桃太郎とは何者なのか?
03年12月08日


レルネット主幹 三宅善信


▼大和朝廷と古代吉備王国

  太平洋戦争開戦62周年目の朝を迎えた。2年前、私はこの瞬間をパールハーバー(真珠湾)の米軍基地で過ごしたが、「9.11」からわずか3カ月しか経っておらず、また、現に米軍がアフガニスタンで軍事作戦を進行中だったため、大変な緊張の中で「太平洋戦争開戦60周年」の慰霊祭だったと記憶している。小泉政権による自衛隊の「イラク派遣」の閣議決定をこのタイミングですることの意味を含めて、今回は、時の権力による軍事行為の正当化の意味を全く別の角度から考えるヒントになるような話をしたい。


真珠湾に太平洋戦争のモニュメントとして繋留されている戦艦ミズーリの艦上で

つい先日、20年ぶりに、備中国(岡山市)の吉備津神社(註:この神社と目と鼻の先に備前国一宮の吉吉備津彦神社という別の神社もある。両社は備前と備中の国境を挟んで鎮座しているが、恐らく古代の吉備国が備前・備中・備後に分けられた際に、神社も分けられたのかもしれない)を訪れた。もちろん、この吉備津神社は、童話『桃太郎』のモデルとされる吉備津彦命(キビツヒコ)を祀った神社である。日本列島の一元的支配を目指す大和朝廷の先遣部隊(註:有名な日本武尊(ヤマトタケル)は第11代景行天皇の皇子。この吉備津彦は第6代孝霊天皇の皇子ということになっている。もちろん、天皇の代数や「皇子」という地位などたいした意味がない。要するに「大和政権側の人」という意味である。また、キビツヒコやヤマトタケルという名称も、一個人の名前というには、あまりに一般的な名称であり、そういう事象の事後説明を人格化したものと捉えたほうが適切である)によって、日本列島が平定されてゆく際に、東国を中心に、まだまだ各地に残っていた縄文系の先住民(native Japanese)も、あるいは、民族的には大和朝廷側と同じ民族(弥生系=old comer)であっても反主流派となった地方豪族たち、さらには、日本各地に棲みついていた大陸や半島からの政治的避民たち(new comer)をある時は、取り込み、ある時は殲滅しながら平らげていった話が、至極ナイーブに記紀神話に取り入れられている(註:もちろん、手塚治虫の『火の鳥(ヤマト編)』で描かれているように、「勝者」となった大和朝廷側にとって都合のよい創り話として)のである。

古代吉備王国は、出雲王国と並んで大変栄えた地方政権であり、場合によっては、こちらが「勝ち組」となって、大和政権に取って代わって日本列島を統治することになっていても不思議ではなかった。もちろん、そうなると、今日われわれが知っている記紀神話は、すっかり変わった内容になっているだろうが…。この地にある造山(つくりやま)古墳などは、大和政権の本拠地(畿内)にあったいわゆる「大山古墳(=仁徳天皇陵)」や「 誉田山古墳(=応神天皇陵)」と比べても遜色のないわが国でも4番目に巨大な前方後円墳であり、しかも、後世、天皇陵に比定(ひじょう)されてなかったということから見ても、古代この地域に大和朝廷と対抗しうる別系統の大きな政権があったことは明らかである。


▼艮(うしとら)の金神(鬼)の誕生

吉備津彦に敗れた地方豪族の首長「温羅(うら)」は、伝承によると、新羅に圧迫された百済の王子が亡命してきて、気候が温暖で土地が豊かなこの地に政権を建てたものと言われる。「大和朝廷」といっても、それ自身、時代の早い遅いの違いはあっても、とどのつまりは、日本に亡命してきた百済系や新羅系の人々が、この列島内で先住民(弥生人=old comer)たちを交えて覇権争いを繰り返すだけでなく、先住民たちと混血して成立した政権なのだから、朝鮮半島出身者同士の争いとも言えるわけである。そして、大和政権の吉備津彦に成敗された温羅(鬼)は、地中に封じ込められ、有名な「鳴釜神事」(その不気味な音は「おどうじ」と呼ばれる)を通して、大地の神の意志を伝える媒体(メディア)となった。


