レルネット主幹 三宅善信
▼ りそなとSARSのダブルショック!
この週末、大阪では、一歩間違えば、社会に混乱を引き起こしかねない二つの大きな事件が発生した。ひとつ目は、言うまでもなく、りそな銀行(旧大和銀行+あさひ銀行+その他の中小銀行の連合体)による「公的資金注入依頼」という実質的な破綻宣言である。これは、いかに名を変えて表現したとしても、預金保険法の規定する「金融危機」を回避するための特例である。りそな銀行は、ここ十数年間におよぶ「金融機関の会計グローバル・スタンダード化」以後の銀行業界再編の最終段階に及んでなお、国際金融市場で商売をしていくための「BIS規制」にある「自己資本比率8%以上」という数値目標をどうしても達成することができなかったので、国際的金融機関である「都銀」の見栄を捨てて、他の4大メガバンクとは別の中小企業を相手にした「巨大な地域密着型金融機関になる」という道を選んで(むりやり選ばされて)、この3月1日に「スーパー・リージョナル・バンク」と銘打って、華々しく登場したばかりであった。
この2年間、「構造改革・財政再建なくして成長なし」というお題目をなんとかのひとつ覚えのように繰り直すだけで、なんら効果的な経済刺激政策を打つことをしなかった(註:「できなかった」のではなく、意図的に「しなかった」ので、私個人の金融資産も50分の1に激減した)小泉政権は、自分たちが執ってきた経済政策の正当性を担保するためにも、なにがなんでも「金融危機だけはを起させない」ということだけを大きなテーマとして経済財政政策が実行されてきた。そのプロセスとして、この国の近代化以後百年以上にわたって培われてきたそれぞれの企業風土の違いを無視し金融機関の合併(「三井と住友とがひとつの銀行になる」と、十年前に予想できた人が何人いたであろうか?)につぐ合併で、とうとう「4大メガバンク」なる鵺(ぬえ=いくつかの動物の特徴を合わせて創り上げられた想像上の生き物)的なものを大急ぎででっち上げたが、その挙句の果てが、今回の「りそな危機」である。私の地元である大正区には、都銀は三井住友とUFJとりそなの3行しかない。と言っても、これらの銀行もほんの2〜3年前までは住友銀行と三和銀行と大和銀行と呼ばれていた。つまり、「関西系」の都銀だけしかなかった。「破綻しにくい」大きな銀行(註:事実、昨年初め、地元の「そうしん」が破綻して、解約手続とかが大変であった。あれが、もうあと数ヵ月遅れて、ペイオフ導入後だったら大損するところであった)は3行しかないので、ペイオフ対策もあって預金を分散せねばならず、当然、りそな銀行にも相当額の預金があり、政府は「預金は全額保護する」とは言っているが、困ったことには違いない。まさに経済有事である。
▼台湾人医師は「城マニア」?
さて、もうひとつの関西を騒がせた事件と言えば、新型肺炎SARSに感染していた台湾人医師による関西一周旅行である。りそなショックと本件が重なり、大阪をはじめ関西地方にとっては、踏んだり蹴ったりの週末であった。昨年、相次いだ不祥事で激減した入場者数が、今年のゴールデンウィークに、劇的に回復基調を見せて喜んでいたユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)も、今回の「台湾人医師が遊びに来た」ということで復活の出鼻を挫かれる結果になったし、何よりも、台湾人の一行が宿泊した都ホテル大阪をはじめ、関西各地の観光施設に、これからも大きな経済的被害を与える(註:いわゆる風評被害で相当の団体客のキャンセルが発生した)ことと思われる。
このことは、逆を言えば、日本国内において、今では経済基盤の沈下が著しい関西地域が、今でも国際的に競争力を有する観光資源をたくさん持っているということの証明でもある。例の台湾人医師は、2泊した大阪ではUSJに大阪城、京都府では嵐山からトロッコ列車に乗って亀岡経由で丹後の天橋立を訪れて、1泊、その後、出石町(ここにも城がある)から兵庫県下に入り、ユネスコ『世界遺産』の姫路城を見学し、フェリーで小豆島へ渡り(註:この地でも大坂築場の際の採石場跡を見学しており、相当の「城マニア」と見た)、さらに、四国は香川県を通り、鳴門大橋を渡って淡路島の洲本(ここにも城がある)に1泊し、明石海峡大橋を渡って大阪に戻る、まさに「関西一周コース」(註:関西の観光地といえば、誰でも京都・奈良を連想するが、京都や奈良以外にも見どころはたくさんある)を満喫して帰国した。
