クスリのリスク 
  02年08月06日

レルネット主幹 三宅善信

▼胡散臭い3つのキーワード

  中国製の痩せ薬による健康被害が相次いでいる。訴え出ただけでも数百人の被害者と、それを服用して死亡した人が4人もいるということである。今回はこの問題について考えてみる。かくいう私も、ここ数年、中国製の「減肥効果」のあると言われる真っ黒けのプーアル茶を飲んでいる(註:効果があったかどうかは、私の体型から判断していただくと、甚だ疑問であるが、実際の食生活のほうも、フォアグラ等の"濃い"食材をしょっちゅう食しているので、生活習慣病がかろうじて発病していないのは、プーアル茶の"おかげ"と言えるかもしれないが…)。今回、最初に報じられたのは、「御芝堂減肥膠嚢(おんしどうげんぴこうのう)」と、「繊之素膠嚢(せんのもとこうのう)」という商品名のダイエット用中国製健康食品であった。この2つの"健康食品"によって死亡被害が出たことを重く見た厚生労働省が実名を公表したとたん、「われもわれも」と次から次へと名乗り出てきて、大きな社会問題となった。


問題の中国製ダイエット健康食品

  今回のダイエット食品が、「医薬品」を所轄する厚生労働省の守備範囲外であったことや、インターネットの普及によって、監督官庁の目の届かないレベルで、この手の「薬」が個人的に売買されている(註:これらの分野を切り開いたのが、バイアグラであったことは言うまでもない)ことが遠因だ。というような議論は、マスコミ等でも一般的に行われているので、わが『主幹の主観』のサイトでは、少し変わった角度(もちろん、日本文化論)から、この問題の背景にあるものを探ってみたい。

  今回の問題を考える上で3つの重要なキーワードがある。その最初は"中国製"次ぎに、"ダイエット"そして、最後は"健康食品"の3つである。高度経済成長を終えた後の日本人にとって、ダイエットという問題は欧米人と同様に重要な社会的関心事となった。しかも、人類学的特質から言って、白人(コーカソロイド)と比べて、より少ないカロリーで生存することができるという形質を獲得した省エネタイプのモンゴロイドである日本人が、わずか数十年の間に急激に栄養価の高い食品を摂取する生活を送るようになったことは、糖尿病をはじめとする生活習慣病の罹患率が白人よりも高くなるということを意味し、ダイエットは国民的課題となった。


▼「中国四千年の歴史」に騙されるな

  最初に"中国製"ということについて考えてみたい。まず、この国では、やたら「中国」という権威を神聖不可侵なものとしてありがたがる傾向がある。外務省のチャイナスクール(『チャイナスクールはメダカの学校?』)の連中は論外にしても、メディアにしても、たいていの場合、今でも「全体主義」国家である中国政府の側の主張を一方的に、垂れ流す(例えば、歴史観の問題等)、その中には、ほとんどヤクザの言いがかりに近いような暴論があるにもかかわらず、まるで中国の属国(註:中華人民共和国のことを「中国」と呼んでいるのは、日本と南北朝鮮だけ。欧米では今でも「シナ=China」と呼んでおり、中華民国=台湾では、単に「大陸」と呼んでいる。このことひとつをとっても、日本が中国を特別視していることが判る)であるかのごとき卑屈な態度をとっていることが多いが、今回は、そのような政治的な問題ではなく、日本人一般の持つ、「中国」に対する間違った尊重の仕方についての話である。

  かつて、高級インスタントラーメンのキャッチコピーに「中国四千年の歴史」という惹句があった。笑わせるではないか…。確かに、中国大陸において数千年前から、人類の四大文明のうちのひとつが栄え、なおかつ、長年にわたって、多くの王朝が興亡してきたことは事実であるが、多くの王朝が興亡したということは、王朝の交代前と後では、歴史の主役が異なっているということである。しかも、それらの王朝を担ったのは、北方の騎馬民族であったり、南方の稲作を中心とする民族であったり、いろいろな民族が「中原」の地をめぐって興亡したのであって、これらをひとつの一貫した「中国人の歴史」というふうに、単純にまとめてしまってよいはずはない。

  確かに、長年、「中原」の地をめぐって、多くの民族が興亡したことによって中国は、世界に類を見ないほど豊かな食文化(要するに、なんでも食材にしてしまうこと)が、育まれてきた。また、その文化の一形態として、陰陽五行説と一体となった「医食同源」という概念も確立された。しかし、なんでもかんでも、「漢方」というものをありがたがるというのは、間違っている。なかでも、巷でよく耳にする誤解に、「漢方薬だから副作用はない」などと言っている人がいるが、とんでもない。漢方薬であろうが、西洋医学の薬品であろうが、効能のある薬である限り、副作用があるのが当然であり、逆に、副作用がないということは、作用もないということで、何の効き目もないメリケン粉(小麦粉)のカプセルを飲んでいるのと同じことである。その上、どんな薬でも、その効能が確固としたものとして認知されるまで、数多くの人のいのちを実験材料にしてきたのである。「四千年の歴史」なんて、それだけ多くの人々が実験材料にされた(死んだ)ということと同意語である。そもそも中国という国は、人のいのちの極端に軽い国である。

