レルネット主幹 三宅善信
▼七福神、西海道をめざす
7月下旬、「民間信仰共同研究会」のメンバーとして、大分県の国東(くにさき)半島にある寺社信仰のフィールドワークに出かけた。民間信仰共同研究会というのは、神道国際学会の研究助成金を受けて、文化人類学者の米山俊直大手前大学学長を座長として立ち上げられた「ゑびす研究会」という学際的研究グループが3年間にわたる活動を発展的に解消して、去年から新たに「民間信仰共同研究会」として結成されたもので、主に阪神間の研究者(註:この種の研究会としては、構成メンバーの老若男女のバランスがとてもよい)二十数名が集まって、学際的な研究を行なっているユニークな団体であり、私も「ゑびす研究会」以来の会員の一人である。その民間信仰共同研究会主催の「宇佐神宮と国東半島磨崖仏」調査フィールドワークが、7月22〜24日の3日間の日程で開催されたのである。今回の調査団の構成は、米山先生を筆頭に男6名+女1名の合計7名であり、このメンバー構成自身、七福神と同じ組み合わせで、今回のフィールドワークの先行き(「宝船」を持って帰ることができるか?)を暗示するようであった。
反米の闘士「敵地USA」に降臨!
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新大阪から九州(かつての西海道)の玄関口小倉までは、山陽新幹線の500系のぞみであっとういう間に到着。小倉駅でJR九州の特急ソニック(音速)といういかにも速そうな名称(実際は、あまり速くない)の特急に乗り換えて、摂津国大阪の地を発ってわずか3時間あまりで「聖地」宇佐に到着した。フィールドワークのスケジュールは、初日に国東半島の付け根にある宇佐神宮をまず訪れ、続いて熊野の磨崖仏を見学。2日目には六郷山の仏教寺院の数々を巡回。3日目に「一村一品運動」で有名な平松守彦大分県知事と面会というスケジュールであった。私は、ハンガリー出張の直前ということもあり、日程の都合で最初の2日間だけ参加した。
▼皇国史観と神社界のローソン
宇佐神宮は、一般的には「宇佐八幡」として知られ、全国のコンビニの総数とほぼ同数の4万社あると言われる八幡宮の総本社である(註:八幡宮と神社界の二大派閥を形成しているのが、京都の伏見稲荷大社を総本社と戴く稲荷社であり、正式の神社は32,000社あると言われているが、ビルの屋上や路地裏などにある個人や会社所有の「小さな社」まで含めると、稲荷社が最もポピュラーであることは間違いない。神社本庁に所属する神社が約8万社と言われているので、神社のネットワークは全国のコンビニの数の2倍だ!)。
宇佐神宮にまつわる話は、多くの人がこれまでにも論述している。中でも、神功皇后の「三韓征伐」神話と応神天皇誕生のエピソード。あるいは、奈良時代の末、「怪僧ラスプーチン」ならぬ「奸僧弓削道鏡」が、称徳女帝の時代に皇位簒奪を狙ったとき、「忠臣和気清麻呂」が宇佐八幡の神託を得てこれを阻止した話(註:一般的には、道鏡の話は、孝謙天皇との「不適切な関係」というふうに紹介されていることが多いが、孝謙女帝と道鏡の関係は、女帝が退位されて、「上皇」になられてからのことであり、道鏡が皇位簒奪を目論んだとされるいわゆる「宇佐神宮託宣事件」が起きたのは、女帝が「称徳天皇」として重祚した後のことである)。あるいは、幕末の混乱期に、三条実美をはじめとする尊王派の7人の公家たちが、京都での政争に敗れて長州へ都落ちし、さらに長州をも追放されて太宰府へ配流された折の「五卿の宇佐参り」の話などに典型的に見られるように、いわゆる「皇国史観」に彩られた「寓話」がたくさん創られてきたせいで、この神社が何か鎮護国家の総本山のような扱いを受け、宇佐神宮の紹介書にも「伊勢の神宮に次ぐ、わが国第二の宗廟として、皇室からも崇敬された」と記されている。もちろん、私は、そのような「皇国史観」なんぞには全く関心がないことは言うまでもない。
