天河弁財天と桃太郎
 03年06月06日


レルネット主幹 三宅善信

▼イラク戦争と鬼退治

 この春、世界の目はイラク(大量破壊兵器の査察をめぐる米英と仏独露の国際政治上のかけひきと、それに続く米英によるイラクへの軍事侵攻)へと注がれていたが、天の邪鬼である私は、イラク問題の背景について、桃の節句の日(3月3日)を選んで、西暦2565年という遥か未来の時代のお伽話『桃太郎バグダッドへ征く』.jp/relnet/brief/r12-を上梓したところ、たくさんの人からコメントを頂いた。その中には、これまで「レルネット」というサイトの存在すら知らなかった人も何人かいた。

 ということは、恐らく検索エンジンで何かのキーワードを探っていくうちに、同作品に到り着いたものと思われるが、当然、イラク情勢の逼迫(ひっぱく)から、「バグダッド」という言葉だけでも世の中に溢れていたであろうから、同作品に到達するためには、もうひとつのキーワードである「桃太郎」が必須条件になるはずである。ヒット数の増大は、この意外な組み合わせの妙のおかげである。しかし、よく考えてみれば、「桃太郎」もまた、別の意味で人々の関心を惹くテーマであり、それ故、桃太郎の「鬼退治」を、ブッシュ大統領による「フセイン退治」に重ねた人が多かったのだろう。実は、私は以前から、桃太郎あるいはそれ以上に、というものについて特別な関心を抱いていたので、一見、何の関係もないいろんな話を桃太郎の説話と関連させてしまう傾向がある。


▼初めて天河神社を訪れる

 私は、『桃太郎バグダッドへ征く』を上梓した翌日の3月4日から5日にかけて、平成神道研究会のフィールドワークとして、「修験道の聖地」である大峯山麓の天川村に鎮座する天河大弁財天社(通称:「天河弁財天」あるいは「天河神社」)および、「水の神」である八大龍王を祀る龍泉寺ならびに丹生川上神社の下社(註:上社は大滝ダムの建設に伴いダム湖の底に水没するので数年前に移転した)を訪れたが、中でも、天河神社の柿本神酒之助宮司から親しく話を伺う機会に恵まれた。


まだ雪が残る龍泉寺の境内で

 私の住む大阪市内から近鉄特急に乗って約1時間、吉野線の下市口駅で下車し、そこからタクシーに乗り換えて約40分で行ける距離であるが、大峯山天川という言葉の響きが、私にはたいそう山奥と感じられたのか、残念ながら今まで大峯山や天川の地を訪れたことはなかった。その手前の吉野ですら、2年前にクワガタムシ獲り(註:なんと、その時捕獲したクワガタムシは、交尾をさせた個体を除いては、丸2年経った現在でも健在! である。私の昆虫飼育技術の良さと、セックスがいかに生体エネルギーを浪費させる行為であるかの2点をあらためて自覚させられた)に行ったのが初めてだった。3月4日の天川(註:地名の時には「天川」と書き、神社の名前には「天河」と書く)は、暦の上では、春とはいえ、折りからの寒波のぶり返しで、山間にはあちこちに残雪も見え、道路も凍てつく氷点下3度という厳しいものがあったが、その中を、肺炎を患い、咳で咽(むせ)びながら38.5℃という高熱(註:その1週間ほどのあいだに、中国人を含む十数カ国の外国人と次々と出会ったので、長引く咳と高熱、それに息切れなど、SARSを疑われるに足る症状であった)を発しながらも、今回のフィールドワークに参加し、天河弁財天を訪れ、その晩は、天の川(註:七夕の頃には、天空の「天の川」と地上の「天の川」という名河川の位置関係がシンクロするそうである)を少し上った洞川(どろかわ)温泉に一夜の宿をとった。

 天河神社に正式参拝の後、社務所で柿坂宮司にお目にかかった際、「1993年の万国宗教会議百周年記念行事(註:1893年のシカゴ万博の際に、数千人の参加者を集めて開催された「万国宗教会議」が、その後の国際的な諸宗教間対話の動きの端緒になった。1993年には、その百周年を記念して世界各地でイベントが開催された)の際に、(柿坂宮司から3,000万円相当の移動式能舞台の寄付を頂いて)伊勢で観世流の宗家(観世清和氏)を招いて、奉納していただいた薪能の際には大変お世話になりました」とご挨拶したら、柿坂宮司のほうから、「以前、三宅さんのところの泉尾教会にも寄せていただいたことがあります。立派な教会ですね」と言われて、驚いてしまった。大阪に戻ってから記録を調べたら、確かに柿坂宮司がうちに来られたことがある。私としたことが、不覚であった。


