峠と辻:岐路に坐す神々
          02年12月30日


レルネット主幹 三宅善信

▼国際公用文字としてのアルファベットと漢字
 
  漢字とは、言うまでもなく、過去二千年間以上の長きにわたって、東アジア地域において共通に使われてきた公用文書用の文字である。ちょうど、ヨーロッパ大陸において、一時期でも西ローマ帝国の勢力が及んだ地域においては、言語がそれぞれかなり異なっているにもかかわらず、ラテン語のアルファアベット(ローマ字)を用いて表記されているのと同じことである。因みに、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の支配地域においては、ラテン語以前の地中海世界の公用語であったギリシャ語のアルファベット(註:「アルファベット」という名称自体、ギリシャ文字列の最初の2つ、すなわちα+βのことである)が用いられ、ビザンチンの文化と宗教を継いだスラブ民族各国(註:現在でもこれらの地域ではギリシャ正教会の傍流である各民族毎の正教会が優勢)においては、ギリシャ文字を元にして創られたキリル文字のアルファベットが使われている。

 東アジア地域ににおいては、「漢字」を発明した中国人(註:「中国人」という概念想定自体、いろいろと問題があるが、一応、本稿においては、伝統的な定義に基づいて、「漢語」を母語にしている人々のことを指す)はもとより、朝鮮半島、日本列島、越南(ベトナム)、西蔵(チベット)、蒙古(モンゴル)あたりまでは、外交文書や法令などの公式の文字としては、長い間漢字が使われていた。もちろん、全く言語体系の異なるそれぞれの国において、それぞれの言語を表記するのに、独自の工夫がなされたことは言うまでもない。その中で、最も早く独自の表語法を確立したのが、日本語を表すために、漢字の音や一部の形象を借りて作られた「仮名(かな)」である (註:いうまでなく、仮名には、漢字の音だけをそのまま利用する万葉仮名と、主に仏教経典の読み下しに用いた記号(漢字の形象の一部を利用)から派生したカタカナと、主に女性が私的な目的(書簡)で用いた崩し文字(草書体)から派生したひらがながある) 。日本語における仮名の成立から遅れること七百年も経って、朝鮮半島においては、李王朝第4代王の世宗(セジョン)の時代(1446年)に、子音と母音を組み合わせて用いるローマ字的発想の「ハングル(韓語)」が作り出された。

▼ 「国字」とはなんぞや

 しかし、われわれが日頃「漢字」と思って使っている漢字の中に、実は、漢字でない漢字があるのである。専門用語でいえば、「国字(和製の漢字)」と呼ばれるものである。国字といわれてすぐ思いつく字は、「山ヘンに上下」と書く「峠」や、「十にシンニョウ」を書く「辻」、「人ベンに動」という字と書く「働」、「火ヘンに田」と書く「畑」などの字である。他にも、国字といえば、よく寿司屋の湯飲みに書かれている魚ヘンの付いたかなりこじつけめいた一連の漢字がある。たとえば、鮭(さけ)、鰯(いわし)、鰤(ぶり)、鱈(たら)、鰹(かつお)などの字である。これなど、明らかに後から日本で作られた字であるが、そもそも大陸の中国と島国の日本とでは、獲れる魚が違うので、日本人が日本周辺で獲れる魚に、独特のセンスをもって、これらの字を当て填めていったことは、不思議ではない。

 同様の理由で、唐土にはない植物として、栂(つが)、栃(とち)、椛(もみじ)、椙(すぎ)、榊(さかき)、樫(かし)などの国字が作られた。これらも、寿司屋の湯飲みほど有名でないが、いたしかたないことである。他にも、中国と日本とでは、服飾文化が異なるので、着物(註:日本語の「きもの」を意味する「呉服」は、かつて魏蜀呉三国時代のという国の服装の影響を受けて成立したと言われている)に関する独自の文字として、「衣ヘンに上下」と書く「裃(かみしも)」や「衣ヘンに行」と書いて「裄(ゆき)」、あるいは「衣ヘンに挙げる」と書く「襷(たすき)」という国字が作られた。

 他にも、案外知られていないが、膵臓の「膵(すい)」と言う字や、前立腺の「腺(せん)」、あるいは、「膣(ちつ)」など医学用語に関する漢字も日本で作られた。しかし、これらの国字の多くは、唐土とは別に、日本に固有に存在した魚や植物の名前、あるいは、アジアで最も速く近代化した日本が、西洋医学の用語を表現するために作られた字であるので、わざわざこれらの文字を創作したことは止む負えないことであると思うが、先に述べた「峠」や「辻」といった空間上の特定の位置は、もちろん古代の中国にもあったはずであり、それに該当する表現もされたであろうにもかかわらず、われわれ日本人の先祖は、もともと中国にあった漢字の意味だけでは満足できず、わざわざこの国において和製漢字を作ったことには、それだけの意味があると考えるほうが自然である。そこで、今回は、国字の中の「峠」と「辻」について考察してみたい。


