アフリカで見た日本   
   02年6月18日


レルネット主幹 三宅善信
         
▼箱物援助の国

  6月9日から18日までの日程で、東アフリカのケニアを訪問してきた。過去四半世紀の間に百回近く海外に出かけた経験があるが、これまでどういう訳かアフリカとは縁遠く、私にとって初めてのアフリカ訪問であった。世界地図で見ると、日本から東アフリカまでの距離はそう遠くはないのであるが、実際にアフリカに行こうとすると、直行便がないため、ヨーロッパのどこかのハブ空港で乗換えるのが一般的な行き方である。もちろん、インド経由の南回り便のほうが距離的には近いのであるが、乗り継ぎ回数が多くなったり、飛んでいる便数が少なかったりして、結局時間がかかる場合が多い。私は、関空から12時間かけてアムステルダムまで行き、そこで乗換えのために4時間待ち、そして、アムステルダムからナイロビまで9時間のフライトで、合計25時間かけて、やっとナイロビのケニヤッタ国際空港に到着した。朝の7時に空港に到着し、入国手続きを済ませて市内のホテルへ直行、即、着替えを済ませて同日9時30分から始まる会議に参加するという、例によって強行日程であった。

  今回のアフリカ訪問の最大の目的は、6月10日から12日までの日程で開催された「アフリカの宗教指導者によるHIV/AIDSの子供のための会議(ARLCHC)」に参加するためであった。この会議には、アフリカの主にサハラ以南の30カ国から、キリスト教・イスラム教を始めとする高位の宗教指導者約200人が集まって大変熱心な討議が行われた。WindowsのOSで大儲けをしたビル・ゲイツの財団が、1,000万ドル(約12億円)を拠出することを約束しているこのプロジェクトに、私は、唯一の日本人として招かれて参加したのである。アフリカの会議といっても、実際に主導権を握っているのはやはりアメリカであるが、唯一の超大国であるアメリカが主導権を持っているのは致し方ないとしても、ノルウェー・イスラエル・ロシア等の国々が、熱心に本件にコミットしていることには感心した。インドも東アフリカ地域には相当な影響力を持っているようで、インド系の人の姿も10名近く見られた。


各宗教の代表と共に会議に参加した三宅代表

  日本の場合、「アフリカ援助」と言うと、すぐ「鈴木宗男疑惑」で有名になったケニアのソンド・ミリウ水力発電ダムを始めとする「ゼネコン箱物援助」を思い浮かべるが、この会議の様なソフト面の援助(註:何も援助は金を出すことだけでなく、知恵や人手を提供するということが考えられる)が、日本の場合、この点が非常に弱い。しかも、2001年末の時点で、全世界に3,950万人いると推定されているHIV/AIDS患者のうち、実にその4分の3に当たる2,810万人が、サハラ砂漠以南のアフリカに暮らしている。アフリカのエイズ患者の増大の問題は、核兵器の管理(不拡散)と同じくらい国際社会の安全保障にとっても意味のある問題であるが、日本ではこの問題はほとんどそういう点では理解されいない。


▼国際会議の内容を悪くしているのは日本

  今回の会議は、私がこれまでに参加した数多くの国際会議と比べても、大変うまく運営され、参加者各々の発言も自らの分を弁(わきま)えた発言であり、これまで何百回と参加した国際会議と比べても、一級の国際会議であった。実際に、スラム街で行われているエイズの孤児救済プログラムの視察もした。日本や韓国や中国といった東アジア地域の人たちがかなりの比率を占めている国際会議(註:実は、この次の週にインドネシアで開催される別の国際会議にも参加することになっているが、今から気が重い)は、いつも大変貧困な内容になることが多く、予定時間どおりに会議が進まなかったり、現実の世界で起こっている焦盾の問題(人権抑圧等)を無視して、何十年も前の戦争中の出来事を拘(ほじく)って見たり、そのくせ、そういう国に限って、自分の国民に対して平気で人権抑圧政策を行っている。また、そのことに目を瞑ったり、あるいは、ただ「金を出しさえすればいい」という日本人がいたりして、これらの会議の内容を貧困なものにしてきたのは日本人だということを、ある意味で感じざるをえなかった。


