レルネット主幹 三宅善信
▼累代繁殖を可能にする条件
子供の夏休みの最終日である。ご多分に漏れず、夏休みの宿題の手伝いをさせられている。私自身は、「年中無休」の忙しい日々を送りながらも、結構、多くの生きものを飼育している。といっても、そのほとんどは、いわゆる犬猫といったペットの類ではなく、爬虫類や両生類だの節足動物(エビ・カニ、昆虫)の類である。私は基本的に、以下の三つの理由から獣(哺乳類)は飼ったことがないし、飼おうとも思わない。一つ目は、ペット産業という商業主義には与(くみ)したくない。二つ目は、生物学的にヒトと近縁であり、それ故、その獣が持っている病気や寄生虫等がヒトに感染する可能性がある(註:わが家には子供が3人いるので、そのような危険は冒したくない)があるからである。三つ目は、より重要なファクターであるが、哺乳類にはそこそこの「知能」があり、その分、日によって機嫌が良かったり、悪かったりするのが生意気で許せないからである。犬なんぞ、犬自身の気分だけじゃなく、飼い主の機嫌すらとる奴がいる。
コオロギを奪い合うカナヘビ。
自分の子供すら食してしまう |
このことは、同様に、私の人間嫌いの反映でもある。仕事のできない奴に限って、いろいろと説明(言い訳)をしたりして、うんざりである。その点、節足動物や両生類・爬虫類の類は、こちらがどんなに懸命に世話をしてやっても、まるっきり馬耳東風のそ知らぬ類であるが、そのほうが、反って気分がいい。ペットに感情移入をしたり、それどころか、精神的な癒し効果を期待する人間が、私には理解できない。ヒトは、もちろん動物の一種であり、その行動の多くが動物である部分によって規定されているが、一方で、われわれが問題にしている人間の部分は、動物にはない人間としての独自の文化性である。したがって、もし、私が飼っている動物が何かの理由で弱ったり、傷ついたりしたら、治療のごとき人間的行為なんぞは一切行わず、生きたまま、即、別の動物の餌にしている。自然界では、「弱るということは、即、死ぬということ」を意味しているからだ。子供たちにも、そう言って、その様子(喰い殺される)を見せるのが、わが家の教育方針だ。私はまた植物も数多く裁培しており、十年間育ててほんの1〜2oしか大きくならないような珍しい植物すらまめに世話をしているのである。
現在、私が飼育している節足動物の内、最も長く生育しているのは、コクワガタというクワガタムシの一種であり、これは成虫になって既に丸2年以上、レルネット社のパントリーの片隅のゴミ箱の脇(註:年間を通じて温度などの環境があまり変化しない好ポイント)で生きている。コクワガタなんか角を取ったら(♀には初めから極小さな角しかない)、うっかりすればゴキブリに見間違える。他にノコギリクワガタを密封できるインスタントコーヒーの空瓶内で累代繁殖(成虫→卵→幼虫→蛹→成虫と世代を重ねて育てること)をしているし、カブトムシの「交尾と寿命の関係」(註:成虫は、交尾をさせなければ♂は2週間以上は生きるが、交尾をすれば翌日には死ぬ場合が多い。すべての生物は遺伝子を残すために生きているのだから、当然といえば当然であるが、ヒトの♂としては身に詰まされる話だ。その点、♀は交尾を済ませても産卵するまで1週間くらい存命する)を調べるために、カブトムシも飼っている。また、昨年秋、竹富島(沖縄県の南西端にある先島諸島の石垣島沖にある孤島)に文化人類学のフィールドワークに行った時に採取した体長10oほどのヤドカリ百匹ほどの内の二十数匹が今だに健在である。
わが家のビオトープは
それなりの環境である
|