ただ、古(いにしえ)より「王城の地」であり続けた畿内(註:現在の大阪府と奈良県全域と京都府と兵庫県の一部)と、当時の「先進国」であった中国大陸や朝鮮半島を繋ぐ交通の大幹線路は、陸路の「山陽道」よりも、玄界灘から関門海峡を抜け、瀬戸内海を東に船を進めて、難波津(大阪)で上陸するコースが一般的であり、「瀬戸内ルート」は、大いに繁栄した。この瀬戸内海の周防灘に南側から突き出た半島が国東半島であり、古来、難破も含めて多くの外国船のが着岸したであろう。その意味で、西海道の行政と軍事を司る太宰府と共に「鎮西」の役割を朝廷から宇佐神宮は期待されたのであろう。古代においては、政治・軍事的な戦いは、同時に神々の戦いでもあったのだから…。
▼ まるで鎮護国家の仏教寺院伽藍
国際日本文化研究センター所長の山折哲雄先生が、神道の特徴のひとつとして「分裂増殖しても薄まらない神格(分霊と勧請が可能)」を定義づけられ、その顕著な例として、北九州の宇佐神宮から始まり(註:それより以前、この神は、おそらく新羅にいたと思われる)、畿内に国家の統治機構の中心が定った後、天平年間の東大寺大仏殿建立へのひとかたならぬ協力(全国規模の勧進)により、東大寺の守護神として、手向山八幡宮が奈良の地に勧請され、続いて、貞観元年(859年)、大安寺の僧の託宜(註:どういう訳か、いつもこの八幡神に意志は、かなり胡散臭い「神託」という形で示される)により、新たな王城の地平安京を視座にいれた男山(京都府と大阪府の境目)に鎮座した石清水八幡宮。更には、源氏武家政権の関東進出に伴い、鎌倉に勧請された鶴ヶ岡八幡宮といい、東へ東へと分裂増殖して行っても、薄まるどころか、いよいよその威を高くし、その都度、国家権力との結びつきを強めていった。また、「軍神」たる八幡神(註:八幡の「幡」という字は「のぼり旗」という意味である。古代中国において、戦争のときに掲げられた旌旗のこと)という元々は旗の神様が、名目上は源氏政権を継承した足利幕府や徳川幕府といった武家政権の守護神として、日本全国に拡大していったことは言うまでもない。しかし、今回私は、あくまで、豊前国宇佐の地における八幡宮に限った話を論ずるつもりである。
どこか平安神宮風の宇佐神宮のご本殿
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宇佐神宮を訪れてみて最初に感じたことは、極めてこの神社が仏教的な匂いのする神社であるということであった。もちろん、ほとんどのメジャーな神社は、明治維新までは神仏習合の形態を採っていることが一般的で、いわゆる「神宮寺別当」つまりは僧侶の支配下にあったことは言うまでもない。宇佐神宮とて同様である。現在の社殿は朱塗りの楼閣であり、どちらかと言うと、明治28年(1895年)に、平安遷都1,100年を記念して、桓武天皇をご祭神に奉り、平安京の大極殿のミニチュアとして創建された平安神宮と同じような感じの朱塗りの伽藍配置であったが、こちら(宇佐神宮)のほうが自然の山(ひょっとしたら古墳?)の上に建造されている分だけ鬱蒼とした「社叢(神社の杜)」を形成しており、それなりの雰囲気を醸し出していた。
祭礼での中心的役割は僧侶が担っていた
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中国風の狛犬(どう見ても唐獅子に見える)のある巨大な鳥居を潜って境内を入ると、すぐ右手に宝物館なる瀟洒(しょうしゃ)な建物(註:神社が社殿以外の建物を造る場合は、たいてい結婚式場等の会館であるケースが一般的であるが、人口集積の少ない宇佐地方では結婚式場を経営することは難しく、その代わり、全国から集まる観光客を意識した展示場だった)があったのには驚いた。というのも、その宝物館のデザインは、宇治の平等院というか、平安時代の公卿の大邸宅を思わせるような回廊で繋がった寝殿造り風の前栽に池を配したレイアウトであった。その池には季節柄、無数の蓮が見事に花を付けており、まるで極楽浄土を意識した仏教寺院そのものであった。
平安貴族の寝殿を想起させる宝物館
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▼放生会は虐殺された隼人族への鎮魂行事だろうか?
