魚木に登る竹生島  
03年06月15日


レルネット主幹 三宅善信

▼出雲の阿国四百年

  5月25日、京都の北野天満宮で『出雲の阿国四百年記念』(註:関ヶ原の合戦から3年が経った慶長8年(1603年)、江戸に幕府が開かれた年に、京都四条河原で男装した出雲の阿国(おくに)が公演中に、客席の中から現れた役者名古屋三山(なごやさんざ)の霊と共にトランス状態で踊りまくった(バブル期の「ジュリアナ」状態)阿国歌舞伎を興行したところ、不隠な世相と相まって、民衆から爆発的な人気を得た)と銘打ったの歌舞伎舞踊が奉納された。今からちょうど400年前の5月25日、阿国は男前ぶりで人気を博した役者を名古屋三山の霊を慰めるために、北野の天満宮で念仏踊りを奉納したと伝えられている。このイベントに、私は、昵懇にしている歌舞伎舞踊村山流の家元村山左近氏から招かれて出席した。夕暮れ時の北野天神の境内で行われた歌舞伎舞踊は、近代的な劇場で公演される、たしかに芸として洗練されてはいても、定式化され、商業化されている現代の歌舞伎とは、まったく異なる舞台と客席(特別な座席なんぞなく、その辺に適当に座ったり立ったりして観ている)が一体となった(フィナーレには、「おひねり」も飛び交い、客も舞台に登壇して、共に多いにかぶいて総踊りとなった)往時を偲ばせるものであった。



阿国の往時を偲ばせる歌舞伎踊り

  引き続き、北野天満宮の社務所で行なわれた直会(なおらい=祭事の後に行なわれる宴会)までご一緒した私は、その夜は大阪の自宅へ戻らず(京都最古の花街である上七軒に泊したかどうか不問)、翌日は、琵琶湖の北西端にある滋賀県高島郡今津町のとある湖畔で、雨天にもかかわらず、ハゼ科の小魚ヌマチチブ釣りに興じた後、夕刻になってから竹生島を訪れた。私は幼少の砌(註:弟の出産に伴い、当時1歳10ヵ月であった私は、高島郡高島町にある母の実家に預けられていたことがある)より、何度も雄大な湖面に浮かぶ竹生島を眺めたことがあったが、よく考えてみれば、四十数年間の生涯で、一度もこの島を訪れたことはなかった。

  古来より人々の信仰を集め、謡曲の舞台にまでなった竹生島ゆえ、前々から「一度、竹生島を訪れたいものである」とは思っていたが、これまで時節に恵まれず、実現したことがなかった。同じく能で詠まれた『白髭』神社に到っては、湖上に浮かぶ鳥居と社殿の間を横切る国道161号線を何十回も通った(境内地を横切った)ことがあるのに、これまた一度も訪れたことがないのが、考えてみれば不思議なことである。季節はずれの台風4号の接近で湖が荒れ、また午後の遅い時間だったということもあり、「志賀の浦」ならぬ近江今津港から出航した連絡船(定員約80名)には、他にお客はひとりもいなく、完全な「貸し切り状態」で霧雨に煙る竹生島を訪れた。それだけに、商業化された現在の竹生島観光の雰囲気ではない、まさしく、謡曲『竹生島』に詠まれた風情(「緑樹影沈んで、魚木に登る気色あり。月海上に浮かんでは、兎も波を奔るか。面白の島の景色や」と詠まれたような幻想的な景色)であった。


▼魚木に登る気色?

  竹生島についてご存知ない読者もおられるだろうから、少し竹生島の由緒について触れておこう。そもそも、この島(註:主な移動・輸送手段が陸上あるいは航空機である現代の日本人にとって、「島」と聞くと、何か文明の中心地から隔絶された辺鄙な場所のように感じるが、舗装された道路やエンジンで動く乗物のなかった19世紀以前の社会では、港を抱えた「島」は、現代の国際ハブ空港のような交通の要所であり、遥か外洋にある壱岐・対馬や伊豆七島などにも、『延喜式』にまで記録が残っている多くの神社が立派に祀られた)に宮が建てられるようになった故緒は、『竹生島縁起』によると、東大寺をはじめ全国に国分寺を建立した、ある意味で「仏教かぶれ」であった聖武天皇の夢枕に天照大神(註:一般に、天照大神が登場するエピソードは、たいてい後世の創作である場合が多い)が現れ、「近江(おうみ=琵琶湖)に浮かぶ島に弁財天を祀ってほしい。そうすると、国家に繁栄がもたらされるだろう」という夢をみるところから始まるのである。聖武天皇は早速、東大寺建立の時と同じく、超法規的処置による「民間活力の導入」ということで、神亀元年(724年)、民衆にカリスマ的人気のあった私度僧(註:当時の仏教僧は国家公務員であり、所定の手続を経て国立戒壇で得度する以外の個人的な出家(私度)は、法律によって固く禁じられていた)行基に命じて、湖中の懸崖竹生島に一寺を建立し、弁財天を祀らせた。