天河弁財天社の柿本神酒之助宮司と筆者

 天河神社で柿坂宮司から伺った話の中で、私が最も感心したのは、柿坂宮司の口から出た「私は術(呪術)は信用しないんです」という言葉である。なぜなら、天河神社へ参詣する人のほとんどは、(あるいは気功風水)指向の人だからである。『主幹の主観』愛読者の皆さまは既にご承知かと思うが、私は「現場」の宗教家であるにもかかわらず、術だの、気だの、霊だの、占いだのといった類の話は、聞くことからして大嫌いである。正直言って、少しオドロオドロしい雰囲気のある天河神社で、この手の話を聞くはめになったらどうしようと心配していた。にもかかわらず、医学部に入学したものの、大学生時代にゴルフ狂からヒッピーになり、アフリカ・アジア各地を放浪したという、神職としては変った経歴を持つ柿坂宮司の口からは、私と同じく、非論理的(註:ここで言う「論理的」という意味は、その説が一般社会に受け入れられるか否かという意味ではなく、たとえそれがどんなに突拍子もない説であったとしても、「その仮説の中において論理の展開に整合性があるかどうかが重要」という意味であることは言うまでもない)な議論が嫌いな態度が見て取れた。中でも、古事記の上巻いわゆる『神代記』に登場する神々の相関関係についての柿坂流の解釈が大変興味深かった。


▼百と五十の意味について

 柿坂宮司の説によると、天之御中主神(アメノミナカノヌシ)、高御産巣日神(タカミムスビ)、神産巣日神(カミムスビ)に始まる古事記『神代記』(註:「神代記」に対する私の解釈については、本年1月に上梓した神道はクローンによって誕生した』で詳しく論じているので、まだお読みでない方は、是非、ご一読いただきたい。ともかく、「神代記」の冒頭に登場する名前だけあって具体的な事跡のない何人かの「古い神」は皆、後から付け加えられた「新しい神」である)に次々に登場する神々の構造(関係性)を考えていくと、そのほとんどは無性生殖によって生まれる(成りませる)神である。


柿坂説による開闢神話の神々の系譜図

 それらの神々の中には、およそ高貴な神らしからぬ誕生の仕方をする神々が何柱か登場する。例えば、火の神である火迦具土(ホノカグツチ)の出産に伴い、女陰部(ホト)を焼かれてのたうちまわる伊弉冉命(イザナミ)の嘔吐から生じた金山毘古(カナヤマヒコ=金属加工の神=(株)トヨタ自動車は、この神をその配偶神および尾張国最高の神である熱田大神との三柱を祭神とする「豊興神社」という株式会社営の神社を本社内に祀っている)や、糞尿から生じた波邇夜須毘古(ハニヤスヒコ=土器加工の神)など、排泄物から生じた神が何柱かある。そういう禍々しい誕生の仕方をした神々を除いて(註:私には、何故これらの神々が排除されるのかは解らないが…)、「まっとうな誕生の仕方をした神様」を数えていくと、いわゆる「三貴神」であるところの天照大神(アマテラス)が98人目、月読命(ツキヨミ)は99番目、そして、素戔嗚尊(スサノヲ)が100番目に当たるそうだ。つまり、アメノミナカノヌシに始まり、スサノヲに終わる神々のパンテオンが、百というある種の完全性を持った数字で終わる(註:というか、むりやり終わらされる)ということになる。

 しかも、この百という数字を半分に割ると五十という数字になる(註:「この前半の50が、日本語の「50音」に相当し、それぞれの音が意味世界(言霊)を有し、後半の50がその解釈である」という説がある)。この五十という数字も、古代の日本人にとって特別の意味を持っていた。決して冒してはならない伊勢の神宮の神域を流れる清らかな五十鈴川の五十鈴(いすず)であり、また、天河神社のお守りとしても知られるユニークな形――トリニティ(三位一体)を象徴する三角形――をした鈴も「五十鈴」と呼ばれている。どうやら、「五十音言霊」説の真偽は別としても、少なくとも神道では、50という数字(語呂)が何らかの原理をシンボライズしていることは間違いないようである。そういえば、スサノヲの息子である五十猛命(イソタケル)とか、彦五十狭芹彦命(ヒコイサセリヒコ=吉備津彦命)等かなり多くの「五十」という数字を内包した神名が登場する。


天河神社と言えば真っ先に想
起する独特の五十鈴

 同様に、百という数字(語呂)にも何らかの意味はありそうだ。スサノヲは、「天地開闢(かいびゃく)神話」の棹尾を飾る(註:『NHK紅白歌合戦』なら大トリだ)100番目に生れた男性的な猛々しさが神の威力として象徴的に描かれた(スサノヲ=凄まじい男)人格神であるが、この「百」という数字も、桃太郎の「もも(百)」いう名前にも使われているくらい、古代の日本人にとっては、特別の意味を持つのであろう(参照→『峠と辻:岐路に坐す神々』。よく知られた神話に、イザナギが黄泉の国から這々(ほうほう)の体(てい)で逃れる時に、「この世」と「あの世」の境界線である「黄泉津平坂(よもつひらさか)」で、魔除けとして持っていた桃の実を投げていのち拾いしたように、植物の一種である桃と同時に、百でもある「モモ」という言葉には、ある種の言霊があるように信じられていた。「百」という字が名前についた神で、まっさきに思い浮かぶのは、百襲姫(モモソヒメ:「百回襲う」とは、恐そうな名前がついた女神であるが、正式には、倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)と呼ばれ、大和国三輪山に鎮まる大物主(オオモノヌシ)の后となり、死後、「最古の前方後円墳」と言われる箸墓古墳に埋葬され、邪馬台国の女王卑弥呼のモデルになったとされる人物である)である。


▼前鬼・後鬼とは何者?