  しかも、よく考えてほしい。ケ小平氏以来の改革解放路線(つまり、市場経済)が定着した中国では、あたかも、30年前の日本のように、高度経済成長をばく進して大発展を遂げているが、これも、30年前の日本を見れば判るように、何事にも経済の発展を優先した日本では、同時に数多くの公害が発生していた。大気汚染による喘息、工業排出物の垂れ流しによるイタイイタイ病や水俣病、カネミ油症事件等々、数え上げれば限りない。日本は、国民の健康を犠牲にして、未曾有の経済発展を遂げたのである。もし、現在の中国が、かつての日本のような高度経済成長をしているのならば、同様に有機水銀をはじめ、数々の有害化学物質が環境中にばら撒かれているということであり、昨今、極めて庶民の口に入り易くなったスーパーで売られている安価なウナギの蒲焼きなども、ほとんどは「中国産」であり、劣悪な環境下で養殖されているウナギに、有機水銀や残留農薬などが蓄積されていることは間違いない。そのような「中国」という環境で作られた薬、もしくは健康食品の胡散臭い効能を鵜呑みにして、「漢方だから副作用はない」などと言って、ありがたがって飲むということは、自殺行為もいいところである。


▼ダイエットは減食以外に不可能

  次ぎに、"ダイエット"というキーワードである。ダイエットは、先述したように、先進国の、いわば共通の贅沢な課題であるが、これも、よくよく考えてみると問題だらけである。結論から言おう。「食事の量を減らす(カロリー摂取量を減らす)こと以外に、具体的な効果が期待されるダイエット方法なんかない」と断言してもよい。あるつすれば、重病に罹って激痩せするくらいのものだ。よく、「運動すればダイエットに効果がある」と言って、アメリカ人なんか、バカみたいに真夏のカンカン照りでも、寒風吹き荒れる真冬でも、強迫観念に駆られてジョギングに邁進している連中がいるが、これなんぞ、健康法というよりは寿命を縮めるためのほとんど自殺行為と言ってよい。

  体重50kgの成人女性が10分間ジョギングして消費するカロリーの消費量は、約80kcalと言われている。ということは、1時間走っても、たったの480kcalしかエネルギーが消費されないのである。もし、日本人女性が1日に平均的に取得しているカロリー分をジョギングだけで消費しようと思えば、毎日5時間走り続けてやっと2,400kcalである。5時間といえばフルマラソンを2回連続走る時間と同じである。こんなもの、まともな人が走れるはずがない。よほど特殊なオリンピック選手クラスのアスリートであれば別であるが、一般の生活を営んでいる人が、毎日これだけの運動量を行なうことは、実際上、無理である。したがって、ケーキ1個分のカロリーを運動によって消費するということは、ほとんどナンセンスに近い。最も効果的なのは、口から入るカロリーの総摂取量を減らす(減食する)ということ以外にないのである。

  私は以前、ペットボトルで売られている水について、批判した(『水と安全はただ:池田小学校事件に思う』)ことがあるが、最も有名なミネラルウオーターブランドの「六甲のおいしい水」を揶揄して「メコンのおいしい水」というのを売り出したらどうか? ということを言ったことがある。たった一杯飲むだけで、一日で体重が10kgも痩せられる(註:コレラか赤痢になって、急激な脱水状態になる)。これは冗談で言った話であるが、こういった無謀行為でもしない限り、体重の急激な減少というのは望めないものである。つまり、自分の健康というものと引き換えにしない限り、急激に体重を減らすということは望めないのである。話題の中国製ダイエットカプセルなんて、「メコン川の水」を飲むのと変わらないくらい危険だということである。

  しかも、ヒトが消費しているカロリーの6割から7割が基礎代謝(註:四六時中、絶えることなく行なわれている呼吸であるとか、体温を保つといった生命現象を維持する上での最低限のエネルギー交換行為)に消費されているのであって、ちょっとぐらい運動したとか、しなかったというのは、ほとんど関係ないといえる。意外なことに、ヒトの器官の中で、最も多く糖分を消費するのは、実は脳である(当然といえば当然であるが…)。であるからして、安全なカロリー消費を目指した究極のダイエット法というのを考えるのなら、炎天下で日射病の危険を冒してジョギングをしたり、寒い冬に心筋梗塞の危険を冒してジョギングをするより、脳を思いっきり使うほうが遥かに効果的である。その証拠に、囲碁や将棋のプロ棋士は、名人戦などのタイトル戦を戦えば、1日で体重が5kgも減るそうである。何も体を動かさずに、あの盤の前にただジッと座って頭を猛烈に使っているだけで、5kgも体重が減るのである。これが、最も安全なカロリーの消費方法である。しかし、これも多くの凡人には、望むべくもないであろう。したがって、ダイエットという行為は、食べる総量を減らす以外にはないと考えてよい。