若い神職の祝詞よりも、熱せられた釜に米を投入しておどうじを鳴らさせる「釜婆」のパフォーマンスがおどろおどろしい「鳴釜神事」

この「鳴釜神事」のことは、12世紀に後白河法皇の命で編纂された『梁塵秘抄』にも、「一品聖霊吉備津宮、新宮本宮内の宮、隼人崎、北や南の神客人、うしとらみさきは恐ろしや」と詠まれているように、古くから陰陽道と結びついて(註:この恐ろしい祟り神は、暦に合わせて滞在する方角を遊行したので、いわゆる「客人(まろうど)神」として理解された)多くの信仰を集めたので、中央から遠く離れていたにもかかわらず、歴史を通じていろいろな文献(註:例えば、艮(うしとら)の金神(こんじん)信仰については、金光教祖の筆になる『金光大神御覚書』の安政2(1855)年正月の項に、自身の42歳の厄祓(やくばらい)のため、吉備津宮で「おどうじ」を受けたエピソード話が紹介されている)に出てくるが、今回私は、久しぶりに「鳴釜神事」を体験したくなって、吉備津神社を20年ぶりに訪れたのであるが、岡山駅から総社方面へ伸びるローカル線(JR吉備線)の無人駅である吉備津駅から神社まで10分ほどの歩いてみて、いろんなことに気が付いた。


一直線に伸びる松並木の参道は、新羅の古墳への参道を彷彿させる

まず、小さな山を背景にした神社の正面に伸びる一本の長い参道の両脇には立派な松並木が植えられており、この景色は、この秋、私が訪れた新羅時代の古都キョンジュ(慶州)の古墳や仏教寺院への参道と極めて似ているのである。


▼「平賊安民」とはいかなる意味か

私は、吉備津神社の境内に入り、結構長い、石階段を登って本殿の正面まで来て驚いた。そこには、神社の正殿には珍しく扁額が掲げられており(註:大寺院には、だいてい山号などの扁額が掲げられている)、そこには、失礼ながらあまり達筆とは言えない字で『平賊安民』と書かれていたのである。もちろん、20年前に来た時にも、この扁額は掲げられていたのであるが、その時はなんとなく、この「賊」というのは、その昔、吉備津彦によって平定された地方政権の豪族たち――桃太郎伝説においては、桃太郎によって退治された鬼たち――のことだろうと思っていたのであるが、その扁額が揮豪された年代を見て驚いた。曰く「大正七年宮中顧問官勲一等三島毅(註:実際には、長々と肩書が書き連ねられていたが、長すぎて覚えきれなかった。後で調べたら、筆者は、陽明学に立脚した経世家で、明治漢学界の御大であった倉敷出身の三島毅(号は「中洲」)博士。同氏は、大審院(最高裁)判事・東京大学教授・東宮侍講・宮中顧問官等を歴任。「二松學舍」を創設した)によって揮毫されたこの扁額が、吉備津神社に奉納されていたのである。


本殿正面に掲げられた『平賊安民』の扁額の前で

大正7年という年は、西暦では1918年、すなわち、日本が欧米列強と謀って「シベリア出兵」を行なった年である。ということは、ここでいう「賊」とは、社会主義化(赤色化)したロシアのことであり、「赤鬼」とは文字通り、ボルシェビキを指していたのである。この辺の経緯については『イラク派遣を前にシベリア出兵を検証せよ』に詳しく述べたので、そちらを読んでいただければ一目瞭然であるが、つまり、明治維新によって成立した近代国民国家としての大日本帝国が、その後の海外派兵常態化(註:もちろん、それまでにも、日清・日露の対外戦争を経験しているが、いずれも1年間程度の短い期間で戦闘が終結している)のきっかけとなった出来事と奇妙に符合しているのである。


▼古くからあった不思議な桃の話

さて、いよいよ本題に入ろう。『桃太郎』の話は、日本の昔話の中では最もポピュラーな話であるが、この物語の成立は案外新しいのである。もちろん、桃太郎話のプロット(原形)となった伝承は室町時代頃まで遡れるが、それは古来より伝わる不思議な桃の霊力(註:黄泉の国からイザナミが逃げ帰る際に桃の種を投げて助かった話や、中国の『西王母』にも寿命長久の霊力を持つという蟠桃まつわる話が登場する。『西遊記』の孫悟空も、この桃を盗もうとするところから話が始まる)によって、年老いた夫婦がこの桃を食したことによって若返り、そして(要するにHをして)子供をなした(註:いわゆる「回春譚」という物語の類型)という、現在、われわれがよく知っている『桃太郎』の童話とは全く違う話であった。共通する部分といえば、「老婆が川から流れてきた桃を拾う」部分だけである。

それに、『浦島太郎』の話にも見られるような「どこか不思議な(註:島というのは、水に囲まれた小さな陸地という地理的なislandのことではなく、やくざのシマと同様、territory(領域)、あるいは、world(世界)という意味である)へ出かけて、何か珍しいものを貰ってくる(あるいは、盗んでくる)」という説話が合体して創られたものであり、江戸時代の赤本(註:江戸中期に大量に刊行された挿絵中心の仮名書き本)などを見ても、ほとんどその手の滑稽話(註:家来の犬・猿・雉は、現在のような完全な動物ではなく、『西遊記』や『南総里見八犬伝』のヒーローたちのような動物の霊力を有した人間であった)の類である。しかも、今では犬・猿・雉として知られる家来たち(『桃太郎バグダッドへ征く』参照)がメンバーの定石のようになっているが、赤本などには、蟹や栗や臼や蜂など『猿蟹合戦』でお馴染みのキャラクターたちとも混同して伝えられていたものもあるそうだ。