 これは一種の数字のシンボリズムなのである。それ故、『桃太郎』の物語の持つ神話的な意味は大きい。そして、その桃太郎に付きものなのが、『桃太郎バグダッドへ征く』にも登場した「鬼」(註:もちろん、「鬼(的存在)」自身「桃太郎」以上に深い意味を有していることは言うまでもない)たちである。天河神社の鎮座する大峯地方で活躍した修験道の開祖は、言うまでもなく「役行者(えんのぎょうじゃ)」として知られる役小角(えんのおずぬ)である。

 その役行者が大峯の山々を修行して回った時に、いつもその随行者として、「前鬼」と「後鬼」(もう少し気の効いた名前を付けてやってほしい)と呼ばれる2人の鬼がいたそうである。『水戸黄門』で言えば「助さん&格さん」に当たるなくてはならないキャラである。大相撲の土俵入り(註:「土俵入り」そのものが、「日本開山、天下無双」の角力が大地を踏みしめることで、地の邪気を追い祓うという神事である。その証拠に、土俵入りの際に四股を踏むことを特別に許された神聖な存在である横綱は、神社に参拝する時のように、柏手(かしわで)を打って土俵に上がり、腰には注連縄(しめなわ)も締めている)で言えば、「露払い&太刀持ち」に当たる役割を、前鬼と後鬼という2人の鬼が果たしているのである。お徳の高い(法力の強い)行者様のいわばお供をしているわけであるから、この鬼たちは、後の時代にもたびたび登場するいわゆるのような、人々に忌み嫌われる存在ではなかったものと類推できる。それにしても「前鬼&後鬼」というネーミングは妙である。仏像によく見られる「三尊形式」なら、役行者を中心(本尊)にして「左鬼&右鬼」と言うべきであろう。もう少し考察してみる必要がある。

 実は、百襲姫が主人公の三輪山の神話(註:「三輪山の意味」については、萬遜樹氏の『三輪山から伊勢へ』を参照されたい)には雷神や鬼が登場する。吉備津彦に退治された「温羅(うら)」という名の鬼と同様、三輪山の鬼も、製鉄技術と関連していた集団を指すものと思われる。長期間、製鉄作業に従事すれば、その人の皮膚は溶解した鉄の発する輻射熱の影響で、赤銅色に焼けたであろう。一般人から見れば、かなり「異形の集団」だったはずである。映画『もののけ姫』に登場した前衛的な女性「エボシ御前」に率いられた製鉄集団も、農耕民を統治している朝廷(「天朝様」と呼ばれていた)や武家政権(「浅野公方」と呼ばれていた)の権威を認めようとしなかった「異形の山の民」であった。そして、この吉備津彦(正式には、彦五十狭芹彦命)が桃太郎(百太郎)のモデルになったのである。見事、五十と百が繋がった。しかも、それを媒介したのは、製鉄に従事した「鬼」と呼ばれた集団だったことも判明した。そう言えば、『魏志倭人伝』に描かれた卑弥呼は「鬼道に仕えて」いた。

 一般に、昔話に登場するの多くは、むしろその凶暴性というよりも、その異形さと、その存在の発する強烈なパワーをして尋常ならざるものを「鬼」と表現したのであろう。この世のものとは思えない尋常ならざる力が、われわれ一般社会(註:王朝社会→武家社会→市民社会の持つ公序良俗)からみて、ネガティブな方向に行使されるか、ポジティブな方向に行使されるかは、むしろわれわれの側の態度に依存しているのである。もし、平安時代にボブ・サップが京の街を彷徨いていたら、人々は間違いなく彼を「鬼」として表現したであろう。源頼光に「退治された」酒呑童子も、現代の東京に現れていたら、きっと人気者になれたはずである。

 個々人が、尋常ならざる異形の集団(カルトも含めて)に対して、その自己保存本能故にこれを敬遠するのと、民主主義社会において公権力がこれをただ「異形である」が故に、公序良俗を脅かす存在として敵対視するのとでは、全く次元が異なる。しかし、わが国においては、8世紀の律令制度確立以来一貫して、公権力によって統治可能な人々のみを公民として社会の保護(同時に搾取でもある)の対象とし、そうでないものはすべて公的社会から排除される傾向が強く、この傾向は21世紀の現在においても強く見られる日本人の特質のひとつであろう。


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