神道はクローンによって誕生した
          03年01月05日


レルネット主幹 三宅善信

▼アダムより先にイブが生まれた?

 年末から年始にかけて、世界を騒がせた"事件"のひとつが、スイスに本部を置く新宗教団体「ラエリアン・ムーブメント」が設立した「クローン人間製造」を目的としたのクローンエイド社による「クローン人間第1号誕生(引き続いて、第2号もすぐに誕生した)」のニュースであった。"イブ"と名付けられた人類初のクローンベビーが、本当にクローン技術(註:もちろん、この文脈で言う「クローン」とは、体細胞クローンのこと)によって誕生したのか、それとも、多くの科学者が指摘するような「でっちあげ」なのか、ことの真偽は別として、いろいろと興味深い問題を私たちに投げかけてくれた。

 広範囲な宗教情報を提供する当レルネットでは、「ラエリアン・ムーブメント」なる存在がいかなる宗教集団であるのかという宗教教団に関する一般情報の他にも、『宗教界の動き』のコーナーにおいて、2001年1月の時点で、早くも、「ラエリアン・ムーブメント教団がクローン人間製造に着手」と報じている。「人類は異星人エロヒムのクローン技術によって造られた」というかなり変わった教義(註:「十字架刑に処されたイエスがキリストとして蘇ることができたのも、エロヒムのクローン技術のおかげ」だそうだ)を持つ彼らラエリアンの行き着く先として、クローン羊やクローン牛が現実に造られた(技術が確立した)のだから、今回の「クローン人間製造」は、当然、予想されたものであって、このこと自体、私は別に驚いていない。むしろ、驚いているとすれば、全世界のラエリアン信者の1割以上が日本人であったということのほうである。

 このような、ユダヤ・キリスト教系のカルト教団(註:世界的に有名な「ものみの塔」・「統一教会」・「モルモン教」等いくらでもある。因みに、私は、彼らの教義をまったく「インチキ臭いものだ」と思っているが、だからといって、これらの"カルト教団"を頭ごなしに否定する勢力の側には身を置いていない。むしろ、たとえそれがどんなに胡散臭い"カルト教団"であったとしても、「信教の自由という宗教的少数派の人権は擁護されるべきだ」という主旨で活動しているIARFという国連公認のNGOの国際評議員を勤めているくらいである)の所業に対して、欧米で「メイン・ストリーム(主流教派)」と呼ばれている諸教会が、厳しい批判を展開していることは言うまでもない。

▼ユダヤ・キリスト教にとっては存在の危機だが……

 ところが、今回のラエリアン・ムーブメントによる「クローン人間製造」の発表に対しては、そもそも、彼ら(主流のキリスト教会)とは、依って立つところの神観・自然観・生命観・死生観が、根本的に異なる日本の伝統宗教各宗派も、いち早く、彼らとほぼ同じ内容の『批判声明』を出したことのほうが私には、不思議であった。なぜなら、一神教の彼らとアニミストの日本人の伝統宗教各宗派とでは、根本的に依って立つものが違うのだから、同じ「クローン人間製造」を批判するにしても、自ずから、その『批判声明』の内容・表現が異なってしかるべきべきである。「全知全能の唯一神によって全てのものが創造された」と説く、ユダヤ・キリスト教(イスラムのアラーも同じ神)にとって、その"神"のみが独占することができる「聖なる業(創造)」を、一被造物にすぎない人間がその手で成し遂げてしまうということは、結果的に"神"の全能性を貶めることになり、自らの教説の根本が疑われることになるから、必死でクローン人間製造に反対しているのである。

 しかしながら、始めから「全知全能の神」などという荒唐無稽な作業仮説を想定しなくても、立派に高度な完結した教義体系が確立している仏教や、神と人間と自然との間に、質的な差異を持たない(連続性の中で捉える)神道にとって、「クローン人間の製造」なんぞ、別に、痛くも痒くもないことのはずである。それを、今回のラエリアン・ムーブメントによる「クローン人間製造」に対して、同じような反応をすることのほうが、私にとっては不思議である。「下司(げす)の勘ぐり」と言われるかもしてないが、伝統宗派の『声明』が、世界最大の教派であるローマ・カトリック教会(バチカン)のそれと、内容表現が極めて似ているのである。これは、明らかに「(社会的存在としての)宗派としては、何らかの声明を出さなければならないが、クローン人間問題について、これまで、ヒューマニズムや倫理主義的な議論ばかりして、自らの教義に基づいた徹底的な議論検討がなされてこなかったので、とりあえずは無難なところで…」という心理が働いたものとも思われても仕方のないところである。