他に、庭のビオトープに、長年、琵琶湖淀川水系の固有種の淡水魚(ニッポンボラタナゴ、シマドジョウ、スゴモロコ等)を放流しているが、仮に琵琶湖淀川水系の固有種が外来種によって全滅したとしても、わが家の庭で遺伝子は確保されるというものだ。他にも、各種のトンボ類や無数の小さな昆虫、あるいは、シマヘビからメジロやゴイサギ等の鳥類にいたるまで、勝手に生息しているが、特に私が目にかけているのはモリアオガエルである。他の蛙のように、水中に産卵するのではなく、樹上にメレンゲ状の綿菓子のような卵塊を産卵することで知られるこの蛙は、棲息地によっては、天然記念物に指定されて保護されているが、この珍しい蛙を大阪の街中にあるわが家の庭で4年間にわたって放し飼いにしている。もともと京都のさるお寺から卵塊(註:その中で孵化した小さなオタマジャクシが蠢いている)を頂いたのであるが、過去4年間にわたり、毎年オタマジャクシを頂いたので、辛うじて生き残っているみたいである。
交尾するモリアオガエルの成体。
♂のほうが
体が小さいのに、
♀を捕まえて放さないようにするため、指が長い
|
私の経験(庭の池での観察)からして、通常1つのメレンゲ状の卵塊から100〜200匹のオタマジャクシ(体長約5o)が出てくるが、急激に45oほどまで成長し、1カ月半ほどで手足が出て、無事、小さな蛙(体長約15o)にまでなれるのは10〜20匹程度である。さらに、成体として1年間冬越しをし、来春そこそこの大きさ(約40o)の蛙にまで生き残れるのはおそらく1〜2匹である。さすがに、ここまで育つと、生き残れる確率は高くなる。であるからして、わが家のビオトープで3年生(体長55〜60o)を超えたモリアオガエル(註:3年生を超えたモリアオガエルが生殖能力を持つ成体と言われる)が複数存在しなければ、累代繁殖には至れないのであるが、残念ながら、まだそこまでは至っていないようである。仮に複数棲息するといっても、2匹の生殖能力を有する成体がいたとしても、たまたまその2匹の組み合わせが♂×♂であったり、♀×♀であったりした場合には、当然子孫は残せないのであるから、任意の2匹の組み合わせがオスとメスに分かれる可能性は2分の1しかない(組み合わせは、♂X♂、♂X♀、♀X♂、♀X♀の4通りのうちの2通り)。したがって、これだけでは、安定的に累代繁殖できるかどうかは難しい。仮に生殖能力を持った成体のモリアオガエルが3匹いた場合は、そのいずれかがオスとメスに分かれる組み合わせの確率は4分の3であり、4匹いた場合には8分の7となり、計算上は、かなり高い確率で子孫を残せるはずである。しかがって、累代繁殖させるためには、相当の個体数の確保が必須である。
▼遺伝子組み替え飼料
そこで、私は考えた。モリアオガエルのオタマジャクシを、天敵(魚食性の魚やトンボの幼虫であるヤゴ等)の多いビオトープではなく、管理された室内の水槽で飼い、人間が餌を与えて保護してやれば、100匹が100匹とも子蛙になるはずなので、そこまで育ててから、自然の環境中に放したら良いだろうと・・・・・・。人によっては、「2年間水槽内で面倒を見て、生殖能力を有する成熟した親蛙にまで飼育すれば、より繁殖の確率は上がる」と思われるかもしれないが、残念ながら、カエルは、ハエやコオロギなどの活きた餌しか食べないので、なんとか数匹を飼育することはできても、100匹の親蛙を飼育することは実際には不可能なのである。
オタマジャクシ管理してやれば、
ほとんど成長する
|
100匹のオタマジャクシが10匹の子蛙になり、1匹の親蛙になるという減数率に基づけば、100匹の子蛙を確保すれば、来年には10匹の親蛙が生き残るはずであるから、これで「累代繁殖は十分可能になる」というのが、私の皮算用である。しかもその上、たまたま今年は、某大学の先生からもモリアオガエルの卵塊を頂くことが重なり、わが家の水槽には、なんとそれぞれ発育段階が異なる300匹以上のモリアオガエルのオタマジャクシが元気に泳いでいたのである。私の計画が巧く行くと、これらは皆、子蛙になり、翌々年に親蛙としてビオトープに産卵に戻ってくる個体数は約30ということになり、累代繁殖して種を保存するのに十分な数を確保できると算盤を弾いている。
