レルネット主幹 三宅善信
▼誰がアフガンの“関中王”になったのか
世界中の目がイラクに向けられていたその隙に、イラクの一年半前にアメリカが崩壊させたもうひとつの中東の国アフガニスタンの将来を決める上での重要な決定が次々と行なわれていった。近代化された中央集権国家であったイラクのフセイン政権のように、大規模な地上軍を派遣するまでもなく、米英を中心としたNATO軍による空爆攻撃(註:21世紀に入ってからのアメリカによる戦争は、2001年9月11日のいわゆる「同時多発テロ」と、その翌月に始まったアフガニスタンへの報復戦争がきっかけであることは言うまでもない)によって、それまでアフガニスタンの国土の95%を実効支配し、オサマ・ビン・ラディン氏率いるアルカイダを匿っていたイスラム原理主義者のマハメド・オマル師率いるタリバン政権が崩壊した。この戦争がイラク戦争と最も異なっていたのは、初期の米軍による巡航ミサイルやステレス爆撃機による空爆作戦から始まった点は同じであるが、第一波の空爆攻撃の後、タリバン追討のためのアフガニスタン国内での地上戦を具体的に闘ったのは、「北部同盟」と呼ばれるアフガニスタン少数民族各派の軍閥たちであった。
このあたりの経緯については、拙作『誰がアフガンの“関中王”になるか』で詳しく述べた通りである。アメリカによって暫定政権の大統領に据えられたカルザイ氏は、現在開催中の「憲法制定ロヤ・ジルガ(国民大会議)」において、アメリカ的な「強力な大統領制」の導入(もちろん、自分自身がその大統領に就くつもりで)を目指している(註:この点では、実際には抗日パルチザン活動にほとんど実績の無かった金日成氏が、ソ連スターリン政権の思惑によって、北朝鮮の「首領様」に付けられたのと同じような立場である)。
タリバン政権が崩壊した後も、アフガニスタンがこのように混乱している最大の原因は、多数派(43%)のパシトゥーン人(註:オマル師ももちろんパシトゥーン人だった)と北部に点在する少数派のタジク人(24%)・バサラ人(6%)・ウズベク人(5%)たちとの関係(註:ところが、アフガニスタン北部の国境を越えると、逆にタジク人やウズベク人が多数派となるタジキスタン・ウズベキスタンという国があるから話はややこしくなる。ちょうど、旧ユーゴのコソボ自治州におけるアルバニア人とセルビア人のような関係。あるいは、旧ソ連コーカサス地方のグルジア共和国におけるグルジア人と各少数民族と同じような関係である)をどう確認するかにあるのだが、旧「北部同盟」の人たちは、パシトゥーン人中心のカルザイ政権の中央集権化を受け入れるはずがない。なぜなら、彼らにしてみれば、タリバン政権(パシトゥーン人)と長年にわたって戦ってゲリラ戦を展開し、「今回のアフガニスタン解放に対して最も軍事的功績のあったのは自分たちである」という自負心があるからである。
▼ロヤ・ジャルガ(国民大げんか)
このようなアフガニスタンの現状のまま、カルザイ大統領を支持する多数派パシトゥーン人を中心とした強力な大統領制の中央集権型政権が成立してしまうと、少数派にとっては、ある意味、タリバン時代と同じ構造になってしまう恐れがあることから、パシトゥーン人(大統領)への権力の一極集中を緩和する「首相制」導入をタジク人のラバニ元大統領らが求め、ウズベク人たちも少数民族の政治的権利の尊重、すなわち、議会や政府に少数民族の代表者を必ず一定割合加えることを求めたり、トルコ系のトルクメニスタン人やウズベク人たちは、「国語(公用語)」に、それぞれの言語を採用するよう求めた。
日本人にとっては、国語というものが日本語であることがごく当たり前のように思われるが、多民族からなる国家には、しばしば複数の言語が国語(公用語)として採用されている場合がある。カナダの公用語が英語とフランス語であることは有名だが、小さな国でも、ベルギー王国はフランス語とドイツ語とフラマン語の3つの言語、スイス連邦はフランス語とドイツ語とイタリア語とロマーニッシュ語と4つの言語が公用語になっているのである。日本では、すべての駅や道路の案内表示が日本語の他に英語(註:固有名詞ばかりなので、ほとんどローマ字と変わらないが、一応は英語)が並列表記されている(註:大阪市などでは、それに加えてハングルや中国語表記まで行なわれているが)が、そのようなことと、複数の言語が国語になることとでは、根本的に意味が異なるのである。複数の言語が国語になるということは、単なるそのような案内表示の類の表記だけではなく、法律の条文も複数の言語で表記しなければならない(註:厳密な解釈まで同意にするのは難しい)し、議会での質疑応答や裁判所での審理、あるいは、テレビの番組等すべてにわたって、必ず複数の公用語を並列して表記しなければならないという義務が生じることであり、このことは、われわれ日本人が考える以上に複雑な問題を内包しているのである。
一方、アメリカによって大統領職に就けてもらったカルザイ氏は、そのようなモザイク論的(民族主義的)な要素をできるだけ排除し、ひとつの統一原理の下にアフガニスタンという国民国家を再建するには、強力な大統領制を導入しなければならないという主張を展開し続けたのである(註:明治維新後、薩長勢力と、そうでない地方の出身者の官吏としての出世上の「差別」が解消するのに、数十年以上を要したではないか)。約500名の議員から(註:選出手続きが曖昧である人々を「議員」と呼べるかどうかは解釈の分かれるところであるが、一応、「議員的なもの」であるには違いないので、ここでは「議員」と呼んでおく)構成されるロヤ・ジルガにおいて、約200名もの議員が、元日に行なわれる予定であった憲法制定草案の投票をボイコットするという異常事態になった。このボイコットと前後した一連のロヤ・ジルガの混乱は、地元では「ロヤ・ジャルガ(国民大げんか)」と揶揄されており、暫定政権の求心力は低下しつつある。そこでは、ロヤ・ジルガの内外を問わず、ムジャヒディン(イスラム聖戦士)の各軍閥やアメリカの意向を受けた勢力等が議員たちに対して、脅迫や買収等ありとあらゆる裏工作を展開し、およそアメリカが主張する議会制民主主義とはかけ離れた状況を展開しているのである。
