私企業の公的責任?:食肉偽装事件考      
 02年08月27日


レルネット主幹 三宅善信


▼小泉流はロシアン・ルーレットと同じ 

  平成大不況を克服する手段として小泉政権が採用した方法とは、アメリカ流のグローバリズムを標榜し、弱い企業(負け組)を市場から強制的に退場させることによって――同じ日本というパイ(分母)でも、分子の数を減らすことによって、一社あたりの分け前を大きくし――企業の生き残りを計るという方法であった。かつて13あった都市銀行が、今や4大グループに収斂されたことが象徴的であるが、これは何も金融機関だけに限られたことではない。日本経済には、それぞれの産業分野毎に成熟した企業が存在していた。例えば、乳製品といえば、明治・森永・雪印の3社。ビールといえば、キリン・アサヒ・サッポロ・サントリーの4社といった具合に、わずか数社で日本国内の総生産の99%以上のシェアを占めている産業がいくらでもある。その中で、戦後、経験したことのなかった全体のパイが縮小してゆくという構造的な不況(デフレ)に陥った時、最も簡単な脱出方法として、その中の一社を潰すことが考えられた。まるで、「ロシアン・ルーレット」である。次は誰がブチ抜かれるか、皆、固唾を飲んで見守っていた。

  今年の夏、最もバッシングを受けている企業は、ハム・ソーセージメーカー最大の日本ハムである。いわゆる「牛肉偽装事件」というやつである。そもそも、最近の「食の安全」に関する信頼の崩壊は目を覆いたくなるものがあるが、これには、実は一定の傾向があったのである。2000年の6月末に、雪印乳業大阪工場の配管バルブから病原菌が発見された(註:古来6月末に行なわれてきた「水無月の晦の大祓」は、疫病封じの目的で行なわれてきたことが皮肉である)ということに端を発した食中毒事件、さらには、その事件に対する雪印の対処の仕方の拙さから、次々と問題が発展し、子会社の雪印食品が解散の憂き目を見る事態にまで至ったのである。私は、今年の3月に上梓した、『賞味期限って誰が決めた』において、食品の偽装表示事件の本質を解明しようと試みたが、依然として、相次いでこのような事件が繰り返されるところを見ると、ある特定の企業の倫理観(体質)の問題ではなく、この国における社会の文化的背景にまで踏み込んで考えなければ、物事の本質がはっきりしないのではないか…。そこで、今回は、一連の牛肉偽装事件について考えてみる。


▼何故か「事件」は大阪で起こる

  実は、2000年6月末の雪印乳業による牛乳の大規模食中毒事件に始まり、2001年春には、ヨーロッパから飛び火したと考えられる牛の口蹄疫問題が起きた。さらには2001年秋の9月11日といえば、誰でも、世界を震撼させたあの忌まわしい同時多発テロ事件を思い浮かべるが、あの事件は、アメリカでは9月11日朝の出来事であったが、日本では、時差の関係で既に同日の夜になっており、したがって、日本の新聞に記事が載ったのは、9月12日のことであった。それでは、2001年9月11日の新聞には何が載っていたかというと、各紙とも一面に、「国内で初の狂牛病発生」という文字が躍っている。つまり、日本の農林水産省にとっては、世界を揺るがした同時多発テロ事件よりも、もっと恐い、農水省の存在そのものを揺るがしかねない狂牛病(BSE:牛脳海綿化症)という大事件が勃発したのである。

  本件に対する処置も、2001年4月に私が上梓した(『口蹄疫騒動と東西の歴史文化』を農水省の役人が真剣に読んで、そこで述べられているとおりにしておれば、このような事件にならなかったものを、狂牛病を「対岸の火事」だと認識して何も手を打たなかったことなど、今さらながらに、農水省の連中のレベルの低さが感じられる。彼らがしたことといえば、意味のない「言葉狩り」を恐れて「狂牛病」という病名を「BSE」という、何やら訳の分らない専門用語に変えただけである。役人の頭こそ海綿化してしまっているのではないかとさえ思ってしまう。最近では、世間から脳衰省と揶揄される始末である。

  さらに、今年1月末に「懲りない企業」の雪印が、いわゆるBSEに関わる牛肉買い上げ制度を悪用した牛肉偽装事件というものを起こした。1年半前の大量食中毒事件で大いに傷付いたブランドイメージと、低下した企業収益を回復するための窮余の策であったのかもしれないが、かえってこのことによって、雪印乳業の社会的信用は地に落ち、実質的には「雪印」というブランド名では会社を存続させることが難しくなってしまった。

