サウジとドバイ:湾岸諸国の将来

  08年08月25日



レルネット主幹 三宅善信


▼「聖地」への長い道程

  8月18日から25日までの日程で、サウジアラビア・アラブ首長国連邦・ヨルダンの三カ国を歴訪してきた。今回の中東歴訪は、G8宗教指導者サミットに諸般の事情で参加することができなかったヨルダン王国の前摂政ハッサン殿下から「G8宗教指導者サミットについて聞かせて欲しい。また、その参加者たちに自分が最近発表した論文を配布してもらえないか」との依頼を受けたのが発端である。ちょうど8月の後半に、ヨルダンでIARF(国際自由宗教連盟)が共同主催者となっている「欧州・中東青年キャンプ」が開催されており、IARFの運営に責任のある国際評議員として現地視察を依頼されていたので、それらを抱き合わせて、さらには、G8宗教指導者サミットに2名も代表を派遣してくれたサウジアラビアのイスラム省への答礼も兼ねて、この時期に中東各国を歴訪することになった。

  8月18日からの中東歴訪といっても、関西空港を発ったのは、同日の23:15という真夜中の時間帯であった。関西から中東への唯一の直行便であるエミレーツ航空に乗って、十時間半のフライトでアラブ首長国連邦(UAE)のドバイ国際空港に到着。現地の時刻は、04:45という早朝の時間帯なのに、関西空港にそっくりなターミナルビルを持つドバイ空港は、乗り継ぎ便を待つ乗客たちで溢れんばかりで、レストランも免税店も大盛況であった。もちろん、銀行も郵便局も営業している。


ドバイの空港ビルの関空とよく似た外観と、早朝でも人で溢れかえる内部

「日本初の24時間空港」と大々的に銘を打ちながら、午後11時台の最終便が出てしまえば、翌朝の始発まで、「本土」(註:関空は、大阪府泉佐野市の海岸から約5kmの沖合に造成された人工島で、鉄道と高速道路の共用橋が1本架かっているだけ)との公共交通機関にアクセスがなくなってしまう関空(註:国際線の発着時刻で言うと、深夜の最終便が01:25で、早朝の第1便が06:10だから、約五時間の「空白」時間帯ができる)なんか「24時間空港」(註:関空の深夜〜早朝の時間帯は「国際貨物便が盛んに発着している」と、関空関係者は弁明するであろうが、貨物は人間と違って、買い物をしたり食事をしたりしないから、余計なお金を落とさない=経済波及効果が低い)が聞いて呆れる。関空では、銀行や免税店なんか、最終便が出るよりもずっと早い時間に閉店してしまう(註:従業員が終電に間に合うように帰宅してしまう)ので、深夜の便の乗客は両替ができなかったりして極めて不便である。聞けば、ドバイが急激に発展したのは、ほんのここ数年のこと(国際空港のターミナルビル自体もまだ建設中)であるから、ますます国際都市としての大阪の無策ぶりが際だっている。

  このドバイ空港で、サウジアラビアの首都リヤド行きの便を――どういう訳か、ドバイ空港は乗り継ぎ便が非常に不便で――私の場合、わずか一時間半のフライトのために七時間待っていた。このような客が私だけではない証拠に、近代的で機能的な空港ビルにもかかわらず、その広大なロビーには、長時間の乗り継ぎ待ち(トランジット)の乗客が至る所で、床でゴロ寝している異様さが際だっていた。こうして、関空を発って丸一日近く経過して、やっと最初の目的地リヤドに着いた。外気温は四十二度。大方の日本人にとっては、サウジアラビア王国は世界最大の産油国のイメージが強いが、それ以上に、サウジアラビアは、イスラム教の三大聖地の内、メッカとメジナを抱える大変厳格なイスラム教国であり、サウド王家自身“イスラム教の守護者”を自負している。入国管理官も、日本人の中年男性と見れば、「石油開発・ゼネコン・メーカー・商社関係者」と思い込んでいるため、「宗教家(=異教徒)」である私の聖地サウジアラビア入国がよほど理解に苦しむみたいで、なんのかんの質問されるので、「あなた国の政府のイスラム省からの招待だ」と言って、招聘されたビザを見せて――と言っても、アラビア語で書かれているためなんのことやらよく解らないが――やっと入国させてもらった。


