レルネット主幹 三宅善信
▼もうひとつの鈴木宗男NGO排除疑惑
「北海道」……。このテーマについて語るためには、当然のことながら、アイヌの歴史と文化について触れない訳にはいかない。本作品は、一昨年の『南海道』、昨年の『東山道』に続く一連の作品のひとつである。それにしても、私がアイヌ文化について語るには、知識が少なすぎるので、2000年8月の道東と2001年8月の道央と2年連続で北海道を訪れて、フィールドワークをし、それなりの執筆準備をしていたが、9月11日の同時多発テロに始まるアメリカとアルカイーダの戦争という予期せぬ事態が発生し、私の生涯の実践的研究テーマともいうべき「宗教間の対話」についての意見表明のほうが優先してしまい、せっかくの「アイヌもの」の上梓が後まわしになってしまったことを最初にお詫びしたい。しかし、アイヌ文化については、本文とほぼ同じ内容の英文で書いたレポートが、オックスフォードに本部を置くIARFという国際NGOの機関誌『IARF
World』2001年度第2号に昨秋以来掲載されているので、既にお読みになられた方がいるかもしれない。
さて、近頃、「北海道」と言えば、鈴木宗男代議士(前衆議院議院運営委員長)に関わる一連の疑惑が喧(かまびす)しいが、その中でしばしば登場する謎の人物「外務省のラスプーチン」こと佐藤優前主任分析官が、たまたま私の大学と大学院の1年後輩に当たるので、連日、マスコミからの取材も断えず、私の忙しさに輪をかけてくれている。鈴木宗男氏に関わる「NGO疑惑」といえば、一般には、本年1日に東京で開催された「アフガン復興支援国会議」に、ピース・ウイング・ジャパン(PWJ)の大西健丞代表の出席を、外務省に働きかけて参加できなくさせた云々という問題(政府見解としてはこれを否定)が国会で問題になっているが、本件については、日本から一歩外に出たら、ほとんど問題にされていないと言ってもよい。その代わりに、国際的にもっと注目されているのは、昨年夏に南アフリカ共和国のダーバンで開催された国連の「反人種主義・差別撤廃世界会議」への日本政府代表団の一員にいったん決まっていたアイヌ民族の代表(北海道ウタリ協会)を鈴木宗男代議士の外務省への関与により、排除されたといわれる疑惑である。
北海道ウタリ協会秋辺得平副理事長
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ことの経緯は以下のとおりである。昨年7月2日に鈴木氏が日本外国特派員協会で講演した際、「アイヌ民族は今はまったく同化されている」と発言したことに対して、同議員の後援会幹部をしていた当時の北海道ウタリ協会理事長の笹村二朗氏が、十分な抗議をしなかったことに対して、同協会内で問題になり、笹村氏が理事長職を解任されたことに端を発する。当時、日本政府部内では、南アフリカで開催される国連の「反人種主義・差別撤廃会議」への正式の日本代表団に初めてアイヌ民族の代表を加えることになっていたが、北海道ウタリ協会の理事長が(鈴木宗男代議士に近い)笹村氏から秋田春蔵氏へ代わり、南アフリカでの同会議に派遣される代表も秋辺得平副理事長に変更にすることなった。北海道ウタリ協会側では、同会議に参加する代表名の変更を政府に申し入れたが、外務省は今回の(北海道ウタリ協会内での)混乱と鈴木代議士との関係を忖度(そんたく)して、同会議への日本代表団のメンバーに秋辺得平氏を加えないことに決定した(註:外務省は「想定していた人選をウタリ協会が認めない以上、アイヌ民族の代表団入りはあきらめる」(泉裕泰人権人道課長)と述べた)。国際的にはたいへん注目度の高いアイヌ問題が、こういう形で海外に伝えられたこと自体、「アフガン復興支援国会議」でのNGO参加問題よりも、はるかに重要な問題であるにもかかわらず、どういう訳か、本件は、あまりマスコミに取り上げられていないもうひとつの「NGO排除疑惑」である。
▼いかにして蝦夷たちは辺境の地へ追いやられたのか
