レルネット主幹 三宅善信
▼遣唐使の帰路、空海も滞在した国東半島
本編は、10月8日に上梓した拙稿『西海道:宇佐八幡と放生会』の続編である。前作では、国東半島の社寺の内、宇佐神宮を中心に私なりの推論を展開したが、今回は、国東半島(註:英語の「peninsula」という表現が示すように、半島というものは通常、突起物のような形体をしているが、国東半島は「円の4分3」くらいの形をしており、中央部分に行くほど高くなっておりひとつの「山」のような形をしている)に点在する奇妙な石仏や石塔と寺々についての感想である。
国東半島の最高峰「両子山」をバックに
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昨年(2001年)の春、当時、アフガニスタンを実効支配していたタリバンに破壊されたバーミヤンの巨大石仏や、中国西域の敦煌などの石窟寺院などを見ていると、アジアにおける仏教伝藩の経路には、巨大な石造物(仏像や仏塔)が造られるのが一般的(北伝仏教のシルクロード地域だけでなく、海を越えて伝藩した南方の仏教でも、アンコールワットやボロブドゥールなどの巨大石造仏教遺跡が確認されている)であるが、どういう訳か、世界でも稀なほど1,500年もの長きに渡って仏教の栄えた日本において、仏教に関係する巨大な石造物が見当たらないのである。この国東半島の石仏群を除いては…。そのことが、この夏、私の足を豊前国(大分県北部と福岡県東部)へ向けさせたそもそもの理由でもあった。
古の昔、当時の先進地域であった中国大陸や朝鮮半島と日本の中心地畿内を結ぶための一大国際幹線路であった瀬戸内海に対して西海道(九州地域)から突き出している国東半島という地政学的な配置は、意図したか、船舶の難破などの事故で偶然であったかは別にして、古代以来多くの外国人がこの地に上陸することになった。あるいは、遣唐使や遺新羅使などで大陸に渡ろうと思った日本人が、何らかの理由でこの地に上陸したことも考えられる。なんと、八十八カ所遍路の四国ならぬ九州の地、国東に弘法大師空海の足跡も残っている。大同元年(806年)、遣唐使の使命を終えて唐土より無事帰国した空海は、本来ならば一刻も早く上京して帰朝報告をしなければならない(註:本来は留学期間20年という長期滞在留学生であった空海は、せっかくの念願がかなって入唐したとたん、一転して帰朝を急ぎ、1年未満の短期で唐土を離れたにもかかわらず、帰国後はモタモタしていた)ところであるが、なぜか2年間もこの国東半島をはじめ西海道の地に滞在したりしているのが、そのよい例である。
▼六郷山天台宗支配の意味
宇佐神宮は、前作で指摘したように、今日われわれが考えるよりはるかに仏教的なたたずまいであった。同神宮の資料館で見た『宇佐宮祭礼絵巻』に描かれている人のほとんどが僧侶であり、神職らしき人は、僧侶の列の最後尾に随従しているに過ぎず、この神宮もまた大多数の日本の神社同様、仏教寺院の監督下にあった様子が伺える。国東半島には「六郷山」と呼ばれる独特の山岳仏教文化が花開いた。平安仏教である真言・天台両宗以前からこの地域の仏教信仰は盛んであったが、歴史上のある時点からこれらの寺院の大多数は、天台宗の管轄下に入り、比叡山から別当が派遣され、百を越す国東の諸寺を支配した。
それぞれの寺院には、古い歴史と行事が伝わってはいるが、おそらく浄土教などの影響が見られるあたり、平安時代に現在の形が整備されたのであろう(註:日本列島の対極奥州平泉の中尊寺と、ある意味での類似性があるのが興味深い。天台宗の教勢伸長は中央政府による全国支配の確立と関係が深く、各地の寺院を天台宗のシステムの中に再編成していったものと考えられる)。しかし、各寺院の「縁起」などによると、それぞれのお寺は、8世紀初めの白鳳時代、「養老年間に仁聞菩薩の開山である」と伝えられているが、実際には、その後、数百年にかけて徐々に整備されたと思われる。また、これらの六郷山(註:六郷山別当の支配下に、28ヵ寺の本寺と、それに属する「本山」「中山」「末山」の3グループに分けられた百を超す寺院の集合体。私はその内、富貴寺大堂の他に真木大堂や両子寺など数ヵ寺を7月22日に訪れた)と呼ばれる寺々を巡ると、必ずと言ってよいほど、寺院の入口には、山門の代わりに剥き出しの仁王像が参拝者を迎え、境内には「国東塔」と言われる石造りの宝塔が多く見られた。国東塔は伝統的なお墓の様式である「五輪塔」と一見似ているが、よく見ると形が独特で、この国東半島にだけしか存在しないそうである。何か雰囲気が違うのである。
