米国金融危機:ロシュ・ハシャナーの攻防

  08年10月01日



レルネット主幹 三宅善信


▼緊急金融安定化法案の否決!

  2008年9月15日、150年以上の歴史を持つ米国のユダヤ系名門投資銀行リーマン・ブラザーズが連邦裁判所に「連邦倒産法(日本の民事再生法に相当)」の適用を申請し、事実上破綻した。負債総額6,130億ドル(約65兆円)! この日、同じく経営危機が伝えられた米国三大投資銀行のひとつ「メリル・リンチが、500億ドル(約5.3兆円)でバンク・オブ・アメリカに買収(吸収合併)される」と発表された。ここに至って、一年前からくすぶり続けていたサブプライム問題に端を発する金融危機が一気に表面化した。翌16日には、アメリカ政府とFRB(米国連邦準備制度理事会=中央銀行)が、米国最大の保険会社AIGに850億ドル(約9兆円)の融資と引き替えに、同社の株式を80%取得して、事実上の国有化を行った。21日には、世界最大級の投資銀行であるゴールドマン・サックスとモルガン・スタンレーは、有事にFRBの支援と管理を受けやすくするために、持ち株会社へと移行を発表した。

  この世界金融恐慌前夜の危機的状況にもかかわらず、ブッシュ政権ならびに合衆国下院は、28日に提出された『Emergency Economic Stabilization Act of 2008 (いわゆる「緊急金融安定化法」案)』を、「経営に失敗した民間企業を国民の税金を投じて救済することは、自由主義経済の原則に反する」として、翌29日に反対228票対賛成205票であっさりと否決したことから、世界に激震が走った。日本などは、十年前の金融危機の経験から、早期の公的資金の思い切った投入が必要と見ていたので、アメリカ政府・議会の危機意識のなさぶりに驚愕した。

  日本では1996年の1月に、「住専(住宅金融専門会社)」の経営危機が表面化し、これを救済するために公的資金(国民の税金)を6,850億円投入することへのマスコミ挙げての反対の大合唱が行われた。なぜなら、住専を設立してバブル経済を演出し暴利を貪りながら、バブルが崩壊するや、住専を見捨てて切り捨てようとした大銀行への国民の怒りが爆発したからである。しかし、そのこと自体は確かに“正論”ではあったのであるが、その結果として、翌1997年の“都銀13行”(懐かしい響きである)の一角であった北海道拓殖銀行や、“四大証券”のひとつ山一証券の破綻へと事態は悪化し、結果的には不良債権が幾何級数的に増大し、結果的には、金融不安を収拾するために数兆円の公的資金(=国民の血税)の拠出がなされたという苦い経験があるからである。

  公的資金によって救済された会社(主として金融機関)の取締役は全員、私財没収の上、十年以上の懲役刑に処すべきである。なぜなら、十分な情報公開すらされずに資産が目減りして損を食うのはいつも一般投資家であるからである。さもないと、フェアな競争とは言えない。さらに、公的資金によって私企業を救済した場合、いったん国有化された会社の株式は、速やかに「納税者たる国民」に分配(納税額に比例して分配するほうがより公平)されるべきである。国民がその会社を存続させるべきであると思えば、株価が上昇するであろうし、「こんな会社潰してしまえ」と思うなら、株価があっという間に暴落してしまうだろう。いわんや、破綻金融機関の不良債権部分だけを切り離して、美味しい中身を欧米のハゲタカファンドにくれてやるなんぞ、売国奴のやることである。さしずめ、小泉・竹中両氏は“A級戦犯”である。この間、どれだけ多くの中小企業の経営者が廃業から自殺に追い込まれ、どれだけ多くの非正規社員が大企業から搾取され、どれだけ多くの年金生活者の預貯金の本来ならば受け取るべき金利が海外に流出したことか…。太平洋戦争の苦しみですら3年9カ月しか続かなかったのに、「失われた十年」はさらに期間が長かったではないか!

