レルネット主幹 三宅善信
▼弥生時代の開始が早まった?
5月19日、国立歴史民俗博物館の研究グループが、弥生時代初期の遺跡から発掘された土器に付着した炭を放射性炭素による年代測定法(註:炭素原子の同位体である炭素14原子は、自然に電子線(β波)を放出して窒素14原子に変わる(放射性崩壊する)が、ある物質中に含まれる炭素14原子の数量が放射性崩壊して半分に減少するのに5,730年かかることが物理学的に証明されているので、発掘された考古学上の遺物に含まれる炭素14の量を調べれば、その遺物が何年ぐらい前に造られたかが逆算できるという技術)を用いて測定し直したところ、従来言われていた「紀元前4〜5世紀に弥生時代は始まった」という考古学上の定説を覆し、「弥生時代の始まりは、紀元前10世紀まで遡り得る」と発表した。ことの真意は、考古学の専門家ではないので、私にはなんとも言えないが、おそらく、これから複数の研究者によって、反復検証が行われるであろうから、当該する弥生式土器の製作年の特定は、科学的には可能であろう。しかし、それ以上に、「弥生時代の始まりが500年も遡る」ということになってくると、日本の歴史のみならず、北東アジアの古代史解釈全体にとっても大きな影響が出てくることになる。
一般に言われているように、現代に至る日本文化の特質の形成は、稲作の開始と、それに伴う小規模なクニの成立によってなされたと仮定すると、数千年間以上続いた縄文時代に終止符を打って、弥生時代への劇的変化を促した何らかの契機(historic
event)があるはずである。最近の学説では、「中国(註:シナ大陸および漢民族を総称する歴史的な呼称としての中国という名称そのものは、正しい表記法とは私は思わないが、一般的にそう呼ばれているので、読書の利便のためにも、取りあえず本論においては、中国と表記する)」における春秋戦国時代の混乱に伴い、「中原(ちゅうげん)」での覇権争いに敗れた勢力が、ドミノ倒し的に周辺部(中原→渤海沿岸→満州→朝鮮半島→日本列島)へと順次押し出され、その地において「蛮族(もちろん、中華思想からみて蛮族という意味)」の土地を略奪していったが、結果的には、周辺地域に中華文明を拡散させる結果になった。
当然のことながら、その動きは、わが日本列島にも伝播し、特に、大陸や(朝鮮)半島と地政学的にも近い北九州地方を中心に、大陸あるいは半島の戦争難民による亡命政権が打ち立てられたと考えられる。それ以前の日本(「縄文時代」と呼ばれていた日本)は、豊かな(註:生産量が大きかったというよりも、人口密度が小さかったので、一人ひとりの縄文人は、比較的余裕のある生活ができたという意味で、豊かな)文化を享受していたが、大陸から新たに渡来してきた金属製の武器や乗馬術を有する軍事集団の日本列島への侵入により、日本列島(特に西半分)の社会構造は大きく変化した。また、稲作を初めとする集約的農業(註:水田稲作には灌漑工事等の大規模な集落共同作業が必要)の導入が、それに伴う集権的国家というシステムをこの国にもたらしたという「弥生文化他律起源説」が、これまでの定説であった。
▼ 日本は太古から「ものづくり」大国であった
しかし、今回の国立歴史民俗博物館の新説が正しいとすると、弥生時代の始まりは紀元前10世紀にまで遡るということになり、縄文から弥生への社会変動を生み出したきっかけが、大陸における春秋戦国の大規模な軍事行動に誘発されたものであるという説が揺らいでくることになる。紀元前10世紀頃の(中国)大陸といえば、まず思い浮かぶのが、「酒池肉林」の故事で有名な殷(商)の暴君紂王(受辛)から周(西周)の武王(姫発)への暴力的手段(放伐)による政権の移動(「殷周革命」と呼ばれている)が起きた時期として知られる。それ以後、3,000年間に及ぶ中華帝国諸王朝の政権移動の神学的モデルとなった殷から周への易姓革命の時代に、日本の弥生時代が始まったとすると、先ほど述べたような「大陸の戦国動乱が日本列島に劇的変化をもたらした」ということの合理的な説明にならない。
興味深いことに、日本列島においては、大陸では、青銅器文化が千年近くも続いた後に、やっと鉄器が使われるようになり(註:中国に限らず、メソポタミア・エジプト・ギリシャなど、世界各地の古代文明は皆、長い年月をかけて青銅器文化から鉄器文化への移行が進んだという点で共通している)、そのことが軍事戦略や農業技術に対して大きな変革を与えたが、金属器文明の後発国である日本には、本来ならばその成立に1,000年間ほどの時間差があるはずの青銅器と鉄器がほぼ同時代に伝わり、しかも、そのわずか数十年後には既に、日本製の鉄剣(中国の剣より切れ味が良かった)が、「本家」である大陸に大量に輸出されるという、現代にまで通じる日本人のものづくりについてのただならぬ情熱(参考:『「ものつくり大学」って、なぁに?』が証明されるような事態に至っていた。ものごとは、必ずしも、「発祥の地」における発展史を後追いするとは限らないということの証拠でもある。
