レルネット主幹 三宅善信
▼琉球とアイヌは近縁である
英国のオックスフォードに本部を置く国際的NGO(非政府機関)のひとつ、IARF(国際自由宗教連盟)は、1900年にボストンで設立された最も古いNGOのひとつである。この団体は、世界各国の少数民族や宗教的少数派の権利を擁護するという目的で活動を行っている。1981年にオランダで開催された世界大会に参加して以来、私は長年、この団体に関わってきたが、今年の夏、ハンガリーのブダペストで開催された第31回IARF世界大会において、とうとう国際評議員に選任された。このIARFの日本における加盟団体で構成される同連絡協議会(JLC)は、10月27日から29日までの3日間、日本列島に位置する最西南端の八重山諸島にある「竹富島」という周囲約10kmの小島で、現地の伝統風俗を学習するフィールドワークを行なった。IARFとしての地域調査は、2001年8月に実施された北海道に暮らすアイヌ(註:アイヌ語で「アイヌ」とは「人間」のこと)、フィールドワークに続く事業である。
まず、われわれが訪れた竹富島という島の地政学的(geopolitical)な説明から始めたい。ユーラシア大陸の東の外れに、北東から南西の方向に長さ3,300kmにわたって連なる島々から形成される日本列島の中でも、その島(竹富島)はほとんど最西南端に位置する。日本の首都である東京からの直線距離が2,000kmも離れているのに、外国である台湾の首都台北との距離は、わずか200kmしか離れていない。ちなみに、竹富島の属する沖縄県の県庁所在地那覇市との距離ですら400kmも離れている。
その地政学的条件から容易に想像されうることは、琉球列島(註:「琉球」列島とは、現在、鹿児島県に属している奄美諸島と、沖縄県に属している沖縄諸島・宮古諸島・八重山諸島・大東諸島にある160あまりの島嶼の総称である)全体も含めて、これら八重山諸島の人々の人類学的特質と文化的様式が、日本本土のそれよりも、中国のそれに属するのではないかという疑問である。しかし、答えは明白に「否」である。DNA解析による人類学的特質および言語体系については、沖縄の人々は完全に「日本人」(註:ここでいう「日本人」とは、大陸に住む人々とは全く別の系統に属する民族という意味である)である。それどころか、意外なことに、遺伝学的には遥か3,000km以上離れた北海道に住むアイヌと最も近い。県民1人当たりの昆布の年間消費量は、沖縄県が圧倒的に全国一であることが、北海道と沖縄を結びつける何かのヒントになっているのかもしれない。
約2,500年前に、現生日本人の直接の先祖である稲作技術を持って大陸からやって来た「弥生人」たち(註:当時の大陸は「春秋・戦国」の乱世であり、大陸で敗走した勢力が、ドミノ倒し的に大挙して海を渡ってきたと思われる)が、1万年以上の長きにわたって比較的平穏に日本列島に先住していた「縄文人」たちを次第に辺境部へ駆逐してゆき(註:実際には、広範囲に雑婚が進んだのであるが)、結果的には、より純粋に近い形で縄文人たちの遺伝子を多く受け継いだ人々が、北海道と沖縄に多く残されたのである。事実、19世紀後半の近代国民国家の成立時点に至るまで、北海道は「蝦夷地(Barbarian's
Land)」と呼ばれ、沖縄は「琉球王国」とし、平安京遷都以来、千百年にわたって続いてきた日本の中央政府の意向が及ばない地域であった。
復元された琉球の王城 首里城正殿前に立つ作者
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それ故に、アイヌの人々と琉球の人々は、より「純粋な日本人(縄文人)」に近いと言える。しかし、アイヌ人と琉球人を分ける大きな違いがあった。それを分けるのは、3,000年の長きにわたって、あらゆる意味で東アジアの政治・文化の中心であり続けた強大な中華帝国との距離の違いであった。アイヌの人々は19世紀になるまで文字すら知らなかったが、琉球の人々は言語的には完全に日本人であったにもかかわらず、政治・文化的には、地政学的に距離の近い中華諸王朝への朝貢(註:独立「国家」として中華皇帝に承認してもらうこと。具体的には、14世紀から琉球王国は、明・清両王朝へ朝貢し、冊封を受けている)を長年にわたって続け、その政治的・文化的影響を受け続けた。復元された首里城などを見ても判るように琉球王国の建物・装束・儀礼などは、まるで「小中国」と言っても過言でない。