  本題に戻そう。今回、米国では、折悪く大統領選挙直前――すなわち、下院議員も全議席改選される――であったので、多くの議員が、一般有権者に向けて「ええ恰好をした」訳である。その結果が、週明け9月29日の“ブラック・マンデー”とも言うべき、NYダウ平均株価777ドル安という史上最大の暴落となって現れたのである。この暴落は、翌日の東京市場をはじめアジア各国市場、それから欧州各国市場へと、瞬く間に世界同時株安となって世界一周し、再度、ニューヨーク市場を直撃した。私は、この数日、長男のカレッジ卒業式に出席するため、オーストラリアを訪問していたが、数年来続いた、国際資源相場の需給バランスの崩壊と円キャリのトレードの急激な解消を恐れて、豪州の銀行に預金していた豪ドルをほとんど引き出して持ち帰り、一刻も早く円転しないと行けないと思ったが、あっという間に三割ぐらい下がってしまい、大損をした。もちろん、ユーロ債も、日経平均インデックスのオプション債も惨憺(さんたん)たる状態である。


▼マネー=現金+信用

  「金融恐慌」はいったいなぜ起こるのであろう? もちろん、資本主義経済の基本は「需要と供給」の関係であり、多くの人(企業)が、それぞれ「自分さえ儲かればよい」という自己利益を追求しても、18世紀の経済学者アダム・スミスが『国富論』看破したように、「神の見えざる手(invisible hand of God=市場法則)」が働いて、結果的には、社会全体の利益が達成されるはずである。しかし、これは、有限である生産量に基づく「需要と供給の関係」というメカニズムが機能する「現物経済」に対して言えることであるが、そもそもがバーチャルで際限のない“証券化”という概念に基づく金融資本主義の産物「デリバティブ(派生商品)」マーケットは、プレイヤーのいわば“共同幻想”の上に成り立っているのであるから、その幻想に疑念が生じたら、あっという間に崩壊してしまうという代物である。インチキがバレた霊能者のようなものである。

  そもそも「貨幣(money)」とは、いったいどういう代物なのであろうか?「そんなこと今さらお前に言われなくとも解っている。マネーとは、現金(=cash)のことである」と、小学生でも答えられるであろう。もちろん、洋の東西を問わず、古代の国家は皆、それぞれ金貨・銀貨の類を発行していた。それが、近代に入って紙幣へと入れ替わったが、相変わらず、国家の重要な主権行為としての貨幣の発行がある。だから、「マネーとは現金のこと」である。しかし、その答えは不完全である。なぜなら、もし、その論理がそのまま成り立つのであれば、例えば、日本国内にある「マネー」の総量は、日銀が市場に流通させた紙幣(=日本銀行券)の総量(註:話が煩雑になるので、ここでは、硬貨や外国通貨はカウントないことにする)に匹敵することになるはずである。ところが、実際には、その何倍もの「マネー」が存在している。といっても、北朝鮮がお得意としている「偽札」がたくさん流通しているからというような話ではないことは言うまでもない。なぜなら、そこに「銀行」という金融機関が存在するからである。

  マネーには、 「現金(cash)」の他に、「信用(credit)」というマネーも存在しているのである。仮に、日銀が発行している現金の総量を1兆円として考えてみよう。@A社がM1銀行(註:日本の銀行は、三菱東京UFJ銀行・三井住友銀行・みずほ銀行と、なぜか頭文字がMで始まる)に売上金の10億円を預金したとする。AB社はM1銀行から5億円を借りたとする。BB社は原材料の購入費としてその5億円をC社への支払いに充てたとする。CC社は売上金の5億円をM2銀行へ預金したとする。そうすると、元々、10億円しかなかったはずなのに、M1銀行とM2銀行の預金の合計は15億円存在することになる。これは、B社がM1銀行に「債務の5億円の返済を約束する」ことによって、「信用貨幣」が発生したからである。A社の預金10億円もC社の預金の5億円も、紛れもなく存在している。

  実際の社会は、この@〜Cのプロセスが、企業や個人も含めて無数に繰り返されているので、結果として、そこに存在している「信用貨幣」の総量は、日銀の発行している現金の総量の何倍にも達してしまうのである。つまり、「マネー」とは、現金と信用の合計からなる。「銀行」の存在理由は、信用貨幣の創出にある。銀行という「富の再配置機能」によって、経済が巧く回るのである。この信用創造の機能が、次々と回転すれば、景気は良くなっていく。つまり、拡大した信用貨幣の価値を保障しているのは、銀行ではなく、借り手自身の弁済能力なのである。銀行業そのものは、貸し出し金利から預金金利を差し引いた利ザヤで成り立っているため、金を借りてくれる企業や個人が多ければ多いほど儲かる仕組みになっている。

