レルネット主幹 三宅善信
▼「賞味期限」は生産者のためにある
この1カ月の間だけでも、政界は、鈴木宗男疑惑、加藤・佐藤疑惑、そして、辻元清美疑惑と、次々と疑惑が浮上し、その都度、マスコミがそれらのネタに飛びついて、集中豪雨的に報道するものだから、何か新しい別の疑惑が生じると、なんら解明されていなくても、以前の疑惑はあたかも「解決済み」かのような印象を与えてしまっている。まるで、「賞味期限」の極端に短いコンビニのおにぎりのようだ。ということもあって、今回は「賞味期限」について、考えてみたいと思う。
農水省の怠慢によって発生したBSE(牛海綿状脳症いわゆる狂牛病)騒動によって、これまで絶対的なブランドイメージを誇っていた国産牛の品質神話が崩壊して、もともと風前の燈であった日本の畜産農家に致命的な打撃を与えた。そのような状況下において、雪印食品が犯した外国産の牛肉と国産牛肉のラベルを貼り替えるという恒常的な偽装工作が明るみに出、同社はついに、会社消滅の憂き目をみることになった(註:この事件を自業自得とみるか、過当競争に追い込まれて、一社でも競争相手が少なくなって欲しいと思っている同業他社の陰謀(密告)と見るかは、後に、辻元代議士の疑惑とも関連するが……)。しかし、食品に貼られている内容表示の、あるいは賞味期限のラベルの信頼性に対するこの疑惑は、ひとり雪印食品だけでなく、生産から流通・販売の各段階において、この国の食品産業全体における品質表示というあり方そのものに大きな信用失墜をもたらした。
私は以前から、食品に貼られている品質表示、なかんずく賞味期限という考え方そのものに大いに疑問を持っていたので、今回の一連の出来事は、本件について考え直す機会を一般社会に提供したことになり、むしろ歓迎している。わが国では、10年ほど前から、「賞味期限」という食品の表示方法が制度化された。それより以前は、その食品が製造された日、もしくは出荷された日の表示が行われていたのが、欧米の標準に合わせて「賞味期限」という表示の仕方に変わったのである。このことは、ある意味で消費者から「自分で考えて判断する」という機会を奪う結果となった。そもそも、生産者が設定した賞味期限は、特定の条件の下(湿度・温度・直射日光の有無等)において想定されているに違いないのであるが、ひとりひとりの消費者が、購入した食品を自宅へ持って帰り、どういう状況――例えば、ある人は常温で保存し、ある人は冷蔵庫に入れ、またある人は冷凍する……。といった具合に、いろいろ条件が違うが――で保存されるか判らないのに、一概に「何年何月何日まで」という期限の表示のされ方がしてあるのは、合理的に考えてもおかしい。
生産者の側からすると、極端なことを言えば、消費者がある食品を10年間冷蔵庫の肥(こやし)にした後に、これを食して、食中毒を起こされ、文句を言われても、生産者の責任が問われる(あるいは風評被害を蒙る)わけであるから、これらの事態を免責にするためにも、実際にその食品が本来の風味を失うよりかなり早い時点に賞味期限を設定するのは当然である。しかも、このことは、実際の需要以上に商品の入れ替えが進むという意味で、生産者にとっても極めて都合の良い消費の拡大――この場合の「消費」は文字通りの「消費」であって、食べられるのではなくて、費(つい)えて無くなるわけであるから――をもたらした。場合によっては、生産者がよりたくさん売るために、賞味期限を合理的な数値より極端に短く設定することすら行われるようになったのである。
▼疑惑の総合商社VS百円ショップ
ところで、いつの頃からか、この賞味期限という考え方は、食料品だけではなく、人間に対しても使われるようになった。流行り廃りの激しい芸能界などで用いられるようになったのが最初であろうが、バブル経済の絶頂期に出版された『サラダ記念日』(1987年)という歌集で、俵満智がたしか相聞歌で、別れた男性のことを「ボトルキープの期限が切れて」といった表現を用いてから、いわば「恋愛の賞味期限」という表現が定着するようになった。この表現は、賞味期限というものが「本来の風味を損なわない期間」という意味で使われるのなら、男女の間の恋愛関係もまた、賞味期限という表現において説明できることへの、ある意味で適性がある。しかし、この国のテレビや週刊誌、スポーツ新聞といったマスコミが、次々とネタを「消費」していくために創り出す新たなターゲットにおける賞味期限は、むしろ、まさにコンビニのおにぎりのように、新しい商品をどんどん売るための生産者の論理によって展開されているような気がしてならない。