私は、他にも、この夏カナヘビという小型のトカゲを4匹飼って(註:これも淀川のワンドに釣りに行った際に採取してきたものいるが)、このトカゲも生きたハエやコオロギを捕食するのである。私はこのトカゲのために、毎日十数匹の生きたハエを捕獲してくるが、梅雨の時期には、雨が降ればハエが飛ばない(註:ハエと雨粒の大きさの比は、ヒトに換算すると直径50pくらいの巨大な水の塊が高速で落下してくるのに相当するので、当たれば致命傷になりかねないから)ので必要な量を確保するのは大変難しい。しかし、晴天であれば、慣れとは恐ろしいもので、ハエがそこに居さえすれば、1分間で数匹のハエを確実に獲ることができるようになった。
問題は、モリアオガエルの成体の飼育である。大量の子蛙ができた場合、餌は金魚用の配合飼料で十分なオタマジャクシと違い、活きた昆虫を与えなければならないのであるが、いくら私といえども、毎日数百匹ものハエを獲ることはできないし、もし、そんなことができたとしても、数百匹のハエを獲ってしまえば、うちの近所にハエがいなくなってしまう(事実、1週間もしないうちの周りにはいなくなってしまった。保健所から表彰されてもよいくらいだ)。そこで、私はコオロギの飼育を始めることにした。これまた、金魚用の配合飼料でよい。コオロギを大量に繁殖させ、それをモリアオガエルに食べさせる計画である。
実は、両生類や爬虫類の飼育用として、専門のペットショップに、ショウジョウバエが売られている。プラスチック製のケースの中に、ショウジョウバエの蛆(うじ)が入っており、羽化したショウジョウバエが順次ケースから飛び出してくるので、そのキットを購入して、カエルやトカゲを飼っているケース内に置いておきさえすれば、活き餌の問題は心配しなくてよい。しかも、世代交代の早いショウジョウバエは、生物学や医薬品の実験用によく使われている生物なので、そのゲノム(DNA遺伝子の配列)の解読が100%終了しており、実験用としては、ハエが自由に飛び回ると取り扱いに不便なので、なんと、そのショウジョウバエに予め遺伝子操作をしておいて、蛹から羽化しても、その羽が矮小化されており、「飛べないハエ」にしかんらないようになっているのである。しかし、ここまで行くと、商業主義も「便利」を通り越して、ちょっと「やり過ぎ」という感じがする。
▼オタマジャクシが溺死する!
そうこうしている内に、7月13日、水槽内で最も成長が早かったオタマジャクシに前脚が出た。「前脚が出た」という表現は可笑しいと思われる方がおられるかもしれないが、カエルの場合、前脚と後脚では根本的にその発生の仕方が異なるのである。まず、オタマジャクシの胴体と尻尾の境目の部分に極小の後脚(の芽)が発生する。その後脚は、日を追う毎に大きくなっていくのであるが、それでも最初の十日間ほどは、後脚は盲腸のようにただ胴体からぶら下がっているだけで、脚としての機能は何も果たしていない。ところが、後脚が十分に成長した(註:実際に曲げ伸ばしができる脚としての運動機能が整った)後、今度は前脚が、突然、完全な脚の形で現れるのである。しかも、ほんの2〜3秒の間に、前脚が体内から出現するのである。それは、後脚と異なり、体内で十分に形成された前脚が、体側の鰓蓋(えらぶた)の部分からポンと飛び出すのである。したがって、その時点では、既にオタマジャクシは鰓呼吸から肺呼吸に変わってしまっているのである。これが、時々、オタマジャクシが水面に向って勢いよく跳び出してくる理由でもある。ところが、突然、飛び出してきた前脚によって、その前脚が水中の藻などに絡まることもあり、もはや肺呼吸に切り替っているオタマジャクシは、水面に一定間隔で顔を出す(肺呼吸する)ことができなければ、溺死するということが起こるのである。「オタマジャクシの溺死」なんて考えられないであろうが、水草ぼうぼうのわがビオトープでは、毎年何匹かのオタマジャクシが溺死する。
尻尾の付いたまま、
一気に上陸するオタマジャクシ
|
