染みのザ・ピーナツの二人である)を観客に想起させる。しかも、この前田愛は、1999年に公開された「平成のガメラ」シリーズ最終作である『ガメラ3:邪神(イリス)覚醒』で、ガメラを憎む少女の役で主役比良坂綾奈を演じた前田愛であり、この姉妹たちがモスラとなんらの関連があるのではないかと怪獣映画ファンに思わせるのに十分なシーン(わずか2秒程度であるが)である。


▼人間のいのちを賭けてこそ贖(あがな)えるもの


GMK三大怪獣の壮絶な死闘

  超高層ビルが林立する横浜の新都心みなとみらいでの壮絶な3大怪獣によるバトルシーンを期待した観客はなんらかの違和感を覚える。そうキングギドラがあまり強くないのである。私は小学生の頃、3つの頭を持った金色に輝くキングギドラが一番強い怪獣だと信じていた。しかし、この映画のキングギドラは、羽もだらりと下がったままである。謎は直ぐに明かされる。まだ2,000年間しか眠っていなかったので、完全体(「千年龍王」キングギドラ)に成長していない単なる「ギドラ」だったのである。ギドラは、凄まじい破壊王と化したゴジラと戦いを挑むが、逆にゴジラに返り討ちに合ってしまう。倒れたギドラに、まさにゴジラが熱線放射を浴びせかけようとしたその瞬間に、飛来したモスラが割って入り、これを妨げる。今度は、ゴジラとモスラの決戦である。これまでのゴジラ映画でも、モスラはゴジラに負けたことはないはずである。しかも、超豪華キャストのゴジラ・(成体としての)モスラ・キングギドラの3大怪獣が1度に登場するのは初めてである。

  しかし、この映画のテーマは、あくまでゴジラの圧倒的なパワーである。果敢に戦ったモスラも、最終的には、ゴジラの熱線放射をまともに浴びて、消滅してしまう。このとき奇跡が起こる。粉々になったモスラの金色に輝く鱗粉が、一瞬、バラゴンの形に見えたかと思うと、瀕死の重傷で倒れているギドラの躰に降りかかるのである。モスラとバラゴンの生体エネルギーを得たギドラは、金色に輝き、その羽をピンと伸ばした「千年龍王」キングギドラへの変身するのである。ゴジラとキングギドラは壮絶な戦いを演じながら横浜港の海中へと沈んで行く。ここで、ほぼ壊滅状態の防衛海軍から立花准将が、映画の最初で太平洋の深海でゴジラを発見した時にも登場した特殊潜航艇「さつま」に乗り込んで、ゴジラにとどめを刺しに行く。秘密兵器D-03削岩弾を使うつもりであるが、「さつま」は、ゴジラに呑み込まれてしまう。しかし、何事にも諦めない立花は、ゴジラの体内でD-03を発射。ゴジラを倒す。これじゃ、まるで鬼に呑み込まれた一寸法師が、鬼の体内で針の剣を突き立てるのと同じである。立花准将の決死の攻撃もあって、遂にゴジラは大爆発をしてしまうのであるが、どういう訳か立花を載せた「さつま」は海面まで浮上し、同じく、海面から数十メートルはあろうかというベイブリッジから落ちた(コンクリートのように堅い水面に叩きつけられて確実に死ぬはず)にもかかわらず、岸壁の波消しブロックまで辿り着いたレポーター立花由里ともども助かって、父娘の絆が復活するシーンでこの映画は終わる。


横浜の街を破壊し尽くして最後の決戦をするゴジラとキングギドラ

  しかし、このシーンが一番この映画をぶち壊してしまっている。なぜ、この2人が助からなければならないのか? 核と戦争という人間の愚行が生みだした恩讐の権化であるゴジラを倒すのには、それなりの人間の犠牲なしには、ゴジラのいのちが軽すぎる。1954年のオリジナル『ゴジラ』を意識したのなら、なぜ、究極の化学物質オキシジェンデストロイア(Oxygen Destroyer)の秘密と共に、ゴジラと運命を共にした芹澤博士(『南の島で観た「米製ゴジラ」』)のような死に方をしなかったのか? ゴジラを生み出してしまった人類の罪は、人間のいのちを賭けてこそ贖(あがな)えるものであり、単なる最新兵器をもって倒すことのできる代物ではない(恩讐をエネルギー源にしている以上)ことは、明らかである。さもなくば、薄っぺらなハリウッド制の『Godzilla』と変わらない、単なるモンスター映画となって、怪獣映画の「切り札」金子修介が脚本・監督する必要がない。東宝関係者に猛省を促したい。

