レルネット主幹 三宅善信
▼久々にポイントを稼いだ小沢一郎
先日、国会において3カ月ぶりに「党首討論」が行なわれた。中東におけるイスラエルのシャロン政権とパレスチナ暫定自治政府アラファト政権との間の1年半にも及ぶ暴力の応酬がますますエスカレートし、アラブ穏健派各国まで巻き込んで、緊張が高まっているのも何処吹く風……。また、いつ日本発の国際金融危機が起るかもしれない(事実、みずほ銀行のオンライントラブルは、一歩間違えると「取りつけ騒ぎ」に発展し、金融恐慌のキッカケにもなりかねない)といった政治経済上の大きな問題を抱えているにも関わらず、この3カ月間、日本の政治は、主に国会議員個々人の疑惑追及にのみ終始してきた。このこと自体、一種のテロリズムとも言えないことはないが、今回は、現在、最も世界的関心を集めている問題のひとつであるテロリズムについて考えてみたい。
4月10日に国会で実施された「党首討論(註:正式には「国家政策委員会」2000年2月の小渕内閣から始まった衆参両院の合同委員会。国会会期中は、原則として週1回40分間行なわれる)」には、がっかりさせられた。もちろん、民主党以外の弱小野党には、(議席数の比率に応じて)ほとんど持ち時間が与えられていないので、「Question
Time」と銘打って、イギリスの議会における与野党党首間の強烈な討論を参考にして設けられたTVを意識したこの制度も、自分の質問時間と小泉首相の回答時間を合わせてわずか数分間という、議論にならないような短時間のため、そもそも中身のあるディスカッションを期待することは無理である。唯一、野党第一党としてそこそこの質問時間を有する民主党の鳩山党首による質問が、小泉政権の誕生以来、終始、ブレ続けてきた。「改革」を主張する鳩山由紀夫民主党党首は、内容は別として、形の上では「改革」を主張し、「自民党内の抵抗勢力が反対すれば、自民党をぶっ潰してもいい!」と言い切った小泉首相に対して、正面きって反論することが難しくなってしまった。もちろん、小泉首相の言う「改革」と鳩山氏の言う「改革」とでは、内容が異なるのであるが、一般国民にはこの違いが判りにくく、往々にして、両者間の議論は多いに迫力を欠くことが多い。特に、国家の基本政策中の基本政策である国民の生命・財産を守る安全保障に関する論議が不十分である。同じ安全保障といっても、この2人に共通するのは、「NATO(No
Action, Talk Only)」な性格だけである。
さらに、時間が十分にあれば、鋭い質問(神学論争)をすることができる潜在能力を有するであろう共産党の志位和夫委員長も、いかんせん、この持ち時間では「時間切れドロー」を狙う小泉氏を十分攻め切ることができない。また、最近はイメージダウンも甚だしいが、中身はなくとも、クリーンさだけが売りであった土井たか子社民党党首にいたっては、持ち時間全てを小泉首相への質問ではなく、自己の意見の開陳に費やすあり様で、本来のこの制度の主旨が解っていないもいいところである。そんな党首討論の中で、今回唯一光った内容があったのは、自由党の小沢一郎党首の質問であった。小沢氏は、小泉首相に対して以下のような質問をした。「パレスチナで連日展開されている自爆事件について、アメリカやイスラエルは、これをテロと呼んでいるが、小泉総理はこれを単なるテロリズムの一種と見るのか? あるいは、自己のいのちを犠牲にしてまで行う圧政に対する抵抗運動と見るのか? 暴力や殺し合いはよくないことであるが、現実の行為として、総理はこの問題をどう認識するのか?」と迫った。さすがに、小沢氏である。問題の本質を極めて鋭く突いている。それに対する小泉首相の回答は、満足のいくものではなかった。日本のメディアが有権者のレベルに合わせて、この議論をほとんど採り上げなかったのは残念である。
▼テロリズムの定義
それでは、そもそもテロリズムの定義から進めていきたい。広辞苑で「テロリズム(Terrorism)」の項目を引いてみると、テロリズムとは「@政治的目的のために、暴力あるいはその脅威に訴える傾向。また、その行動。暴力主義。テロ。A恐怖政治」とある。つまり、テロ行為の主体は、狂信的な個人や同一の主義を信奉するテロリスト集団だけではないのである。軍隊や警察という常設的暴力装置を有する国家権力は、その権力の行使に際して、暴力的手段を使うことがままあるし、また、CIAやKGB、モサド(註:世界最強といわれるイスラエルの諜報機関)といった諜報機関に至っては、それこそ「国益(実際には、権力者の利益や組織そのものの利益である場合が多い)」という目的を達するためには、平気で暗殺や謀略等を行っているではないか……。国家によるテロ的行為が許され(野放しにされ)て、個人もしくは団体によるテロ的行為が許されない(取り締まりの対象となる)合理的な(普遍妥当性を有する)理由が見つからない。