どこでも剥き出しの仁王像が
参拝者を迎えてくれる
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この地にだけ見られる様式の国東塔
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六郷山にある寺々の中でも、国宝に指定されている富貴寺大堂が大分県立歴史博物館内に再現されているが、実物の富貴寺大堂はすでに800年の歴史を経て、すっかりと、それなりの趣きを博しているが、歴史博物館内に再現された富貴寺大堂は、まさに建立当時の阿弥陀浄土を再現した建物自体がひとつの大きな曼陀羅とも言える極彩色の寺院で、美術的には、おそらく中尊寺金色堂と同様のレベルの建物であったことが伺え、すでに平安時代後期には、北は奥州(東北地方)から南は西海道(九州地方)諸国に至るまで、この国において広く浄土信仰が浸透していたことを裏づける良い例である。しかも、平安時代の浄土信仰は、後の鎌倉仏教(法然や親鸞)に見られるような、教義的にシンプル化された阿弥陀浄土だけでなく、四方に薬師浄土(東)、観音浄土(南)、阿弥陀浄土(西)、彌勒浄土(北)を配した、極めて視覚に訴えた如来菩薩諸天オールスターが登場するパンテオンとして表現されているのである。国東半島のような都から離れた辺鄙な山奥に、これほどの大きな伽藍が作られた背景にはおおいに興味があるところである。
薄暗い中にも創建当時を彷彿とさせる諸仏の常寂光土
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▼海と山と熊野権現
しかし、この六郷山のロケーションを、「都から離れた辺鄙な山奥」であるという現代人の地政学的理解そのものが間違っている。古代以来近世に至るまで、瀬戸内海航路はわが国の物流におけるもっとも重要な幹線だった。瀬戸内海に面する多くの場所(註:例えば、古代以来独特の文化圏を築いた吉備地方などは、畿内に次いで巨大前方後円墳が多い)に、このような歴史的な遺物が伝わっているのである。
作者と比較して、熊野の磨崖仏の大きさが判る
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特に、国東半島で注目されるのが、巨大な磨崖仏や石仏群である。ここには、日本列島の他の場所では類を見ないほど多くの石仏が岩に穿たれているのである。山道を歩いていくと、そこかしこに草蒸した小さな石仏おそらく(羅漢像)や石塔(国東塔)に出くわすので、一種異様な雰囲気がある。バーミヤンや敦煌のそれとは比べものにならないにしても、あまり巨大な石造モニュメントを持たない風土(註:神社の鳥居もさほど大きくない)に暮らす日本人としては、やはり違和感を覚える。この一種の「石の文化」とも言えるものに大変興味を持った私は、一年で最も暑い時期に、玉の汗をかきながら、運動不足で出っ張ったお腹を揺すりつつ、ひとつひとつの山を登って御仏たちと面会してきた。
山の斜面のそこかしこでこのような
石仏に出会い、ビックリする
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道端の至る所にこのような石塔(墓石?)
があって、少し気味悪い
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そこで、あることを思いついた。標高720メートルの両子山を最高峰に戴く国東半島の山々と寺々全体をひとつの巨大なストゥーパと見なすことはできないであろうか?
6月に訪れたジャワ島の巨大仏教遺跡ボロブドゥールは、まさしく「人工の山(=仏教の世界観を表わす須弥山)」そのものであったが、「六郷山」も、国東の山々そのものが巨大なストゥーパなのである。それなら、岩肌に穿たれた巨大な磨崖仏も無数の羅漢像たちも説明がつく。中でも、熊野の磨崖仏は有名である。大汗を拭き拭き、息せき切って、この御仏と対面しながら「なぜここの磨崖仏に熊野という名が付くのか?」という疑問が湧いてきた。もちろん、熊野と言えば、南紀熊野の熊野権現である。よく考えてみればどちらも海に面した山中にある。南海道の紀伊国と、この西海道の豊前国との繋がりに思いをはせてのフィールドワークであった。そして、私は、この国東の「熊野」から1ヵ月後の8月末には、本家「熊野」である南紀を目指すことになるのである。