さて、やっと本題であるが、当「主幹の主観」シリーズのテーマのひとつに、いわゆる「日本人論」という分野があるが、日本人論の根源をなすものとして、日本人はいったい何時から日本人であったのか?」あるいは、「日本人(の先祖)はどこから来たのか?」ということについて考察したシリーズがある。2000年4月に上梓した『ヤポネシア:日本人はどこから来たのか』においては、「古モンゴロイドの南太平洋ポリネシア地域への拡散が、北東アジア大陸から日本列島を通過地点として拡散していった」という説を立てた。また、同年5月に上梓した『南海道:太陽と海の道』においては、「現在の和歌山県、淡路島、四国4県がひとつの密接に関連した地域(南海道)であることを、古代の海(アマ)族との関係」で論じ、なおかつ、「中国の最古の殷(いん)王朝の末裔姫(き)氏が、中国東北部から朝鮮半島を経て日本に渡来し、紀伊半島に本拠地を築き、それが後の紀(き)氏になった」という仮説を論じた。それらの仮説は、古事記に出てくる蛭子(ヒルコ)や淡島(アワシマ)の話にその陰を留めていると考えられる。
続いて2001年5月に上梓した『東山道:もうひとつの「国譲り」』では、日本神話でよく知られた出雲の大国主命の「国譲り」、つまり、先住民である出雲族に対して、後から来た天孫族(天皇家の先祖?)が出雲を奪い、そこを拠点に日本列島全土に勢力を拡大していった過程で、出雲を追われた建御名方(タケミナカタ=大国主の息子)一行が、信州諏訪に根付き、今度は諏訪にいた先住民(縄文人と考えられる)を、自分たちが天孫族によって出雲で追い払われたと同じような方法で追い払って行ったプロセス(いわゆる「ドミノ理論」)を展開した。それは、先住民を支配者の側が単に追い払っただけでなく、先住民と積極的に同化していき、その後、長年にわたって、諏訪地方において古代の縄文人の風習が保存されてきたことを「柱」の宗教性を論じることによって論証しようと試みた。平安京遷都で有名な桓武天皇は、一方で、最初の征夷大将軍・坂上田村麻呂を蝦夷(えみし)が支配する陸奥(みちのく=現在の東北地方)へ遣わし、北海道を除く、現在の日本の領域というものを確定した古代の帝王としても知られている。
しかし、われわれが考えるように、蝦夷の人たちは、もともと東北地方の奥のほう(陸奥)にいたのではなく、平安京遷都の時点(8世紀末)では、現在の地域でいえば信州諏訪の辺りから関東全域、そして東北地方全体で広範囲に生活圏を有していたのである。それが歴史を経るに従って、例えば、もともと摂津國に本拠を置いていた武家集団の源氏が関東へ進出する(八幡太郎義家)ことによって、睦奥に追い込まれ、徳川幕府が成立するころには、ほとんどすっかり蝦夷ケ島、つまり現在の北海道へどんどん追いやられるようになったのである。現在の関東地方は、かつては「坂東」と呼ばれ、京都の朝廷側から見ると、鎌倉の幕府政権ですら、最初は「東戎(あずまえびす)」と蔑まれていたのである。つまり「戎=蝦夷」であるということである。つまり、調停側からは、関東の武家集団は蝦夷の一部であると同様のものであると少なくとも見られていたのである。
▼強制的に日本化されたアイヌの人々
こうした一連のテーマを完遂するべく、私は2001年8月28日から30日にかけて、北海道を訪れ、日本の"先住民"と言われる「アイヌ民族」の実態を学ぶ旅に出かけた。今回のフィールドワークは、IARF(国際自由宗教連盟=1900年にボストンで設立された最古の国際的宗教対話組織 現在国際事務局をオックスフォードに置き、国連経済社会理事会の諮問を受けるカテゴリーTの国際的NGOである)に加盟する日本の団体で構成するIARF日本連絡協議会(JLC)という団体の2001年度の事務局長を私が務めていた関係で、IARFの目的である世界各地の先住民や少数民族の人権をいかに擁護するかということの学習の一貫としてこの北海道視察旅行が企画されたのである。
8月28日、東京・名古屋・大阪の各空港から札幌の新千歳空港に現地集合したわれわれは、チャーターしたバスで、まず北海道庁所在地の札幌市に向った。札幌では、官公庁が立ち並ぶ中心部の一角に事務所を抱える社団法人「北海道ウタリ協会(註:
アイヌ語で「アイヌ」とは、「カムイ(神)」に対する「人間」という意味であるが、近代以後、「本土」に住む日本人から差別的な意味あいを込めて呼ばれてきたので、団体の名前としては、「同胞」という意味のアイヌ語である「ウタリ」を用いている)」を訪問。佐藤幸雄事務局次長から『ウタリ協会の目指すもの』と題した講演を聴いた。佐藤事務局次長は、最初にウタリ協会が作成したビデオ『新・共生への道』を観せて、ウタリ協会の活動の概略を説明。その後、われわれとの質疑応答を行なった。北海道ウタリ協会は、われわれが事前に思っていたよりも、はるかに政治的な色合いを持った団体であった。同協会は、長年、日本国内において「虐げられて」きたアイヌ民族の権利を回復するための団体である。しかし、現在ではアイヌ民族の人口は僅か23,767人(1999年調査)しかいないので、政治的な意志表示がは選挙によって行なわれる民主主義国家(日本の総人口は1億2600万人)においては、ほとんど影響力を行使できない。そこで、北海道ウタリ協会は、"外圧"に弱い日本政府およびメディア(世論)という点に着目し、ジュネーヴの国連人権機関等を通じて、あるいは世界各地先住民や少数民族と連帯することによって、"外圧"によって日本政府や世論を動かすという戦略で、アイヌの人々の権利の回復を意図している団体である。
北海道ウタリ協会の主張によると、「日本の先住民であるアイヌ」は、現在、日本の一部になっている北海道と言われる大きな島、それから、現在はロシア連邦の領土になっているサハリン(樺太)、そして、日本とロシアの間で領土問題が解決されていないクリル(千島)列島の諸地域に、広く有史以前から住んでいた。しかし、18世紀後半になり、ロシア帝国の版図がシベリアの東端に到達し、南下政策を採り出したのと同時に、当時の徳川幕府は、北方の防衛の必要性を感じ、それまで松前藩という地方自治政府の交易相手(つまり外国人)としていたアイヌを日本化させるために、広範囲に幕府の直轄地を設置した。北海道(当時は「蝦夷地」と呼んだ)が「日本の領土である」ということを欧米列強に主張するためには、アイヌの人々に伝統的な生活を捨てさせて、「日本風の生活」をするように強制した。その後、1867年の明治維新で成立した近代国民国家であるところの明治政府は、「大日本帝国の臣民」としてアイヌの人々を日本の戸籍(註:この国では、646年に人民台帳である「戸籍」が制定されて以来、時の政府によって、主に納税台帳として「戸籍」が維持されてきた。つまり、ほとんどの日本人は、7世紀まで家系を遡ることができる。しかし、そのことは逆に、内戦の敗者や刑罰等の理由によって「戸籍」を離れた人々の、あるいは、もともと「戸籍」に入れなかった人々の子孫が、いわれなき差別を受ける原因となった)に編入したが、その際、新たに本土から入植した人たちと、もともと北海道に居たアイヌの人たちとの間で、土地所有等の扱いに著しい不平等が生じたことは事実である。その上、アイヌの伝統的文化には、文字がなかったので、近代国家における登記や契約において、多くの不利益が生じた。これらは、近代の「人権」思想からすれば、当然、回復されなければならない事態である。
▼極めて政治的なウタリ協会
しかし、北海道ウタリ協会の主張にも限界がある。というのは、同協会が主張する「先住民」の概念規定では、先住民を「近代国民国家が成立した時点で、本人たちの意志を問われることなく、あるいは意志に反して、近代国民国家に組み込まれた先住者」ということになっている先住民であるが、これでは、「長い歴史を通じて日本人(和人)に迫害されてきた」というアイヌの歴史が無視されてしまっている。一般的に先住民というのは「その地域に古くから住んでいた人々」とである。アイヌは縄文人の直接の末裔である(註:人類学的に言えば、縄文人はベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸へ拡散していった人々や、日本、フィリピン、インドネシアの島々を経由して、ポリネシアに拡散していった人々と同系統に属する「古モンゴロイド」であり、弥生人は華南から満州、朝鮮半島を経て日本に渡来した「新モンゴロイド」に属す)と考えられる。その他の日本人は、1万年以上前から独自の土器文化を持って生活していた縄文人と2500年程前に稲作技術と共に新たに大陸から移動してきた弥生人との混血である。「純粋な弥生人」などは現存しないのだから、いずれにしても、混血の程度の差はあれ、日本人はすべて縄文人の血を引いているのであるから、アイヌだけが先住民ということは言えなくなってしまう。