▼サウジアラビアという国

  言うまでもなく、サウジアラビアは、イスラム教徒にとって大切な聖地であり、当然のことながら、社会の各層においてイスラム法やイスラム教の価値観に基づく規範が適用される。同じペルシャ(アラビア)湾岸のイスラム教国家といっても、「世俗的なUAE」とサウジとでは大違いである。ドバイからリヤドまでの機内でも、一般の航空会社であれば、映画が上映されたり、GPS(カーナビと同じ原理)による飛行機の現在位置などを示す情報(フライトナビゲーション)が映し出されたりするのが普通であるが、サウジ航空では、機内のスクリーンでは映画など上映されずに、常に「カーバ神殿(メッカ)」の方角が「→」で示めされており、四六時中いつでも礼拝できるようになっているくらいだ。もちろん、街を行き交う人々は全員、男性は白いワンピースのような服(日本の着物のイメージ)で頭には輪状の紐で留めた被(かぶ)り物をし、女性は全員頭の天辺から爪先まで真っ黒の着物(「ニカーブ」と呼ばれる)で覆っており、かろうじて「目」の部分だけが1cmほどの幅で空いた衣装である。日本人に解りやすい比喩だと、「忍者」のイメージである。よくあれで、「誰が誰か」識別できるものだと思う。

  イスラム省の役人Z・アルダッカン博士の案内で、最初に「国立博物館」を訪れた。サウジアラビアは、建国されてまだ七十数年の若い国家であり、初代国王となったアブドゥルアズィーズ・イブン=サウドが、1902年、弱冠22歳の折にサウド家の本拠地であったリヤドを奪還(当然、当初はアラビア半島に割拠する一部族の長に過ぎなかった)し、その後、三十年掛けてアラビア半島を統一し建国した国家である。この辺りの経緯は、映画『アラビアのロレンス』で描かれているので、概略をご存じの方も多いであろう。最も厳正で復古主義的なワッハーブ派のイスラム教を国教としているサウジアラビアの博物館であるから、極めて“宗教的な”(科学的法則や歴史的事実よりも、預言者の言葉やコーランに書かれてあることのほうを尊重するという意味)展示かと思いきや、「自然史」の展示では、日本ではお馴染みの「プレートテクトニクス」(註:地球の表面を形成しているプレートが、内部のマントルの対流によって移動することによって、その上に乗っている大陸や海底も地球規模で移動するという学説。日本列島周辺の海底で発生する大規模地震の原因とされる)が紹介されていることに驚いた。

 何故なら、何千万年もかけて大陸が移動するということは、世界の地形も大きく変わるということであり、「全能の唯一神」であるところのアッラーによって「世界が完全な形で創造された」というイスラム教の教説とどう一致させているのかこちらのほうが心配になったほど“科学的”である。同様の心配は、恐竜の化石模型の展示においても成り立つ。生物の歴史は、何億年もかけて「(小型の)単純な構造の生物から、(大型の)複雑な構造の生物へと進化した」という“進化論”の言説は、同様に「アッラーによる完全な世界の創造」という言説と矛盾する。さらには、メソポタミアやエジプトの古代文明に関する展示においても見られる。「最初の人間であるアダム」(註:イスラム教における創造神話は、キリスト教やユダヤ教のそれとまったく共通している)から、最初の預言者であるイブラヒム(アブラハム)から、『十戒』で有名なムーサ(モーゼ)、キリスト教の“教祖”であるイーサー(イエス)をはじめとする歴代の預言者を経て、“預言の完成者”であるムハンマド(マホメット)に至るまでの「救済史(神話に書かれた歴史風物語)」を鵜呑みにして丸々全部合計したとしても、「実在した古代文明」であるメソポタミアやエジプトのそれより古いということはなく、これまたイスラム教の教説にとって不利な材料となると思われるのであるが、それを国立博物館で堂々と「展示」していることに感心した。