私たちは、宇佐神宮に参拝し、神宮に伝わるいろいろな文物を拝見したが、『宇佐宮祭礼絵巻』など、描かれている登場人物はほとんど仏教僧侶であり、神職と思しき人物なぞ、祭礼においてまったくの補助的な役割しか与えられていなかったことは明らかである。しかも、宇佐神宮を特徴づける最大の神事として「放生会(ほうじょうえ)」が行なわれているのである。「放生会」とは、言うまでもなく、殺生を戒めた仏教の儀式である
(註:わが国では、捕らえた魚などを川や池に放し、東南アジアなどでは、捕らえた鳥を布施をする者が金を払って買い取り、それを空中へ放してやるようなことが行なわれている)。そのことによって、いわば「殺生の逆(殺される運命の生き物を助ける)」を行うことによって功徳を積むという極めてご都合主義的な仏教的民間信仰のひとつなのであるが、これが宇佐神宮を最も特徴づける神事なのである。
境内の放生池ですら、どこか怪しげな雰囲気がある
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しかも、宇佐神宮の縁起(註:この言葉も、極めて仏教的である)によると、「その昔、大和朝廷が九州を平定する際に、先住民であった隼人たちを大量に殺戮(さつりく)したことに対する一種の鎮魂行事として確立した」とされているが、それにしては、放生会で放される生きものが一般的な魚や鳥ではなく、蜷(にな=タニシやサザエなどの巻貝のこと)を放すという奇妙な神事なのである。見た目にもピンピン飛び跳ねる魚や鳥を解き放すというのなら、極めて放生会としての演出効果も良いが、初めからパッと見ほとんど動いているか動いていないか(生きているか死んでいるか)判らないような巻貝をわざわざ水中に逃がす(ボトボトボトッと桶から落す)ということの意味するところは、いったい何であろうか? これをもって放生会と言えるのか? ということが大いなる疑問として湧いてきた。
宇佐八幡についての考察は、レルネットのレギュラー萬遜樹氏の作品『宇佐八幡神は新羅の神だった』に詳しく紹介されているので、それを読んでいただければ、古代日本における新羅系の神の与えた大きな影響および、古代だけではなく、東国の武家政権(鎌倉幕府)から、果ては、明治維新の英雄、西郷・大久保に至る(島津藩における八幡信仰)まで、新羅系の神が与えた大きな影響について、極めて興味深い考察をされている。
▼蜷(にな)の腸(わた)
しかし、私が宇佐神宮について一点こだわっているのは、この放生会で「蜷を放す」という、極めて奇妙な儀式が古来より連綿を受け継がれているというところである。既に述べたように、宇佐神宮の伝承によると、これは、大和朝廷に平定された(つまり、多くの先住民が虐殺された)隼人の霊を慰めるための行為だと言われているが、さりとて、それがなぜ蜷貝と結びついたのか、納得のいく説明がされていない。宇佐神宮の内外には、「若宮神社」と呼ばれる関連神社がいくつかある。「若宮」とは、宇佐神宮のご祭神のひとりである応神天皇(ホンダワケノミコト)の皇子オオサギノミコト(後の仁徳天皇)のことである。宇佐神宮から少し離れたところにある「若宮神社」の放生池で、奇妙な石造物を見つけた。蟹が戯れる小さな池の真ん中に、背中に重石を乗せられて押さえつけられている裸の童子のようなものがあるのである。いったいこれは何を意味しているのであろうか?
若宮神社の放生池にある背中を重石で
押さえつけられている人はいったい誰なのか?
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しかし、私は興味深いことに気がついた。『万葉集』に収録されている和歌で「みいなのわた(蜷の腸)」という枕詞がある。「み(い)なのわた」に続く言葉は「か黒き(髪)」である。これは、サザエなどを煮たり焼いたりしたら、その腸(はらわた)の部分が真っ黒けになることから、「黒髪」を表わす枕詞になったのである。万葉集には「蜷の腸」が詠み込まれた歌がいくつかある。その中に、天平8年(736年)の6月に日本から新羅へ遣された外交団についてのエピソードが収録されている。遣新羅使一行100名を乗せた船は、6月初めに難波津を出発し、瀬戸内海を横断して博多から外洋で出、朝鮮半島の中継地対馬へ着いたのが9月初めのことであった。それにしても、所用航海日数が3カ月弱とは、いくら奈良時代の船でも、時間がかかりすぎている。途中、周防灘で暴風に遭って漂流したらしいが、それらの船が国東半島へ漂着したという可能性も大いにあったであろう。その時(国東沖?)に詠まれた歌(『万葉集』第15巻3649)に、「鴨じもの
浮寝をすれば 蜷の腸 か黒き髪に 露ぞ置きける」という和歌がある。