スラム街のエイズ孤児施設を視察した三宅代表

  続いて、12,13日にはWCRP(世界宗教者平和会議)の国際管理委員会に出席した。WCRPは国連経済社会理事会公認の諮問機関のステータスを持つ国際的なNGOであるが、WCRPの設立には、私の亡祖父(三宅歳雄師)が深く関与し、1970年に設立されて以来、今日に至るまでの32年間、私の祖父および父がずっと国際役員の重職を務めてきた団体である。WCRP名誉会長である父(三宅龍雄)の名代で出席したこの会議で、久しぶりに財務委員長を務めるシモン・G・X・エルメス氏とも再会することができた。エルメス氏は、スカーフ等のブランドで知られるあのエルメス社の御曹司のひとりである。同氏が財務委員長に就任するまでの十数年間の長きにわたり、私の祖父がWCRP財務委員長を務めていたので、エルメス氏とは非常に親しく、十年来の付合いである。彼が大阪に来た時は、拙宅に泊まったこともあるぐらいである。


エルメス氏と談笑する三宅代表

  今回の2つの会議を通じて、私は、アフリカの人々の日本人に対するネガティブな感情のないホスピタリティに満ちた態度に本当に感心した。恐らく、日本で開催される最初で最後のFIFAワールド・カップに、アフリカ各国の人々は皆、大変関心を持っており、現地でも逐一全試合が中継されていた。そのワールド・カップがせっかく日本で開かれているのに、ケニアにいてスタジアムで観戦できない私に対しても、面識のない人までフレンドリーに声をかけてくれた。日本や韓国の文化の紹介映像と共に、こちらの国の人はとても日本のことに関心を持っていた。道路が左側通行であるためか、道ゆく車の80%以上が日本車であるケニアでは、当然のことかもしれないが……。10日の朝、到着するなり、「ロシアに勝っておめでとう」と言われてしまった。また、日本がチュニジアに勝った試合も、私が滞在しているホテルのパブの大型スクリーンで中継されており、日本の勝利と同時に、パブに居た全員から祝福の握手を求められた。


▼ナイロビの日本大使館

  私はこの機会を利用して、ナイロビの日本大使館も訪れてみた。前大使の青木盛久氏は当地でも大変有名な日本人らしく、ホテルの人もツアーガイドも皆、彼のことを大変よく知っていて「素晴らしい大使であり、帰国したのが惜しい」と言っていた。この青木大使は、ご存知、数年前にペルーの日本大使公邸で起きた人質事件(註:1996年12月に発生し、ゲリラ集団MRTA=トゥパク・アマル革命運動一味による4ヵ月間続いた人質事件。最後は、ペルー軍特殊部隊の強行突入で決着した)の際に、現地リマの日本大使を務めていたのが青木盛久氏である。また、青木氏はあの「疑惑の総合商社」と言われた鈴木宗男氏がコミットしたとして疑惑を持たれているソンド・ミリウダム開発に関しても、関わった数奇な運命を持った人物である。私が参加していた「アフリカ宗教指導者によるHIV/AIDSの子供に対する会議」には、イスラエルを始め北欧各国のナイロビ大使館も、何とか新しい情報を得ようと大使館員をオブザーバーとして派遣していたが、会議が開かれているホテルからわずか徒歩5分の距離にある日本大使館からは、誰も来ていなかったのが大変残念である。もちろんこの会議がここで開かれていることが、通知されていたのにも関わらずである。

  私は日本大使館に行って驚いた。ナイロビ有数の保険会社の高層ビルの15階と16階を占めている日本大使館であるが、ビル1階ロビーのセキュリティがまず大変厳しい。そして、エレベーターを15階で降りると、そこはまるで空港の手荷物検査場のようなところであり、武装した警官が鉄製の扉の手前でいろいろとチェックする。私は、予め日本公使とアポイントメントを取っており、その旨を告げたにも関わらず、厳重なチェックを受けた。しかも、この時の私の服装は、紋付袴という誰が見ても日本人と判る服装をしていたにも関わらずである。本来ならば、時間を指定して訪問しているのだから、入館手続きが大変なのならば、大使館員が1階のロビーまで出迎えに降りてくるべきである。これまで、国連機関や各国大使館を訪問したことが何度かあるが、ほとんどの場合、玄関ホールまで「お迎え」があったが、確かに日本の官庁だけは、「お迎え」に出てくることは稀である。そして、二重の鉄製の扉を開けて、やっと日本大使館の中に入ることができた。大使館員に聞くと、「去年の9.11テロ以来警備が厳重になった」と言っているのであるが、これでは第三国からの亡命希望者が日本大使館に保護を求めて駈け込むことを防止するどころか、現地在留法人や日本人旅行者が何らかのトラブルに巻き込まれて、日本大使館に保護を求めようとしても、簡単にはその保護下に入れないという、極めて本末転倒のように思えるのである。


