神の下のひとつの国:宗教国家アメリカの正体   
   02年07月4日


レルネット主幹 三宅善信
         

▼アメリカ合衆国の独立記念日 

  言うまでもないことであるが、7月4日は、アメリカ合衆国の独立記念日である。1620年、ピルグリム・ファーザーズ(巡礼父祖)」と呼ばれる一団のピューリタン(清教徒)たちが、英国本土における宗教的迫害から逃れるために、「メイフラワー号に乗って遙々大西洋を渡り、新開地である北米大陸の北東部のプリマス(現マサチューセッツ州)に上陸してから、百数十年間にわたって、アメリカ(もちろん、当時はNew Englandと呼ばれた)は英国の植民地であったが、ジョージ・ワシントン将軍率いる東部13州連合軍は、英国本土の議会に対して、参政権がないにもかかわらず、海外領土として納税の義務を負わされていること(「No Taxation without Representation」)への反発として、宗主国である英国に戦争をふっかけるための「独立」を宣言したのが、1776年7月4日のことであった。

  この日を記念して、アメリカ合衆国では、毎年、華々しく祝賀行事が行なわれる。われわれ日本人にしてみれば、「独立記念日」という祝日自体、あまりピンとこない。なぜなら、われわれ日本人は、自分たちが日本人であると意識する前から、すでにこの日本列島に長年暮らし、知らない間に(海を渡って移民するといったような自らの主体的選択ということなしに) 日本人になっていたからである。よく考えてみれば、日本における国民の祝日は、たいてい「○○の日」という表現になっている。つまり、実際の歴史上の出来事――何年何月何日にこういうことがあったということ――を記念しているのではなく(例外は1947年5月3日に公布された憲法記念日と12月23日の天皇誕生日だけ)、単に休日の数を増やすために、緑の日とか敬老の日といった抽象的な名目を当てはめて国民の祝日を制定しているだけである。一方、アメリカ合衆国をはじめ、特に第二次世界大戦後、次々と独立を果たしたアジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの新興の国々は、歴史上のある時点の出来事の記憶として、「独立の父」と呼ばれる人物の名前と、何年何月何日という具体的な日付を以って国民国家のスタート地点としているのである。まず、この点がわれわれ日本人とは大いに異なる。


▼『忠誠の誓い』は違憲? 

  去る6月27日、私はACRP(アジア宗教者平和会議)に出席するため、訪れていたインドネシアの古都ジョグジャカルタのホテルで、衛星放送のニュースを聞いていてびっくりした。CNNニュースは以下のような「事件」を報じていたのである。概略すると、「26日(米国時間)、サンフランシスコにある連邦控訴裁判所は、アメリカの公立小中学校で一般的に行なわれている『Pledge of Allegiance (忠誠の誓い)』が、『政教分離(Separation of Church and State)』を定めた合衆国憲法に違反するという判決を下した」というニュースであった。

  読者の皆さんも、テレビか映画のシーンでご覧になられたことがあるかと思うが、アメリカの小中学校には、教室の黒板の横に必ず星条旗がデカデカと飾られているのである。卒業式や入学式といった式典の時のみ、申し訳程度に講堂の壁に日の丸を掲示することだけでも大騒ぎする日本とは違って、アメリカでは、学校教育のことあるごとに各教室において、子供たちが星条旗の前で胸に手を当てて「私たちは神の下にひとつになった自由と正義の国、合衆国に忠誠を誓います」という『忠誠の誓い』を暗唱させられるのである(これなら、戦前の小中学校で、天皇陛下のご神影を拝して、『教育勅語』を暗唱させられた軍国主義教育と何ら変わらないではないか!)。