およそ考えられる説明としては、国家権力(行政)は公的な手続きに則ってそれを行い、民主的なプロセス(議会)をもって検証され、また、一般的な国家なら当然有しているであろう(と信じられている)無制限な暴力的行為に対する抑止力が働くものという前提のもとにこの考え方が成り立っているのであるが、実際には、今挙げたような前提が必ずしも通用しないことは、皆さまもご承知の通りである。ちなみに、現在、イスラエルのシャロン首相と停戦調停交渉を行っているコリン・パウエル長官率いる米国国務省による「テロの定義」では、「国家でない団体、もしくは地下活動員による計画的で政治的な動機を持つ非戦闘員を目的とした暴力。通常、事件を見守る一般の人々に影響を及ぼす狙いを持っている」とあり、どのような集団が、誰を対象として、どのような効果を意図してテロ行為を行っているのかという点まで、定義付けている。
テロリズムの語源になった「Terror」という英語は、単に「恐怖」という意味であるが、政治的なコンテキストで用いられるテロリズム(あるいは単にテロ)は、「暴力的行為を通して、恐怖や不安を生み出すことにより、人間の行動に影響を及ぼすよう意図された心理的な非常手段のひとつ」と定義づけることができる。テロは戦争と異なり、敵方を殲滅(せんめつ)することが目的ではない。核兵器をはじめ、近代化された大量破壊兵器を用いれば、ある特定の国家や都市のすべてのインフラを破壊し、あるいは一度に百万人を殺すことすら、技術的にはそんなに難しいことではない。しかし、一般にテロというのは、数人から数十人を巻き添えにすれば、それで十分効果があがる(なぜなら、その行為は、実害よりは、心理的効果もしくは政治的アピールを狙ったものだからである)。
▼IT社会はテロリストに有利か
その意味で、犠牲者が3,000人も出た9.11の世界貿易センター(WTC)ビルへの航空機激突自爆テロなど、むしろ例外的なテロである。一般的には、現在パレスチナで連日発生しているような、バス1台や商店1軒を爆破するといったようなテロ事件で十分なのである。というのは、そもそもテロの目的は、戦争のように相手のインフラを破壊し、経済活動を不可能し、多数の人命を奪うということが目的ではないからである。もちろん、例えば、乗合バスで自爆テロが行われたとして――そのバスに偶然乗り合わせたなんの関係もない人が、巻き添えにされて尊いいのちを失うことになるので、それ自体、許されない暴力行為であるが――あくまで、テロ実行犯が目的としているのは、そのことによって、そのテロ事件を見聞きした人に対して、どのような心理的影響、圧力を与えるかということなのである。
半世紀前なら、たとえこのような事件が起きても、あまりの辺鄙な場所での事件故に、誰も関心を払ってくれなかったに違いなかったのに、衛星放送やインターネットを通じて、世界のどこかで起きた事件があっという間に世界中に伝わる現代社会においては、テロ行為のアピール効果は絶大である。たとえ、十数人を巻き添えにした事件であっても、事件発生の1時間後には、事件現場から中継を通して世界の十数億人がその事件の「目撃者」になり、なおかつ、ご丁寧なことに、「事件の背景」などもTVで解説してくれるので、犯行声明等によって、抑圧されていると自覚している集団の主張は、メディアを通じて全世界の人々に広がるわけである。その意味で、現代の情報化社会というのは、テロリストにとっても都合のよい社会である。かつてのような国家権力による一元的な情報管理がしにくくなった社会では、国家権力によって抑圧されていると感じている人々が、テロという行為を通じて政治的主張を行うことは、比較的容易な選選択肢である。
ただひとつ、彼らにとって思いもかけなかった不利な条件といえば、あまりにも世界各地でテロ行為が日常化しすぎて、本来ならば、何十人もの人々のいのちが失われた(そこまでして主張したいこと)ということは、大きな事件であるはずが、毎日のようにテロ事件が起ると、人々はそのこと事体に慣れっこになってしまって、ほとんどテロ事件を気にしなくなるということである。その意味でも、9.11のいわゆる同時多発テロ事件は、その被害者の数以上の大きなインパクトを全世界に与えることができたし、それ故、ペンタゴンとWTCというアメリカの軍事と経済の象徴を破壊されて、面子を潰された形のアメリカは、過剰ともいえる反応を示し、また、自らの軍事的行為を自己正当化してきたのである。