▼近代国民国家という幻想に翻弄された沖縄
日本における近代国民国家成立時(1867年の明治維新)は、また同時に、欧米列強による帝国主義的アジア植民地化の最盛期と重なるという不運もあり、新たに沖縄県となった琉球王国が、新生「大日本帝国」による「(日本の潜在的領土の)囲い込み」と「(文化的)同化政策」の犠牲になった感は否めない。(註:豊臣秀吉の朝鮮出兵によりこじれた対明関係を修復すべく、徳川家康が琉球王国に仲介役を依頼したが、それを無視した「無礼を糺す」という口実によって、海洋貿易による歳入拡大を図った薩摩の島津氏によって軍事的には「征服された」にもかかわらず、江戸時代を通じて、一応「独立国」の体裁は保たれていた)沖縄は、長年培ってきた「固有の文化的伝統」を否定され、「本土化」および「近代化」を強要された。
しかも、帝国主義の行き着く先として、近代国民国家成立後70年程して米英その他の連合国との間で戦われた太平洋戦争の激戦場となった沖縄では、一般市民に多くの犠牲者が生じたが、1945年の日本の敗戦は、決して彼らの「解放」にはならなかった。というのも、引き続き国際社会に定着した米ソ冷戦構造の産物である朝鮮戦争やベトナム戦争をアメリカが戦うための戦略的「足場」として、アメリカがこれらの島々を「占領」し続け、1972年になってやっと、政治的には沖縄を日本に「返還」した(註:1973年に米軍はベトナムから撤退を完了した)が、その後も、2002年の今日に至るまで、新たに「大国」として台頭してきた中華人民共和国への軍事的威嚇物として、世界最大の米軍基地をこの小さな島々に置き続け(しかも、米軍の駐留費は「思いやり予算」と称して、全て日本政府の持ち出しである。自民党竹下派の重鎮、故金丸信副総理がした「外交」は、この米軍への「思いやり予算」といい、北朝鮮への「戦後補償の約束」といい、すべて、国家に「百年の禍根」を残すものばかりであった)沖縄の人々の日常生活を実質的に抑圧し続けている。
「ミーナ井戸」跡。かつては、島の中央部にある岩(隆起した珊瑚礁)の割れ目の
地下数メートルの場所に滲みだした僅かな真水を汲み出した
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そんな沖縄にあっても、そのまた「辺境」にある竹富島は、一見、軍事的な緊張はおろか、経済のグローバル化ともなんの関係もない長閑なトロピカル・リゾートの趣があるが、私は実際にこの島を訪れてみて、別の意味で、宗教も含めて文化的には必ずしも安閑とはしておれられないと思った。わずか、周囲10km、人口数百人のこの小島にも、毎日毎日、島の人口を遥かに超える観光客が訪れるのである。本土の圧倒的な資本力によって島全体が買い占められてしまうことを恐れて、島外資本の進出を一切認めていない島であるが、そのような綺麗事とは裏腹に、かつては島のあちこちにあった耕作地もすべて放棄され、亜熱帯特有の気候によってジャングルに戻りかけている。貴重な飲み水すら、かつては、大変な苦労をして島の中心部に井戸を掘った(さもないと海水の塩分が混じってしまう)のであるが、今では、近隣の比較的大きな石垣島から海底パイプラインを引いて供給されており、蛇口をひねれば、いくらでも水が出てくるのである。
▼ 女性が主役の宗教儀式