その前脚が出てから丸1日が経った7月14日、水槽を見に来た息子が「お父さん、取り付く島を用意してやならいと、オタマジャクシが溺れるよ」と言ったので、慌てて小さな木片を水面に浮かべた。すると、どうであろう。先ほどまで、水中で(水槽内のエアレーションによる)水流に弄ばれていた体長約20oのオタマジャクシが自ら、木片の「島」に上陸したのである。魚類から両生類への進化を垣間見るような瞬間であり、感動的ですらあった。しかし、その木片から水面へジャンプをした手足の付いたオタマジャクシ(註:尻尾は依然として元のままの長さがある)は思いもかけない行動に出た。息子が「蓋(ふた)をしておかないと外に出てしまうよ」と言ったので、準備していたプラスチックの蓋でカバーをしたが、あろうことか、蓋をして10分も経たないうちに、そのオタマジャクシが急に垂直な水槽の壁面をよじ登り、(註:既に手足の指には吸盤が形成されている)水槽の縁(へり)の部分まで来てしまったのである。もし、蓋をしていなければ、オタマジャクシが水槽の外(わが家の室内)へ飛び出してしまって、干涸らびて死んでしまうところだった。
尻尾が短くなり、急激に蛙らしくなる
|
ものごとの急展開に意味がよく掴めないでいた私は、さらに驚くべき光景を目にしたのである。ほんの数時間前まで、水中で泳いでいた(活発に動いていた)オタマジャクシの約20oあった尻尾が既に10oくらいの長さに短くなっているのである。さらに、一晩明けてその元オタマジャクシを見てみると、尻尾は既に5oくらいしか残っておらず、顔の風体も丸っぽいオタマジャクシのそれではなく、角張ったカエルのそれになっているのである(註:藻などを削って食べるオタマジャクシの口は、丸くすぼめたような口をしており、なおかつ、目はほとんど視力がないかのような小さな目である。一方、カエルの口は、飛び回る昆虫を捕食するため大きく耳元まで裂けており、目もよく目標物を見定めるために体から飛び出した立派な目が正対しているのである)。わずか一晩で、オタマジャクシがカエルになったのである。
▼アポトーシスとアノミー
この尻尾を構成していた細胞が自ら積極的に死んでゆく(註:酵素が働いて細胞が分子単位に分解されて、再びそのカエルのDNAの指示に基づいて新しい蛋白質として再合成されるための材料になる)ことを、生物学では「アポトーシス(apotosis)」と呼んでいる。つまり、ある個体の中で、特定の細胞が積極的に死ぬことによって、全体を有効に生かすということである。有名な例としては、ヒトの胎児も、その発生段階で、5本ある指が掌から伸びてくるのではなく、初めにグローブのような手の元があって、それには、カエルのような水掻きまで付いているが、その水掻きの部分の細胞が後からアポトーシス(死滅)することによって、結果的に紅葉のようなかわいい赤ちゃんの手になるのである。また、われわれの皮膚の細胞や腸壁の細胞などは、毎日毎日、次々と死んで、新しい細胞と入れ替っていっているのである。その意味で、アポトーシスという営みは、多細胞生物がその生を維持する上ではなくてはならない死のシステムでもある。
しかし、ここに大きな問題がある。個体レベルにおける各細胞と全体のbiological(生物学的)なアポトーシスという仕組みを、人間の社会における個と集団のレベルに置換えて、sociological(社会学的)なアポトーシスが成り立つか成り立たないかという問題である。
実は、この問題は、生物学的なアポトーシスという概念が発見される百年も前に、既に宗教社会学者のエミール・デュルケムによって『アノミー(anomie)論』という形で提起されていたのである。「アノミー」とは、一般に「社会規範の喪失」と訳されている(註:印欧語では、一般的に語頭の「a」は否定を意味する。「nomos」とは律法のことである。したがって、anomieは「規範の崩壊」の意である。同様に、「阿弥陀(仏)=Amitabha」は、否定の「a」+「mitabha(有限の光)」=「無量光」の意である)が、ある社会が極限状態に達した時に、これまでの社会規範では律することができないような問題が発生し、社会に一種の「ガラガラポン」が起こるというのである。