▼健康でないとスーパー・スプレッダーになれない
厚生労働省をはじめ、わが国のSARS対策関係者はこれまで主に、SARS流行地域である中国から戻って来た日本人留学生や、中国に現地生産工場を置く企業関係者等からSARS感染が拡大することを想定して、中国から帰国した日本人には、「帰国後10日間(SARSの潜伏期間)はなるべく自宅でおとなしく暮らして、それでもし発病しなかったら、社会活動に復帰してもよい」というような指導を行なってきたが、こともあろうに、WHO(世界保健機関)が指定した「SARS流行地域」内に住む医療従事者が、この時期に、まさか個人的な観光目的で関西各地を数日間のあいだにこれだけ歩き回り、SARSの原因といわれる新型コロナウィルスを撒き散らす(註:このことで誰かが発病する、しないかは判らないが、ウイルスをばら撒いたことには違いない)結果になろうとは、行政当局も想定してなかったものと思われる。
香港・中国・台湾など、新型肺炎SARSが爆発的に流行した地域では、その原因について語る時に欠かせないキーワードとして「スーパー・スプレッダー(ばら撒き屋)」という概念(註:「super
spreader」の訳語として、中国本土では「毒王」、台湾では「超級伝染者」という言葉が新たに作られた)が着目され、事実、何人かの該当者(註:例えば、香港から北京へSARS流行をもたらせたとされる72歳の男性など)の存在がつきとめられている。彼(女)らは、その並外れた生活行動範囲の大きさによって、各地でSARSの病原体と考えられる新型コロナウイルスを撒き散らし、たまたまその場に居合わせた数十人単位(註:WHOの定義によると、10名以上に感染させた人をスーパースプレッダーと呼んでいる)の死者・感染者を作り出す原因ともなったと言われている。
しかも、ある人がスーパー・スプレッターになるためには、その人が行動範囲の広い人であるだけでは不十分で、そこそこの健康状態を保った人でなければだめである。なぜなら、もし、その人が非常に体が弱かったら、SARSに感染したら即、発病して、重症に陥ったり、死んでしまったりするので、院内感染の原因になる以外に他人にウイルスをばら撒く間もないからである。SARSウイルスを保菌した状態で、普通の人なら参ってしまうような状態でも、なおかつ表面的には健康で各地をウロウロとすることが、スーパー・スプレッダーの必須条件である。
▼ 「腸チフス・メアリー」って誰?
私が今回の「スーパー・スプレッダー」という言葉を聞いて、真っ先に思い出したのは、20世紀初頭、ニューヨークを恐怖のどん底に陥れた「腸チフス・メアリー(Typhoid
Mary)」のエピソードである。「腸チフス・メアリー」と呼ばれた女性の本名はメアリー・マローン(Mary Mallon)は、当時、相次いでニューヨークで流行した何回かの腸チフス(Typhoid
fever)の感染経路を疫学的に辿っていくと、最終的には、必ずひとりの女性メアリー・マローンへ行き着いたそうである。アイルランド系移民であったメアリーは、マンハッタン近郊の住宅地ロングアイランドのとある金持ちの邸宅で、住み込みのメイドとして料理を作ったり、家人の世話をしていたが、その家に来る客や主人の娘が次々と腸チフスを発病した。このような「事件」が何回か続いた後、ついに彼女が「犯人」だと判明し、「腸チフス・メアリー」という屈辱的なあだ名さえ付いた。こともあろうか、その後、彼女が飲食業に従事した結果、47人に腸チフスを罹すことになったのである。
もちろん、メアリー自身には何の罪もない。彼女は特異な体質であり、いわゆる「健康保菌者」と呼ばれる体質を有していた。もちろん、彼女自身がそのことを知ってから後もその事実を隠して(移民でも働ける、比較的給与の高い)飲食業に就いたことは、倫理的にも許されざる行為であることには違いないが…。彼女自身の体は腸チフスを引き起こす原因である腸チフス菌(salmonella typhi)に対する耐性を持っており、たとえ彼女がこの菌に感染していても、腸チフスの病状である発熱(註:39℃以上の高熱が長く続く)を伴う症状が現れないのである。しかし、彼女の体内で腸チフス菌は生き続け、そして結果的には、彼女が接触する人々に次々と腸チフス菌をばら撒いて(spreadして)いったのである。
最終的には、彼女は26年間の長きにわたって、ある小島に隔離幽閉されるという悲惨な人生を送るのであるが、「腸チフス・メアリー(Typhoid