このような社会情勢下においては、ほとんどすべての島民が観光業に従事していると言える。われわれが投宿した民宿大浜荘の主人大浜太呂氏は、満96歳という高齢(註:47都道府県中、最も県民所得の低い沖縄県が、最も平均寿命が長いことは、日本人の生活のあり方を考える上で、意味深である)にもかかわらず、その健脚とユーモアでもって、われわれを持てなしてくれた。その好々爺からわれわれは、島の古い伝統や風習について取材することができた。
竹富小中学校の横にあった「パイサーシ」御嶽
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まず、島のそこかしこには「御嶽(うたき)」と呼ばれる「聖所(sanctuary)」がある。といっても、寺院や神社のような立派な「施設」が建っているのではなく、うっかりすれば見逃してしまいそうなくらい小さな「祠」もしくは、もっと単純な石ころや大木の根本を「聖別」しているだけの極めてプリミティブな「聖所」である。おそらく、日本各地に10万カ所以上あるといわれる「神社」の原型のようなものであろうと思われるが、もちろん、そこには、宗教法人法の規定するような専従の資産管理者としての職業「宗教家」は存在せず、「祭事」のあるときだけ、臨時の「司祭」を勤めるのであろう。しかも、沖縄においては、「神事」に関わる人はすべて女性(註:主に農耕儀礼の祭祀を司る特定の血脈によって継承された「ノロ」と呼ばれる「神女」や、霊能力をもってシャーマンの仕事をする「ユタ」と呼ばれる「巫女」がおり、沖縄では「お告げ」が尊重されている)であり、これも、内地の神道の古い形式(例:卑弥呼や倭姫命等)を残しているものと思われる。その意味でも、沖縄文化は「原日本人」の特色を残している。
▼ この世とあの世を繋ぐトンネル
次ぎに、沖縄独特の「墓地」を訪れた。沖縄における墓の形式は、内地のそれとは全く異なる。内地では、仏教の影響で、1,300年程前から「火葬」が導入され、設備の関係で火葬されえない場合には、「土葬」されるが、いずれのケースでも「埋葬」されることには変わりない。埋葬の仕方は、地面に掘った穴の中に、火葬の場合は遺骨を、土葬の場合は木製の棺桶に遺体を収め(遺体は棺桶とともに直ぐに腐敗する)、これを土中に埋めてしまう。つまり、遺体を土に還すための一回きりの行為であり、儀礼的な意味での遺骨の再利用は想定していない。「埋葬」が済めば、そして、その上に、故人の名前もしくは家名を刻した石製の墓碑(註:暫定的に木製の卒塔婆を建てることもある)を建て、以後は遺骨ではなく、専らこの墓碑に手を合わすことになる。墓碑の高さはせいぜい1m程であり、石碑の基底部の断面積も0.1uくらいの小規模なものである。墓地の面積もせいぜい1〜2uくらいである。
右奧で盛り上がっている部分が腹で、正面左が女陰
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ところが、沖縄の埋葬方法は、儒教の影響を大きく受けているので、内地のそれとはまったく異なる。墓は、個人を記念するものではなく、先祖代々から子々孫々へと連なる(註:儒教でこれを「孝」と呼ぶ)それぞれの「家系」を象徴するものである。それ故、「廟」形式であり、面積も、1家当たり小さくとも5uくらいあり、大きいものでは25uを越える立派な「廟」もある。その形がまた独特である。一般に「亀甲墓」と呼ばれているが、解り易く説明すれば、お腹の大きな妊婦が仰向けに寝転がって股を広げた形(出産の格好)をイメージしていただければ良いだろう。そのポッコリと盛り上がった「腹」の部分が「亀の甲羅」と比喩されたのである。そして、女陰に当たる部分が廟墓への入口である。入口の上方には、真根(さね=クリトリス)まで象徴的に造形されている。日頃は、50cm四方ほどの人ひとりがかろうじて入ることのできる大きさの入口が漆喰(しっくい)で封鎖されており、その前庭の部分(股の間に当たる部分)に家族が揃い、女陰の部分に食物等を供えて「墓参」する。
遺体が収納されたばかりの墓前には供え物が絶えない