▼生命そのものに仕組まれた死

 そこで、今回は、「神道的生命観とクローン」の関係について、考察を進めてゆきたい。私は過去5年間にわたる当『主幹の主観』シリーズの中で、いろんなテーマに関連して、何度か「クローン」について述べてきた。中でも、生命進化のプロセスとクローン能力の関係について、1998年8月に上梓した『多様化によって失われたクローン能力』で、クローンについて真正面から採り上げたように、細胞分裂して増殖する単細胞生物はいうまでもなく、多細胞生物の段階になっても、二胚葉性生物のウメボシイソギンチャクのように、♂♀間の有性生殖だけでなく、胃腔で自らのクローンを造ることによって増殖するタイプの生物がいることを指摘した。本当に、動物(註:植物は簡単に「挿し木」ができることからも解るように、ある意味で永遠のいのち(細胞の全能性)を有している。因みに、「クローン」という言葉は、「小枝」を意味するギリシャ語の「clone」が語源である)がクローン能力(全能性)を失った(その代わり、多種多様な形態を持つ種に分化した)のは、三胚葉性生物の出現からであり、地質年代学的には、いわゆる「カンブリア爆発」と呼ばれる生物層の多様化の時代を創り出した。

 生物(動物)は、有性生殖という一世代毎に全く新しい可能性を生み出す画期的な増殖方法を編み出した代わりに、細胞分裂による増殖(自己複製の繰り返し)という「永遠のいのち」を犠牲にした。つまり、有性生殖という手段の獲得によって、より複雑な器官を構成するため(註:そのためのプロセスが三つの胚葉に分化した発生)に、細胞レベルでは「アポトーシス」と呼ばれる細胞の"自殺プログラム"が発動し、その結果として、その個体全体にも"寿命"というものがもたらされたのである。なぜなら、1個の受精卵がどんどんと細胞分裂を繰り返していって、それぞれの細胞が予め定められたとおり「専門化」してゆくとすると、例えば、心臓が形成され終わった時点で、心臓になる細胞の分裂が止まらないとしたら、体中「心臓だらけ」になってしまうからである。

 このように、発生学的には、それぞれの器官が形成され終わると、自動的に細胞分裂をストップさせられるようにプログラムされたのである。この機能が狂った細胞が、いわゆる「癌細胞」である。癌細胞は、"全体"のことを考えずに、どんどんと自己増殖を繰り返して行き、そのことによって、ついには"全体"が正常に機能しなくなってしまい、結果的には、癌細胞自身を含むその個体の身体全体を"死"に至らしめるのである。だから、細胞レベルでは、癌化を防ぐために、なんらかの原因で、遺伝子が傷ついてしまった細胞は、どんどんとアポトーシスによって、積極的に"自殺"して行くように仕組まれているのである。最低限、これぐらいの発生学的基礎知識がないと、クローン人間の問題について十分に論議することはできない。

▼ 独神と成り坐して隠身なりき

 これらのことを踏まえた上で、いよいよ今回のメインテーマである「神道的生命観とクローン」の関係について、考察を進めてゆきたい。当サイトの読者の皆さんなら、古事記の『神代記』の冒頭に登場する(註:もちろん、「冒頭に登場する神が最も古い」という考え方は、文献批評学(text critique)的には間違っている。たいていの場合は、後から登場する「本当の主役」に正統性の権威を持たせるために、後世――そのテキストが編纂された時――に「遡って付け加えられた遠い過去の話」である。古事記の「造化三神」や、旧約聖書『創世記』冒頭の創造主エロヒムもその類であることは言うまでもない。伊弉諾尊・伊弉冉尊以前の神々は、古事記が8世紀に編纂された時点で新たに付け加えられたものであり、エロヒムもまた、紀元前8世紀頃、北イスラエル王国で「E資料」が成立した時に付加されたものである。『創世記』の「本当の出だし」は、南ユダ王国で成立した第2章第4節(アダムとイブの話)から始まる「J資料」であるが、本編では、一応、古事記に掲載されている神名の順番を尊重して考察を進める)神々の名前をご存じのことであろう。

 まず、「造化三神」と呼ばれる天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、神産巣日神(カミムスビノカミ)の三柱の神々(註:何故、神々を数える日本語の数詞が「柱」であるのかについては、『神道と柱』を参照されたい)が現れる。続いて、宇麻志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコジノカミ)と天之常立神(アメノトコタチノカミ)という神々が登場する。これらの神々(註:以上の五神は「別天神(ことあまつかみ)」と呼ばれている)に共通する性質は、原文に「並独神(みなひとりがみ)と成り坐して隠身(かくりみ)なりき」とあるように、性別も、人格もなく、存在していたかすら判らないうちに、『神代記』の冒頭に名前だけ登場して、すぐに退場してしまう。