このことは、例えば、放送ツールの発展史と類比すれば解りやすい。日本(をはじめ先進国一般)では、第2次大戦後に、戦前から普及していたラジオのトランジスタ化(小型化)から始まり、白黒テレビ、カラーテレビ、そして、衛星放送やデジタル技術によるハイビジョン(高品位画質)化といった順序で放送手段が進化し、それに伴って、それらを受信する新しい家庭電化製品が次々と普及してきたのに対し、アジアやアフリカの奥地では、テレビはいきなり衛星放送から始まったのと同じ感覚である。このことに対し、先進国の人々が「われわれは、臨場感のない白黒テレビから待ちに待って50年、やっと高品位(註:あくまで画質が高品位なのであって、内容が高品位であるということを指すのはいうまでもないが)のデジタル放送に至ったのだから、お前たち途上国の人間が、いきなり臨場感のあるデジタル放送から楽しむのは贅沢だ」とは言えないのである。
しかし、日本における鉄器と青銅器の関係は、これらの法則とは少し異なっていた。より性能の高い鉄器は、初めから武器や農機具に使われたが、日本に伝わった時には、既に旧式の金属器となっていた青銅器は、「時代遅れ」のものとして、何も省みられずに捨て去られたかというと、どっこい銅鐸や鏡をはじめとする宗教儀礼用の道具として価値を有し続けた。恐らく、鉄と違っていつまでも錆びない青銅(現代でも彫像などは一般にブロンズで造られる)の持つ独特の質感に古代人は霊性を感じたのであろう。今でも、神社のご神体になっている鏡や剣は、たいてい青銅製のものである。
▼ 殷王室も足利家も滅びなかった
殷(註:中国では「商」王朝と呼ばれているが、日本での慣例に従い、一応「殷」と呼ぶ)王室の姓は「子」である。一般に歴史の教科書では、「殷から周へと王朝が交代した(殷周革命)」と習うが、そのことは、「中原地域の諸侯連合の盟主の地位が殷から周へと移った」ということであって、「殷王朝が完全に滅んだ」ということを意味しているのではなかった(註:紂王の後裔は諸侯のひとつに封じられたにもかかわらず、武王の死後、反乱まで起こしているということは、それなりの勢力があったということの証左)。ちょうど、織田信長の天下統一によって日本の戦国時代に終止符が打たれたが、実質的には、その百年前の「応仁の乱」以後は、足利将軍家は諸侯連合の長(源氏の長者=征夷大将軍)として、天下に号令する実効性が失われていたにもかかわらず、形式的にはなお足利将軍家を戴した室町幕府が継続していた。
信長が室町幕府の第15代将軍足利義昭を追放(1573年)したことによって、全国的な統治機構としての室町幕府は完全に消滅したけれども、江戸時代に至ってもなお、諸侯の一家(1万石の大名)として、足利家(註:水戸徳川家との特別の繋がりを維持し、もし足利家に跡継ぎがいない時には、水戸家から養子を迎えてまでして、足利家の断絶が阻止された)が存続していたのと同じ理屈である。他にも、「本能寺の変」(1582年)で天下人としての信長とその長男信忠は倒されたが、徳川幕府の治下においても、織田家自体は存続していた。信長の弟、織田長益(茶号は有楽斎)の屋敷のあった場所は、彼の名前に因んで「有楽町」と名付けられ、現代にまで名を残している。
それでは、周の武王によって諸侯に封じられた後、反乱を起して中原を追われたかつての覇王、殷王の一族はどこへ行ってしまったかというと、現在の中華人民共和国の省名で言うと、殷の故地である河北省・山東省から、遼寧省・吉林省へといった渤海湾の対岸地域(満州)へと東遷させられた。もともと、周は西方の遊牧民族に起源をもつと言われる王朝である(註:この時期、既に南方には、楚が周に匹敵する勢力を誇っていたことは、周室以外の諸侯の中で、楚が最も早く「王」号を名乗っていることからも判る)。しかたなく、殷は東方へと追われ、周室から箕姓を賜って、ついには、古代朝鮮王朝(箕氏朝鮮)を打ち立てるに至った。これが、現在でもキム・イルソン(金日成)の建国神話とダブらせて、北朝鮮で広く神格化されている「檀君神話」の原形なのである。
また、周王朝の一族、つまり「姫」氏が、遥か東方の蓬莱(日本)にも流れ着いた(註:これが紀伊国の国造家である紀氏によって祀られた「天照大神」だ)という説もある。2000年の5月に上梓した『南海道:太陽と海の道』において、日本の天照大神の神話に通じるプロットとして、私はこの箕氏や姫氏の話を取り上げたことがある。このように、ある国のある地方で起きた出来事が、意外なほど長期間にわたって周辺諸国に影響を及ぼし、また相互に影響を与え合っているのであるから、「弥生時代の始まりが500年早くなった」という説は、単に放射線考古学の研究成果の域を超えて、北東アジア古代史の根本にかかわる問題すら内包しているのである。