リヤド市内最大のモスク内部

  国立博物館の見学の後、恐らく1万人くらいは一度に礼拝できるであろうリヤド市内最大のモスクを訪れた。厳格な一神教であるイスラム教と自然崇拝の多神教である神道はまったくかけ離れた宗教のように思われるが、礼拝する前に手や口を水で漱(すす)いで身を清め、必ず履きものを脱いで建物内に入り(浄不浄や内外の峻別)、床に額(ぬか)づいて礼拝するという様式を見れば、他の一神教であるキリスト教なんかよりもはるかに共通性があるとも言える。


▼人間同士の付き合い

  この後、サウジアラビアの伝統的な夕食会に招かれた。通りから一本入った路地裏にある伝統的なレストランは、夜の9時というのに賑わっていた。関空を発ってから28時間経って最初のディナーである。泥煉瓦造りの個室が中庭を取り囲んでいる。部屋に通されると、6畳の間くらいの部屋に既に数人の男性が床に座っていた。一番奥に、6月末のG8宗教指導者サミットに参加してくれたイスラム省のA・アルヒーダン次官補が鎮座しており、懐かしそうに私を招き入れると共に、数人の男たち(それぞれしかるべき立場の人物であったが、夕食の席で名刺を交換するという習慣がないみたいで、アラブ人の名前は皆同じような名前なので覚えきれない)が歓迎してくれた。

  アルヒーダン次官補は、彼らに既にG8宗教指導者サミットのことや私のことについて彼らに話していたようで、私が到着するなり政治・経済・文学・歴史から性生活(家族構成のあり方)に至るまで、あらゆるテーマについて男同士の話が盛り上がった。私は、そもそも酒類を飲まない人間であるから良いようなものの、アラブでは大の男同士が、酒も飲まずに良くもここまで盛り上がることができるものだと感心したが、私も「話題が尽きるということを知らない人間」だから、参加者は皆さん喜んでくれたと思う。しかし、よく考えてみると、社会の「表」においてこのような「男社会」が成立しているということは、そして、「深夜まで男は家に帰ってこない」ということは、その裏側には必ず、まったく別の規範が支配する「女社会」が存在するはずである。おそらく中年親父のエロ話の反対バージョンも存在しているとみるのが正解であろう。誰かアラブの女性社会に飛び込んで調査してくれる女性が居ればありがたいのであるが…。


男同士の会話が大いに盛り上がった夕食会

  アラビアでは、どこへ通されてもまず、お皿にナツメヤシの実が盛りつけられており、これをつまみながら話をするようだ。当然のことながら、よく熟れた実は甘いがアブラがベトベトしており、必ず卓上ティッシュペーパーが添えられている。ティッシュが普及する以前は何で拭いていたのだろうか? よく熟れていない部分は、渋柿ほどはエグないが食感が似ている。間もなくすると、伝統的なアラビア料理が持ち込まれ、シートを敷いた床に直接お皿が並べられた。羊の肉は言うまでもなく、ラクダの肉をはじめ、皆、アブラでベトベトである。私は、民族衣装の彼らに敬意を払って、サウジアラビアに到着してからは、ずっと羽織袴姿だったので、着物が汚れることを気にしながらの食事になったが、上述の通り、相互の文化を理解する上で大変意義のある夕食会であった。だだ、ディナーがお開きになったのは夜半過ぎで、日本を発って既に31時間以上不眠不休だったので、正直、心臓が痛くなるくらい疲れた。