政界においても、今年に入ってからだけでも、アングロサクソンの政治システム(二代政党による政権交代制度)信奉者の大橋巨泉参議院議員が、私が予想した通り(『小泉VS巨泉:もうひとつのガリバー旅行記』、就任後わずか半年で6年間の任期を与えられた国民からの負託を放り出してしまった。しかも、テレビ界出身の巨泉氏らしく、夕方のニュースの時間帯を意識して記者会見したそのタイミングも、直後に明らかになった「深夜の田中眞紀子外相解任劇」という大ニュースで吹き飛ばされてしまった。さらに2月に入ってからは、この話題も、もっぱら「疑惑のデパート」と呼ばれた鈴木宗男代議士に関する数々の疑惑騒動によって、今は昔の物語となってしまった。さらに、その鈴木宗男代議士のことを、衆議院予算委員会で行なわれた証人喚問において「疑惑の総合商社」と揶揄(やゆ)した社民党の辻元清美代議士が、今度は、自らのスキャンダルを暴露され、公設秘書である政策秘書の給与の流用という、政治家のスキャンダルとしてはあまりにもケチ臭い疑惑で、八方塞がりのパレスチナ人同様「自爆テロ」でもして、鈴木宗男・加藤紘一両代議士を道連れにすることだけを楽しみにして、自ら議員辞職をしなければならない羽目になった。もし、鈴木宗男氏を「疑惑の総合商社」というのなら、辻元氏の場合は「疑惑の百円ショップ」と呼んでもいいのではないか。
▼われても末に……。
しかし、その辻元代議士の疑惑も、芋づる式に明るみに出てきた加藤紘一元自民党幹事長および同氏の事務所の代表を務めた佐藤三郎氏による公共事業を喰いものにしたといわれる巨額の疑惑事件から比べると、大した問題ではないとすら思われる。加藤氏には数年前の「共和」事件以来、金にまつわる黒い陰がつきまとっていたが、ある意味で、宏池会という自民党保守本流の派閥の会長になったにも関わらず、最後の辛抱をすることができず、2000年秋のいわゆる「加藤政局(加藤の乱)」によって、政治家として、少なくとも総理総裁を狙う派閥の領袖としては致命的な打撃を受けた。そして、かつて「YKK」トリオと呼ばれた3人の中で、最も「総理総裁に近い男」と呼ばれた加藤紘一氏がレースから最初に脱落し、今では「最も総理総裁から遠い」と思われたもうひとつのK、すなわち小泉純一郎氏が総理大臣に、そして、Yである山崎拓氏が自民党幹事長に収まっている。
そもそも、YKKトリオというのは、それ以前の自民党の派閥の領袖から世代交代を図るための動きであったのであるが、「宏池会のプリンス」と呼ばれた加藤氏も、また、「変人」と呼ばれた小泉氏も、そもそも一国の最高責任者になる器だったのであろうか……。よく見ると、YKKの「Y」の字は、あるものが「そこから二股に分かれる」という形象である。つまり、山崎拓氏がキーパーソンになっているのである。ところが、その山崎氏が主宰する派閥「近未来政策研究会」という名前の付け方からしてインチキ臭い。近未来どころが、「一寸先は闇」の政界において、山崎氏はいったい何をしようとしているのか? まさに、一方のKは総理総裁。もう一方のKは単に総裁レースから脱落しただけじゃなく、今や自民党を離党するだけじゃ済まされず、国会議員の辞職も秒読み段階になっているではないか。この3人が再びYの字の矢印を逆に進めるように、力を合わせて日本の政界をリードできるとはとても思えない。12世紀に都(中央政界)において優柔不断の故に、源平(武家)が台頭する原因を作った保元の乱の当事者である崇徳上皇の詠んだ有名な歌に「瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあわむとぞ思ふ」という歌があるが、まさに日々激動する政界(瀬)にあって、YKKの面々は、再び揃って陽の目を見ることができるのであろうかとすら思ってしまう。ちなみに、崇徳上皇は保元の乱に破れて、讃岐に流され、その地で崩御している。
▼片仮名表現に騙されるな