そこで、北海道ウタリ協会は、古代史はもとより、中世・近世史まで切り捨て、「近代国民国家が成立する時点で、強制的に日本に組み込まれた人々」という論法を使っている。しかし、これも論理的な矛盾がある。というのは、徳川幕府が明治政府によって倒された時点(1867年)で、それ以前は当時のドイツやイタリアと同様、封建的な領邦国家として、300にもわたる自治政府(藩)に分割されていた日本が、明治維新によって近代国民国家に統一される際に、無理やり薩長勢力による統一国家に組み入れられた地域は他にも山ほどある。会津をはじめとする東北列藩同盟等、徳川幕府側についていた勢力はすべて無理やり維新政府に組み込まれ、反対した人たちはほとんど殺されたのであるから…。しかも、この時「あなたは日本国民になることを選びますか?」と聞かれて日本人になった人は誰一人としていない。皆"自動的"に、日本人にされたのである。ということは、北海道ウタリ協会の主張というものが、必ずしも科学的・歴史的妥当性を持つものとは言えないのではないかと思う。その意味でも、(社)北海道ウタリ協会は、現在の日本において、極めて政治的な団体であると言える。しかも、すべてのアイヌの権利の回復を主張しながら、ロシア政権下でサハリンや千島で、もっと悲惨な暮らしをしているであろう「同胞(ウタリ)」へなんら支援の手を差し伸べようとはしていないのである。あくまで、金を分捕り易い日本政府がターゲットの団体であると言われても仕方ない一面を持っている。
もちろん、近代民主主義国家において、差別は許されるべきものではない。現在の日本において、アイヌの人々を差別する法律はなく、それどころか、『アイヌの伝統文化を振興する法律』まで定められ、「保護」されているが、実際は、一般市民の意識のレベルにおいては、まだまだ「アイヌ差別」は存在し、また、生活上の経済格差も歴然として存在している。たとえば、1999年時点で、実際にアイヌの人々が居住する市町村において、生活保護を受けている世帯の割合は、全体が1.8%であるのに対して、アイヌは3.9%と平均の2倍の割合であり、高校の進学率は、全体が97%に対しアイヌが95%と、あまり変らないが、大学の進学率となると、全体の34%に対してアイヌは16%と、2倍の格差がある。また、結婚や就職でも差別を受けることが多いのも事実である。
佐藤事務局次長の講演を受けた後、鈴木宗男代議士がらみで一躍脚光を浴びた北海道ウタリ協会副理事長の秋辺得平氏が挨拶に現れ、南アフリカで開催される国連「反人種主義・差別撤廃会議」に出発する直前の抱負を熱弁された。その後われわれは、北海道立「北海道開拓記念館」を見学した。北海道開拓記念館は、1971年に、明治政府による北海道開拓100周年を記念して造られた博物館である。こちらは、アイヌの側とは反対の立場、すなわち、日本人の側が北海道をいかに開拓していったかという立場から造られた施設であり、見学の後、山田伸一学芸員から、『開拓とアイヌ民族』と題して、レクチャーを受けた。ちなみに、一緒に参加した西田多戈止師(一燈園当番)の祖父の西田天香師は、明治期に北海道開拓に参加した経験を持っている。この夜は、札幌市内のホテルに泊まった。もちろん、この晩は「すすきの」で「夜のフィールドワーク」をしたことは、いうまでもない。
▼アイヌと和人の差よりも、官と民の感覚の差のほうが