Mary)」という言葉は、現在日本でも上映されている『デア・デビル (Daredevil)』というアメリカンコミック(『バッドマン』の親戚みたいな話)においても、その第44話に「悪役」キャラクターとして登場しているくらいである。「腸チフス・メアリー」のエピソードは、調理師資格や食品衛生に関する教育を受けた人なら必ず習う話である。今回のSARS騒動にも、必ず「腸チフス・メアリー」のような特異体質をもったスーパー・スプレッダーが何人かいるはずである。
▼使徒ペテロこそ最大のスーパースプレッダー
そもそも、病原菌だけでなく、なんらかの情報が人を媒介として伝達される時には、10人おれば10人とも同じ量(質や速度も)で伝達されるわけではないことは、言うまでもない。宗教の世界では、例えば、パレスチナ地方のマイナーな宗教に過ぎなかったキリスト教を、当時の「世界の中心」であったローマおよび、その帝国の各地に伝道し、現在の世界最大の宗教の地位を築き上げたのは、キリスト教の「教祖」であるイエスではなく、弟子(12使徒)の1人であったペテロである。ペテロは、交通手段の発達していたなかった当時、自らの脚でローマ帝国の各地を伝道して廻り、後の「キリスト教世界」の基礎を構築した。
当時ローマ帝国では、ネロ帝の大迫害に見られるように、キリスト教という新興宗教は、社会不安を起す怪しげなカルト宗教(註:法然も親鸞も日蓮もみな生前中は、時の権力からはカルト扱いされていたように、たいていの新しい宗教運動は、成立当初は既成秩序の側からは「公序良俗を乱す危険な集団」とみなされるものである)としてみなされており、当然のことながら、禁教となっていたが、ペテロやパウロたちが各地を伝道して廻わり、大いにその教勢を伸ばした。ペテロ自身は、最終的にはローマで磔(はりつけ)の刑に処せられる訳であるが、「神の子(キリスト)」であるイエスがエルサレムで磔刑にされたのと、「ただの人」である自分が同じ磔刑では、「神の子に畏れ多い」ということで、自ら進んでもっと辛い「逆さ磔刑」を希望したと言われる。このことによって、ペテロは「地上におけるイエスの代理者という権威(註:その延長がローマ教皇であるという解釈になっている)」を得て、聖ペテロとなったのである。
そして、イエスの預言(註:イエスの弟子たちの中で、当時シモンと呼ばれていたペテロは、真っ先に、イエスをキリスト(救世主)と認めた功により、第一使徒となり、以後「ペテロ(岩)」と呼ばれるようになった)に従って、ペテロの名前をとった教会が殉教者ペテロの墓の上に建てられた。これがローマ・カトリック教会の総本山であるバチカンのサン・ピエトロ(聖ペテロ)大聖堂である。ペテロは、イエスの弟子になる前は、シモンと呼ばれ、弟のアンデレと共に、ガリラヤ湖で漁師をしていたが、ある日、偶然イエスと出遭い、「私についてきなさい。人間をとる漁師にしてやろう」(註:この科白自体、かなりカルトがかっている。『マルコによる福音書』第1章16節)と言われ、その場で手にしていた魚がたくさん入った網を捨てて、イエスに付き従ったという傑物である。
そして、先の出来事(註:最初にイエスをキリストと告白したこと)によって12人の弟子の筆頭となり、イエスから「ペテロ、汝は岩である。私は汝の上に教会を建てるであろう(『マタイによる福音書』第16章第18節)」という預言を受けることになる。「石油という言葉があるが、皆さんは、この名称を不思議に思ったことはないだろうか? 石油はどう見ても黒くてドロドロした液体であって決して「石」ではないのに、「石の油」と書くが、日本語では意味が不明である。しかし、石油の英語はpetroleumである。これは、ギリシャ語のペテロ(岩)が語源であるからである。これなら納得である。新約聖書は、「コイネー」と呼ばれる当時の地中海沿岸地帯の共通語であった簡略化されたギリシャ語で書かれていたので、シモンという野暮ったいパレスチナ風の名前から、ペテロという響きのよいギリシャ風の名前に変えられてのであろう。ともかく、彼の墓の上に教会が建てられ、それが現在のバチカン(カトリックの総本山)になったのである。その意味でも、ペテロ抜きにはキリスト教の拡散はなかったと言えよう。
▼ザビエルも蓮如もスーパースプレッダー
