新国姓爺合戦:大陸と台湾どちらと組む?  
03年06月30日


レルネット主幹 三宅善信

▼「勝てば官軍」か?

 「夏越しの大祓(水無月の晦の大祓)」の季節である。「都市と伝染病と宗教の関係」については、これまで何度も採り上げてきた。新型肺炎SARSに感染していた台湾人医師による関西地方の周遊旅行がもとで、日本国内でもちょっとしたSARS騒ぎが起きたが、今回の騒動を通して日本人と中国(註:ここで言う中国人とは、伝統的に「漢民族的な生活様式を踏襲してきた人々」という意味で、「中華人民共和国の国民」という意味でないことは言うまでもない)とでは、公衆衛生についての感性が大きく異なるということが明白なるという副産物があった。私は、そのことを取り上げた作品『SARS問題にみる誰も語らない中国』において、「浄・不浄」をキーワードとして、日中の文化の違いを分析したが、そのことからも判るように、彼らには、華人民共和(大陸)と華民(台湾)という政治的・経済的な体制の隔たりを超えて共通する中国人としての生活習慣があるということについて述べたので、今回は逆に、地政学(geopolitical)的な観点から両者の(大陸と台湾)考え方の違いについて考えてみたい。

 ところで、今回のイラク戦争の結末として、国連安保理は、米英両国に対して、戦後イラクの実質的統治権を認めた。つまり、3月の時点では、安保理で合意をみることができなかった「対イラク戦争」を、米英両国が安保理を無視する形で実行し、戦闘行為としては「圧倒的勝利」をおさめてしまったという事実である。しかも、アメリカが、安保理のお墨付なしでもイラクを先制攻撃することができる「正統な理由」として揚げた「(危険な独裁者による)大量破壊兵器の所有」そのものが、これだけイラク国内を探し廻っても見つかっていない(註:つまり、今回の戦争の大義名分はデッチ上げの言いがかりであった)にもかかわらず、結果的に圧勝さえすれば、「勝てば官軍」の論理で、安保理が米英両国の所業を事後承認することになるという、国連という国際社会の安全保障システムにとっても、大きな禍根を残す結果となった。このを修復するために、安保理は5月中旬、イラクの友好国であったシリア(棄権)を除く14カ国の全会一致で、「米英両国が今後1年間イラク統治で責任を持つ」という決議を採択した。


▼東南西北白發中?

 今回のイラク戦争が、第二次世界大戦後に世界の各地で起きた数々の国際紛争と大きくその様相を異にしていたのは、それまでの「社会主義陣営VS資本主義陣営」、あるいは「民族自決運動VS植民地宗主国」といった東西対立や南北対立といった対立構造の顕在化としての戦争ではなく、これまで、一応は「仲間同士」ということになっていた西側資本主義先進諸国が真っ二つに別れて覇権を争うという、ある意味で、第二次世界大戦と同じ構造に戻ってしまった。この状況を読み解くキーワードは「東南西北白發中」である。

 イラクを取り巻く国際政治の一方の主役は、「血の同盟」である米英両国の「腹黒サクソン」連合であることはいうまでもないが、他方の仇役は、「Pax Americana(アメリカの支配による平和)」というアメリカの「一人勝ち」を望まないフランス・ドイツ・ロシアの3国による「合従」戦略である。当然のことながら、エビアン・サミットでも見られたように、戦争後もこの構造はあまり変化していない。そういう意味で、今回のイラク戦争は、過去半世紀にわたる東西・南北という対立軸が崩れた歴史的な出来事だった。東西・南北の二極対立構造が崩壊し、「白牌」(註:白人であるアングロサクソン)と、「緑發(註:動き回る遊牧民の多いイスラム圏の国旗の色は緑である)と、「紅中(註:新たに覇権を狙う共産主義中国)という三極構造で説明できる。

