マザー・テレサは何人か?
  03年09月06日


レルネット主幹 三宅善信

▼マザー・テレサの七回忌?

  9月6日は「20世紀の聖者」マザー・テレサ(1910−1997)の七回忌である。カトリック教徒のマザー・テレサに七回忌というのもおかしな話であるが、彼女がその87年間の生涯の大半を捧げたのは祖国ではなく、インド東部最大の都市カルカッタ(現コルカタ)であり、カルカッタ市民の大半はヒンズー教徒もしくはイスラム教徒であるからして、人々に分け隔てなく接した彼女の偉業は、ひとりキリスト教会のそれに留まるものではない。おそらく、現在の日本や欧米先進諸国において「あなたの最も尊敬できる人を世界中から一人選んでください」という質問を一般市民にすれば、おそらく、マザー・テレサはどの国においても3本の指に入ることは間違いないであろう。それくらい、彼女の業績は世界的にも評価されているのである。

1910年、当時はオスマン(トルコ)帝国領であったスコピエという町でこの世に生を享けたテレサという少女は、ローマ・カトリック教会のロレット修道会に入り、シスター(修道女)のひとりとして、1937年から、その修道会がカルカッタに作った学校で教えていた。もちろん、この時点では、よくある欧米の先進国が植民地(あるいは旧植民地)に創設した慈善施設での布教活動の域を出なかったが、1943年にベンガル地方を襲った大飢饉は、それまでの囲い込まれた学校内での教育活動の枠を彼女が突破する契機となった。

  まさに、若き日のゴータマ・シッダールタ(釈迦)が、生まれ育ったカピラヴァストゥ城の城壁の外の街に出て、生老病死に苦しむ人々、世界の実相を見たことがきっかけとなって、それまでの城の中での安定した王子という立場を捨てて、世界の真実の姿を求めるために出家したように、飢えと貧困に苦しんでいるだけでなく、路傍で誰に見取られることもなく死んでゆく多くの人々を目のあたりにして、ロレット修道会から独立し、ひとりでスラム街に飛び込んでゆき、一般の人々には奇異な服装に見えたであろう白人女性の西洋風の洋服を脱ぎ捨てて、インドでは下働きをする人の服装である白いサリーに身を包んで、社会奉仕活動を行なっていったのである。

1952年には、有名な「死を待つ人の家」を設け、インド社会では、長年、そのことがごく当たり前のこととして捉えられてきた「野垂れ死」に対して、死にゆく人の名前と宗教を聞き、人間としての尊厳を持って(註:ここがマザー・テレサの偉いところであり、どこかの国の安っぽいヒューマニストのように、食料援助や医療行為を施すことによって、徒らに「延命させることが、人間的だ」というようなことはせずに、圧倒的に貧しいインドの状況をそのまま受け入れ、物質的にではなく、精神的に救済しようにした)死ねるようにと、最期の見取りを行ない、その人が亡くなった時には、その人の宗教の方式に則って弔った。他にも「ハンセン病患者の家(1959年)」や「孤児院(1955年)」などを開設し、1950年には、時の教皇ピオ12世から公認された『神の愛の宣教者会』という修道会(註:日本の仏教で例えれば、ひとつの宗派に相当する)を設立した。現在、同修道会は、4000名以上のシスターを要し、世界90カ国で活動する巨大な組織となった。


▼ バチカンの政治的戦略

  彼女の民族や宗教の壁を超えた献身的な業績に対して、1978年には『ノーベル平和賞』が授与された。1997年9月6日、マザー・テレサが87歳の生涯を閉じたときは、民間人で、しかも外国人であった彼女のためにインドで初の国葬が営まれ、彼女の死を悼む人々が世界中からその葬儀に詰めかけたことは記憶に新しい。因みに、そのちょうど1週間前に、「金持ち」の立場から独自の慈善活動を行なってきたダイアナ元英国皇太子妃が、パリで客死したことと対照的である。