▼黄泉津平坂(よもつひらさか)という境

  前述したように、「峠」は、後から日本で造られた漢字(国字)である。それでは、この国の古代の人々は、「峠」という国字が成立する以前には、「峠」のことを何と表記していたのであろうか? 結論からいうと、「峠(註:文字通りのピークあるいは分水嶺のような場所)」のことは「坂(さか)」と表現していた。古事記においても、多くの「坂」が登場する。中でも、一番有名な話は、伊弉諾尊(イザナギノミコト)が黄泉国(よみのくに)から戻る時に通ったという「黄泉津平(よもつひらさか)」という「坂」であろう。
 
 ほとんどの読者の皆様は、このエピソードをご存知であろうが、一応簡単に説明すると、地理的な概念としての日本列島を産み出した伊弉諾尊と伊弉冉尊(イザナミノミコト)の夫婦神は、生殖行為によって数々の神々を生み出した後、イザナミが火具土神(カグツチ=火の神)を生んだ時に、こともあろうか、その炎によって陰(ほと=女陰)を火傷し、それが原因でイザナミは命を落してしまった(註:古事記には、女陰に火傷を負う話以外にも、女陰に箸を刺して自殺する話もあり、かなり猟奇的要素がある)。そのことに、逆上した(註:もう最愛の妻とSEXができないから)イザナギは、わが子カグツチを斬り殺し、死んでしまった妻イザナミを求めて黄泉国まで追いかけていく。イザナギは、黄泉国で簡単に妻イザナミと再会するのであるが、既に、黄泉国の食べ物を口にしてしまったイザナミは、この世の人ではなくなっている(註:しかも、単なる黄泉国の住人としてではなく、いつのまにか黄泉国の女王になってしまっている。これは「黄泉国の食べ物を口にした」という形で、実は黄泉国の支配者と目合(まぐわ)ってしまったということを暗示している)。しかも、「決して、その姿を見てはいけない」という彼女との約束を破って、好奇心から明かりを点けて、彼女の本当の姿を覗き見てしまう。彼女は、体中に蛆虫(うじむし)が湧いた非常に醜い姿をしており、恥をかかされたイザナミは猛烈に怒り狂って、かつての夫イザナギを追いかけるのである。

 事態の思わぬ展開に恐れをなしたイザナギは、這々の体(ほうほうのてい)で黄泉国から逃げ帰ってくるのであるが、追い着かれそうになるごとに、いろんなを用いて逃れる。なかでも、この世とあの世の境目にある「黄泉津平坂」まで来た時に、持っていた霊力のある桃の種を投げつけると、そこからたちまちにして桃の木が生えて、実が結び、貪欲なイザナミがその実を食べている間に、この世側に戻り、大きな岩で黄泉津平坂に蓋をしてしまう。そのことによって、それ以来、この世(顕)とあの世(幽)は自由に行き来できなくなるのである(註:ということは、それ以前は、顕幽を自由に行き来できたということである)

 投げつけた「桃に霊力がある」というプロットは、中国から伝わった伝承で、後に、桃から生まれた桃太郎の話にも引き継がれている。そして、封印された黄泉津平界線にして、イザナミはイザナギに対し、「貴方の国の民(この世=日本人)を1日に1,000人絞め殺してやる」というのである。すると、イザナギは「私は1日に1,500の産屋を建てよう」と言い換えるのである。それ以来、日本では、毎日1,500人の赤ちゃんが生れ、1,000人が死んでいくことになった。それは、またその結果、この国がだんだん栄えて行くことを表している。この話は、ギリシャ神話のオルフェウスの話と類似性がある。古事記の世界では、まさに「坂」とは「境」のことである。

▼「峠」とは、別世界の入口である

 もちろん、古事記が著わされた時代には、国字の「峠」という字がまだなかったので、とりあえず「坂」という漢字を使っているが、この「坂」の意味は「明らかに二つの地域を分ける地点」の意味であり、「坂」という漢字の表面的な意味に引きずられて「単なる斜面(slope)」のように思ってはいけない。実は、この目の「さか」を意味するのである。しかも、に付いている接頭辞のの意味は、「たいら(flat)な」という意味ではなくて、を強調する働きをしている同義語である可能性が高い。古い琉球語では、「坂」のことを「ひら」と呼んでいるそうだ。本土の日本語と琉球語が分離したのは4・5世紀のことと思われるから、8世紀に成立した古事記が、当時、既に古い記憶となりつつあった「ひら(=坂)」という言葉を、「黄泉津平坂」という地名として残している点が興味深い。

 古事記においては、黄泉津平坂は出雲国(具体的な地理的空間)にあった。「岩で蓋ができた」ということから、坂や峠というよりは、洞窟のようなところと思われる。これはまさに、古墳の羨道(せんどう)あるいは、現在でも沖縄で見られる亀甲墓(註:英語でも、墓=tombと子宮=wombは共通の語源を持つ「新たな世界への出口」である)と同じように、この世とあの世との文字通りを示しているのではなかろうか。