▼主権国家は万能か
平和憲法(註:日本国憲法が本当に平和憲法であるかどうかの考察は『談合3兄弟:十七条憲法の謎』をご一読頂きたい)を戴き、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して(日本国憲法前文)」平和主義を国是としている日本においては、戦時の具体的な対処法どころか、戦争という行為そのものが、論じることすらおぞましい忌避されるべき行為として一般に認識されてきた。今国会で有事法制の審議がやっと本格化しだしたが、国際社会においては、戦争という行為は、倫理的な意味での善悪は別として、国際法によってきちんと定義付けられ、ルールも定められている政治的外交的手段のオプションのひとつなのであるということを理解しておかなければならない。当然のことながら、戦争という行為の選択の可能性(交戦権)について、これを否定している国はほとんどない。
ただ、戦争が、ある主権国家と別の主権国家の間において行なわれる国際ルールに基づいた武力的解決であるのに対して――また、20世紀の前半に全世界を巻き込み、大きな犠牲を出した2度の世界大戦という反省に立って、次なる世界大戦を抑止する目的で国連が組織されたことは言うまでもないが――国連が創設されて半世紀以上が経って、実際に世界各地で繰り返えされる戦争の実態が、国連が当初想定していたものとは大きく異なってしまった。つまり、主権国家対主権国家による戦争を抑止するために、主権国家をメンバーシップとした会員制クラブである国際連合(United
Nations=諸国家の連合)という話し合いの機構を創ったわけであるが、特に冷戦後の国際社会においては、一主権国家内の主導権争いや民族紛争(註:ある外務省幹部によると、現時点で「独立」を主張する民族集団のすべてに独立を認めると、世界は600カ国になってしまうそうだ)、あるいは諸民族が混在する地域に隣接する外国が介入するといった形の戦争(『Time
Will Tell:本当にセルビアが悪いのか?』)が行われるようになり、国連が出発点で想定していた戦争とは大いに性格を異にしてしまった。つまり、国連の戦争抑止に対する有効性が減少してしまったのである。
これらに加えて、昨年9月に上梓した『主権国家対NGOの戦争』で論じたように、いわば、世界各地のテログループが地球規模でネットワークを形成する(一種の国際NGO化)ようになったのである。現在の主権国家を単位とした国連および国際法の秩序の下では、国家の枠を飛び越して、同じ主義主張を有する人々の集まりであるNGOは、その法律の網の隙間を潜り抜けてしまう。仮に、国際ネットワーク化したテロリスト集団が何かしでかしたとしても、各国において個別の刑法犯として取り扱う以外には対処できないのであるが、実際に大規模な国際的NGOが持っている力というのは、小国のそれを凌ぐ経済的・人的・物的資源を備えているのである。ある意味ではアルカイダも、そのようなNGO(ただし、この場合は当局から見ればNo
Good Organization)のひとつと言えないこともない。
アメリカ政府は、従来から対テロ政策として、@テロリストに対して取引や譲歩をしない。Aテロリストは法の下で裁く。Bテロ支援国家には圧力をかける。C国際社会にアメリカの協力国をつくる。という方針を立てて、テロと戦おうとしてきたが、9.11への対応によって、自らのこの方針を反古にしてしまった。テロ事件の容疑者が個別の刑法犯であるならば、当然のことながらこの容疑者を警察的に捕まえて、これを裁判(刑事訴訟法に基づいて)によって処罰する必要があるのであるが、ご承知のようにアメリカがテロの首謀者と決めつけたビン・ラディン氏を捕まえるために、彼を匿(かくま)ったとされるアフガニスタンという主権国家に対して、爆弾の雨霰を降らした(戦争をしかけた)のである。もちろん、これは法の下で裁くという精神から大きく逸脱して、テロリスト集団に対して、主権国家がその全存在をかけて牙を剥いたという行為である。しかし、これは、ある意味で言えば、国家自体がルール無用のテロ組織になってしまったとも言える。