▼WAMYとは何か

  翌朝は、9時にホテルに車が迎えに来た。サウジアラビアでは皆、大型の高級車に乗っている。ガソリン代が1リットル15円程度(水より安い)と日本の十分の一以下だからである。あらためて「産油国」ということを意識した。私は限られたリヤド滞在だったので、スケジュールはすべてサウジアラビア当局に任せていたので、連れて行かれるまで、そこがどういう所で、誰に会うかすら判らなかったので、ある意味、緊張感のある訪問であった。この日の最初の目的地は、「WAMY本部」と書かれた真っ白なビルであった。私の乗ったレクサスが玄関車寄せに到着すると、アラブ独特の白ずくめの人たちによって出迎えられた。そこで、案内されるままに歩を進めていくと、大企業の取締役会議室のような部屋へ案内された。各自にマイクのついた楕円テーブルに20名ほどの「お偉いさん」方がすでに着席しており、私はその最も上座の席に座らされた。


WAMY本部のお歴々と意見交換する三宅代表

 そして、司会者が私のことを紹介し、「ひとことご挨拶を…」と促されたが、ハッキリ言ってこの団体がどういう団体かすら判らない状況で、スピーチをすることは大変難しい。皆さんの目が一斉に、恐らく見たこともないであろう紋付袴姿の私に注がれる中、私はとりあえず「アッサラーム・アレイクム」(註:「神の平安があなたの上にありますように」というアラビア語。日本語の「こんにちは」に当たる挨拶語)とアラビア語で呼びかけ、続いて、英語で「(イスラム教の)聖地へお招きいただいて光栄に思います」と切り出した。これで彼らは「自分たちの価値観を否定しない人が来た」と安堵した様子が見て取れた。そこで、間髪入れずに、「皆さんとは初対面だし、私自身の話をする前に、私はあなた方の組織の活動についてよく知らない(本当は、活動どころか名前すらたった今まで知らなかったのであるが…)から、それぞれの自己紹介と共に、あなた方の活動について教えて欲しい」と切り出した。そうすると、彼らは饒舌に自分が何者であるか、そして、このWAMYという組織がどのような活動をしているのか語り始めた。

  こうなったらこちらのものである。私はテーブルの上にあるナツメヤシの実を頬張りながら、昨晩、アラブ人たちが巧みに食べ滓(かす)をティッシュに吐き出しているのを真似ながら、彼らの話をメモに取り、20分間程経った頃には、すっかりこの団体がどいう団体か理解した。「WAMY」とは「世界ムスリム青年会議」という団体で、サウジアラビアがパトロンになっている「YMCA(キリスト教青年会)」のイスラム教版みたいなものである。ところが、この席に参加していた人々は「大幹部」ばかりなので、皆さん私と同じくらい(人によっては私より高齢)の年齢層で、「青年」とは呼びがたい人ばかりである。しかし、話し合いのレベルはそれだけ高いものであった。皆さん、6月末に大阪と京都で開催されたG8宗教指導者サミットに大変興味を持っており、それ以外にも、IARF(国際自由宗教連盟)が行っている宗教的少数派の人権擁護活動などを紹介すると共に、「何故、諸宗教対話を行うことが大事なのか」についての私の即興スピーチを賞賛してくれた。


▼ファイサル王イスラム研究センター

  続いて、「キング・ファイサル調査イスラム研究センター」を訪れた。サウジアラビアの第三代国王であるファイサル・ビン・アブドゥルアズィーズ国王は、1973年の第1次石油ショック時にアラブの産油国を率いて欧米先進諸国をわたり合った最初の国王である。ただし、同国王は1975年3月に暗殺された。その名君を記念して建設された巨大な施設で、入口には自動小銃を構えたガードマンまでいる物々しさであった。そこで、同研究センターのY・ジュナイド事務総長が歓迎してくれた。例によってナツメヤシの実(ここのナツメヤシは皆、完熟の上物)を頬張りながら、イスラム教の聖典である預言者ムハンマドの言行録(神アッラーからの啓示)を記録した『クルアーン(コーラン)』や、その各言行にイスラム学者による“解釈”が加えられた『ハディース』についてはもちろんのこと。一切の“偶像”(聖なる絵画や像)を禁止するイスラム教にとって、デザイン化された流麗なアラビア文字で書かれたカリグラフについても話に花が咲いた。