翌8月29日、札幌から南方へ約150キロ離れた平取(びらとり)町の二風谷(にぶたに)というところに行った。ここは、沙流川(さるがわ)という川の流域にある古来よりアイヌの集落(コタン)が残っている地域であるが、今から20年ほど前に、苫小牧で開発されつつあった工業団地への用水を供給するためのダムを造るという目的で、ニ風谷に巨大なダムを建設することになり、その下にアイヌの村落が水没してしまうということに反対して、住民が日本政府を相手どって裁判を起こしたことで有名である。この裁判がなぜ世間の注目を集めたかというと、1997年に札幌地裁が出した判決は、ダムの建設差し止めという点では原告の敗訴に終わったが、それ以上に画期的であった。というもの、これまで日本政府は、「日本に先住民がいる」ということを一度も公式に認めていなかったのであるが、札幌地裁の判決では、明確に「日本の先住民であるアイヌ民族には先住権がある」ということを規定したという点で、画期的な判決となった。
萱野茂二風谷アイヌ資料館の屋外展示
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二風谷ダムを見学した後、平取町では、アイヌで初めて参議院議員になった萱野茂氏が運営する「萱野茂二風谷アイヌ資料館」を見学、萱野氏本人から説明を受ける予定であったが、1998年まで参議院議員であった同氏があいにく病気で入院中のため、次男の萱野志朗氏から講義を受けた。同資料館は個人経営の博物館だけに、個人のコレクションを並べただけという体系立ってない展示の仕方が逆に興味深かった。続いて、200メートル程離れた平取町立二風谷アイヌ博物館を見学した。こちらは、萱野氏のそれを比べて、いかにも「税金(補助金)で建てました」というレイアウトになっており、しかも「学術的」な色合いを出そうとしているところが興味深く、「アイヌと和人の文化の差」を越えて、世界に共通の「官と民の感覚の差」を楽しむことができた。同博物館では、縄文時代より続くアイヌ文化の埋蔵文化財や生活用品等を見学して、アイヌ文化の歴史と深みについて勉強した。この夜は登別温泉で一泊した。
平取町立二風谷アイヌ博物館に展示されている
アイヌと神道との繋がりを連想させる祭祀用具
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翌8月30日は、白老(しらおい)アイヌ民族博物館を訪れた。この白老アイヌ民族博物館は、ポロトコタンという湖に隣接しており、アイヌの伝統的な集落や人々の生活の様子が再現(実演)されており、内外からの観光客も数多く訪れる施設である。ちょうど、われわれが訪れた時は、韓国からの団体見学者も数十人来ており、アイヌの伝統文化、踊り、儀礼等を見学していた。白老アイヌ民族博物館においては、野本正博学芸員から、『アイヌ民族の文化と宗教儀式』と題する講義を受けた。最初に、「チセ」といわれるアイヌの伝統的な家屋の中に入り、いろりを囲んで野本氏から、アイヌの神観念、世界観に深く根ざした家屋の建設様式ならびに宗教観についての詳しい説明を受けた。続いて、博物館内で保存されている現存の動く映像としては最も古い、1910年に撮影されたアイヌ民族の「イヨマンテの儀式(子熊を飼育して成獣にし、これを生け贄にすることによって、熊に象徴される山のカミに、熊の魂と共に、自分たちの願いごとを届けてもらう儀式)」とアイヌの葬儀のビデオを観て、アイヌの独特の風習について学習する機会を得た。
1997年に成立した『アイヌ文化振興法』においては、それまでの明治時代に制定された『北海道旧土人保護法』という差別的な法律とは異なり、アイヌの伝統文化の保存ということを強く意識した法律ではある。しかし、この法律においても、アイヌの民族としての先住性ということには触れず、数ある日本の伝統文化のひとつとして、アイヌ文化の保存・保護・振興を国が支援するという立場で制定されている点が、問題として残っている。
白老アイヌ民族博物館で見学した伝統的なアイヌの踊り
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われわれはアイヌ民族博物館を辞した後、新千歳空港で解散し、2泊3日の学習会を終えた。なお、今回のフィールドワークの参加者には、『古事記』に登場する(手塚治虫の『火の鳥』にも準主役として登場する)猿田彦(サルタヒコ)の直系の96代目の子孫である山本行隆椿大神社宮司や大和国から尾張国に進出した大神(オオミワ)族の51代目の子孫である三輪隆裕清州日吉神社宮司といった悠久の血脈を受け継ぐ人々たちもいた。