ノーベル賞経済学

 02年10月12日


レルネット主幹 三宅善信


▼大マゼラン星雲からの贈り物 

  10月8日、9日と、2日続けての日本人科学者のノーベル賞受賞に、近頃暗いことばかりの日本列島は、久しぶりに明るい話題で盛り上がった。すなわち、「カミオカンデによるニュートリノの検出」で物理学賞を受賞することに決まった小柴昌俊東京大学名誉教授と、「サラリーマン・ノーベル賞」として、一躍サラリーマンのヒーローになった田中耕一島津製作所研究主任の化学賞受賞「快挙」である(註:一般庶民でも、話のネタとして入りやすい田中耕一氏の話題がマスコミを賑わし、小柴博士のほうがあまり話題にならないので、天の邪鬼の私としては、小柴博士のケースを例に挙げて、話を進める)。ともかく、わが国におけるノーベル賞の歴史は、戦争の傷痕がまだ残る1949年に、湯川秀樹博士が「中間子理論」で物理学賞を受賞してから、94年に大江健三郎氏が文学賞を受賞するまでの45年間で、たった8人の受賞者しか出なかった。単純に計算しても、5.6年に1人の割合であるから、いわば、大変な希少価値であり、それゆえ、社会からも大いなる尊敬を受けてきた賞であるが、そのノーベル賞に、たった2日間で2人も受賞したのである。

  ビッグバンの時に大量に発生したと言われ、宇宙生成の謎そのものに迫る素粒子ニュートリノの研究者(実験家)として、小柴昌俊東大名誉教授はあまりにも有名であった。なにしろ、愚妻ですら、どこで覚えたかは知らないが、岐阜県神岡町にあるスーパー・カミオカンデの実験施設のことを知っていたくらいであるから……。私も、小柴氏は、いずれはノーベル賞を受賞するものと思っていた。小柴博士の経歴にしては、今回のノーベル賞受賞騒ぎで詳しく紹介されたので、既にご存知の読者も多いと思うが、小柴博士はある意味、たいへんな強運の持ち主である。おそらく、宇宙生成に関わる素粒子論の難しい話を言っても興味を示さないであろう大蔵官僚や文部官僚を説き状て、多額の研究費の予算を付けさせ、富山県境に近い岐阜県の山奥の地下1,000mの廃鉱跡(註:地表には無数の宇宙線が到達しているが、それらとニュートリノを区別するためには、それらがすべて岩板にぶつかってしまい、「すべての物質を通過できる」ニュートリノだけが到達し得る地底深くで観測するのがよい)に、遥か宇宙の彼方から飛来する素粒子を観測するためのバカでかい観測装置を造ったのであるから大したものである。

  しかも、やっとの念願が叶って完成したカミオカンデ(KAMIOKANDE: Kamioka Nucleon Decay Experiment=神岡原子核崩壊実験施設)が完成した時には、小柴博士は東大教授の定年まであと3カ月という時期が迫っていた。もちろん、そう簡単にニュートリノが検出できる代物でないことは、ニュートリノを世界で初めて検出したということで、小柴博士がノーベル賞を受賞したことからも容易に想像できるであろう。つまり、原子核や電子をしのぐ微少さゆえに、あらゆるものを通過してしまう(註:すなわち、いかなる観測装置をもってしても、その装置の「網」をくぐり抜けてしまい検出できない)というニュートリノを観測するということの技術的な難しさを克服する画期的な装置カミオカンデですら、実際には、その少なさゆえにまったく検出できなかったのである。

  ところが、ここに奇跡が起きた。小柴教授が東大を退官するわずか1カ月前の1987年、地球から17万光年離れた大マゼラン星雲で起きた超新星爆発(註:新星といっても、星が大爆発して星の終末を向かえるという意味で星の死である)により放出された大量のニュートリノの内、地下1,000mに到達した11個の軌跡(註:高速荷電粒子が水中で発するチェレンコフ光を超好感度のセンサーで捕らえる)をカミオカンデで観測したのである。無数の星が散りばめられた広大なる宇宙空間においてですら、地球でよく観測できる距離内で超新星爆発が起こる確率は、500年に1度くらいと言われている。その500年に1度しかない機会に小柴教授の退官1カ月前に巡り合うことができたのである。