ブッシュ大統領が訪れた教室での『合衆国への誓い』

  世俗主義の国である日本で暮すわれわれから見れば、このまさに北朝鮮かナチの全体主義かと見紛うばかりの光景を、実は、大多数のアメリカ人は、子供の時からほとんど違和感なしに受容してきているのである。オリンピックやワールド・カップといった国際的な大規模なスポーツイベントの際に、必ず国歌斉唱と国旗掲揚が行なわれるが、日本の選手は、例え『君が代』が流れても、大きな声で歌っている選手は稀であり、なおのこと、胸に手を当てながら国旗に対して敬意を表する(註:軍人の敬礼は額の部分に右手を当てるが、民間人の場合は胸に右手を当てることになっている)ような選手はいないのであるが、アメリカ人の選手は皆、堂々と胸に手を当てて、合衆国の国歌『Stars and Stripes』を歌っている。このことのバックグランドには、日米の間におけるこのような初等・中等教育における国旗・国歌に対する教育のし方の違いが背景としてあったのである。私から見れば、「政教分離」を憲法の修正第1条(註:日本国憲法の第1条は、もちろん「天皇」についてである)に戴くアメリカ合衆国の大統領が、ことあるごとに「May God Bless America(アメリカに神の祝福がありますように)」と言ってスピーチを終えることは、著しく耳障りであるが、アメリカ人の多くはこのことをまったく不思議に思っていない。


▼どんな神の下にある国?

  公立学校で唱えることが半ば強制されているこの『(合衆国に対する)忠誠の誓い』に対して、今回、西海岸地域を統括するサンフランシスコ連邦控訴裁判所の管轄権の及ぶカリフォルニア、ワシントン、オレゴン、アリゾナ、ネバダなど9つの州の公立学校にだけ適用されるだけであるが、ともかく違憲判決が出たのである。この問題を訴えたのは、カリフォルニアの州都サクラメントに住む無神論者のマイケル・ニュードー氏であり、同氏は、自分の小学生の娘が公立小学校でこの忠誠の誓いを毎日、声を出して読み上げさせられることに、異義を唱えたからである。しかし、ニュードー氏は、何も、合衆国に対する忠誠を拒否しているのではない。この『忠誠の誓い(Pledge of Allegiance)』の中にあるひとつの文句、すなわち「One Nation under God(神の下にあるひとつの国)」という語句にこだわっているのである。

  なぜなら、ここで言う「God」とは、言うまでもなく大文字で始まるGodであり、一般的にユダヤ・キリスト教の「神(ヤハウェ)」を指していると思われているからである。しかし、無神論者はもとより、イスラム教徒や仏教徒やヒンズー教徒など、ありとあらゆる異なった伝統を有する移民から構成された多民族国家であるアメリカ合衆国にとって、「特定の宗教的祈祷を国家に対する忠誠の言葉に入れること自体、違憲ではないか?」という指摘があって当然である。つまり、憲法で明確に否定されている「国教」を想起するようなメッセージを公立学校で唱えさせることの違憲性を訴えたのである。そして、今回の「違憲である」という至極、当然の判決が連邦控訴裁判所(註:日本でいうところの高等裁判所)で出されたのである。  

  おそらく、連邦政府はこの判決に異義を唱えて、最高裁に上告するであろうが、それ以前に、この判決に対して、合衆国の各界各層から猛烈なブーイングが上がった。特に、議会においては、共和党・民主党を問わず9割以上の議員がこの「神の下のひとつの国という表現は正しい」と言い、また、「この文言を変える必要はない」と言ったのである。私にはこのことのほうが驚きである。民主主義国家においては、民主主義を否定する輩に対しても、「言論の自由」が保障されているはずである。さもなくば、マジョリティに対して都合の悪い表現を封殺する全体主義国家と同じこと『民主主義の自殺:仏大統領選の負債』である。もちろん「信教の自由」についても同じことが言える。ところが、昨年9月11日の同時多発テロ事件以来、単純な二元論的(ものごとをなんでも善と悪の二極に還元する)愛国主義的な雰囲気が盛り上がっている米国において、いささかでもこの国の普遍妥当性を疑うかの如き見解を公に表明することは、極めてプレッシャーのかかることである。まるで、特高警察に狙われている全体主義国家の国民のようなものである。