ファイサル王イスラム研究センターの壮大な建物

  その後、古代から中世にかけてのアラビア語による「マニュスクリプト(手書き写本)」で世界最大のコレクションを有する同研究所の付属図書館に案内された。歴史的に貴重な本ばかりであるので、当然のことながら、一般の利用者は書架のある書庫には入ることは許されず、受付で図書館司書の人に検索してもらい、必要なテキストのコピーを受け取るシステムになっているが、私は特別に「稀覯本(きこうぼん)(註:現存数が極めて稀な本)の保管室へ案内してもらった。アラビア語なので、しかも「達筆」すぎてサッパリ読めないのであるが、それでもデザインの美しさは理解できる。一冊一冊の本に対する専門官の解説に対して、外国人である私が適切な質問(日本で例えば、『竹取物語』を見せられたら、「じゃ『今昔物語』との関係は?」と尋ねるようなもの)をするので、次々とエスカレートしてコレクションを解説してくれた。


言行録の余白にビッチリと解釈が書き込まれたハディース

 現在の紙幣偽造防止と同じ技術(註:文字の線を拡大してみると、それ自体が極小の文字によって描かれている)で書かれている写本もあり、その点を指摘すると「よくぞ尋ねてくれた」と大喜びであった。一般の人々は、「中世のアラビア語で書かれた書籍」といえば、「イスラム教関係の本」と真っ先に想像するであろうが、実際には、この図書館にも収められている書籍の8割が、数学(幾何学・代数)・天文学・化学といった自然科学に関する書籍である。こちらは、たとえアラビア語が読めなくとも、図解されているものを見れば、何について説明されているもの――例えば、「この円と同じ面積の正方形を描け」とかいった問題――であるかは、ある程度理解できるため、これまた話が盛り上がる。日本でも、江戸時代には西欧の数学などをまったく知らなかったのに、独自の「和算」によって、ニュートンと変わらない時代に微分積分の問題を解いていたりする。しかも、「暗黒の時代」と言われた西洋の中世が終焉するきっかけとなったルネッサンス期の自然科学の急激な発展は、当時十分に自然科学が発展していたイスラム帝国から「逆輸入」(註:古代ギリシャの自然科学を受け入れたのは、キリスト教化された欧州ではなく、イスラム教化された中東であった)されたものであるから、当然と言えば当然であるが、歴史的な書籍を目の当たりにすることは感動的ですらある。


▼アラブ式「嫁」の選び方

  その後、サウジアラビアの宗教政策を一手に担っている「イスラム省」を訪れた。イスラム教は「男女七歳にして席を同じくせず」であるから、官庁ビルにはまったく女性の姿が見あたらなかった。ここでの仕事の業務を視察し、また、所定の時刻が来ると、皆、所定の手続きに則り、両手・口・鼻・耳・髪・両足を水で漱いで、メッカの方角に向かってお祈りをするのであるが、今回のリヤド訪問を通じて、十分親しくなったので、お祈りの仕方について極めて細かく教えてくれ、その部屋に入って見学することも許可してくれた。