▼美味しい効能だけを拡大解釈

  3番目に、"健康食品"というキーワードである。これも、結論から言うと、私は「健康食品」という概念をはじめから信じていない。そもそも、何を食べれば健康になって、何を食べなければ健康にならないのかなどという話自体がナンセンスである。何を食べても、それらは一旦、分子レベルまで消化分解され、それぞれの人に固有な遺伝子情報(DNA)によって、タンパク質として再生されるのである。つまり、何を食べても同じことということである。

  昼間の主婦向けの番組で、よく「○○を食べれば、××に効く」というような話が、毎日のように次から次ぎへと紹介され、ある食材がテレビで紹介されるたびに、その日の夕方にはスーパーの売り場から、例えばゴボウが、例えばブロッコリーが、例えば納豆がというように、特定の食材が売り切れるそうであるが、これなんかも、毎日毎日違うネタ(食材)があるということは、結局、「何を食べても一緒」ということを意味している。あるいは、もっと穿(うが)った見方をすれば、特定の食品を消費させようという、生産者あるいは流通側のニーズによって仕組まれた話であると言ってもよい。なにしろ、民放が放送しているということは、すべてコマーシャリズムすなわちスポンサーの意向に則していると考えて間違いないからである。

  江戸時代前期の儒者で本草学者でもあった貝原益軒は、その『養生訓』において、以下のように言っている。「薬はみな偏性(偏った性質)のあるものであるから、その病気に適応しなければ必ず毒になる。であるから、一切の病気にむやみに薬を用いてはいけない。病気の災難より薬害のほうが多い。薬を使用しないで、慎重に養生をすれば、薬の害がないばかりでなく、病気も早くよくなるであろう。……中略……。薬を飲まないでも自然に治る病気は多い。これを知らないで、むやみに薬を使い、その薬に当てられて病気をひどくし、食欲をなくして長く回復しないで死んでしまうことも少なくない。薬を使用することは慎重でなければならない」と、300年も前の人が言っているではないか。

  そもそも、自らの食べたいものを減らすという禁欲的態度を抜きにして、一朝一夕に美味しいとこ取り(食べて痩せる)をしようという甘い考えそのものが間違っている。しかも、人々は「薬品」と名がつけば、それなりにその医学的な効果を期待するのと同時に、ある意味で、副作用というものに対する警戒心を抱くのであるが、「健康食品」となると、その辺が曖昧になる。つまり、薬品の中の、美味しい効能の部分だけを拡大解釈し、欲しくない副作用の部分だけがない商品であるかのごとく、勝手に拡大解釈しているのである。これは、いよいよ胡散臭い態度である。


▼過ちは、易きところになりて…

  今から800年程前に活躍した吉田兼好の『徒然草』に、興味深いエピソードが収録されている。『高名の木のぼり』(木登り名人)という話については、古典の時間に習うのでご存知の方も多いと思う。「高名の木のぼりといひし男、人をおきてて、高き木にのぼせて梢を切らせしに、いと危く見えしほどはいふ事もなくて、降るる時に、軒長ばかりに成りて、『あやまちすな。心して降りよ』と言葉をかけ侍(はべ)りしを、『かばかりになりては、飛び降るるとも降りなん。いかにかく言ふぞ』と申し侍りしかば、『その事に候。目くるめき、枝あやふきほどは、おのれが恐れ侍れば申さず。あやまちは、やすき所に成りて、必ず仕(つかまつ)る事に候(そうろう)』といふ。あやしき下臈なれども、聖人の戒めにかなへり…」というように、人々は、誰の目に見ても危険なことに関しては、自ら注意をするので実害が起きないが、それを過ぎて、やや安全という領域に入った時に油断が生じ、結果的に大きな事故に繋がると言っているのである。

  これは、薬品と健康食品との関係についても、そのまま当てはめることができよう。今回の中国製ダイエット健康食品でいのちを落とされた方や健康を害された多くの方々には気の毒であるが、本編で述べてきたような問題について、現代の日本人に警鐘を鳴らしてくれたと思う。

  蛇足であるが、今回の中国製健康ダイエット食品の事件が、現代の日本のインターネット社会に与えたもうひとつの衝撃は、あの商品名の漢字がインターネットに載せることができないということである。ほとんどのニュース記事を見ても、「繊之素膠嚢(せんのもとこうのう)」のセンという字の中国式簡略書体である「糸千(糸ヘンに千)」、こうのうのコウという字を「月交(ニクヅキに交)」といったように、偏と旁をバラバラにして記述しなければならないではないか。今後のインターネット文化の世界的な普及を考える上で、これも、もうひとつの大きな問題と言えよう。


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