 今回の戦争では、米英連合に積極的に加担した国が他にもいくつかあった。豊富な石油資源に恵まれたアラビア湾に面し、対イラク戦争が自国の安全保障にとっても極めて重大な問題であったカタール等の湾岸の弱小諸国が、米英軍に基地を提供(註:逆に、国内にイスラム原理主義者を多数抱え、必要以上の対米協力がイスラム世界における「聖地の守護者」としての地位と、石油資源による富を独占しているサウド王家は、サウジアラビア国内にイスラム革命が派生することを恐れて、今回は表立った対米協力をしなかった)したりして、これに協力したのは当前だとしても、それ以外にも、フセイン政権の存在が直接、自国の安全保障になんの関係もないオーストラリアまで、イラク戦争に兵力を派遣し、スペインは戦前の国際社会の合意を形成するプロセスにおいて米英側を積極支援した。日本も、憲法第9条に関わる従来の多くの自己規制政策を反故にする形で、相当な戦争協力を行った。


▼海洋国家VS大陸国家

 これらの米英西豪日という国々に共通する要素は、「海洋国家」ということである。スペインとイギリスは、かつて実際に「七つの海」を支配した「陽の沈まない」世界帝国であったし、アメリカやオーストラリアは、大陸がまるまる国になったような新興の海洋国家である。島国である日本が海洋国家であることはいうまでもない。一方、フランス・ドイツ・ロシアは、典型的な「大陸国家」である。そういえば、イラクの北側に隣接するトルコも、いつもとはうって変わって今回の米英の軍事行動に非協力的であった。21世紀の覇権国を目指す中国も、あからさまではないにせよ、仏・独・露連合のほうを支持していた。こうしてみると、今日のイラク戦争で世界は「海洋国家」対「大陸国家」という対立軸に2分されたのである。海洋国家の特徴は、基本的に国境線というもので接する隣国を有しない。あるいは、仮に、国境線を有していても、ほとんど攻めてこられる可能性が少ないという歴史を持っている。一方、大陸国家には、常に隣接する「仮想敵国」が存在し、長年にわたる異民族との攻めぎ合いの中で、歴史が形成されてきた(註:漢民族がその典型で、常に周辺諸民族の緊張関係の中で、歴史が形成され、独自の「中華思想」が体系づけられた)という経緯を持っている。この両者の違いが、それぞれの国家の対外政策に与える影響は大きい。

 確かに、日本(註:近代に至るまで、外国人の存在が目に見えて実感できないということがその世界観に与える影響は、はかり知れないほど大きい)やオーストラリアといった「国境線」というものを持たない、まるまる「島ごとひとつの独立国」になっている純然たる島国もあれば、アメリカには、確かに「国境線」は存在する。北は、延々と数千qにわたってカナダと接し、また、南はメキシコと接している。しかし、この両国とアメリカ合衆国との軍事力、経済力、人口の差は圧倒的にあり過ぎて、アメリカ人がこの両国を軍事的脅威として感じたことは、歴史上一度もなかったであろう。むしろ、自分の国の前庭くらいの意識しかないだろう。

 カナダにいたっては、同じ英語を話す英国系を先祖に持っている(註:もちろん、独自の先住民イヌイット族等もいれば、ケベック州を中心としたフランス系の人口もそこそこあるが、やはり圧倒的多数派は英国系である)し、広大な国土を持つにもかかわらず、カナダ国民の90%以上がアメリカ合衆国との国境からわずか200マイル(320km)以内の地域に暮らしているのである。つまり、ほとんどのカナダ人は米加国境にへばり付いて生活しており、もちろん、電波に国境はないので、彼らはアメリカのテレビ放送を視ているということであり、人によっては毎日、アメリカに通勤している人もいるくらいだ。アメリカから国際電話をかける時にも、カナダだけは国内長距離電話扱いである。アメリカ大リーグの球団もカナダ国内2チームある。