そして、まさにそのような状態に、現在の日本社会は至っているというのである。先頃、長崎で12歳の少年による4歳の幼児に対する性的悪戯(いたずら)および、殺人事件が起き社会に大きな衝撃を与えたが、それまででも、ここ10年ほどの間に、日本社会においては、神戸の「酒鬼薔薇聖斗」事件や京都の「てるくはのる」事件、あるいは、オウム真理教等のカルト集団による一連の事件等、これまでの社会規範(常識)では考えられなかったような事件が次々と起きてきたので、このアノミーの問題が指摘されたのである。
▼「三種還元の法則」
このような事件が起きた時、現代の日本では、必ず3種類の対応が順を追ってなされるのである。容疑者が捕まると、その人物が意外な人物であればあるほど、まず、「心理学的意味は何か?」と言って心理学者がマスコミに登場し、次ぎに、そういう事件を起した人たちを生み出した社会的要因・背景を追及することとなり、社会学者にお呼びがかかる。そして最後には、その事件を起した犯人はやはり特異な病的性格を有した人物だったのであり、なおかつ、日本社会のマジョリティーは依然として健全さを保っているということを証明するために、精神病理学者にお声がかかるのである。このような手法で、人間存在が本質的に持っている「心の闇」に正面から立向かうことをせずに、心理学的意味、社会学的背景、精神病理学的原因を追求することだけで事足りるとする『三種還元の法則』がわがもの顔で幅を効かせ、数千年にわたる人間の智慧ともいえる「宗教」というものが、その問題の解決の場から排除されるのが現代の日本社会である・・・・・・。と国際日本文化研究所の所長である山折哲雄氏は述べている。
まさに、そのとおりである。そもそも、心理学という胡散臭い学問を私は認めていない。というか、「心理学はサイエンス(科学)ではない」と思っている。にもかかわらず、心理学に携わっている多くの専門家や一般社会は、「心理学はサイエンスだ」と思い込んでいる節がみられる(註:心理学の成果を宗教的真理よりも「上」に置きたがる傾向が強い)。サイエンスの条件とは、いつでもどこでも誰が再現実験を行なっても、必ず同じ答えが出るということである。例えば、3足す5は8であるし、水素原子2個と酸素原子1個を結合させれば、水の分子が1つできる。というように、いつでもどこでも誰が行っても、必ず同じ答えが出なければというのをサイエンスとは言えない。
その意味では、心理学どころか、臨床医学もサイエンスではない。同じ医学の分野でも、病理学や生理学はサイエンス(理学)である。例えば、「胃や十二指腸や小腸内でリパーゼという酵素が脂肪を分解する」といったことや、「ヘリコバクター・ピロリという細菌が胃潰瘍の原因物質である」というような次元においては、医学は立派なサイエンスであるが、具体的にひとりひとりの患者と接する臨床レベルにおいては、同じ治療行為を行なっても一人ひとり結果が異なるので、これはサイエンスではない。同様に、人間の脳の中でどのような(化学的・電気的)反応が起きているかを調べる大脳生理学は紛れもないサイエンスであるが、個々の人間の心理的状態を問う心理学は、いくら似非(えせ)実験を行ってそれらしく見せようと粉飾しても、また、そのデータに統計学的処理を施そうと、決してサイエンスではない。