▼明治国家が創り上げた理想的少年像

この桃太郎の話が、現在われわれが広く知っているような「桃から生まれたももたろう 気はやさしくて力もち♪」(1900年制定の文部省唱歌)というキャラとして描かれるようになったのは、なんと明治時代になってからである。明治20年(1887年)の『尋常小学読本』に、『桃太郎』の話が初めて教科書に採用された。いわゆる、犬・猿・雉(註:何故、犬・猿・雉が家来になったかと言えば、「鬼門」の方角である艮(うしとら=丑寅)に対抗するパワーとして、「裏鬼門」の方角に当たる申・酉・戌(サル・トリ・イヌ)を連想したものと推測される)が家来になって、鬼ヶ島に鬼退治に行くというお馴染みの話である。ここで、はじめて「川で拾ってきた桃を割ったら、元気な赤ん坊(=桃太郎)が出てきた」というストーリーに変更された。さすがに、江戸時代の赤本のような「爺さん婆さんが不思議な桃を食べて若返って、(Hした結果)子供が産まれた(註:「桃源郷」という言葉があるくらいだ)」という話では、「迷妄打破」の文明開化を国是とする近代国家の小学生の教育テキストとしては相応しくないと、薩長の田舎侍上がりの維新政府の文部官僚たちは考えたのであろう。しかし、この時点でさえ、主人公の桃太郎は、江戸時代の赤本の影響を色濃く残しており、まだ若衆(=青年)姿の豪放磊落(ごうほうらいらく)な「歌舞伎十八番」に例えれば、『暫(しばらく)』に登場するスーパーヒーロー鎌倉権五郎景政のイメージである。

桃太郎の姿が今日われわれが知っている「日本一」の旗指物を背中に差して陣羽織を着た紅顔の少年の姿として初めて描かれたのは、なんと、昭和8年(1933年)に刊行された国定教科書の挿絵が最初だというのである(註:この辺の詳しい経緯は『放送大学の面接授業より』を参照されたい)。当時、日本は、いうまでもなく国を挙げての戦時色がどんどんと強くなり、まさに「軍国少年ヒーロー桃太郎」として、物語のストーリーはどんどんとエスカレートしてゆき、単に教科書の中だけではなく、当時、絶大な人気を誇った雑誌『少年倶楽部』においては『桃太郎遠征記』として紹介され、「大東亜共栄の理想を実現するために、暴君(鬼)が支配する非道な国々を征敗し、(慈悲深く慈愛普く天皇陛下の)大御心を世界に普く広宣流布する」という、まるで現在の北朝鮮か、某教団のプロパガンダのような内容である。極めつけは、昭和18年(1943年)に海軍省が制作した(もちろん、実際には民間の映画会社に委託製作された)アニメ映画『桃太郎の海鷲』で、その中では、桃太郎はなんとゼロ戦のパイロットになって、真珠湾を攻撃しているそうである。


▼国家権力によって創作されたヒーロー

確かに、当時の日本では、敵国のことを「鬼畜米英」と呼んでいたように、神聖国家大日本帝国の御稜威(みいつ)に靡(なび)かない蛮族どもを鬼に例えた(註:この比喩は、ある意味では当を得ている。当時、「生」の欧米人を実際に見たことのある日本人はほとんどなかったであろうし、貧しい日本の生活環境からして、欧米人との体格の差は今よりもはるかに大きかったので、毛深くて赤ら顔の大男が、実際「鬼」のように見えたといっても過言ではない)のである。しかも、この映画の中で、桃太郎が攻めて行く先の鬼ヶ島の名前が「洋鬼(Yankee)島」と名付けられており、ギャクのセンスもそこそこある笑えない話である。

これらの諸例を通して、桃太郎の話は、古代における中央集権国家の成立時においては、先住民や反体制派豪族もしくは定着帰化人たちを征服していった大和朝廷の史観がプロットであったり、近代国民国家形成期においては、大日本帝国に靡かない周辺諸国を侵攻することを正当化するために、その都度、時の権力によって都合の良いように創り替えられていた話だったのである。しかも、童話の中では、相手は誰の目にも叶いそうもないような大きくて強い鬼として描かれているが、こちら側さえ、純真無垢な正義(忠君愛国)の気持ちさえ持てば、小さな少年でも相手を倒せる話として描かれ、犬・猿・雉に象徴される打算のない動物たち(註:吉備団子ひとつが、彼らがいのちを懸けることの代償なら、兵卒のいのちが軽すぎる)まで、主君の威徳に感服して家来になって付いて来るとして描かれたという意味で、権力によって「二重の創作」がなされた醜い話だったのである。

戻る