  それから、もうひとつ、私が満足できなかったのは、今回の『GMK』の音楽を担当した大谷幸のサントラである。大谷幸はいわば金子修介の盟友的存在であるが、ゴジラ映画に関してだけは、やはり、オリジナルの伊福部昭の「ジャジャジャン♪ ジャジャジャン♪ ジャジャジャジャジャジャジャジャン♪」というサウンドに勝る音楽はない。今回の『GMK』を観て何か物足りなかったが、映画の最後のエンディングロールの段階になって伊福部昭のオリジナルサウンドが流れて初めて気がついた。「これだ!」っと…。


▼死体の処理は誰の責任か

  最後に、いつも怪獣映画を観ていて思うことだが、もし、ゴジラのような怪獣が出現して大きな被害が出たとしたら、そのことへの対応は誰が責任を持つのかという問題の法的根拠である。ゴジラのような怪獣の出現は、人知で予測困難ないわば「天災」のようなものだから、たとえある人の自宅がゴジラに踏みつぶされたとしても、これは地震や火山の噴火で家が壊れたのと同じで「運が悪かった」ということになり、自己負担である(加入保険には「怪獣被害免責」などという条項はないだろうから、保険請求ができる)。しかし、ゴジラと自衛隊が戦ったとしたら話は別である。自衛隊の砲撃によってゴジラが倒れて、そのことによって自宅が潰れたとしたら、あるいは、自衛隊の砲撃が逸れて、その砲弾が着弾して自宅が壊れたとしたら、当然、国(日本政府)に対して損害賠償請求ができることになる。

  しかし、東京へ進行中(と思われる)のゴジラを阻止するために、途中にある過疎地帯でゴジラと交戦し、この村で被害が出たとしたら、「(より多くの)公共の福祉を守る」ために、やむを得ない仕儀であったということで、損害賠償裁判で(原告側=個人が)負ける可能性は大である。ゴジラが出現することはあり得ないことであるかもしれないが、第三国が日本に対して戦争をしかけてきた際に、自衛隊が防衛出動し、これと交戦した場合に、個人の生命財産が損なわれることなら、大いにあり得る。この場合、たとえ民間の保険に加入していたとしても、ほとんどの保険契約の場合、「戦争やテロの場合は、保険会社は免責」ということになっているので、法治国家でありかぎり国家賠償の規定を予め定めておく必要がある。いわゆる「有事法制」ということである。日本の現行法がこの点で、落ち度だらけであることは、多くの識者の指摘しているとおりである。人為以外の何ものでもない戦争行為も、地震・台風並みの天災と同じ扱いである。したがって、責任を持った戦後処理ができなかったのも当然のことである。意識レベルで、人為と天意をほとんど区別していないのだから…。

  さらに、考えておかなければならない問題は、自衛隊等の戦力が無事、怪獣を撃退できたとして、あるいは、怪獣同士が戦って、双方あるいは一方が死亡したとして、その死体の処理は誰が行うのかという問題がある。怪獣辞典等によると、ゴジラの身長は約50メートル、体重は約45,000トンということになっている。このような巨大な肉の塊が大都市の真ん中で死亡したら、たちまち腐敗し始め、公衆衛生上からも、早急な死体処理が必要となることは目に見えている。東京のような裕福な自治体ならいざ知らず、小さな自治体なら、たとえゴジラそのものによる破壊の被害がなかったとしても、死体処理費用だけで破綻してしまうことは目に見えている。「怪獣の死体処理の責任者を考えるなんてバカげている」という人がいるのなら、1月22日に鹿児島県大浦町の小湊海岸に打ち上げられたマッコウクジラ14頭の処理に約6,000万円を要したそうである。仮にマッコウクジラの体重が1頭あたり10トンとすれば、140トンの死体処理費用が6,000万円かかれるのなら、45,000トンのゴジラの死体処理費用は約200億円ということになってしまう。もちろん、45,000トンの死肉を一挙に処理できる施設なんてどこにもない。因みに、鹿児島県大浦町の年間町予算は約30億円であるから、打ち上げられたのが、クジラならぬゴジラだったとしてら、この町はこれだけでアウトである。

  「有事立法」すら制定されていないのだから、このような可能性について、この国では予め立法化されていないのは当然である。しかし、実際にゴジラが現れることはないにしても、クジラが打ち上げられることは、かなりの蓋然性を持って可能である。もっと深刻な問題は、BSE(いわゆる狂牛病)騒動で処分されることになった二十数万頭の牛の死体処理方法である。廃棄牛1頭あたりの体重が600キロとすると、二十数万頭なら15万トンになり、ゴジラ3頭分のものすごい量である。この問題は、必ず対処しなければならない問題であり、ゴジラ映画ひとつからも、21世紀の日本が抱える問題の数々が見えてくるのである。


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