 また、アメリカ合衆国の南側に隣接するメキシコ合衆国については、その主な人口構成がヒスパニック系と民族的・言語的起源は米国と多少異なるが、現在のカリフォルニア州やニューメキシコ州、テキサス州の辺りは、かつてはメキシコ(=スペイン)領であったものを、アメリカ合衆国がその西方への拡大発展の過程(いわゆる「フロンティア」)で併呑していった地域(註:Los AngelesやSan Franciscoなど、米国西海岸の地名の多くは今でもスペイン語である)であり、その意味では、国境線の存在にそれほどの違和感がなく、アメリカ合衆国自体が「ひとつのが大きな島国である」ということができる。このような米英両国の海洋国家連合がイラクを攻撃する話の意味については『桃太郎バグダッドへ征く』で詳しく述べた通りである。つまり、21世紀における「海洋国家連合」対「大陸国家連合」との世界観を賭けての戦争であり、今回のイラク戦争は、その単なる第1ラウンドにすぎなかったとも言える。


▼中国大陸の人々とはうまくいかない日本

 さて、この「海洋国家」対「大陸国家」という図式を東アジアにの現状に当てはめてみよう。中国人系の国々が、その政治・経済体制の違いにもかかわらず、共通してSARSで大変な混乱をきたしたが、それはあくまで生活習慣(衛生観念)としての中国人のそれに依るところが大きいのであって、地政学的には、同じ中国人系国家といっても、必ずしも「一枚岩」であるとは言い難い。そこで、日本の東アジアにおける外交戦略についても「海洋国家」対「大陸国家」という図式は応用できる。

 日本は、台湾と同じ海洋国家(註:日本人も、高砂族等の台湾の先住民も、「倭人」を共通の先祖にしているが、これらの漁労民族と中国大陸および大陸と地続きである朝鮮半島に暮らす騎馬系の人々との歴史的、文化的、民族学的相異はあまりにも大きい。このことが、欧米列強との接触によって生じた19世紀後半から20世紀初頭の東アジアにおける近代国民国家勃興期において、いち早くテイクオフに成功した日本が、同じように近隣諸国に欧米帝国主義的植民地支配を拡大しただけであるにもかかわらず、台湾の人々と中国大陸の人々の、その後の対日感の大きな違いをもたらしたのである。20世紀前半、日本は、東アジアの人々を欧米列強の植民地から解放するという五族共和の「大東亜共栄圏」を標榜し、北東アジア・東南アジア・太平洋島嶼諸国に、数多くの帝国軍人および帯同した民間人たちが暮らすことになったが、それぞれの地域に派遣された(移住した)日本人たちが、軍・民を問わず、日本人としての共通の生活・行動様式をとっていたにもかかわらず、敗戦後の日本人に対する中国大陸や朝鮮半島の人々の厳しい「反日」感情と、ポリネシア諸国や台湾の人々のそれほどネガティブでない反応を比べてみると、その違いは、むしろ現地に赴いていた日本人の行動様式に問題があったのではなく、現地の人々の生活行動様式と日本人の生活行動様式の齟齬に問題があったのではないかと考えられる)であるからして、日本は中国大陸や朝鮮半島の国々と組んで一緒に何かするよりも、台湾やフィリピンその他の太平洋諸国と組んだほうが必ずうまく行くに違いない。1972年以後の親中(臣中?)政策以来31年間が経過して、日本は中国からいったい何を得たというのか? たかだかパンダとトキぐらいのものである。その見返りが数兆円に及ぶ経済援助と、それに数倍する対中投資だとすると、あまりにも間尺が合わないではないか!

