重陽の節句:拉致は金王朝のお家芸
 03年09月09日


レルネット主幹 三宅善信

▼聖徳太子と菅原道真

 9月9日は、言うまでもなく「重陽(ちょうよう)の節句」である。古代中国の易学(陰陽説)では、偶数は陰と理解され、奇数は陽と理解されていた。そこで、陽の数の最大のものである「九」が二つ重なる九月九日は、一年のうちで最も陽気が極まるめでたい日とされ、「重陽」と呼ばれた。陰の最大数である「八」と、陽の最大数である「九」を加えた「十七」という数字は、世の中の森羅万象を網羅するという意味で、聖徳太子の『十七条の憲法』の条文数にその理念が伝えられている。因みに、鎌倉幕府が制定した『貞永式目』は、全部で51箇条からなるが、これは、聖徳太子の『十七条の憲法』の理念を、その後の歴史を経ることによって社会が複雑化したことに対応して、天・地・人の3つのファクターに細分化して17条を再編成したので、17×3=51箇条になったものである。

日本では、「重陽の節句」は、五節句のひとつ「菊の節句」として祝われてきた。「五節句」とは、1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、そして9月9日に、それぞれ祝われる宮中行事から始まり民間にまで広がった季節の行事である。1月7日は正月行事のひとつでもある「人日(じんじつ)=七草」であり、3月3日は「上巳(じょうし)=桃の節句」、5月5日は「端午(たんご)=菖蒲の節句」、7月7日は「七夕(たなばた)=笹の節句」、そして9月9日が「菊の節句」なのである。この日は、酒盃に菊の花びらを浮かべて祝った(註:花札にも菊花と酒盃が描かれた札があるそうだ)

西暦894年、それまで260年以上も続いた遣唐使の制度の廃止を上奏し、日本独自の国風文化の確立に貢献した菅原道真は、学者出身ながら、異例の出世を遂げ、899年、ついに従二位右大臣にまで登りつめた。翌900年、道真は御所の清涼殿で催された重陽の節句の後、宴で詠んだ詩を時の帝(醍醐天皇)から賞賛され、褒美として玉衣を賜った。しかし、それを期(まさに「陽の極」で、あとは陰るのみ)に道真の転落が始まり、皆さんご承知のように、翌901年には、太宰府に左遷され、ついに都へ復帰することなしに客死するのである。道真はかの地で、一年前の清涼殿の出来事に思いを馳せ、「去年の今夜清涼に侍し 秋思の詩編独り断腸 恩賜の御衣今此に在り 捧持して毎日余香を拝す」と詠んだそうだ。


▼ 建国55周年を盛大に祝う理由

このように、東アジア世界においては、9月9日という日は特別の意味を持って理解されてきた。『火星大接近と北朝鮮』では、大唐の繁栄を揺るがした「安史の乱」(756年)によって、わが世の春を謳歌していた玄宗皇帝が一気に凋落した話について触れたが、その折に、中国的世界観という文化伝統を共有する北朝鮮に対して、火星の大接近がもたらす政治的影響について述べたが、当然のことながら、朝鮮民主主義人民共和国の「高祖(創業者)」であるキム・イルソン(金日成)主席がこのことについて知らなかったはずはない。すなわち、この世におけるすべての陽気が極まった9月9日という吉日を選んで、朝鮮民主主義人民共和国の建国を宣言する(1948年)のである。また、彼の跡継ぎである二代目キム・ジョンイル(金正日)氏を、朝鮮民族建国の聖地ペクト(白頭)山で生まれたことにしたり、そういう意味での文化的演出が重要視されるのである。

社会主義政権といえば、かつてのソ連邦の国旗を見れば判るように、釜とハンマー、つまり農民と工場労働者がその中核を担うようになっているのであるが、朝鮮労働党のロゴマークは、釜とハンマーの真ん中に「筆」が図柄化されており、朝鮮王朝時代の「両班(ヤンバン)」制度以来の「を重んじる」という体裁を取っているのであるが、その実は「専軍国家」なのである。これが面白いところだ。その証拠に、党規約では、5年に1度開催しなければならないことになっている党大会も、まだ、金日成主席が存命中だった1980年10月に最後の党大会が開催されて以来、まったく開催されていないのに、いつのまにか「国防委員長」職にある金正日「将軍様」が国家の最高機関(主体=チェチェ)ということになっているのである。