西国三十三ヶ所観音霊場のひとつ
竹生島宝厳寺

  その後、この霊験あらたかな竹生島を目指して、平安時代には、貴賎を問わず多くの人がこの島を訪れるようになるのである。『平家物語』にも「竹生嶋詣」のエピソードが挿入されているし、謡曲『竹生島』も、この島の神秘的な雰囲気を詠じている。謡曲『竹生島』の粗筋をかいつまんでみると、理想的な治世であったと後年に伝えられている醍醐天皇の御世(註:それ故、天皇中心の理想的な統治機構を回復しようとして、鎌倉幕府を倒し、「建武の新政」を始めた後醍醐天皇は、自ら「後醍醐」という諡名(おくりな)を定めた。因みに、「建武」という元号も、漢王朝を復活させた後漢の初代皇帝である光武帝の元号から借用している)に仕える廷臣(架空の人物)が竹生島にお参りするという設定で話は始まる。

  「竹生島へ参詣しよう」と休暇願で出して都を出た身なりの良い朝臣が――ほぼ現在の京阪電鉄の京津線(三条→浜大津)のコースに沿って約12kmの道路を――山科の四宮から逢坂の関を越し、大津の走井を過ぎ湖岸の志賀の浦までとりあえず来たけれど、そこから「どう進もうか?」と思っている矢先に、ピッタリのタイミングでそこにやってきた漁師のお爺さんと娘さんの舟に乗せてもらって無事、竹生島まで行くという「都合の良い」話である。因みに、志賀の浦から竹生島までは、直線距離にして60kmもあり、とても手漕ぎの小舟で行ける距離ではない。しかも、謡曲では、湖上から見た桜の咲く湖西地方の風情が詠み込まれているが、実は、この時期の琵琶湖には、「比良八講荒れ終い」という言葉があるくらい、比叡颪(ひえいおろし)が吹き、波が高いので、船旅はそれほど容易なものではないと思われる。これらの要因からも、謡曲『竹生島』の作者は、この歌を想像で創ったことが判かる。



「緑樹影沈んで、面白の島の景色や」と
詠まれた竹生島

  ところが、高速艇を飛ばしても相当時間がかかるこの距離(60km)を、老漁師の漕ぐ小舟は、あっという間に、目的地である「竹生島」に着いてしまうのである。この辺が能の世界の便利なところだ。先述した「魚木に登る気色あり」というのは、この竹生島の島影が湖面に映る幻想的なシーンを詠んだものである。湖面に映る島の緑樹の中を、水中で泳いでいる魚が「まるで木に登っているように見える」というのも、なかなかの詩心である(因みに、私が船を待つ間、湖畔で釣っていた魚のヌマチチブは、地元では「ゴリ」と呼ばれる「ヨシノボリ」の仲間で、腹部にある吸盤を使って本当に岩や流木に登ることができる。さらに、現在の竹生島は、いったん絶滅しかかった「カワウ(川鵜)」を保護したところ、今度は殖えすぎて、1万羽以上ものカワウがこの天敵のいない小さな島で営巣し、糞害まで起きているそうで、まさに、「兎も波を奔るか。面白の島の景色や」の「ウサギ(卯)」ならぬ「鵜」が波を奔っている)。

  そして、彼らは霊現あらたかな竹生島の宝厳寺(註:明治維新初期の「神仏分離」という文化破壊の暴挙によって、由緒ある西国三十三ヶ所観音霊場のひとつ竹生島は、宝厳寺と都久夫須麻(つくぶすま)神社とにむりやり分離された)に参詣し、念願の弁財天を拝することになるのであるが、実は、延臣を送ってくれたこの親切な漁師のお爺さんの正体は琵琶湖の主である龍神であり、またこの娘さんというのが、竹生島のご神体である弁天様その人であったのである。能によくありがちなオチである。


▼「水多きところ」とは?
 