 先住民であった熊襲や蝦夷を平定するために倭健命(ヤマトタケルノミコト)が日本国内各地を転戦(註:というより、ヤマトタケルが侵攻した地域が日本になった)をした話(註:それ故、ヤマトタケルは「日本武尊」とも表記する)でも、やたら「峠(坂)」が登場する。たとえば、ヤマトタケルが東国を平定して大和へ帰る途中、蝦夷(アイヌ人)の支配地域であった足柄(現在の栃木県)の坂元で食事を摂っている時に、その坂の神が白い鹿に姿を変えて現れたのをヤマトタケルが撃ち殺した話であるとか、東山道を上って甲斐国を越え、信濃国まで戻って来た時も、科野(しなの)の境の神々(つまり、その地域の支配者)を平定していった話が出てくる。ヤマトタケルがひとつ峠を越えようとする度に、必ずといっていいほど、彼の進むのを妨げようとする抵抗勢力が登場し、そこで戦うという話が出てくるのである。つまり、坂(峠)というのは、ある特定の支配勢力と他の支配勢力の境界線という意味である。

 他にも、古代から記録に残っている坂として、大和国と河内国の境にある大坂峠(註:現在では、応神天皇の古事に則り「穴虫峠」と呼ばれる) が有名であり、大和側から見れば、この坂を越えることによって、河内(大阪)平野に入るわけであり、大坂という地名の最も古い出典は、この古事記中巻『応神天皇』の項目に見られる大坂である。他にも、山城国と近江国の境目にある逢坂(あふさか)が有名であり、こちらは古事記の中巻『仲哀天皇』の項に出典している。その後、19世紀に至るまで、都から東海道や東山道を下る時に、ここで人々が別れを惜しみ、また、出迎えた場所として、和歌にもしばしば詠まれたので皆さんご存知であろう。他にも、日本の古典には、多くの坂や峠が登場し、それぞれの場所に、それぞれの神々が坐(いま)すのである。つまり、峠とは「ある勢力が支配する世界と別の勢力が支配する世界の境界線」であり、そこを「無事、通過するためには、一定の通過儀礼が必要」とされるのであり、それが古代においては「神を祀ること」であったのである。

▼「辻」に坐す導きの神、猿田彦

 次に(の神)について長々と述べてきたので、残りの時間を利用して、大急ぎで「辻」について述べたい。結論から言うと、「辻」にも神がいる。二本の道路が交差する場所は必然的に十字路が形成される。いわば、いろんな意味で岐路(分かれ道)である。日本における最もメジャーな「の神」は猿田彦(サルタヒコ)である。典型的な国津神である猿田彦は境界領域に居り、「導きの神」として、現在も広く信仰されている。手塚治虫のライフワークでもあった『火の鳥』という太古から未来までを貫く一大叙事詩(註:1967〜1988年にかけて表された一連の作品群)があるが、そのどの作品にも必ず登場する鼻の大きな人物がサルタヒコである。
                
 猿田彦を祀る神社といえば、伊勢国一の宮である椿大神神社(つばきおおかみやしろ)が有名である。2002年8月に逝去された椿大神社の第96代神世相伝神主の山本行隆師には、過去20年以上にわたって可愛がって(註:オックスフォードに事務局のあるIARFという国際NGOの役員として、二十数回、外国での会議に同席した経験がある)いただいた。鈴鹿山麓に鎮座する椿大神社の境内には「猿田彦の墓」と伝えられる古墳もあり、二千年の歴史を有する「国津神」猿田彦にまつわる伝統が保存されており、また、現在でも全国ネットで篤い信仰が持たれている。猿田彦の子孫の中で最も有名なのは、修験道の開祖「行満大明神」として知られる役小角(役行者=えんのぎょうじゃ)もいる。

 サルタヒコはまた、天照大神(アマテラスオオミカミ)が伊勢国に鎮座する際に、先住民の首領であったサルタヒコは、国津神として天照大神を伊勢の神宮へと導いたともされており、この至高神との関係の構造は、ギリシャ神話におけるゼウスとディオニソスの関係とも類似性がある。サルタヒコ以外にも、道の分岐点(辻)や、村々の入口には、道祖神や地蔵菩薩が祀られ、この国における辻(=分岐点=分水嶺=峠)に対する信仰がただならぬものであることが容易に想像しうる。

 このように、峠の神や辻の神というものを強く意識した日本人にとって――もちろん、中国にも峠も辻もあったのであるが、どういう訳か、この地理的概念をピッタリ表現する漢字が成立せずに――この日本において、ことさらという空間上の特殊な座標点の持つ漢字(国字)が作られたことには、日本人のといもののもつ霊性に対するただならぬ信仰があったからだと容易に想像できる。

 


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