  そんな折、2003年9月9日、朝鮮民主主義人民共和国の建国55周年を祝う大式典が、北朝鮮を取り巻く国際情勢がかつてない厳しさを見せる中で、平壌(ピョンヤン)で華々しく開催されたのである。「50周年」という切りのよい年柄に式典を盛大に行うのなら解るが、われわれの一般常識からすると、「55周年とはいかにも中途半端でないか」と思う向きがあろうと思うが、それは、北朝鮮という独裁国家、あるいは、国家に限らず、企業や宗教団体も含めて、全体主義的な性格を有している組織の実情というものをよく知らない人の台詞である。

  これらの全体主義的な組織では、実際には、トップにその組織の実情がありのまま報告されることがほとんどない。トップはいつでも「裸の王様」状態であり、中間管理職の立場にいる者は、トップには、常に右上がりの報告しかしない(註:もし、うっかり「前年度割れ」の報告なんぞしようものなら、「神聖」存在であるトップの判断ミスの責任を問えない体制上、中間管理職の誰かがトップの指示を歪めた過度で、詰め腹を切らされるので、結果的には「常勝!」などという空虚なスローガンばかりが鼓舞されることになる)のである。しかも、自分たちの取り巻く社会情勢が以前とは変化してしまっているにもかかわらず、かつての成功体験(註:一度でも成功しなければ、独裁者にはなれない)がなまじっかあるばかりに、そのような手慣れた国威宣揚の式典(この場合は、一糸乱れぬ軍事パレードや、大規模なマスゲーム)を繰り返し行うことになるのである。もちろん、国民や信者たちも、表面上にはこっりと微笑しているが、内心は辟易していることは言うまでもない。

しかも、次の大きな節目である「建国60周年」式典の行なわれる予定の年(2008年)に、朝鮮民主主義人民共和国がこの地球上に存在しているという保証は何もない。かつて、アメリカと並んで二大超大国として世界に君臨していたソ連ですら、あっという間に消滅したのである。いわんや、自分自身が食ってゆくこともできない弱小国家の北朝鮮の金正日体制が、5年後にこの世に存在している保証なんてどこにもない。ちょうど、昨年の重陽の節句では、御所であれほど寵用された菅原道真が、今年の節句には、誰も訪ねてこない左遷先で一人悶々と歌を詠むということがあったように…。


▼拉致して強請(ゆす)るのは金王朝の伝統的手法

この建国55周年の佳節を前に、北朝鮮では、9月3日、久しぶりに最高人民会議(国会に相当)が開催され、満場一致(註:私は何ごとにつけ「満場一致」という採択結果は信用していない)で、金正日氏が朝鮮民主主義人民共和国の最高指導者ポストである「国防委員長」に再選された(註:「創業者」である金日成氏の「主席」というポストは、永久欠番として今後百年間、誰も使ってはいけないこととなっているそうだ。軍事上の最高職が実質的に国家の最高職であるという点では、江戸時代の「征夷大将軍」と似ている)。その建国55周年を盛大に祝うためには、万事物質不足の北朝鮮は、日本からの「貢ぎ物」を積み込むためにも、何がなんでも、9月4日にマンギョンボン(万景峰)号を新潟に来港させる必要があったのである。

今から、ちょうど千年ほど前、中国大陸では、趙匡胤によって宋王朝が建てられた。あれほどの栄華を誇った大唐帝国が、辺境警備のために各地に置いた独自の行政権と軍事権を有する節度使たちによって、自ら崩壊した同じ轍を踏まないために、宋帝国は軍人の力を弱め、それだけ中央集権的官僚体制を採った。しかし、たまたま、中国大陸の北方や西方で勢いを増してきたモンゴル系、ツングース系、タングート系といった遊牧民族の諸国家が勃興している時期と重なったことが宋王朝の不幸となった。中華帝国である宋の西方には、タングート(チベット)系の「西夏」が、また、北方には契丹(註:モンゴル系とツングース系の混血といわれる)人の国家「遼」が相次いで建国し、宋帝国はその成立当初から滅亡に至るまで、これらの西戎北狄の外患に悩まされるのである。