  続いて、本年6月、少し性格は異なるかもしれないが、それまで大評判を得ていたテーマパークUSJにおいて、食品(飲料水も含む)の安全に関する一連の事件が発覚した。そして、この8月、日本ハムによる、これまた「牛肉買い上げ制度」を悪用した「偽装事件」が発覚したのである。これらの「食の安全」に関する一連の事件に共通するひとつのキーワードがある。不思議と行政やマスコミの誰も指摘しようとしないことであるが、これらの事件は、すべて大阪という場所で発生しているのである。私の見るところ、この種の「事件」の根は、1996年夏に起きた病原性大腸菌O-157による大量食中毒事件にある。O-157事件が発生した時に、製肉業者のルートを徹底的に究明していったのであるが、諸般の事情によって、結局この追及はうやむやになってしまい、最後は帳尻合わせのために、限りなく「怪しい」牛肉解体業者の近所のカイワレ大根生産農家を告発する(註:当時の菅直人厚生大臣がカイワレ喰いのパフォーマンスをしたことを真似て、今回、武部勤農水大臣も焼き肉を食べたが、かえって逆効果であった)という、まことにおかしなお茶の濁し方をしたことのツケが、今回の一連の事件に尾を引いているのである。製肉業界の間には、「行政は本件に関しては不介入だ(何をしても見逃される)」という共通認識ができあがっていたのである。


▼要は「囲い込み」の問題

  しかし、これだけ続けて食肉の偽装表示事件が起こるということは、個別企業の経営本質(社会倫理)問題を云々する前に、「買い上げ」制度そのものを問題にすべきであると思う。そもそも、一連の事件で制度が悪用された「買い上げ制度」とは、国内での口蹄疫およびBSEの発生によって殺処分を余儀なくされた(商品価値がなくなった)牛肉が市場に出回ることを避けるために、その牛肉をすべて買い上げ(て処分す)ることにしたのは、農水省の外郭団体である農畜産振興事業団である。かつて、畜産振興事業団といわれた1961年に設立されたこの団体は、国民の大多数を占める消費者のためではなく、ごくわずかしかいない畜産農家を保護するために、「国内市場の(高)価値維持」という名目をつけて、海外から大量に輸入される安い牛肉を強制的に買い上げ(註:大多数の消費者は「より安い肉が買えれば良い」と思っているのに、その邪魔をし…。一方、「いくら高くてもよいから極上の霜降り肉を食べたい」という人もいるだろうから、国内の酪農家は超高級牛肉に「特化」すればよい)、そして、その数倍の値段を付けて国内市場に流していた役人の天下りのための団体である。それが、いつの間にか、畜産以上に存在価値がもはやなくなったといわれる養蚕や砂糖農家のための蚕糸砂糖類価格安定事業団と合併し(1996年)、農畜産振興事業団という無駄の典型のような団体を作ったのである。そして、その事業団が予算を確保するために、むりやり「事業」を創り出し、その一環として、「牛肉の買い上げ制度」という制度を施行したのである。

  そもそも、いったん解体されて肉の塊になってしまえば、どこの誰が生産したか判らないようなものを、まとめて処理するというような方法そのものが胡散臭い限りである。需要予測をはずされて、多めに輸入しすぎた外国産牛肉を「国産」(つまり、狂牛病になって売れなくなった牛肉)と偽って買い取らせる行為まで、日常的に行なわれていたのである。これらの背景には、全農(JA)等を票田とする農水族と呼ばれる議員と、ほぼその存在の必要がなくなってしまった農水省という役所の役人の省益が、がっちりと結ばれているのである。個別の企業の不正をバッシングするよりも、このような制度のもとになっている農畜産振興事業団および農水省の体質をこそメディアや国民はもっと問題にすべきである。

  本論のタイトルである『私企業の公的責任』ということであるが、「私」という漢字の偏(左)の部分の「禾偏(のぎへん)」は、「収穫物」という意味を表す。そして、旁(右)の部分の片仮名の「ム」という字の部分は「囲い込む」という意味を表しているそうである。つまり、「収穫物を囲い込む」という行為が、私するという行為の語源である。一方、私の反対概念である「公」という字の冠(上)の部分の「ハ」は、「左右に物を振り分ける」という意味であり、足(下)のムという部分は、先ほど言った「囲い込む」という意味である。つまり、「囲い込んだ物事を適正に分配する」というのが公という意味である。公も私も囲い込むことには、違いないのであるが、そのことを適正(公平)ではなく、自分のためだけに囲い込むのか、適正に配分するのかということの違いである。

  日本ハムという会社の社名をよく見て欲しい。「ハム」という字は縦書きすれば公という字ではないか。一方、公的機関であるはずの農水省こそ、自分たちの省益の確保ばかりを図って、囲い込みをしているではないか。これではどちらが公でどちらが私か区別がつかないのである。


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