「もんじゅ」を活かす知恵が必要
          03年01月28日


レルネット主幹 三宅善信

 1995年の冷却系パイプ破損事故(いわゆる「ナトリウム漏れ」事故)から8年が経過して、核燃料サイクル開発機構(旧動燃)が運転再開を目論んでいた高速増殖炉「もんじゅ」に対する国の「原子炉設置許可」の取り消しを求める住民訴訟への控訴審判決が、1月27日、名古屋高裁金沢支部で言い渡され、被告の国側にとっては、思いもよらぬ「設置許可無効」という逆転全面敗訴(住民側全面勝訴)という結果となった。

 ことは一国のエネルギー政策(だけでなく安全保障)の根幹に関わる案件だけに、当然、高裁判決を不服とする被告の国側(主務官庁は経済産業省)は上告するだろうし、国を相手取った裁判で、最高裁まで行って最終的に国に勝つことは事実上、非常に困難(註:過去の訴訟をみても、国を相手取った裁判において、原告側の勝訴率は1%もないであろう)だから、最終的には国側が勝つ(註:というよりも、「具体的な政策決定は行政府の高度な政治的判断によってしかるべきものであり、本件は司法判断には馴染まない」というような、最高裁としての責任放棄的な判決を出して「逃げる」公算が強い)だろうけれども、それだけに、実質的な「最終判決」としての高裁における国側の全面敗訴の意味は大きい。

 このように書くと、何か私が「原発反対論者」のように誤解する向きがあるかもしれないが、私の立場は全く逆である。私は、商業炉として大きな実績を有し、現在50機近く稼働しているわが国の軽水炉(通常の原発)を高く評価しているし、このたび問題になった高速増殖炉にも大いに期待しているくらいだ。地球温暖化の元凶である化石燃料に頼る火力発電(しかも、同時に、国家の安全保障の要点であるエネルギー資源を世情の不安定な中東地域に依存しなければならないという二重のリスクがある)には反対だし、河川流域の生態系に大きな影響を与え、莫大な建設コストをかけてもすぐに堆積物で機能が低下する水力発電にも反対であるからして、風力・波力・太陽光発電等のいわゆる「クリーンエネルギー」もたいした量は期待できないから、現状では日本のエネルギー需要を賄う(便利で快適な生活を続ける)ためには、原発に依存しなければならないことは重々承知である。

▼国家安全保証上からも原発は必要

 その上、原発にはもうひとつの国家安全保証上の重要なメリットがある。核燃料廃棄物(主にプルトニウム)という「核のゴミ」は、同時に、核兵器(原爆)の材料になる。核兵器用にわざわざウランを濃縮するよりも、原発の燃え滓(プルトニウム)で核爆弾を造るほうがずっとお手軽である。北朝鮮やイラクをはじめ、核兵器を持つことに野心を抱く国々は、自力で原発建設を進めたい(註:日米韓は、それをさせないために、KEDOという枠組みを作って、外貨不足で原油を輸入することのできない北朝鮮に燃料としての重油を無償提供してきたのだ)のは、そのような理由によるものだし、各国の原発内でそういこと(プルトニウムの不正貯蓄)をさせないため、IAEA(国際原子力機構)の査察官が駐留しているのである。

 逆を言うと、世界有数の原発国である日本は、世界有数の潜在的核兵器保有国なのである。私が、1998年9月に上梓した『李下に冠を?:発射事前予告のできない理由』や、2002年9月に上梓した『日本外交の成否はH2Aロケットに懸かっている』で指摘したことがあるように、わが国においては、1995年の「もんじゅ」の事故発生以来、広島型原爆に換算して、既に、約千発分の原爆製造に必要なプルトニウムが蓄積されているのである。このことは、国際社会における日本の軍事的プレゼンスが上昇したことと同じ意味である。12月に打ち上げが行われた4つの衛星を同時に軌道に乗せることができたH2Aロケットは、軍事的には米露以外は保有していないMIRV(複数核弾頭搭載ミサイル)を日本が保有しているのと同じ意味である。

▼役人の言うことだから信頼できない

 そのように考える私であるからして、本来ならば、原発推進に「冷や水(炉心冷却水じゃない)を浴びせかけ」た結果になった今回の高裁判決(原子炉設置許可無効)には、反対の立場に立たなければならないはずであるのに、なぜか、本論の冒頭では、今回の高裁判決を支持した。というのは、わが国における「原発問題」そのもの(註:エネルギー源としての原発の必要性や原発の技術上の問題=危険性の問題)というよりも、それを推進してきた通産省(現経済産業省)と、その天下り先である動燃(=動力炉核燃料炉開発事業団→現核燃料サイクル開発機構)という「役所」の、あまりにも「自己中心的な(論理での)政策」の正当化や、東京電力をはじめとする電力事業者の不明朗な態度(例えば、原発の立地する自治体や地域住民に多額の不明朗な金が渡されている)が、良識ある国民に不信感を募らせていったからである。残念ながら、経済産業省や核燃料サイクル開発機構あるいは電力会社の言うことは、現時点では誰も信じないであろう。