水鳥(鴨)でもないのに、夜間に、わざわざ危険な海上に停泊しているのは何故だろうか? そこが外国の領域(朝鮮半島沿岸部)なら、賊に襲われる危険性もあるが、ここは日本である(まさか、当時も不審船が日本人を拉致していったということはあるまい)。それに、普通この歌は「黒い髪の毛が露に濡れたようだ」という光景を詠んでいると解釈されているが、私なら「水面に黒いものがたくさん浮いている」という歌趣は、難破したのかなんだか判らないが、たくさんの人の生首が土左衛門(溺死)状態になっているという光景を詠んだものであると解釈したいる。事実、この時、遣新羅使は総勢100名で出発したが、翌年無事、帰朝(都に戻る)できたのは、わずか40名だったそうである。えらく生還率の低い旅である(これも北朝鮮による拉致事件と似ている)。
理由としては、九州へ上陸した時に、かの地では、天然痘が大流行していたらしく、遣新羅使の相当の人が天然痘で落命したからだそうである。だから、伝染病の感染を恐れて、危険な海上に停泊したのであろう。畿内から西海道に至る当時の大幹線路の瀬戸内海は同時に、大陸や半島から日本(都)を目指す人々の通り道でもあり、外国人の往来が盛んであるということは、また、新種の伝染病(註:免疫がないので、酷いときには、人口の3分の1から半分が奪われたこともあったであろう)が最初に流行する地域であったいうことは大いに考えられる訳である。特に、『万葉集』で多く詠まれた「蜷の腸」ということと、宇佐神宮の放生会でわざわざ「蜷貝を放す」ということとの関連がこの辺りにあるのではないかと私は思っている。蛇足であるが、縄文時代から盛んに食べられた貝類は、一般に足が速く(腐敗しやすく)、牡蠣(かき=オイスター)など、衛生管理が飛躍的に良くなった現代でも、しばしば食中毒の原因になっている。その上、カワニナなどの淡水性の巻貝は、特に、日本住血吸虫病をはじめとする伝染病の媒介となっているので、十分加熱調理しなければ危険な食べものであることには変わりない。やはり、「蜷の腸」が真っ黒けになるまで、加熱したほうが無難である。
▼神道は『モー娘。』感覚である
最後に、現代人のわれわれが陥り易い思い違いについて考えてみたい。われわれは、神道の神々の世界と仏教の諸仏(如来・菩薩・諸天)の世界をあたかも異時次空間(異なった宗教の体系)のような別々の世界であるとしているが、このこと自体は欧米近代合理主義の洗礼を受けた明治維新政府最初の仕事として、慶應4年(1868年)に発布された『神仏判然令』によって人為的に作られた概念であって、それより以前は、薩摩以外は、日本列島の何処へ行っても広範囲に神仏混淆は当然のように行なわれていた。この国における神仏混淆の歴史は長い。そもそも、最初に朝鮮半島(大陸)から仏教が伝えられた時から、この国の人々は、金色に輝く(仏像のこと)いかにも霊験のありそうな「新しい異国の神が来た」というように仏教を理解しており、もちろん、世界宗教としての仏教の高度に洗練された教義体系なんかに全く興味を示さず、ただ神々しい「カミ」として、従前から日本にいた八百万の神々の新メンバーとして、新たに神々のパンテオン(汎神殿)に加えられたのである。まるで『モーニング娘。』のメンバー追加と同じ感覚である。「出し入れ自由」なのである。そして、人気の出てきた神は独り立ちするのである。
今日、われわれが「神道」といった言葉を耳にした時にイメージするあの、清々しい神社の社殿なども、すべて大陸から仏教が伝来した後、その寺院建築の影響によって建てられるようになったのである。それより以前は、山そのものとか、大きな磐坐(いわくら)とか巨木に注連縄(しめなわ)を張ったような自然物が「ご神体」そのものであった。だから、日本土着の宗教が神道になったのは、仏教伝来以後のことである。因みに、古式ゆかしい神前結婚式に至っては、時の皇太子(後の大正天皇)の婚礼のために、明治時代の後半にキリスト教の結婚式をモデルに創作されたものである。
当然のことながら、ひとつの定着した「宗教」としての形態で言えば、神道より仏教の方が、はるかに歴史が長い。もちろん、「神道」の原形となった日本的なアニミズムの世界は、数千年前の縄文時代には既にしっかりと確立され(註:21世紀に現在でも、日本人は基本的にアニミズムの輩であることには違いない)ていたが、今日われわれが「宗教」として認識するような形の宗教としては、意外なことに、わが国においても仏教のほうが古い。伊勢の神宮が建立(遷宮の制度が確立)されてからは約1,300年である(註:神宮そのものは鎮座後2,000年経つと言われているが、これは大いに怪しい)。これは、東大寺の大仏殿とほぼ同じ古さであり、四天王寺や法隆寺よりも100年も新しい。そういう訳で、この西海道の入り口にある「豊の国」(豊の国が奈良時代に豊前と豊後に分けられた。現在の福岡県の東部と大分県の地域である)においても、宇佐神宮が鎮座するよりずっと以前から、既に、虚空蔵寺などが存在しており、この寺の建築様式が法隆寺の伽藍様式と似ているのも、あながち不思議なことではない。