レルネット主幹 三宅善信
▼ブッシュ再選とアラファトの死
第一次世界大戦の戦勝記念日を控えて盛り上がる2004年11月10日、パレスチナのカリスマ的指導者ヤセル・アラファト氏が、「約束の地」を遠く離れたパリのフランス陸軍病院で客死した。享年75。長年「パレスチナ国家の樹立」を夢見て「闘争」してきたアラファト議長(註:日本では、最期まで「議長」と呼ばれたが、欧米では、1993年の「オスロ合意」によって翌年に成立したパレスチナ暫定自治政府樹立以後は、それまでの「PLO(パレスチナ解放機構)議長(Chairman)」から、「自治政府大統領(President)」と敬称が変わったが、本編では、日本人読者になじみの「議長」という肩書きを用いることにする)の死は、いろんな意味で、大きな歴史の転換点であった。
このアラファト議長の突然すぎる死に、読者の皆さんは大いなる疑問を持たれただろう。2001年のアリエル・シャロン政権成立以来、イスラエル軍によってヨルダン川西岸自治区のラマラにある議長府に軟禁状態に置かれて四面楚歌の闘争を続けてきたアラファト氏が、なぜ、この時期に急に病気になって、しかも、故国パレスチナの地から遠く離れたフランスで死ななければならなかったのか? ほぼ同時期に、アラファト氏の実弟が、やはり、エジプトのカイロで原因不明の病気で重体になったことは案外知られていない。また、「厄介者」のアラファト氏を受け入れたフランス軍の病院も、アラファト氏の病状について、はっきりとした診断結果が下せなかったのは何故か? ヨーロッパの銀行の秘密口座に数十億ドル(数千億円)はあると言われているアラファト氏名義の預金はいったいどうなるのか? いろいろな憶測が乱れ飛ぶなど、謎が謎を呼ぶアラファト氏の「死」である。
結論から言おう。私は「暗殺された」のだと思う。問題は、誰に殺されたのかである。ただし、昔のように「一服盛る」というような素朴な形で殺したのでは、明らかに犯人の証拠が残ってしまう。もっと巧妙な方法で暗殺されたのであろう。例えば、毎日、アラファト議長が執務する部屋、あるいは、暮らす部屋に密かに放射線を浴びせて(註:都合のよいことに、アラファト氏はこの4年間、ラマラの議長府という狭い建物の中に軟禁状態に置かれていたのだから、彼の生活圏はかなり限定されているので、このようなしかけを用意することは実に容易だ)アラファト氏を血液性の癌にしてしまうとか、証拠の残らない殺し方は素人の私でも簡単に思いつく。
当然、諜報活動では世界一の実力があるとされているモサド(イスラエルの諜報機関)や、CIAをはじめとするアメリカの諜報機関が、このような暗殺計画を実施したと思う人も多いであろうが、実は、私の考え方はそうではない。アラファト氏を殺したのは、他ならぬパレスチナ関係者、もしくは、アラブ世界の指導者の誰かと見るのが正解である。それでは、何故アラファト氏は「同朋」に殺されなければならなかったのか? これは、その直前に判明したジョージ・W・ブッシュ大統領の再選と密接に関係しているのである。
▼本来ならパレスチナ国家は樹立されていた
話は、クリントン政権の副大統領であったアル・ゴア氏と、当時、テキサス州知事であったジョージ・W・ブッシュ氏との間で戦われた歴史的な大接戦を繰り広げ、何度も票を数え直すという前代未聞のすったもんだの結果、わずか300票差でブッシュ氏が大統領選挙を制した2000年12月にまで遡る。あの時、8年間続いた民主党クリントン政権の下で、中東和平――ここで言う中東和平とは、「パレスチナ国家の正式な樹立」ということを意味する――について、イスラエルのバラク首相(労働党)と、パレスチナ自治政府のアラファト議長、そしてクリントン米国大統領による三者協議が、キャンプデービッドで行われ、「現在イスラエルが不法に占領しているヨルダン川西岸地区の94%をパレスチナに返す」という線で決着を見かかっていたのである。
しかし、アラファト議長はここで欲を張って、あるいは、カリスマ的指導者を演じるために、国内向けに「あと6%もなんとかせよ」と言ったのである。まあ、大きな話をふっかけるのがアラブ式の交渉術とも言えるのであるが……。しかし、あといくら色をつけてもらおうと思っても、ゴア氏の大統領選の敗北によって、その時点では既に、クリントン政権は翌2001年の1月20日になればブッシュ政権に代わるということが決まっていた――つまりレイムダック(死に体)化していた――のに、交渉の落としどころを誤った。その結果、ブッシュ政権が正式に発足した途端に、パレスチナへの返還が確約されていた94%も反故にされ、アラファト氏は結果的には、「all
or nothing」という選択をさせられ、なおかつ「ゼロ回答」が与えられたのである。時、あたかもイスラエルの政権は強行派リクード党のシャロン首相に代わっていた。