  しかも、このタイミングで地球にニュートリノが到達したということは、実際にその宇宙領域において超新星爆発が起きたのは、今から17万年前のことである。17万年という恐ろしく長い時間を経過して、その爆発の知らせがやっと地球に届いたのである。なにしろ、大マゼラン星雲といえば、アニメ『宇宙戦艦ヤマト』では、地球滅亡の危機を乗り越えるため、ヤマトの諸君がワープにワープを重ねて放射能除去装置コスモクリーナーDを貰いに、惑星イスカンダルまで行くお話の目的地、また、その敵役デスラー総統の本拠地惑星ガミラスのある場所であるくらいであるから、「想像もできないほど遠い世界」のことである。

▼日本から50年間に30人のノーベル賞受賞者を 

  総理在任中は、ボロカスに言われていた森喜郎内閣時代に、実は、結構多くのことが行なわれたのである。日本の将来を決めるという「IT基本法」が制定されたのも森政権の功績のひとつである。時あたかも20世紀の最初の年である1901年に制定されたノーベル賞が、100歳を迎えようとしていた2000年末のことであった。この年の秋、ノーベル化学賞を白川英樹教授が受賞したのである。その受賞に合わせるように、森政権の新科学技術基本計画は、「知の想像と活用により世界に貢献できる国として、今から50年の間に、日本からノーベル賞受賞者を30人程度輩出する」という具体的数値目標を提起した。慌ただしい世紀末の年の瀬の2000年12月26日にこの答申が出された時、世間は極めて冷淡な反応を示した。いかに、白川博士が化学賞を受賞した直後とはいえ、それまでの50年間で、白川博士を含めてもたった9人しか日本人がノーベル賞を受賞出来なかったのに、ここからの50年間でそれを一挙に3倍以上の30人受賞しようというのだから……。

  いつもこの国において、ノーベル賞が論議の俎上に登るテーマのひとつに、「教育問題」が挙げられる。今回、私は、この教育論について、批判の矛先を向けて行きたい。毎度、繰り返されるバカバカしい議論とは以下のような「説(迷信)」である。曰わく、「日本の教育(特に、初等中等教育)は画一的で、個人の独創性を生む教育システムになっていないから、ノーベル賞を受賞するような飛び抜けて優秀な人材が輩出しないのである云々…」という議論に集約される「説(迷信)」である。このような「説(迷信)」に毒された中教審などが、「ゆとり教育」などと称する馬鹿げた「教育改革(改悪)」(註:学校週5日制や学習内容の3割カット等)なるものが提唱され、事実、今春から実施されもした。そもそも、「個性」などを学校教育に求めることが間違っている。学校(初等中等)教育とは、さまざまな「社会規範」をたたき込む場であることはいうまでもない。学習内容を減らすことにもなんの意味もない。成長期の人間の脳は、詰め込めば詰め込むほど、さらに幾何級数的に新しい知識が吸収できるようになっているものであることは、私の頭脳でもって実証済みである。

  しかも、少し考えてみれば容易に解ることだが、ノーベル賞の受賞者数は、全世界で毎年10人程度である。つまり、全世界で教育を受けている10億人以上の青少年の教育プログラムを、わずか10人のノーベル賞受賞者を輩出するために考えるということが、いかに馬鹿げているかは明白である。こんなもの、隕石に当たるような低確率である。それよりも、初等教育においては、授業中には先生の言うことを聞いて、ウロウロなどせず(註:つまり、嫌なことでも我慢できるような社会規範を身につけること)、読み書き計算(註:人間としての知的活動の基本)が確実にできることのほうがはるかに大切であり、1億分の1という極めてレアなケースであるノーベル賞受賞者が「子供の頃、学校の先生の言うことを聞かずにヤンチャであった」とか、「物理の成績が悪かった」とかは、一般の教育改革にとってなんの参考にもならないのは明白である。こういう教育に関する議論が出てくること自体、私には信じ難い。一般教育とノーベル賞とは、全然別の次元の問題なのである。

▼凄い学者がウロウロしていた三宅家

  私はこれまで、日本人ノーベル賞受賞者の内3人と出会ったことがある。その3人とは、湯川秀樹博士と佐藤栄作氏、そして1987年に日本人のノーベル賞としては唯一の医学生理学賞を受賞した利根川進博士の3人である。しかも、湯川秀樹博士と佐藤栄作首相にお目にかかったのは、大阪の拙宅でである。つまり、両氏がわが家に来られたということである。また、利根川進博士は、私がハーバード大学の研究員をしてた時、お隣のMIT(マサチューセッツ工科大学)の教授をされており、両校に在籍する日本人によるパーティーが行なわれた会場でお目にかかったことがある。