▼同じ惑星とは思えない景色

  飛行機に乗る時はいつも通路側の席(トイレに立ちやすいし、万一、事故のあったときに脱出しやすい)と決めているが、ナイロビからの帰途は、ふと「今回は窓側の席に座ろう」と思った。往路は夜間飛行だったので関係なかったが、帰路は昼間飛行だし、今後もアフリカにはめったに来ないだろうから、今回、天候の関係で拝むことのできなかったキリマンジャロ山が見えるかもしれないというほのかな期待もあったからである。あいにく、私が搭乗したケニア航空の便は、キリマンジャロとは反対のケニア山のほうへ向いて離陸したので、赤道直下でも山頂に雪を戴くアフリカ最高峰のキリマンジャロは見えなかったが、飛行機は一路ナイル川に沿ってスーダンとエジプトの砂漠地帯を北上し、チュニジアのボン岬から地中海へ出た。この間、窓から見える景色は、赤道付近のケニアの森林地帯を過ぎると、延々数時間、赤茶けたまるで火星の表面のような地表が続いていた。もちろん、人工の構造物など何も目に入らない。ところどころ、かつて水の流れた痕のようなものが見えるだけである。その中で、ナイル川だけが遥かビクトリア湖からの水をたたえて蛇行しながら北上して行くのだ。

  ケニア航空機は、地中海に入ると直ぐにシチリア島の上空へと差し掛かった。2000年以上前に、カルタゴ人(現在のチュニジアを本拠地としていた)やローマ人の将兵が、「地中海」というまさに「内海」を挟んで、アフリカとヨーロッパの間を往復して攻防を繰り広げた様子(ポエン戦争)が、手に取るようにイメージできた。飛行機はさらに北上し、サルジニア島・コルシカ島を経て、欧州の「本土」ともいえる北イタリアのロンバルディア平原へと突入した。イタリア北部は、ミラノをはじめとする工業都市が点在し、ほんの1時間半前まで眼下に見えていたサハラ砂漠とはまるで違った景色である。人間の営みそのものだ。地中海を挟んで、ここまで極端に景色が変わるものかと思った。とても同じ惑星の景色とは思えない。


結構、すぐ近くで飛行機がすれ違う欧州上空

  しかも、気になったのは、ヨーロッパに差し掛かってから、大空を行き交う航空機の数が極端に増えたことだ。窓から眺めている(もちろん、私から見えるのは飛行機の片側だけだから、実際には、飛行機の前後左右上下と、この何倍かはあるはず)と、常に、1機か2機の飛行機が見えているということだ。もちろんそのほとんどは、遥か彼方の天空を飛行機雲を残しながらゆっくり飛んで行く(もちろん、遠方なので、見かけ上、ゆっくり飛んでいるように見えるだけ)のであるが、たまに、ほん近くをすれ違う便があるのには驚かされる。いわゆる「ニアミス」である。私の乗ったケニア航空機がアルプスに差し掛かって、遥か西にジュネーブの街が見えるレマン湖上空を飛行中にすれ違った飛行機などは、カメラを構えて撮影しようとした時には、既に通り過ぎてしまっていたほど、至近距離ですれ違った。欧州上空にはこんなにたくさんの飛行機が飛んでいて、事故など起きないものかとふと不安が脳裏をかすめた。

  アルプスの北側へ回ると、さらに景色は変化する。フランス・ドイツ国境に沿った森林地帯と作物がたわわに実っているであろう農業地帯の連続である。思わず産業革命以前の農村風景を想像してしまう。たまに、村の教会の尖塔が見える。もちろん、高速道路網も整備されていて、ひっきりなしに大型トラックが走っている。欧州がひとつのマーケットとして機能していることが目にも明らかである。そして、私を乗せたケニア航空機は、欧州大陸を縦断しきって、ベルギーを過ぎて北海へ出た。どういう訳か、アムステルダムの空港へは、海側から着陸することになっている。おかげで、オランダ人たちが長年かけて築いてきた閉め切り堤防や埋め立て地の様子がよく判る。農村部では花卉の栽培が盛んなオランダでは、畑は完全な長方形である。また、港湾施設も充実している。ケニアのサバンナで見たキリンのような港湾荷揚げ用の苦レーンが林立している。「世界は神が創ったが、オランダだけは人間が造った」と言われる所以である。たまたま隣の席に座り合わせたヤマサ醤油に勤務する米国人ビジネスマンと、大豆の話や世界の醤油生産の現況について、いろいろと興味深い話をできたのが、思わぬ収穫であった。すっかり世界商品化した醤油と、まったく国際化できていない日本人の心情が妙にオーバーラップしたのは、私の気のせいだけであろうか?


ケニアのキリン

オランダのキリン


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