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もし、その家族から死者が出た場合には、その入口の漆喰扉を砕き、遺体をその廟内へ持ち込む。そして、開口部を漆喰で封鎖して、1〜2年間放置しておく(註:もちろん、その間、墓前では定期的に礼拝が行われる)。その後、一定の期間が過ぎると、再び入口を開き、腐り果てた遺体を家族揃って「綺麗にする」のである。骨にへばりついた残存肉片や頭髪を拭い去り、「清められた」遺骨を壷に入れて、奥の祭壇にある家系内のそれぞれに決められた位置に安置して、再び入口が漆喰で閉じられ、長い長い「葬式」(註:内地の仏教の葬祭儀礼で一般的な「一周忌(満1年)」や「三回忌(満2年)」は、実は、先祖崇拝を尊ぶ中国で取り入れられた儒教の葬祭儀礼の「少祥(満1年)」と「大祥(満2年)」の変化したもの。沖縄では文字通り、この期間かけて葬儀が行なわれる)が終わるのである。これらの儀式は、先祖代々から伝わる一族の家系の一体感を演出する。沖縄においては、まさに、「お墓(tomb)」は、この世からあの世へ生まれ変わるために籠る「子宮(womb)」なのである。われわれが入口と考えていた墓の開口部は実は、出口だったのである。縄文人の屈葬(註:遺体の腕脚を屈げて甕棺などの壷に収めて埋葬すること)も、あの世へ生まれ出るための「子宮」をイメージしている。
▼ハブと共に島が失ったもの
見方によっては、沖縄の亀甲墓は防空壕にも見える
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明治政府による強引な「大和化」政策にも耐えて存在したこの沖縄独特の形をした廟墓は、20世紀に入って2度、存亡の危機に見舞われた。その最初は、太平洋戦争末期に、沖縄に上陸してきた米軍が、この奇妙な形の廟墓を「防空壕」と勘違いし、その中に日本兵が潜んでいると考え、片っ端から破壊、もしくは、その開口部から火炎放射をして、廟内を焼き尽くしてしまったのである。伝統的な亀甲墓がかなりの被害を受けたと考えられる。2度目の危機は、まさに現在進行中である。私が訪れた竹富島だけでなく、沖縄全体のリゾート化によって、商業主義と共に内地の習俗が広範囲に持ち込まれ、伝統的な葬送儀礼が行われなくなってきたのである。そこかしこに、伝統的な亀甲墓から単純な墓碑タイプの墓に移行しつつある「中間型」の墓(註:「亀甲墓」独特の「お腹の膨らみ」が無くなって、廟の上部に、内地風の「墓碑」が建てられている「折衷タイプ」の墓)が見うけられた。
なんとも奇妙な「中間型」の墓が増えてきた
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そもそも、長年にわたって多数の宗教が混在し、宗教的には極めて寛容(ある意味ルーズ)であった日本では、国際社会が想定するような意味での宗教的少数派に対する法的・社会的差別は、伝統宗教に関する限り、ほとんど存在しない。確かに閉鎖的な一部の教団やカルトが社会から奇異の目で見られているのが、それは、彼らの秘密主義や反社会的行動によって、いたしかたない部分でもある。この国ではむしろ、社会構造の急激な変化によって、宗教を含む伝統文化の担い手が激減し、人々の生活から宗教的伝統が「忘れ去られる」ことの危険性のほうが、われわれが取り組まなければならない課題なのかも知れない。フィールドワーク中、危険なハブの害を恐れて、茂みに入ろうとしなかった私に、大浜太呂氏が言った言葉が耳について忘れられない。「大丈夫です。ハブはもうこの島にはいませんから…」訝(いぶか)しがる私に、大浜氏は「かつて、この島でも農業をしていた時代には、穀類を食べる野ネズミがいたので、これを捕食するハブがたくさんいましたが、農耕放棄によって野ネズミがいなくなり、結果的にハブもいなくなりました。その代わり、ゴミを食べるカラスが増えましたがな…」この国の伝統文化の将来を暗示している言葉に思えた。