2003年4月7日という日
    03年04月07日


レルネット主幹 三宅善信

▼猫も杓子も「アトムの誕生日」

  「2003年4月7日」といえば、言うまでもなく、「鉄腕アトムの誕生日」である。1958年生まれの私は、もちろん「アトム世代」といわれる中年おじさんである。当『主幹の主観』シリーズの執筆を始めたころから、「2003年4月7日になったら、是非、アトムものを書こう」と正直思っていた。そのために、「ノスタルジックな未来(50年前に想像された「50年後の世界」の意)」についてフィールドワークするために、半世紀前に『鉄腕アトム』に描かれていた「21世紀の未来都市」のスカイラインと最もイメージが似ている上海への取材も計画していたが、残念ながら、折からの「SARS騒ぎ」のために中止に追い込まれた。

  私は、「ノスタルジックな未来(過去に想像された未来)」については、前々から関心を抱いており、これまでにも何回かこのテーマについて触れたことがあるが、中でも、2001年7月19日に上梓した『A.I. & Metropolis:都市は人類に何をもたらしたか』において、手塚治虫の初期3部作のひとつ『メトロポリス(Metropolis)』を題材に、本格的に考察したので、まだ、同作品をお読みでない方は、先にお読みいただきたい。


JR京都駅にある
『手塚治虫ワールド』の前で

 ところが、4月7日に近づくにつれて、猫も杓子も「アトムの誕生日」尽くしになってしまい、「天の邪鬼」な私としては、アトムものを書く気がしなくなってしまった。私は以前、宗教学者の山折哲雄先生の講演『これからの日本宗教』のモデレータを務めた時に、山折先生が「昭和天皇が崩御された時よりも、美空ひばりが亡くなった時に昭和の終わりを実感した」と言われたのに対して、「私にとっては、手塚治虫が亡くなった時に昭和の終わりを感じた」と応じたことを想い出す(註:1989年という年は、世界的には「ベルリンの壁崩壊」という政治トレンドの大きな転換点であったが、日本においては、昭和天皇が崩御されるというひとつの大きな区切りがあった。私個人的には、結婚という「人生の監獄」を迎えた)。それくらい、私(の世代の日本人)にとっては、手塚治虫漫画は大きな影響を与えた人であった。

▼小林一三の業績 

 そういう訳で、今回、アトムものを書く気が失せかけていたところに、全国的には「アトム・フィーバー」の影に隠れて、ほとんど関西の人々にしか関心を惹かなかった話題を材料にして、手塚治虫(の人格形成)に大いに関係があったと思われる「宝塚」について考察してみることにする。手塚治虫は、宝塚という街で、5歳から24歳までという少年期から青年期を過ごしたということは、あまりにも有名である。この宝塚での体験が、手塚の人格形成に決定的な影響を与えた。大阪の都心「梅田」から、阪急電車で30分の距離にある日本初の郊外ベッドタウンである宝塚市が、阪急電鉄の創始者小林一三によって開発されたのは、周知の事実である。都心にある私鉄のターミナル駅にデパートを併設するということを考えついたのも小林一三であり、沿線郊外にベッドタウンを開発するということを始めたのも小林である。小林一三は、ある意味で、20世紀の平均的日本人の生活スタイルのかなりの部分を提案した人物とも言える。

 古くから(註:聖徳太子の建立と伝えられる中山寺があることから、宝塚そのものの歴史は、地名のとおり古墳時代からあったと考えられる)温泉地として知られた宝塚は、阪急電車の開通と小林一三という卓越した起業家の発想により、現在の宝塚市の基盤が形成されたが、小林は、もうひとつ宝塚に付加価値を与えるものとして、『少女歌劇(現在の「宝塚歌劇団」)』を創設した。高度経済成長後、相次ぐ大企業の本社東京移転や情報化社会の出現等によって、「商都大阪」の全国における地位は低下の一途を辿り、大阪の人間が仕事や遊びのために、上京しなければならないことはあっても、東京の人間がわざわざ大阪まで来なくとも、「すべて東京でこと足りる」ようになって久しい。このことは、NHKの放送上の表現においても顕著である。かつては、「近畿(上方)と関東」(註:どちらが中心かは明らかである)と呼ばれたものが、現在では、「首都圏と関西」である。

 しかし、そんなご時世にあっても、頑固に大阪(註:厳密には「阪神間」と言うべきか)に本拠を置き、東京の人でも、「本物」を観たければ、大阪まで来なければならないものと言えば、甲子園の高校野球と宝塚の歌劇団くらいしか大阪には「全国区」のもは残っていない。今でも、甲子園と宝塚は、そのことを志す人々にとっての「聖地」(註:甲子園の聖地性については、1999年8月15日に上梓した『8月の鎮魂歌』をご一読いただきたい)なのである。その意味でも、小林一三という人物の業績は大きいと言えよう。