 ハッキリ言おう。日本人は、中国大陸や朝鮮半島の人々とは、いくらこちらが相手を理解しようと努力しても、その努力に見合う成果を得ることが難しい関係といってもよい (註:もちろん、その「逆もまた真なり」である) 。その大原則を理解せずに、60年も前の戦争の結果をいまだに引きずっている連中は論外だとしても、多くの人は、日本文化のごく表層に過ぎない文字情報を表記するための手段として漢字を用いることや、食事をする時に箸を使う等の表面上の共通現象に目を奪われて、大陸との交流を尊重し過ぎてきた。何事も3人寄ってやっと1人前という感のある与党の3幹事長たちが、たびたび北京へ朝貢しに行くのも論外である。日本は、中華人民共和国に対する最大の援助国なのであるから、向こうから頭を下げて来るのを待つべきである。小泉首相の行状がどうであれ、こちらから「日中首脳会談をしたいから北京に行きたい」などというのはもっての外である。日本政府は、今こそ、文化人類学的にも理解し合える可能性が高い台湾(註:ここで言う「台湾」とは、大陸政権のなれの果てである(国民党という意味ではなく、台湾島の原住民勢力という意味である)とこそ友好関係を深めるべきである。そのほうが、北京への牽制にもなる。


▼小国なれど日本は、男も女も……

 1894年(明治27年)、朝鮮半島の「支配権」(註:14世紀以来、500年続いた「(李氏)朝鮮」王朝は、形式上は、中国(明→清)の「属国」として冊封朝貢体制を執っていた)をめぐって戦われた日清戦争の結果、翌年(1895年)に締結された『下関条約』によって、日本は、中国の軍艦や民間の船が、渤海湾(内海)から黄海(外洋)へ出るための軍事上の要衝である遼東半島を獲得した。しかし、当時の国際社会は、今回のイラク戦争と同じ組み合わせ、すなわち、シベリアから満州への南下を計るロシアが、ドイツとフランスを誘い、日本に対して、いわゆる「三国干渉」を行い、国際条約に基づく戦後処理による正当な賠償として得たもの(遼東半島)をむりやり清国に返還させられた。当時の日本の経済力・軍事力は、明らかにこの三国連合に劣っていたので、やむなく日本は、国際条約による正当な賠償という形で得た遼東半島を清国に返還することになった(註:しかも、ロシアは日本が返還させられた遼東半島を、清国から租借するという挙に出て、日本国民の怒りを買った)が、そのときのトラウマを「臥薪嘗胆」として、近代国民国家建設途上にあった日本国民を一致団結させて、富国強兵の近代化に邁進させ、急激に発展し、その9年後には、日露戦争においてロシアに勝利するということになったのである。

 このように、大陸国家と海洋国家とでは、そもそも相容れないものを有するのである。だから、もし台湾海峡で軍事的衝突が発生した場合(註:いわゆる「周辺事態」)に、日本がどちらにつくべきかは言うまでもない。17世紀のはじめ、新たに満州から勃興した女真族が建てた清朝に追われて台湾島に逃れ抵抗戦を試みた明朝の遺臣、鄭成功(註:倭人と漢人のハーフである鄭森は、その抜群の功績と愛国心により、明の皇帝から、皇室と同じ「朱」姓と「成功」という名を賜り、以後、「国姓爺」と呼ばれるようになった)たちが日本政府(徳川幕府)に再三援軍の派遣を求めてきた(註:近松門左衛門の『国性爺合戦』に詳しく述べられている)時、徳川光圀(水戸黄門)らは、戦国時代のサバイバルレースを生き残り、当時、東アジア最強の軍事力(註:日本には鉄砲が大量にあった)を有していた徳川幕府軍を押し立て、「義を見てせざるは勇なきなり」と、「正当性」のある明の遺臣たちへの軍事支援を行おうとしたが、幕閣(幕府の高級官僚たち)は、万事「事勿れ主義」で、新たに勃興した大清帝国の言うままになって、武力革命によって打ち立てられた東アジアの新秩序を追認する結果となってしまったのである。

 これって、われわれが1970年代に経験した話とよく似ていないだろうか? これら17世紀および20世紀の対中政策の過ちを繰返さないためにも、あるいは、本来は海洋国家である日本の21世紀の健全な発展を目指すためにも、アニミズムの日本人がもう一度考え直しても良い国家戦略だと思う。「小国なれど日本は、男も女もアニミズム」の精神をもっと見直すべきである。


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