さて、賞味期限の話に戻るが、先程取り上げた田中眞紀子氏にしろ、鈴木宗男氏にしろ、あるいは辻元清美氏にしろ、彼らに共通している点がある。ある意味で、テレビや週刊誌、スポーツ誌等が創り出したといえるこれらの議員に共通している点は、彼らが呼ばれるときに見出し語が片仮名で表記されるという点である。最近では、本来漢字表記がある言葉をわざわざ片仮名で表記する場合は、必ずそこに、もうひとつのある意味で軽薄短小さという、価値を再構成して表現されている場合が多い。例えば、携帯電話を片仮名で「ケータイ」と呼ぶ時と同じような意味である。特に、テレビというメディアが要求している登場人物、あるいは事件等というのは、極めて単純な「白か黒か?」といった二者択一を迫る特異な形である。また、政治家もそのことを利用して、自ら進んで特定の役割を演じることによって、顔と名前を売ろうとするのである。なにしろ、地元の何十万人という有権者のひとりひとりに政策を書いた手紙を送るだけでも、1枚80円の切手を貼らなくてはならないので、相当の金額になるが、テレビの画面に5分も露出すれば、それだけで、極めて選挙活動には有利になるからである。
そもそも、商業放送を支える価値基準というのは、「(俗悪な覗き見趣味の)視聴者が見たがっているもの」を見せるということである。放送時間の限られているテレビにとって、事実やものごとの背後にある深い意味などというものは、ほとんどどうでもいい。ただ単に視聴率という数字を稼ぐために、場合によってはヤラセですら平気で行うのである。このヤラセという言葉自体が、片仮名で書かれるし、テレビ関係者自身のことを自ら片仮名で「ギョーカイ」人と呼んでいることからもはっきりしている。いわば、テレビの基準というのは、「絵になる」ということであって、つまり、このことは、ものごとの本質・中身でなく、外見あるいはパッと見た目の印象というものを優先するということである。鈴木宗男代議士と漫才師の坂田利夫氏を、顔が似ているというだけで関連させて論じることが、そのいい例である。
辻元清美前代議士の場合も、その意味で分析すると、テレビ界ではすっかり市民権を獲得した大阪弁を巧みに操り、しかも、同議員によって好都合なことに、この大阪弁という言語空間が、あたかも本音トークのように聞こえることを利用している。もし、辻元氏と同じ内容の発言をお役所言葉を使う50代のオジサン議員がしていたら、マスコミは今のようには取り上げなかったであろう。かつて自民党と社会党とが二大政党として対立し、不毛の議論を続けていた55年体制の頃と、辻元氏の国会での追求の論理構造はほとんど変わらないのに、ただ、彼女が国会議員の中では圧倒的に若くて、なおかつ女性であり、しかも、一見本音トークに聞こえる大阪弁を操ることのメディアとしての利用価値を、テレビ局側も喜んで使い、また同氏もそのことを利用して、社民党の政審会長にまでなったのである。
そういえば、昨年夏に辻元氏が予算委員会で小泉総理大臣に質問した時に「総理! 総理! 総理!」と呼びかけた言葉も、ワイドショーの画面では(最近、やたらセリフが大きなゴシック体で、漫画の吹き出しのようにテレビ画面に表示されるのは目障りであるが)「ソーリ! ソーリ! ソーリ!」と、片仮名で書かれている。これは、なんでも片仮名語的単純化を図るメディアの論理である。そういう意味で、今回の公設秘書給与流用疑惑によって辻元氏の賞味期限が切れたのかというと、そうではない。メディア的に言うと、実は逆に、賞味期限が切れたのは、社民党という政党そのもののほうである。
しかし、賞味期限というものは、最初に食品の賞味期限の話の際に論じた通り、これは消費者を保護するためのものでもなんでもなくて、生産者もしくは流通業者によって、より多くの商品を消費者に、しかも、自ら深く考えることなしに、次々と消費させるために創り出されたインチキ手段であるのであるから、この政治家の賞味期限という考え方も、これらもまた、マスメディアが創り出した同じ手法であり、有権者から、自ら問題の背景と意味を深く考えるという行為をさせない、いわば衆愚政に通じる考え方である。およそ、現在において本来、漢字表記がされてしかるべき単語が片仮名表記されている場合は、たいてい胡散臭いものと見て間違いあるまい(註:実は、日本語における片仮名表記には、もっと深い歴史的問題がある。中世・近世とそれぞれ全く別の役割が片仮名に与えられてきたが、その件については、また別の機会に述べる)。