▼もとの濁りのラバニ恋しき
そもそも、このようなアフガニスタンの四半世紀にわたる混乱をもたらしたのは、ソ連による1979年のアフガニスタン侵攻である。麻薬(の原料となるケシ類)を栽培することくらいしかさしたる産業のないアフガニスタンでは、ソ連の傀儡(かいらい)としてのカルマル政権とナジブラ政権の「支配」が13年間続いたが、肝心要のご本家ソ連自体が崩壊してしまい、それに抵抗して各地で組織されたムジャヒディン各派の対ソ連ゲリラ戦争は、アフガン人としてのナショナリズムの高揚よりは、宗教を否定する共産主義へのアンチテーゼとしてのイスラム原理主義を人々に覚醒させるだけという副作用をこの地域にもたらした。
ゴルバチョフ政権のペレストロイカ政策によって、1989年にソ連軍が何ら具体的な成果を得ることなしに、アフガニスタンから撤退し、アフガニスタンに民族自決の国民国家が回復すると期待されたが、「共通の敵」なき後のアフガニスタンは、その支配権を巡って、対ソ連戦争の際にゲリラ各派にアメリカ等から十分に供給されてきた武器を持った軍閥が各地に割拠し、彼らが際限のない内戦を始めることとなった。つまり、「アフガン人」という観念的なナショナリズムよりも、○○族といった実感できる部族主義のほうが強くなった。
武器は粗末でも士気の高い
タリバン兵 |
そんな中で、1992年、ソ連軍という後盾を失ったナジブラ政権が崩壊し、少数民族のタジク人のラバニ氏が政権を奪ったが、その後も納まることのなかった軍閥たちの堕落した政治運営に幻滅を感じていた国民(註:ナショナリズムが低下して、イスラム原理主義だけ残った)は、隣国パキスタンからの支援を受けたイスラム神学生たちの高潔な理想を説く原理主義運動タリバンへと急速に支持を移していったのである。1994年、政権を取った当初、タリバンは徹底的な不正の摘発や社会的公正、「シャリーア(イスラム法)」の遵守、イスラムの理想を体現するウンマ(生活信仰共同体)の思想に基づく相互扶助社会(註:宗教に基づいたある意味の共産主義社会)の実現を図ったが、そのあまりにも厳しい徹底ぶりに、まさに松平定信の寛政の改革の時と同じように、「以前の田沼意次の時代が良かった」と思う抵抗勢力との間での鬩(せめ)ぎ合いというのが続いていたのである。
▼「9.11」はなぜ起ったか?
しかし、あまりに潔癖すぎる精神主義は、国内経済の後退をもたらし、人々のタリバン政権に対する嫌気を招いた。このような状況を打破するために、タリバン政権が実行したのは、豊かな湾岸イスラム諸国からの援助の要請であったが、タリバン政権の成立に大きな役割を果たした隣国パキスタンは、インドとの軍事的衝突があった際に、親インド意識の強いアフガン人とインド人の仲を裂くために、ヒンズー教の聖牛多数をタリバン政権に援助し、見事に思惑どおり、アフガン人の心を自分たちのほうに向けさせることに成功するが、イスラム原理主義の波及を恐れる(註:一部の王族が巨額の富を独占している体制にとっての驚異は、富の公平な分配を説くイスラム革命である)豊かな湾岸諸国から無視されたので、世界中からもっと大きな関心を集めるために実施されたのが、2001年3月のバーミヤン石窟寺院のクレイジーな破壊行為であった。
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バーミヤン石仏爆破の瞬間 |
世界貿易センタービル激突の瞬間 |
この事件は、日本やASEAN各国には大きな影響を与えたが、もともと仏教国ではない欧米には、たいした影響を与えることができなかったので、さらにエスカレートした同年9月11日の米国同時多発テロという行為に繋がったのである。その同時多発テロのあまりにも衝撃的な映像によって霞んでしまった感があるが、その2日前に、反タリバン勢力のカリスマ的指導者であった北部同盟の英雄マスード将軍が、タリバンの手の者によって暗殺されるという事件が起きたのである。マスード将軍は、少数派タジク人であったにも関わらず、他の少数派各民族は言うまでもなく、多数派パシトゥーン人にまで人望の厚かった対ソ連ゲリラ戦争での英雄であり、もし彼が生き残っていれば、おそらく今日のロヤ・ジャルガのごとき混乱は起きていなかったように思われる。
2002年4月、初めてロヤ・ジルガが召集された時の映像を思い出してほしい。『誰がアフガンの“関中王”になるか』でも述べたように、30年以上にわたってイタリアに亡命していた年老いたジャヒル・シャー元国王を連れて来て、宛(あてが)った文章を元国王に読ませてロヤ・ジルガの開会を宣言したが、その会場には一方で巨大なマスード将軍の肖像写真が掲示されていたではないか。肖像写真を否定するイスラム国家においてのことである。どう考えてもそのまま受容できるとは思えない欧米型の議会制民主主義国家の立ち上げに際し、四半世紀前のソ連軍侵攻以来、野武士的な風貌と民族の誇りを持って抵抗し続け悲惨な最期を遂げたマスード将軍の姿に「アフガンのラストサムライ」というイメージを重ね合わせたのは私だけではあるまい。