  こうして、私はサウジアラビアの「男社会」を限られた時間ではあるが、具(つぶさ)に視察することができたけれど、同時に、これだけの「男社会」が存在するということは、世の中の半分は女性であるので、われわれの目にすることのできない「女社会」が厳然と存在するということである。例えば、女性は「自分が育った家族の男性(祖父・父・兄弟)以外の男性と、夫と自分の息子以外の男性には素顔を見せてはいけない」ことになっている。そうすると、結婚するときはどうするのであろうか? もちろん、「偶像禁止」のイスラム教であるから、日本の釣書の「お見合い写真」なんてもってのほかである。そうすると、サウジアラビアの男性は、結婚する相手の顔も見ることなく配偶者を決めなければならないのであろうか? ところが、良くできたもので「どこどこによい娘が居る」という話を聞くと、男性の母親(もしくは姉妹)が、その女性の家に出向いて「品定め」をしてくる。そうすると、必然的にその女性の育った環境や母親(もしくは姉妹)も観察することになる。そして、「この娘ならわが息子の嫁に相応しい」とお眼鏡に適った女性だけが、息子の嫁になる資格を有するのであるから、始めから「嫁姑」間の争いなんか起こりようがない。後になって、母親が嫁のことをどうのこうの言ったら、「あなたが選んだ嫁さんでしょう」と言えば良いからである。ある意味、離婚率の高い欧米の恋愛結婚よりもはるかに良くできた婚姻システムである。

  このように、いろんなことをサウジアラビアで学んだ。30時間のリヤド滞在の後、リヤド空港を発つのは、夜の遅い時間帯のフライトだったので、空港の近くにある砂漠を見せに連れて行ってくれた。ともかく、日本人には想像のつかない広大な砂漠が延々と続いているのである。よく映画などで、乗り物が壊れたりして砂漠をボトボトと歩いていって助けを求めるといったシーンがあるが、あんなもの嘘である。実際の砂漠は、波のようにうねっており、わずか5mほどの斜面を登るだけでも、すぐ崩れてしまう細かい砂に足を取られて、ほとんど前へ進めない。しかも、日中なら砂の表面温度は60℃くらいにはなるであろう…。聞けば、サウジアラビアの首都リヤドは、人口480万人(大阪市の約2倍)の大都市である。この大都市(大量の水が必要)の周辺には、“水”と縁の有りそうなものは一切ない。そこで、500Kmほど東のアラビア(ペルシャ)湾岸に「海水淡水化プラント」を建設して、そこから延々と水道水をリヤドの街に供給しているのである。「ガソリンよりも水のほうが高い」というのも肯(うなず)ける話である。


たったこれだけの坂でも登るのが大変な砂漠

  このような広大な砂漠をランドクルーザーで行き交う時でも、所定の時刻が来たので、運転してくれていたアルダッカン博士が車を止めて、お祈りをしていた姿が印象的であった。本来は「砂漠の宗教」であるイスラム教が、おなじ“宗教”とはいっても、高温多湿の「豊葦原の瑞穂の国」である日本の宗教とあり方が違うのは、当然であるように思え、「聖地」サウジアラビアを後にした。


▼ドバイの「バベルの塔」

  続いて、現在、「中東の金融センター」として、急激に発展しているアラブ首長国連邦(UAE)のドバイを訪れた。今回の旅は、どういう訳か乗り継ぎが極端に不便で、関空から直行便のあるドバイを乗り継ぎ拠点にしたので、ドバイ国際空港に三度降り立った。この日も、あまりにも長い乗り継ぎ時間のため、ドバイ市内のホテルに宿を取った。50歳になってとみに“老化”を感じる私も、「3泊8日」の強行日程はさすがに絶えきれないので、たとえ、ある都市に「24時間以内の滞在」であったとしても、今回はホテルで足を伸ばして寝ることにした。何よりも大事なことは“中身”だからである。