  しかし、これらのシステムが正常に機能するためには、B社がM1銀行から借りた「債務の5億円の返済をする」ということが大前提である。ところが実際には、債務を負った企業が倒産することもあるし、債務を負った個人が死亡したり、破産したりすることもまま起こる。たまたまこのような事態が一挙に発生すると、銀行は債権を確保するため、貸し出している現金の速やかなる返却を要求する。そのことによって、急激に信用マネーの総量が減少する。これがいわゆる「信用収縮」である。昨年夏に米国で顕在化した「サブプライムローン問題」のように、なんら担保能力を持たない低所得者たちが、単に「土地代が急上昇しているから、借金して家を建てても、数年後にその家を売却したら、売却益(=売却価格―購入価格)のほうが、期間中の金利よりも遥かに大きくて儲かる」という共同幻想に便乗して、積極的に「債務」を負ったけれど、住宅バブルが弾けて、自宅を売却しても借金が弁済できなくなってしまい、大量の債務不履行が発生したことによる信用収縮が良い例である。

  しかも、サブプライムローン問題をこれほど深刻化させたのは、低所得者に多額の貸し込みを行う銀行自身が、リスクを負いたくないから、本来の住宅ローン融資の手法である20〜30年間かけて住宅購入者(債務者)から債権(元本+金利分=実際には、融資金額の2〜3倍程度)を回収していくという方法を取らずに、住宅ローン融資を行った即日に、1〜2%の利ザヤを取ってその債権を第三者に売却して、確実に短期間で儲けを確保したのである。そして、その第三者は、証券化という手法を用いて、その債券をバラバラに分解し、その他のいろいろな金融派生商品とチャンポンして、本来のハイリスク性を誤魔化して、全世界の金融資本市場にばらまいたのである。そのことが、一見、われわれに何の関係もない、アメリカの低所得者の住宅ローンの債務不履行が、真面目にコツコツと働いて蓄えてきた大多数の日本人の金融資産を、そして、世界中の健全な金融商品の価値を激減させたのである。


▼アメリカは世界の癌細胞である

  それでは、このような全世界的な金融危機が生じた根本的な原因はなんであろうか? それは、アメリカ合衆国という国家の存在そのものである。こと経済的には、「全世界にとって、アメリカ合衆国は癌細胞のような存在である」と言っても過言ではない。確かに、第二次大戦後、先進国(欧米と日本)の中で唯一、戦場とならなかったアメリカの豊富な購買力が世界経済を牽引してきたことは認める。つまり、「世界にとってアメリカは必要な存在」であったのである。ところが、そのような時代は、戦後わずか二十数年間しか続かなかった。その後の三十数年間を振り返ってみると、1971年の「ニクソン・ショック(ドル・ショック=変動相場制への移行)」による「ブレトン・ウッズ体制」(註:第二次大戦後、金1オンス=35米ドルと換算し、基軸通貨たる米ドルと各国通貨の交換比率を固定することによって、西側各国に高度経済成長をもたらせた金本位制)の強制終了以後のアメリカは、際限なく「ペーパーマネー」と化した米ドル紙幣を印刷し続け、“植民地”たる日本や西欧(特に西ドイツ)の労働の賜である工業生産品を大量に輸入することによって米国民の豊かな生活を維持し続けてきた。

  その手法は、以下のとおりである。日本人やドイツ人が汗水垂らして働いて生産した工業製品を、単に紙を印刷しただけの米ドルで購入させるために、既に兌換券(だかんけん=金との交換を保障された紙幣)ではなくなった「ペーパーマネー」たる米ドルの価値を高めるための偽装として、米国内の金利を日本やドイツのそれよりも高く設定し、日本人やドイツ人の預貯金を、金融資本市場を通じて米国債を購入させることによって、アメリカに還流させ、国債の償還期限が来た頃に「ドル安」に誘導することによって、結果的には「踏み倒し」続けてきたのである。その構造的搾取に気付いた日本は、「米ドルの外貨準備高第1位」の立場を中国に譲り、ヨーロッパは「米ドルに変わる基軸通貨(国際決済通貨)としてのユーロ」を創設したのである。つまり、今や「世界にとってアメリカ(市場)が必要」なのではなく、その豊かな消費生活を維持し続けるために、「アメリカこそ世界を必要」としているのである。まるで、周りの細胞から栄養を独り占めにして、自らだけが巨大化し続ける癌細胞のように…。