  わが国の原子力政策は、初めから間違っていた。天然資源小国であり、かつ、先進経済大国であるという両条件を同時に満たすためには、そのエネルギー源を確保する手段として原子力発電に頼る以外にないことは明白である。しかし、原子炉というのは、高度な先端テクノロジーの集積であり、なおかつ、莫大なエネルギーを生み出すものであるから、常に「一歩間違えれば、大惨事(人間のすることには、ミスはつきものだから)」ということが、ついてまわる。面倒でも、その危険性と必要性の両方を国民に説き(反対する者には、「その人が1日10時間の停電を甘受する」という意思確認が必要)、その上で、原発設置の是非を問うべきであったのに、「危険性はない」などと嘘(註:「99%安全」というのと、「100%安全」というのは、本質的に異なるのに、その両者をほとんど「一緒くた」にしてしまっている)を言い、行政は「まず、原発設置ありき」という方針で政策を進め、電力会社は、反対者を「金で黙らせて」きたのである。

 『狼少年』と同じで、日頃からしょっちゅう嘘をついていてまるで信用がない人が言う「100%安全です」と、日頃から「あの人の言うことなら信頼できる」と思われている人が言う「80%安全です」のどちらをあなたが信じるかである。今回の判決でも、国側が提出した「(万一、漏れ出したナトリウムが床のコンクリートと化学反応を起こして爆発することを防ぐための)鉄製床材=ライナーの安全性」や、「(ナトリウム冷却剤の爆発で崩壊した炉心から溶け出した)核燃料が床に溜まってそこで再度、臨界に達する(いわゆる「チャイナ・シンドローム状態」になる)可能性」についての反対「論証」が、その科学技術的正当性とは別の次元で、裁判官から信頼されなかったのである。いくら、経産省が科学的なデータを提出して、住民側の意見に反対論証を試みても、その科学的根拠の正しさとは別に、「役人の言うことだから信用できない」と思われてしまっているということを国側は認識しなければならない。

▼文殊の知恵を授けてあげよう

 これまで、国や関係機関は、原発の安全性について、ただ「安全である」とお題目のように繰り返してきた。しかし、本当に原発が「100%安全な施設」であるのなら、なぜ、最大の電力消費地である東京の真ん中に原発を造らないのか? 送電中のエネルギーロスを考えれば、発電所の立地は消費地に近ければ近いほど良いに決まっている。しかし、東京電力の場合は茨城県、関西電力の場合は福井県という都心から遠く離れた「田舎」に原発が集中していることから考えても、やはり「原発は危険だ」と、国も電力会社も本当は考えているからだろう。もし、これまで、国が「原発は危険だけれども、国民が豊かで便利な生活を享受するためには必要だから設置する」と、正直に言ってきたなら、名古屋高裁の判事も経産省の提出した証拠データを信用したであろう。その意味で、この国の官僚たちは、毎年一人づつ娘を人身御供としてヤマタノオロチに差し出すことによって村の安全と繁栄を担保してきた村の指導者以下である。

 電力会社も、報告が義務づけられている原子炉のシュラウドのひび割れ破損を隠して運転を続けた(註:シュラウドのひび割れが「実害」があるかどうか、という話ではなくて、都合の悪いことは「隠したままで」やり過ごすという意味で)だけでなく、メンテナンスの報告書を改竄したり、核燃料製造会社JCOのごとき、生身の人間がバケツで核燃料を混ぜて、ドラム缶の中で臨界状況を発生(1999年)させてしまったりしたのでは、原発関係者の言うことを「信用しろ」というほうが、どだい無理な話である。国は、今回の「安全審査の瑕疵(かし)により、原子炉格納容器の放射性物質の外部への放散の危険性を否定できず、重大な瑕疵がある安全審査に依拠した設置許可処分は無効である」という判決を真摯に受け止めるべきである。

 そもそも、今回、全面敗訴の判決が出た高速増殖炉もんじゅの設置問題だけでなく、高速道路や整備新幹線、ダム建設その他の大規模公共事業の方針決定を、官僚と政治家と関連業界関係者だけで行っており、国民から広く意見を聴取したという体裁だけを整えるために開催される公聴会や各種の設置審議会(活きの良い学者が選ばれたためしがない)なんぞ、みなインチキ臭いプロセスである。私には、ある審議会の答申が信頼するに足る内容かどうかを簡単に見分けるハッキリとした基準がある。それは、もし私に「その審議会の委員になって欲しい」と三顧の礼をもって依頼しにきたら、間違いなく、その審議会が出す結論は十分に信頼するに足りるということである。「縄文からポケモンまで」をその考察フィールドにしている「現在のマンジュシリー(文殊菩薩)=知性の怪人」こと、私、三宅善信の論述をどれだけ評価しているかどうかが、判りやすいメルクマールであると言っても過言ではない。そう言えば、東芝プラント建設に勤務する私の知人が施工したにも関わらず、もんじゅが竣工した際に、「原子炉の中を見せて欲しい」と頼んだ私の依頼を、こともなげに断った時点で、動燃の「本物」を見分ける目のなさが明らかになっており、今日の「設置許可取り消し」の判決も、当然の報いといえよう。もし、その時、私に炉内を見せてくれていたら、ナトリウム漏れを完全に防ぐ方法を教えてあげたのに…。


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