使徒ペテロから約1,500年の時を経て、フランシスコ・ザビエルという人が歴史の舞台に登場した。彼は、それまでヨーロッパおよび地中海周辺の宗教にすぎなかったキリスト教を、広くアジアの端にまで伝道した。欧州をはるか離れたユーラシア大陸の対極に位置する日本にも、1549年、とうとうキリスト教が伝わったのである。当時、戦国時代の最盛期であった日本は、キリスト教の伝来と相前後して西洋から伝わった鉄砲という新しい武器によって、時代は急速に、鉄砲を実践兵器として最初に大量に導入した織田信長による天下統一へ収斂されていったのである。この信長による天下統一事業によって、中世以来、それまで各地で独自の勢力を誇っていた戦国大名たちが次々と滅ぼされていった中で、最後まで軍事的に抵抗し得たのは、意外にも一向宗(本願寺)という宗教勢力であった。言い換えれば、本願寺教団(浄土真宗)は、抵抗勢力として信長の天下統一事業を妨げ得るだけの大きな政治軍事集団となっていたという訳だ。
この本願寺教団の基礎を築いたのは、15世紀末の人、蓮如であった。「宗祖」親鸞から数えて8代目の蓮如は、弱小教団の指導者として、各地を転々としていたが、あの時代としては驚異的ともいえる85歳まで長生きし、生涯に5人の妻と27人もの子供をもうけたのである。蓮如は、子供たちを諸国に遣わし、親鸞聖人の血脈(けちみゃく)を拡げ、それまでじゃ、同じ真宗教団といっても、親鸞の「弟子筋」だった仏光寺派や高田派のほうが「本家」の本願寺よりもはるかに繁栄していたが、蓮如一代でこれらを凌駕する日本一の仏教宗派である現在の本願寺教団の礎を築いたのである。ペテロもザビエルも蓮如も、その健脚ぶりに加えて、実に多くの手紙(註:ペテロの手紙は新約聖書に収録されており、ザビエルの書簡と蓮如の御文書(お文)は現物が残っている)を現在に残している。彼らが、文書による「メディア布教」ということを考えていたことは明らかである。これらのいわば「宗教界のスーパー・スプレッダー」と呼ばれる人の存在なしには、たとえ、いかに優れた「教祖」がいたとしても、その宗教の急激な拡大は考えられず、カトリック教会も真宗教団も、ひょっとしたら地域限定的な民族的な信仰集団に留まっていたかもしれない。彼らは、いわば、教義の健康保菌者だったのである。
▼梅毒は半世紀で世界を一周した
ちなみに、16世紀の中頃に、キリスト教や鉄砲と共に、もうひとつ日本に伝わったものがある。それは梅毒(Siphilitica)である。その半世紀ほど前の1492年に、コロンブスが「新大陸」と呼ばれた西インド諸島(現在のカリブ海諸国)に到達し、その後、500年間におよぶ白人による世界支配の基礎を作った大航海は、同時に、西インド諸島の風土病のひとつであった梅毒を、この疫病に対して何の免疫もないヨーロッパ世界に持ち帰るということになった。それが、わずか50年という短い期間で(註:帆船による移動が主たる交通手段であり、しかも、異民族である停泊先の人々と性交渉を行わないと感染しないこの病気が、これだけの速度で伝播したことは驚異的でもある)地球を一周して、日本にまで到達したのである。
宗教上の戒律がほとんどない上に、国内が平和になった江戸時代の大都市では、将軍から庶民に至るまで、実に多くの日本人が梅毒に罹っていたのである。当然のことながら、濃厚接触によって感染するまったく新たに出現した病原菌である梅毒菌(註:螺旋形の特徴を持つSpirocheta細菌の一種Treponema)に対して、日本人は免疫耐性を持っていなかったので、瞬く間に多くの日本人がいのちを失ったが、ある意味、現在の日本人はみなその当時の日本人の子孫であるので、初期的な意味でこの疾病に対する耐性を有しているとも言える。
また、コロンブスに始まるヨーロッパ人による新大陸侵略の歴史は、先住民であるインディオたちの金銀財宝を奪い、奴隷化するために、軍事的にこれを滅ぼしたように、歴史の教科書(註:歴史教科書はみな、執筆当時の社会的価値感によって過去の出来事を評価しようとしているので、内容をそのまま鵜呑みにしてはいけないことは言うまでもない)では教えられているが、実際に、アメリカ先住民たちがそのいのちを失う最大の原因となったのは、それまで新大陸にはなかった疱瘡(天然痘small-pox)をはじめとする空気感染する各種の伝染病であった。これらの病原菌にまったく免疫のなかった人たちの間では、これらの感染症は瞬く間に拡まり、結果的にインディオたちは侵略者であるヨーロッパ人たちと戦わずして敗れ去る結果となったのである。このように、人類の歴史と感染症の拡大は、スーパー・スプレッダーの活躍という宗教の伝搬様式とも相まって、ごく一部の超人的な人によって急激に拡散するという、極めて類似した相関関係を有しているのである。