建設ラッシュのドバイ中心部

  ドバイの街が急激に発展していることは、話には聞いていたが、ここまでとは思わなかった。一言で表現すれば「大阪の百倍(=東京の十倍)は発展している」という感じである。片道十車線くらいのフリーウエイを挟んで、大阪で例えれば、御堂筋の梅田(キタ)から難波(ミナミ)までぐらいの距離の間、道路の両側に50階建てくらい (東京の新宿のビル群くらいの高さ)の超高層ビルが、200棟ほど同時に「建設中」である。よくこれでオフィス需要がある(部屋が埋まる)ものだと思う。大阪なんか南港のWTCビル(55階建て。関空のりんくうゲートタワービルと共に、横浜のランドマークタワーに次いで、日本で二番目に高いビル)ですら、築後十年以上経っても、まだ半数ぐらいが空き室という体たらくである。そのWTCビルを丸ごと安く買い取って、大阪府の新庁舎にしようと言っているが、橋下徹大阪府知事である。現在建設中の時点で、既に「世界一高いビル」になっているブルジェ・ドバイなんか、高さが850mをゆうに超えているそうだ。因みに、大阪府と奈良県の境になっている生駒山でも標高は642mだから、このビルが奈良市に建っていたとしても、大阪市内から生駒山越しに見える計算になる。しかも、それが砂漠に建っているのである。まさに、現代版「バベルの塔」である。このビルが「砂上の楼閣」のごとく一挙に崩れ去らないことを望むだけである。


現代の「バベルの塔」ブルジェ・ドバイ

 他にも、ユニークな形状(例えば、ヨットの帆の形をした東京タワーぐらいの高さのホテルとか)の高さ数百メートルの超々高層ビルが林立している。海岸線も、例えば「巨大な椰子の木」の形とか、「世界地図の形」をした島とか、ユニークな形状の埋め立てですっかり自然な海岸線ではなくなっている。しかも、それらの開発が皆、宇宙船からでもその形がハッキリと見て取れるほど巨大なのである。しかも、それらがたった数年で建設されたのである。もちろん、日本のゼネコンもたくさん進出している。多くの人は、「ドバイは原油高で金があり余っているから…」と思うであろうが、実は、同じアラブ首長国連邦でも、お隣のアブダビ(首都)は未だに原油に依存しているが、将来の原油資源の枯渇に備えて、20年ほどかけて経済の「脱石油化」を進め、GDPは実に30倍になった。しかも、ドバイのGDPに占める石油関連産業の割合は、現在ではわずか6%にすぎないというから驚きである。それが、金融と観光産業である。

わずか一年で姿を現したドバイのビーチリゾート

  このドバイの発展ぶりは「絵に描いたような成功」であるが、それだけ急激に経済が発展するということは、一方で、貧富の格差も急激に拡大させている。ドバイ滞在中に何度かタクシーに乗ったが、車は皆、欧州の高級車の新車であったが、運転している人は全員、インド人かパキスタン人であった。街中の建設現場でも、40℃を超す炎天下で作業をしているのはほとんどインド人かパキスタン人であって、「ドバイ人」の姿はなかなか見つけにくい。イスラム教の戒律が厳しい中東の隣国から遊びに来ているアラブ人と思しき人もたくさんいる。サウジでは女性たちは皆、伝統的な黒ずくめの服装であったが、ドバイのショッピングモールで売られている女性もののド派手なドレスは、いったいいつ誰が着るためのドレスなんだろう。

アラブの伝統的な黒ずくめの女性とド派手なドレスを女性との
整合性をどうつけるのかが興味深い

  極端な貧富の格差、グローバリズムとナショナリズム、伝統主義と近代主義、といった二項対立がいくらでも立てることができるが、逆に、これらが社会の不安定要因となって、いつ社会暴動やテロ事件が発生したり、湾岸地域で戦争が勃発したりするか判らない。もしそうなったら、「欧米型資本主義の象徴」のようなドバイの近未来的な街並みが最も先に狙われやすいであろう。ぶっ壊すものが立派であればあるほど、あっけなくそれが潰れる時の印象は効果的であるからである。そこまでいかなくとも、国際金融市場の動きは、目の回るような早さで地球をグルグル回っているので、いつこれらの潤沢な資金がドバイから別の都市へと移転してしまうかなんかは、まさに「予測不可能」である。このように、繁栄を享受しまくっているドバイでも、実に多くのことを考えさせられた。

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