その証拠に、ほとんど大学では、心理学科は文学部に所属しているではないか。もし心理学がサイエンスだというのなら、心理学科は理学部であるとか工学部に所属するべきである。しかし、そんなことは、理工系の研究者が拒むであろう。したがって、私は心理学をサイエンスと思っている人とは、はじめからまともに話をしないことにしている。しかし、勘違いしないでほしい。私は心理学を否定しているのではない。世の中には、優れた心理学者も大勢いる。彼らに共通していることは、心理学はサイエンスでないということを認識しているということである。人間理解のための大系である神学や哲学の補助的手段としての心理学なら大いに結構なことである。そもそも、宗教や歴史文化にまで踏み込まずに、人間の理解ができるとは思えないが、こういった猟奇的事件が起った時の対応などを見ていると、この国の行政やマスコミは、この点を意図的に隠蔽している。
▼ひきこもりとしての「鎖国」をもっと評価せよ
さて、今回の長崎市における12歳の少年による4歳の幼児に対する性的いたずら及び傷害ならびに殺人事件について、巷間諸説が展開されているが、いずれも山折氏が指摘するような「三種還元の法則」の範囲内で矮小化された議論が多いように思われる。マスコミは何故、犯人の少年Aの人格形成に与えたキリスト教の影響について考察しようとしないのか? 日本人の子供なら、おそらく耳にしたこともない「割礼」という言葉を少年Aはその信仰生活で何度も耳にしていたことであろうし、興味を抱いていたと創造に難くない。私も、初めて聖書を読んだ時、数々の宗教上の不思議な「奇跡」(註:こんなものどうせ、はじめから作り話だと思っていたから)よりも、はるかに興味を持ったのは「割礼」と呼ばれる遊牧民独特の習慣である。
中には、この「三種還元の法則」の殻を別の意味でぶち破った議論もある。例えば、鴻池祥肇防災担当・構造改革特区担当大臣による「加害者が少年であって罰することができないのなら、少年の親を、市中引き回しの上、打ち首にすべきである」という問題提起の仕方である。もちろん、この鴻池大臣の発言は現役閣僚としては軽率の誹(そし)りを免れないが、その問題提起に対して、マスコミは例によって、ただ揶揄とバッシングに懸命なだけで、実はこの「市中引き回しの上、打ち首」という表現に込められた、時代劇的勧善懲悪論が占める日本文化に対する正しい認識が行なわれていないとも言える。
中国や韓国に言われるまでもなく、「歴史認識」は重要な問題である。しかし、私が強調したいのは、現代の出来事だけを、長い数千年の間に及ぶ文化や宗教・伝統から切り分けて、すべてを現代の価値基準からだけで断罪する歴史認識ではない。神代の昔以来、連綿と続く日本人の集合無意識、あるいは、集団的自我ともいうべきものや、それから生じた具体的な発現に対する歴史認識こそ、問題にすべきことなのである。何も、数千年間も遡らなくても、今年(2003年)は江戸開府400年に当たるが、17世紀から19世紀の中頃までの250年間の江戸時代に培われた日本社会の超平和・超安定ぶりをもっと評価すべきだろうと思う。NHKの大河ドラマをはじめ、歴史ものと言えば、たいていが戦国時代か、幕末維新の動乱期を舞台にしている(註:そのほうが作品が作り易いし視聴率が稼げるという理由もある)が、動乱期の歴史は世界中に数多く存在しており、日本の歴史を舞台にするのに、わざわざ改めて取り上げるほどのことではない。むしろ、350年間の長きにわたって、たいした内戦も起こらずに独自の国風文化が発展した平安時代、そして250年間の天下泰平と庶民文化の発展をもたらせた江戸時代をこそ、われわれはもっと評価しなければならないのではないか。
この二つの時代に共通していることは、日本が「鎖国」をしていたということである。蜀(いもむし)が幼虫から蝶に変態するために、しばらくの間じっと繭(まゆ)に閉じ籠もる蛹(さなぎ)の時期が必要なように、日本社会が新たな発展の段階へと移向するためには、現在求められるべきは蛹化(ようか)することであり、しかも、外からみれば、ただ単に殻に閉じ篭ってじっとしているようにしか見えない蛹の繭の中では、急激な速度でアポトーシスが進み、次の発展の段階へと準備が行なわれているのであり、その状態においては、これまでわれわれが蓋然性を置いてきた多くのことが、まさしく急速に消滅していくのである。