 この別天神五柱に続いて、登場する「神世七代(かみよななよ)」と総称される国之常立神(クニトコタチノカミ)、豊雲野神(トヨグモヌノカミ)、それから、 宇比地邇神(ウヒジニノカミ)と妹須比智邇神(イモスヒジニノカミ)の二柱、角杙神(ツノグイノカミ)と妹活杙神(イモイクグイノカミ)の二柱、意富斗能地神(オホトノジノカミ)と妹大斗乃弁神(イモオホトノベノカミ)の二柱、淤母陀琉神(オモダルノカミ)と妹阿夜訶志古沼神(イモアヤカシコネノカミ)の二柱……。 これらの神々に続いて、やっと「真打ち」たる伊弉諾尊(イザナギノミコト)と伊弉冉尊(イザナミノミコト)が登場する(註:古事記では、「伊耶那岐尊・伊耶那美尊」と記載されているが、本書においては、日本書紀の記述法によって「伊弉諾尊・伊弉冉尊」と記す)。長々と神々の名前を書き連ねたが、そのような神々の名前や意味を覚える必要は全くない。要は、神話のストーリーを構成する構造だけを理解すれば十分である。

 最初の二柱の神々(クニトコタチとトヨグモ)は、先の代の「別天神」五柱と同じく、「独神と成り坐して隠身なり」であり、同じ性格の神と理解して良い。名前も「天之常立神」と「国之常立神」というように同じパターンである。おそらく、古事記編者のカテゴリー分けのミス、もしくは、二階建てのプレ・ヒストリーの追加が行なわれた(註:その場合は、国之常立神が最初の神になる)のであろう。しかし、これ以後の神々は、様子が少し異なってくる。すなわち、ウヒジニ+スヒジニとか、ツノグイ(♂)+イクグイ(♀)といったように、一応、なんらかの意味でペアになっている。しかし、これらの4組(八柱)の神々も、それまでの神々同様、その所業の具体的な記述がない。おそらく、物語の格調を整えるために後から付け加えられた神々であろう(註:これに似たパターンは、新約聖書の『マタイによる福音書』冒頭のアブラハム→イサク……ダビデ→ソロモン……ヨセフ→イエスという権威づけのための歴史上の有名人オールスターキャストの42代にわたる家系図でっち上げと同様である)

 そして、いよいよ、具体的なキャラクター(人格)と物語性を持ったイザナギとイザナミの二柱の神々が登場するのである。この二柱の「夫婦神」は、天沼矛(あめのぬぼこ)からしたたり落ちたゲル状の物質でオノコロジマ(淡路島?)を造り、二人はその島に降りて結婚(セックス)し、日本列島の大小8つの島を生む。それ以後、この二柱の神々の交わり(有性生殖)によって、この国のいろんなものが生み出されるのである。

▼古事記の神々は無性生殖から有性生殖へと"進化"した

 ここまで書いたら、読者諸賢にはもうお解りであろう。古事記に登場する神々は、生物界の進化のプロセスと極めて類似性があるのである。アメノミナカヌシからトヨグモまでの七柱の神々は、生命誌との類比で言えば、完全な単細胞生物の段階である。したがって、「並独神と成り坐して隠身なり」なのである。つまり、何時の間にやら「湧いて出」て、一見、居るやら居ないやら判らないようであるが、その実、世界の基底の部分においては、確実に作用し続けているのである。この種の生物は、細胞分裂(クローニング)で殖えるので、現存する個体が最初の個体とたとえ材料的に異なっていたとしても、遺伝子情報レベルでは「同じもの」と言える。しかし、その働きには、進歩の痕は見られない。

 次ぎに、ウヒジニ+スヒジニからオモダル+アヤカシコネまでの八柱の神々は、生命誌で言えば、無性生殖から有性生殖への過渡期の生物である「二胚葉性生物」に当たる。これらは、本当の主人公たる次の世代(三胚葉性生物)への橋渡し的役割を果たすための中途半端な状態である。したがって、古事記においても、一応、4組のペア(註:その名前からして♂♀の生殖器をイメージできるものもある)として位置づけながら、そこからの進展(具体的な人格を持った物語としての展開)がないのは、未だに「未分化」な要素を残しているからであろう。

 そして、最後の段階として、三胚葉性生物の段階ともいえる♂♀の性交によって多種多様な子孫を残すイザナギ+イザナミの二柱の夫婦神の登場(註:実は、イザナギ+イザナミも生殖以外の方法でも子孫を残している。黄泉国から逃げ帰ったイザナギが、日向国で穢れを禊いだ時に、イザナギの左目からアマテラスが、右目からツクヨミが、鼻からスサノヲの三貴神が生れるといったような発生学的先祖帰りが起こるのである)となるのである。この夫婦神の登場以後、神話は極めてリアリティを持つようになる。具体的な地名や神々の台詞に心理描写まで出てきて、「物語」としての豊潤さを有するようになる。ちょうど、旧約聖書『創世記』第2章第4節以後の「アダムとイブ」の物語のように…。ただし、有性生殖を行う生物には、"寿命"がプログラムされているように、イザナギ+イザナミも「死んで」葬られるのである。決して、「隠身」にはならない。

▼エロヒムの正体は?