  さて、前作『天河弁財天と桃太郎』でも話題になったが、そもそも、弁財天とは、いったい何者なのであろうか?「幕の内弁当」的寄せ集めが好きな日本人の感性によって、出身地も性格も異なる神様たちがユニットを組んだ「七福神」の中で、残念ながらヴォーカルではない(註:ベースならぬ琵琶を持っている)けれど、紅一点の女神様である弁財天は不思議な神である。もともとヒンズー教の河の女神であったサラスバーティが中国経由で日本にもたらされたものである。因みに、七福神の内、この弁財天の他に、毘沙門天(註:財宝の神クーベラが仏法護持の神となり、鎧に身を包み鬼を踏みつけている)と大黒天(註:死を司る暗黒の神マハー・カラー)のように、「○○天(=deva)」と付く神はみなインド原産の神(deva)である。それから、中国原産の布袋尊、福禄寿、寿老人の3人。そして、メンバー中、唯一の日本人が恵比寿である。

  弁財天は、インドにあったサラスバーティという河が神格化された神(註:『千と千尋の神隠し』にも、オクサレ様(=名のある河の神)とハク(=ニギハヤミコハクヌシ)という2人の「川の神様」が登場している)であり、後に饒舌の神ヴァーチが同一視されるようになり、サンスクリット語で「水多きところ」といった意味のサラズバーティは、豊穣をもたらす水の神から、学問や伎芸を加護する神としての性格も帯びることとなった。浅学ゆえ、いかなる必然性を持って弁財天の「財」の漢字がとに書き分けられるのかを私は知らない。さらに、この女神は日本にもたらされてからは、神道の市杵島姫命(いちきしまひめ)とも同一視され、また、観世音菩薩の化身のひとつ(註:竹生島は西国三十三ヶ所観音霊場巡りの第三十番札所として人々の信仰を集めている)とも考えられるようになった。


明治維新期の神仏分離の産物
「都久夫須麻神社」

  いずれにしても、「水多きところ」という言葉が指すように、ここ近江国の竹生島以外にも、弁財天が祀られているという所はみな、相模国(神奈川県)の江ノ島、安芸国(広島県)の宮島こと厳島(註:古くから「日本三弁天」と呼ばれている)のように、いずれも周囲が海または湖で囲まれている。それ以外にも、人工の池である上野の不忍(しのばず)の池にも中の小島には弁財天は祀られていたし、陸前(宮城県)沖の金華山や大和(奈良県)の天川村にも、弁財天は祀られている。これら竹生島、江ノ島、宮島、金華山、天河の弁財天が一般的には有名である。因みに、弁財天の短縮形である弁天という地名がつく所は、たいてい水に縁がある。JR大阪環状線でも、わが大正駅(大正橋に因んで命名された)の西隣は弁天町駅(港区)であり、東隣は芦原橋駅(浪速区)である。大正区も港区も、まわりを運河と大阪港に囲まれた「陸の孤島」である。また、環状線の反対側にある大阪城公園に隣接する大阪ビジネスパークも寝屋川と第二寝屋川と囲まれた地形であり、弁天橋という地名が残っている。

  実は、七福神の神々は、元来、それぞれ体に障害を抱えた「福(ふく)の神」ならぬ「不具(ふぐ)の神」であったという説がある(註:例えば、恵比寿神は、イザナギ・イザナミの最初の子である蛭子(ヒルコ)が、現代人の倫理観から言えばひどい話であるが、その身体的障害故に葦舟に乗せられて海へ捨てられたが、まさに「棄てる神あれば、拾う神あり」で、漂着先では「客人(まれびと)蛭子(エビス)」として、神(恵比寿)として祀られるようになった)が、中でも、何不自由のないように見える紅一点の弁財天も、その美貌ゆえ、多くの男性から声を掛けられたが、彼女は現在で言うところの子宮筋腫のような病気を患っており、「子を産めなかった」と言われている。この辺と、元来の「水」の神をかけて、弁財天を本尊としている辯天宗などでは、「水子供養」を強調している。レルネット主幹としても、これからもますます饒舌(舌技が巧くなるようにという意味ではない)の神弁財天のご利益に与かれるように、最後に弁財天の真言「オン ソラソバティエイ ソワカ」を唱えて筆を置きたい。


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