▼アメリカは神聖国家である

  この「神の下のひとつの国」という表現は、実はそんなに古くからあったのではない。米ソ冷戦対立が厳しさを増したアイゼンハウアー大統領の時代(1954年)に各州でバラバラに行なわれていた『忠誠の誓い』の文言に、この「神の下の」という語句を加える法律が連邦議会で制定され、全米に普及したのである。アイクは、この法律にサインをした時、次のように述べたそうだ。「この国と国民が全能の神に対して献身的であることを、わが国の数えきれない生徒たちが、都会の町から田舎の村までのあらゆる学校で、毎日宣言することになるだろう」と言うのである。これだけでも、十分驚きである。そういえば、米ドル紙幣には、「In God We Trust(神の下にわれわれは約束する)」というふうに印刷されている。つまり、これまで再々、私が述べてきたように、「神」というものを抜きに、アメリカ合衆国という国は考えることができない神聖国家なのである。しかし、多くの日本人はそのことを意識していない。そこに問題があるのである。

  例えば、全世界10億人はいるといわれているカトリック信徒の総本山であり、ローマ教皇が国家元首を務めているバチカン市国という国においては、宗教と政治が一体であることは、誰でも理解している。あるいは、去年までのアフガニスタンをはじめ中東の多くのイスラム教国においては、ある意味で政教一致の政治(註:「シャリーア」と呼ばれるイスラム法が施公されている)が行なわれている。そのことの良し悪しは別として、日本人はその事実はよく知っている。しかし、世界最強の軍事力と最大の経済力を誇るアメリカ合衆国という国が、極めて宗教がかった国であり、善悪の判断の基準をわれわれ日本人には到底受け入れ難い彼らの宗教性という価値観から行なって憚(はばか)らないということを理解している日本人があまりにも少ないことが危険であると言うのである。


▼宗教国家アメリカの自己矛盾

  私はこれまで「主幹の主観」シリーズにおいて、何度も「宗教国家アメリカ」ということを力説してきたが、今回のこの裁判所の判決と、その判決を受けたアメリカのメディアや議会の違憲判決に対する反発は凄まじいものがある。「(国民の大多数が是認する)ユダヤ・キリスト教的な唯一全能の神を相対化するとは何事だ!」というのが、その論理なのである。しかし、このことは、アメリア合衆国の建国の理念の胡散臭さにも通じている。なぜなら、英国国教会の支配から「信教の自由」を求めて逃れて英国を脱出したピューリタンたちが、かつて、モーゼがエジプトのファラオ(神聖王)のくびきから逃れるために、いのちを掛けて紅海を渡って「約束の地」カナンにイスラエルを建てた(註:もちろん、こんなものはユダヤ人側の勝手な論理であって、国土を奪われたパレスチナ人たちは、そのことで現在も大いに迷惑を蒙っている)ように、いのち掛けで大西洋を渡って、自らの信仰を守るために「新しいイスラエル」であるアメリア大陸を勝手に「約束の地」に仕立て上げ、先住民を駆逐してしまったことに何ら罪の意識すら感じないところまで、ユダヤ人と同じ論理である。

  しかし、この論理には、大きな自己矛盾がある。そもそも、ピルグリム・ファーザーズたちは、宗教的自由を求めてこの国を造ったはずである。したがって、「如何なる意味の国教も持たない」という精神が、合衆国憲法の修正第1条にも書かれている。にもかかわらず、そこにある実態というのは、まさに、ユダヤ・キリスト教的な意味での「神によって導かれた国である」という矛盾撞着を孕んでいるのである。ただこの神が、Godであるから、皆、不思議に思わないだけである。試しに、そのGodの代わりに「(ヒンズー教の)シバ神であるとか、阿弥陀仏であるとか、素戔嗚尊(スサノヲ)という神の下にあるひとつの国」という表現に変えれば、アメリカ国民から一斉にブーイングが起こるであろう。

  客観的には、自分たちが奉じている(唯一全能の)Godとは、それらの神的存在を奉じている宗教のひとつにすぎないものであるということを理解できていないこの国の国民とこの国の指導者が、たまたま有している強大な軍事力と経済力を背景に、傍若無人に世界中で振る舞うことこそ、全人類にとっての悲劇(『アメリカという世界を不幸にするシステム』である。「アフガン人の神なんか神ではない(=アフガン人なんか人でない)」と思っているアメリカ人の心の声が聞えてきそうである。この国の人々の不遜は、一昨日も、アフガニスタンにおいて、結婚式のパーティーに集まっている一般人を「誤爆」しておきながら、何らその責任を取ろうとしない態度に表われているのである。いったい、この国の横暴をいつまで世界中の人々は見逃しておくつもりであろうか。


戻る