 少し寄り道になるかもしれないが、興味深い話なので、旧約聖書『創世記』の秘密を紹介しておこう。日本語訳(英語訳でも同じ)の聖書のみを読んでいる人々は気が付かないかもしれないが、原典のヘブル(ヘブライ)語で読むと、「ベレシット バーラー エロヒム エット ハッシャマイーム ベエット ハアーレッツ(はじめに神は天と地とを創造された。In the beginning God created the heavens and the earth.)」で始まる『創世記』第1章第1節から第2章第3節までは、神のことを「エロヒム=Elohim」と呼び(註:それ故、文献批評学的には「E資料」と呼ばれる)、第2章第4節以後は、(主なる)神のことを「ヤハウェ=Jahweh」と呼ぶ(註:それ故「J資料」と呼ばれる。その他にも、旧約聖書冒頭の「モーゼ五書」と呼ばれる部分は、「P資料」と「D資料」という4つの異なった「記者(集団)」によって執筆されたという学説がある)

 われわれに馴染みの深い禁断の実を食べてしまう「失楽園」の話や、最初の殺人の話である「カインとアベル」の話など、みなこの「J資料」のテキストに基づいている。そもそも、「全知全能の唯一神」であるはずの(主なる)神が、2つ異なった名前で呼ばれていること自体が不思議な話である。(もともと「別の神々」であったと考えているほうが自然だ)。もちろん、「クローン人間製造」で世界を騒がしたラエリアン・ムーブメントの"異星人エロヒム"の名称も、ここの箇所からパクられていることは言うまでもない。同じ新宗教を興すのであれば、もう少しオリジナリティのある名前を考えていただきたいものである。

▼八幡神と靖国神社とモー娘。の共通点

 そういう訳で、神道は、その成立期のテキストである記紀の世界において、無意識の内に「神話」という形で、クローン的な考え方をしているのである。ラエリアン・ムーブメントの信者に日本人が多いのも頷(うなづ)ける。しかし、これだけでは、読者諸氏の中には、神道とクローンの関係について、まだ、納得し難い向きもあるやもしれないので、さらに、その後の神道の発展の歴史の中で顕著に見られるクローン的要素を2つ挙げてみよう。まず、2002年10月に上梓した『西海道:宇佐八幡と放生会』において、私は以下のような論理を展開した。

「…国際日本文化研究センター所長の山折哲雄先生が、神道の特徴のひとつとして『分裂増殖しても薄まらない神格(分霊と勧請が可能)』を定義づけられ、その顕著な例として、北九州の宇佐神宮から始まり、畿内に国家の統治機構の中心が定った後、天平年間の東大寺大仏殿建立へのひとかたならぬ協力(全国規模の勧進)により、東大寺の守護神として、手向山八幡宮が奈良の地に勧請され、続いて、貞観元年(859年)、大安寺の僧の託宜により、新たな王城の地平安京を視座にいれた男山(京都府と大阪府の境目)に鎮座した石清水八幡宮。更には、源氏武家政権の関東進出に伴い、鎌倉に勧請された鶴ヶ岡八幡宮といい、東へ東へと分裂増殖して行っても、薄まるどころか、いよいよその威を高くし、その都度、国家権力との結びつきを強めていった…」と述べた。これなんぞ、まさに、八幡神の神格の通歴史的なクローン的増殖と言わずして、なんと理解することができよう。

 また、中国なんぞが喧しく言う「靖国神社における"A級戦犯"の(霊神の)いわゆる"合祀"問題」に対する頓珍漢な応答も、神道という宗教の持つ融通無碍な「細胞分裂・細胞融合」の性質について理解できていない輩が、賛否両者ともに大半を占めているから生じるのである。あるいは、もっと卑近な例で言えば、プロデューサーの都合によって、メンバーの「出し入れ(卒業と加入)」がいとも簡単に行われる『モーニング娘。』と同じ感覚である。人気の出てきた神(タレント)は独り立ちし、(人気が)いまひとつの神(タレント)は、知らない間に姿を消して(決して「死んだ」わけではない。単に居なくなっただけである)いるのである。ここで、今一度、古事記『神代記』の表現を思い起こしてみよう。「並独神と成り坐して隠身なりき」という言葉が、日本人の潜在意識に与えている思いもかけない影響を痛感することができるであろう。


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