  実は、私の亡祖父(故三宅歳雄)は、1950年代前半から70年代前半に掛けて多くの学者の「パトロン」的なことを行っていた。先述の湯川秀樹博士や、同じく物理学者の伏見康治博士、後に大阪大学の総長になった生物有機学の赤堀四郎博士や、文科系では、宗教哲学の西谷啓治博士やインド哲学の中村元博士などである。そして、宗教と科学やその他の学問との関係を問うサロンを形成し、現代社会における宗教の役割について多くの提言をした。もちろん、当時、年少であった私には、祖父の友達の「偉い先生」ぐらいの認識しかなかったが、当時の記録を読んでみると、1960年代の時点で、既に、今日起り得るような生命操作の問題等についての提言も行っていることは驚くべきことである。

  また、祖父は、物理学者としての湯川秀樹博士としてだけではなく、「核廃絶運動」を通じ、世界連邦運動(World Federalist Movement)の同志として、長年共に活動(註:世界連邦運動には、かのA・アインシュタイン博士も大いに関わっていた)してきた。三宅家と世界連邦運動(WFM)との関わりは深く、祖父亡き後も、父三宅龍雄はWFMアジアセンターの会長を務めているし、この夏から、兄三宅光雄はこの夏ロンドンで開催されたWFMの世界大会で副理事長に選出されもしている。WFMは、今年、ハーグに設置された国際刑事裁判所(ICC)の実現に功績があったという理由で、ノーベル平和賞にもノミネートされていた。

  ノーベル平和賞と言えば、私自身、平和賞の5人しかいない選考員の内の1人、ノルウェー国教会オスロ主教G・シュテルセット師と面識がある。シュテルセット主教とは、本年6月にケニアのナイロビで開催された「アフリカのエイズ問題に関する会議」にていろいろと意見の交換を行ったりもしていたが、なかなか博識である。もちろん、今年、ノーベル平和賞を受賞したジミー・カーター元米国大統領とも、二十年以上の関わりがある。カーター氏と三宅家との特別な関係で触れたが、この国では、「宗教は私事」という解釈がされている(註:昭和天皇の大喪の儀ですら、「神式」の儀礼は、「天皇家の私事」ということで、葬儀の途中に、カーテンで仕切られた向こう側で行われたくらいである)から、たとえ一宗教家がどんな大それたことをしたとしても、メディアはこれを無視することが一般的であって、一般の人々に、案外知られていないことが多い。

▼自然科学3分野こそ本物のノーベル賞

  ところで、先程も少し触れたが、ノーベル賞受賞者を大量に輩出するにはどうすればいいか? ということに対する私の答えを言いたい。ただし、ここでいうノーベル賞とは、物理学賞、化学賞、医学・生理学賞の自然科学分野の3つのノーベル賞のことであり、平和賞と文学賞と経済学賞は一応、今回の考察から外す。というのは、平和賞は「中東和平に功績があった」ということで、かつてイスラエルのベギン首相とPLOのアラファト議長が受賞したことがあるが、こういうことからも判るように、両氏は、確かに中東和平をもたらしたのであるが、同時に両者はまた、中東紛争の当事者でもあった訳であり、ある意味で「自分たちで戦争を始めておいて、自分たちで矛を納める」というマッチポンプのような部分もある。

  あるいは、マザー・テレサやダライ・ラマ14世やD・ツツ大主教といった宗教家なども受賞しており、選考基準が極めて多岐にわたっており、論理的な考察をする対象としては相応しくないからである。同様に、文学賞についても、翻訳の問題もなって、初めから「公平な審査」が行われているとは思われないので、今回は考察しない。また、経済学賞についても、他の5つのノーベル賞とは別に、後から作られた(1968年に制定)新しい賞であり、過去100年間のノーベル賞の歴史を概観して論じる今回のテーマに当たらないので、除いておきたい。つまり、今回考察するノーベル賞とは、自然科学分野である物理学賞、化学賞、医学・生理学賞の分野のことに限って考えてみる。

  ノーベル賞の歴史は、20世紀の歴史そのものである。ノーベル賞が制定された1901年から第二次世界大戦が終結する1945年までと、それ以後、つまり1946年から2000年までのノーベル賞の100年を概観してみて気づくことが幾つかある。中でも興味深いのは、前半の45年間と後半の55年間の受賞者数の国別分布の推移である。第二次世界大戦終結前のノーベル賞の受賞者数は、第1位がドイツの36人、第2位が英国の25人、第3位が米国の18人である。これが、第二次世界大戦終結から20世紀末の2000年までの55年間となると、様相が一変する。