▼宝塚ファミリーランドが死んだ日 

 さて、この宝塚という街で手塚治虫は育った。手塚は、その家庭環境の関係で、自宅にも宝塚歌劇団のスターが出入りしていたそうである。「女性が男性を演じる」という、歌舞伎とは全く逆の「宝塚歌劇」の世界は、手塚の代表作のひとつ『リボンの騎士』に通じるものがある。「東京への一極集中」(註:日本における東京の位置づけは、ひとつの細胞の塊が全身の栄養を吸い取り尽くして、ついには、その細胞自身も含む全身を死に至らしめる癌細胞のようなものと私は考えている。もちろん、世界の癌細胞が米国であることは言うまでもない)が進み、ますます寂れていく各地方は、熱心に「地域興し」を行っているが、成功どころかそれなりの成果を挙げたものすらほとんどないのが実態である。そんな中で、宝塚市は、手塚治虫という全国区のキャラクターを使って、1994年に『手塚治虫記念館』という博物館を開館した。

 このロケーションがまた微妙なのである。阪急宝塚駅から徒歩数分の宝塚大劇場(歌劇団の本拠地)と、これまた小林一三が創った『宝塚ファミリーランド』との中間の位置に『手塚治虫記念館』が鎮座するのである。21世紀の「聖地」を目指して創られたのかもしれない。往々にして、行政が造るミュージアムの類は、「箱もの」ばかりが立派で、中身がそれに伴わない(あるいは、最初の予算が付いたときだけ立派な美術品などが展示され、後は、ほとんど内用の更新がなされない)場合がほとんどであるが、「手塚治虫もの」はソフトには事欠かないであろうから、ある意味、良いポイントを突いたミュージアムである。


名残を惜しむ人々で賑わう
宝塚ファミリーランド

 ところが、満開の桜が咲き誇る2003年4月7日、この『手塚治虫記念館』で「鉄腕アトム生誕記念行事」が華々しく行われているすぐその隣で、92年間の歴史を誇る最古の遊園地『宝塚ファミリーランド』がひっそりとその歴史を閉じたのである。幕末の嘉永6年(1853 )からあったと伝えられるある庭師の個人的な牡丹・菊細工園から徐々に発展した浅草の『花やしき』を「遊園地」と呼べるかどうかは別として、わが国初の本格的な遊園地(テーマパーク)は、1911年5月1日にオープンした『宝塚ファミリーランド』であることは言うまでもない。

 手塚治虫も少年時代に何度も遊んだであろうこの遊園地が、親会社(阪急電鉄)の「時代に合わなくなった。遊園地は他にもある」という、訳の分からない経営方針のもとに92年の歴史を閉じる知らせを聞いたとき、かつて(1988年)、巨人と並ぶ日本プロ野球界屈指の名門チーム阪急ブレーブスを「時代に合わなくなった。プロ野球球団は他にもある」という理由で、弊履のごとくあっさりと「オリエント・リース(現オリックス)」に身売りした阪急電鉄の社長(現会長)小林公平氏に言葉を思いだした。小林公平氏は、小林家の三代目として「三菱の金庫番」と言われた三村家から養子に入った人物である(註:阪急・東宝グループを創設した小林一三には、3人の子供がいたが、長男の米三氏は阪急電鉄の事業を継ぎ、次男の松岡辰郎氏は東宝(「東京宝塚」の意)を継いだ。そして、長女の春子氏は、サントリーを創業した鳥居吉太郎氏と結婚した。「二代目」米三氏には子供がなかったので、弟の松岡辰郎氏の長女喜美子氏に三村公平氏を養子に迎えた。公平氏の兄は三菱商事の会長になった三村庸平氏である。因みに、松岡辰郎氏の長男功氏は、元デビスカップ日本代表でなおかつ東宝の会長を務めており、その長男の修造氏は、元プロテニスプレーヤーでタレントである)

 ある意味で、20世紀の日本の財界をリードしてきた小林家の当主ともあろう人物が、「時代に合わなくなった」という言葉を吐いて事業を縮小しているのを「起業家」小林一三は、泉下でどのような思いで聞いているであろうか? こうして、私の記憶の中には、2003年4月7日という日は、「鉄腕アトムの誕生日」であると同時に、「宝塚ファミリーランドが死んだ日」として、永久に留められるであろう。


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