  それから、5年の歳月を経た2002年12月バチカンは「マザー・テレサを福者に加列する」と発表した。2000年の歴史を持つローマ・カトリック教会には、これまでにも、最初期の殉教者である使徒ペテロや使徒パウロをはじめ、その長い歴史の中で「聖人」に叙せられた布教功労者がたくさんいるが、その多くは、ローマ帝国におけるキリスト教国教化以前の殉教者であったり、特別の業績を残した教皇であったり、あるいは「奇跡」を起こした(と信じられ、結果的にその地でカトリック信者が増加するのに多大な功績を上げた)ような人であり、名前の前に「聖(St.)○○」と呼ばれている。たえとば、サン・フランシスコ(San Francisco)の街の名前にもなったアッシジ(北イタリア)の聖フランシスとか、クリスマスプレゼントでの配達人として有名なサンタクロース(Santa Claus)のモデルになったスミルナ(トルコ)の聖ニコラスといった有名人たちである。

  それにしても、2000年間の歴史の中で、しかも世界中から選ばれて「聖人」になることは、極めて「狭き門」なので、その予備的段階として、一挙に「聖人」にするのではなく、「福者」という聖人の一歩手前(註:仏教における「悟りを開いた人」を意味する「如来(仏)」の一歩手前として「菩薩」という段階を設けるという方法を有する点で、世界宗教としての共通性が感じられる)という段階がある。これも、歴史上の人物にはいろいろと毀誉褒貶があるので、通常はだいたい死後100年ぐらい経って、「悪材料が出尽くして(評価が安定して)」から「聖人」や「福者」に列せられるのが常であるが、マザー・テレサは死後わずか数年にして、その「福者」に列せられたのであり、このことだけでも極めて異例中の異例であるのに、おそらく数年以内に、「聖人」に叙せられるのが確実だと噂されている。つまりサンタ・テレサとなって、サンタクロースと同格になると思われる。これには、すでにキリスト教が飽和状態になっている欧米地域では、カトリック教会のこれ以上の伸びはあまり期待できないので、新たな可能性を有する「アジア市場」への展開を期待しての加列であるというバチカンの政治的な意図があることは、いうまでもない。


▼マザー・テレサに棄てられた国

  ところが、このマザー・テレサの福者加列に絡んで、思わぬ問題が起きてきた。これもまた、20世紀の世界が残した大きな宿題のひとつであろう。というのは、私は冒頭で「マザー・テレサは1910年、当時オスマン帝国領であったスコピエという町で生まれた」と述べたが、スコピエという町は、現在の国名でいえば、マケドニア共和国に属している。ところが、マザー・テレサが生存した1910年から1997年までの87年間で、スコピエの町が最も長い期間、属していた国家は、あろうことかユーゴスラビア連邦である。確かノーベル平和賞を受賞した時の報道でも、「ユーゴスラビア出身で、カルカッタで長年社会奉仕活動をした・・・・・・」と、マザー・テレサのことが紹介されていた。ユーゴスラビア連邦は、カリスマ的指導者チトーの死後、また、それに続くソ連東欧圏の社会主義体制の崩壊後、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ等のそれぞれの民族国家に四分五裂していったことについては、これまで何度も述べた『Time Will Tell:本当にセルビアが悪いのか?』が、実はこのことが大きな問題になっているのである。


旧ユーゴスラビアを構成する各民族

  カトリック教会が2003年の秋にマザー・テレサを福者に加列するのに伴い、(彼女の出身地を現在、支配している)マケドニア共和国政府がマザー・テレサの銅像をバチカンに寄贈しようとしたことで問題が起きた。アルバニア政府が「待った」をかけたのである。というのも、マザー・テレサの母方の民族的帰属は、マケドニアと仲の悪い隣国のアルバニア人であるが、父方の民族が不明であったことがさらに問題を複雑化している。まさに、ギリシャやトルコまで巻き込んだバルカン半島の民族争いとなった。マケドニアとアルバニア間の民族紛争が「20世紀の聖人」マザー・テレサの業績をいずれのものにするかという醜い争いまで巻き起こしているのである。どちらの国も、いわば「マザー・テレサに棄てられた国」であるにもかかわらず・・・・・・。マザー・テレサをして、「世界的聖女」と呼ばれるに至ったカルカッタにおける業績は、たとえ彼女が何国人であったとしても揺らぐものでもなく、いわば「地球人」マザー・テレサとしての評価を受けているはずなのであるが、一方、近代国民国家が持つ危うさというのが、モロに表われているのがこの問題であり、これからも注意を向けなければならないことが多々あるように思われる。


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