西暦1004年、北方の遼が建国まもない宋帝国に侵入したが、優柔不断な宋の指導部(高級官僚)は、外敵と断固戦うということなしに、金品の贈与(今で言えば、円借款やODAなどの経済支援のこと)や領土の割譲によって、これを懐柔しようとした。しかし、「脅せば何かを出す」ということで、一度味を占めたこれらの「ならず者」たちは、次々と宋帝国の富(もちろん、国民の血税)に集(たか)るようになった。さらに、1115年、ツングース系の女直(ジュルチン)族が「遼」の北東に「金」を建国した。宋は、百年以上にわたって苦しめられてきた遼を滅ぼすために、「毒を以って毒を制す」の策を立て、金と連合して、遼を挟み撃ちにした。一見、この計画はうまく行ったかに見えたが、今度は、遼を滅ぼした金が、軍勢をそのまま南下させて、宋の都開封を占領し(1125年)、帝都で略奪を恣(ほしいまま)にし、皇帝の徽宗と欽宗の父子を初め、有力者3,000人を金の本拠地へ拉致連行した。これが、有名な金王朝による「拉致事件」である。歴史学では、これを「靖康の変」と呼んでいる。金軍による連行を免れた欽宗皇帝の弟康王は、戦乱を避けて河南の応天府に遷都し、そこで帝位(高宗)に就いた。そこで、それ以前を「北宋」と呼び、それ以後を「南宋」と言う。もちろん、南宋の初期の政治的外交的課題は、金によって北方に拉致された人々の奪還であったことはいうまでもないが、実際には、金の執拗な攻撃を逃れて南宋は、さらに江南の臨安(杭州)に遷都した。


▼朝貢(ちょうこう)とは鮮にぐこと?

臨安遷都後の南宋は、ある意味で、国防力の整備を諦めて、ひたすら経済成長第一主義を採った。したがって、南宋は文化的には充実した。南宋は、禅仏教や喫茶の習慣を初め多くの文化的な影響を日本にも与えたが、いかんせん軍事力の整備を怠ったので、周辺諸国からはいつも馬鹿にされてきた。しかも、南宋国内の政界や言論界においても、傍若無人の不法行為を働く隣国の金王朝に対して、「徹底的に圧力をかけよう」という岳飛らの主戦派グループと、「金で済むことなら金で済ましたほうが安くつく」というキャリア官僚(科挙)出身の秦檜らの宥和派のグループが勢力争いを続けていたので、一向に内憂外患が収まらず、仕舞いには、あろうことか「ならず者国家」の金王朝に対して「臣下の礼」をとって、毎年、朝貢(鮮にぐと書く)するという馬鹿げた仕儀となった。

ところが、相手の弱腰につけ込んで、傍若無人なる振る舞いを繰り返した金王朝も、北方に新たに出現した“世界帝国”蒙古によって滅ぼされたのである。例によって、軟弱国家の南宋は、当初は、金を攻撃してくれる蒙古が出現したことを喜んだが、いかんせん「他国の軍事力頼み」ではどうしようもなく、蒙古と組んで北宋の故地を奪還するどころか、これまではかろうじて金品を差し出すことによって安堵されていた河南の地も攻め滅ぼされ、ついには中国大陸の全土を蒙古帝国に支配されてしまったという話である。因みに、9月9日は、朝鮮民主主義人民共和国の建国記念日であると同時に、中華人民共和国の「高祖(創業者)」毛沢東主席の命日(1976年9月9年没、享年82)でもある。北方の金による拉致事件だけを外交的課題にし、またこれに対して、経済支援だけを交渉カードにした姿勢を繰り返していれば、さらにその背後に、もっと大きな現在のチンギスハーンが、日本という「金の卵を産む鶏」を虎視眈々と狙っていることに誰も気づかないのであろうか。


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