つまり、 あと1カ月もすればまったくのゼロ回答になるのが判っている交渉に、数パーセントの「領土」損失での落としどころをよう決断しなかったアラファト氏がパレスチナ自治政府を率いることによって、結局、「パレスチナ国家の樹立」はアメリカ・イスラエル・パレスチナの間で合意されていたにも関わらず、
反故にされてしまったのである。もちろん、長年かけて築き上げてきた関係国相互の信頼醸成措置をぶち壊したブッシュ氏の罪も大きいが、やはり、大局から見れば、1969年以来、30年以上に及ぶ超長期政権にあったにも関わらず、この大局の変化を見ることができなかったアラファト氏の罪が大きい。
その後のことは皆さんもよくご存知のように、アラファト氏はシャロン氏の挑発(註:2000年9月、当時野党であったリクード党のシャロン党首が、東エルサレムにある預言者ムハンマドの魂が昇天したとされるイスラム教の聖地、岩のドームのある地域へ入り、そのことに怒ったパレスチナ人たちがシャロン氏一行に投石を始め、それを鎮圧するという大義名分でイスラエル軍が介入した事件)と、強硬派であるハマスはいうまでもなく、PLO内の最大派閥であるファタハを始めとする過激派の自爆テロを抑えることができず、テロの連鎖、暴力の応酬が際限なく繰り返されることになってしまったのである。
というより、自爆テロを金儲けの手段にしていたアラファト氏に(註:対イスラエル自爆テロを行ったパレスチナ人の遺族に対して、イラクのフセイン大統領らが供出した報奨金の一部をアラファト氏がピンハネして、巨万の富を築いたこと)テロを抑える意志も能力もなかったことは明らかである。また、最近では、自爆テロから「イスラエル人の入植者を守る」という大義名分で、イスラエルによる占領を固定化させる「壁」まで造られてしまったのである。
▼アラファト氏を殺したのはパレスチナ人
こうした閉塞状況の中で、パレスチナ人たちが一縷の望みを託していたのは、アメリカ国会を二分していたジョン・ケリー氏が大統領選挙に勝つことによって、アメリカの中東政策のフレームワークそのものが変更される可能性に対する期待であった。ところが、実際には、ケリー候補は、アメリカの宗教右派、つまり、「なにがなんでも親イスラエル」という宗教右派勢力によって後押しされたブッシュ氏に敗れてしまったのである。仮に、このままアラファト氏をパレスチナ自治政府のトップに戴いていてもブッシュ大統領の任期であるこれから先4年間は、決して「(自分たちの思う方法で)パレスチナ国家の樹立はできない」ということが明らかになったのである。もう既に何十年間もこの日を来るのを待って、イスラエルによる抑圧と貧困生活に耐えてきたパレスチナ人たちが、この年老いた交渉能力のない(というより、戦争状態が続いたほうが儲かる)指導者の下でこれ以上待つことができなくなったのである。
そこで、パレスチナ指導部の有力者の誰か(もしくはアラブ世界の誰か)が選んだ戦略が、アメリカやイスラエルから、交渉相手として見なされていないアラファト氏を亡き者にして、パレスチナ自治政府のシャッポをすげ替えることによって、新たな突破口を――おそらく2000年末時点では、イスラエルが占領していたヨルダン川西岸地域の94%を返還してもらえたのに、「9.11同時多発テロ」以後、世界の情勢は大きく変化したし、アラファト氏の数少ない支援者であったフセイン大統領無き後は、アメリカ側の立場が一方的に強化されたので、おそらく20〜30%しか返還してもらえないであろう。これを受け入れる以外に方途はない、という酷い条件を呑まされる交渉になるであろう。しかし、それでも、アラファト氏が引き続きパレスチナの指導者であり続けて、受け取るものがゼロになってしまうよりも良いということで――持ち、このままなし崩し的にパレスチナ国家樹立の可能性を壊されてゆくよりは良いということを選んだのである。
つまり、アラファト氏を殺したのは、アメリカでもイスラエルでもない。パレスチナ人そのものであり、なおかつ、そのことを導いたのはアメリカ大統領選挙におけるジョージ・W・ブッシュ氏の再選であり、「何がなんでもイスラエルが正しい」とするアメリカの宗教右派の力でもある。その宗教右派が、何故イスラエルを支援するかというと、何も彼らが「ユダヤ教を支持しているからではない」ということは明らかである。聖書に預言されている、いつ来るか判らない最後の審判の時に、キリストを殺したユダヤ人がイスラエルの地で神の報いを受けるためにも、常にユダヤ人がイスラエルという国を支配し続けていなければ、そもそもの「(聖書に書いてある)神の約束」が虚構になるということを避けるために、そして、その聖書のコンテキストにむりやり現実を合わせるために、何がなんでも「ユダヤ人にイスラエルを支配させる」という、とんでもないプロテスタント原理主義と、明日への希望が見えないパレスチナ人の悲惨な現状がアラファト氏を殺したのである。