  アメリカのひとり勝ちで180人ものノーベル賞受賞者を輩出して、2位英国の41人、3位ドイツの27人に大きく水を開けているのである。4位以下の国については全部足してもアメリカの半分にも満たないので、考察の対照から外す。私はハーバードとMITという超有名大学2つを抱えるマサチューセッツ州のケンブリッジ市に住んで経験したことであるが、ケンブリッジ市では毎年のようにノーベル賞受賞者が出るのである。したがって、一般市民の注目はむしろ、ケンブリッジ市出身のスポーツ選手がオリンピックで金メダルを取った時のほうが、ノーベル賞受賞者より遥かに町のヒーローとして迎えられるのである。

▼ノーベル賞は経済力の蓄積で決まる

  第二次世界大戦前は、ノーベル賞の中心がヨーロッパにあり、第二次大戦後、アメリカに移ったということは何を意味するのであろうか? 言うまでもない、世界の経済の中心が、ヨーロッパからアメリカに移ったということである。第二次世界大戦で疲弊したヨーロッパ(もちろん、アジアも)から、唯一、戦場にならなかった(註:つまり、交戦国に物資を大量に売りつけて大儲けした)アメリカに移ったということを表わしているのである。つまり、ノーベル賞受賞者が大量に輩出するか否かは、その国の教育システムの問題ではなく、もちろん人口の問題でもない。おそらく、陸上競技といったようなほとんど個人の素質による部分が多い競技などは、中国のように人口の大きい国が有利なのは明らかであるが、ノーベル賞を取得できるほどの高度の研究設備の必要性を有する分野においては、当該国の人口はほとんど問題にはならない。日本より人口の少ない国でもノーベル賞を日本より多く受賞している国もある。また、世界最大の人口(人類の5人に1人は中国人)を誇る中国が、過去100年間でたった2人しかノーベル賞受賞者を出してないことからも明らかである。つまり、自然科学分野のノーベル賞受賞者数は、一国の経済力にのみ比例するのである。

  しかも、昨日や今日の経済発展というだけでは駄目なのである。研究成果の蓄積が必要であるということは、長年にわたって経済的繁栄を続けているかどうかにかかっているのである。だから、当然、ある国が経済的発展をしたということと、ノーベル賞受賞者数の増加の間には、そこそこのタイムラグ(時間差)が生じるのである。つまり、資本主義経済というのは「金が金を生み出す」システムであるから、先に経済が資本主義した社会(欧米)のほうが、後から資本主義化した社会(アジア)よりも、競争上有利な立場に立っているのである。このことから鑑みると、2000年以後の3年間で4人のノーベル賞受賞者を日本が輩出したということも、あながち頷(うなづ)けないこともない。つまり、1970年代から80年代にかけての日本の驚異的な経済成長が、資本の蓄積を促し、また、カミオカンデに見られるような一見、途方もないような研究に対する巨額な投資を行うことへの余裕を生み出したのである。しかも、自然科学の研究成果というものは、過去の蓄積の上に成り立つのであるからして、この傾向は暫らく続くと考えられる。

  あながち、森内閣の新科学技術基本計画の答申、つまり「50年間にノーベル賞受賞者30人を輩出する」という予測もまんざらではないのである。ただし、一国の経済の継続的発展と、ノーベル賞受賞者数増加の相関が約20年程ズレることを考えると、当然のことである(註:経済的発展によって、官民共に実験研究予算が増加し、その当時、若い研究者として研究に従事していた人の中から、2〜30年後にノーベル賞を受賞する研究者が現れるのであるから、このタイムラグの存在は当然である)ということである。バブル経済崩壊後の日本における研究分野への予算の縮小は、いずれ10年もすれば、大きな影響が出てくるかもしれない。ただ、ヒト・モノ・カネの垣根が極端に低くなったグローバル化社会においては、経済的にも国内で正当に報われない有能な日本人研究者が海外(米国)に流出することによって、研究を行うための最適環境の就くことができ、結果としてノーベル賞を受賞するということが生じるかも知れない。それも、その人がどこにいたって「日本人の業績」というのであれば、それはそうであろうが、特許などの問題からすれば、大きな経済的損失である。すなわち、ノーベル賞問題は教育問題として論じることは間違いであり、経済問題として論じるべき課題であるということである。


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