  今回の金融危機を契機に、もし、世界が「ドル本位制」というインチキ構造からの脱却――つまり、どの国の労働も対等に評価される世界経済体制の構築――がなされれば、今回の経済恐慌も、人類社会にとって意味のある犠牲であるが、もし、従来通り、「ドル本位制」が維持され続けるのであれば、その結果は悲劇的ですらあり得る。この「百年に一度」と言われる経済危機の中で、それこそ「千載一遇のチャンス」として、ドル本位制の打破を主張できる指導者(G8の中から現れることが望ましいし、実際に効力ができるのも、G8の指導者以外にあり得ない)が現れることを期待する。その国(あるいは連合)が、今後百年間の世界経済の中枢を担うことになるであろう。


▼大いに贖罪してもらいたい

  このような国際経済の危機的状況のただ中でも、冒頭に述べたように、米国連邦議会の下院は週明けの9月29日に否決して、世界恐慌の種をまき、事実、週明けの各国市場は、過去最大の下げ幅という大暴落を来したが、その直後から「ロシュ・ハシャナーの休日」ということで、あっさりと休会してしまった。もちろん、その間に、ホワイトハウスや議会関係者との間では、数々の取引が行われているのであろうが…。読者の皆さんの中には、「ロシュ・ハシャナー」って何だ? と思われる人が大勢いるであろう。もう少し、アメリカ合衆国の祝日に詳しい人なら、「アメリカにそんな祝日はない」と指摘されるであろう。そのとおりである。というか「半分正解」である。私は、十年前に日本で「ハッピーマンデー法(三連休を殖やすために、一部の祝日を月曜日に移動すること)」の欺瞞を弾劾するために『「国民の祝日」の不思議』という一文を当「主幹の主観」コーナーで発表したほど、「祝日から見る国家観」に注目している。

 「アメリカ合衆国の祝日」と言えば、1月1日の元日、1月第三月日のマーチン・ルーター・キング誕生日、2月第三月曜のプレジデンツデイ(ワシントン誕生日)、5月最終月曜のメモリアルデイ(戦没者記念日)、7月4日の独立記念日、9月第一月曜レーバーデイ(労働者の日)、10月第二月曜のコロンブス記念日、11月11日のベテランズデイ(退役軍人の日)、11月第四木曜のサンクスギビング(感謝祭)、12月25日のクリスマスの十日間である。しかし、これらの祝日の内、キチッと休業するのは官公庁や銀行だけであって、キング牧師やワシントン初代大統領やコロンブスの記念日は、コロコロ日が変わる上に、結構、営業している会社も多いから、公共交通機関のダイヤなど「平日用・休日用」どちらを見ればよいか判りにくい。しかも、それ以外にも、アメリカ製のビジネス手帳を開くと、法定の祝日ではないけれど、「セント・バレンタインズデイ」「セント・パトリックデイ」「イースター」「ロシュ・ハシャナー」「ヨム・キプール」「ハロウィン」「ハヌカー」「ペサハ」とかいった祝祭日が必ずといってよいほど印刷されている。

 「セント・バレンタインズデイ」は、女性から男性にチョコレートを送る日本のそれとは異なり、男女双方から花やカードが贈られる。「セント・パトリックデイ」は、カトリック教徒であるアイルランド人の守護聖人セント・パトリックの日で、アイルランド系の多いボストンの街は緑一色に装飾される。「イースター」は言うまでもなく、イエス・キリストの復活祭である。子どもたちが変装して各家庭を回る「ハロウィン」も日本でもすっかりお馴染みになっている。ただし、これは、キリスト教の万聖節(死者が蘇るという「お盆」のような日)のイブ(前夜祭)がそもそもの始まりである。ところが、アメリカには、日本では全く知られていない重要な祝祭日として、ユダヤ教徒のための「ロシュ・ハシャナー」「ヨム・キプール」「ハヌカー」「ペサハ」がある。これらの日には、もし、社員にユダヤ教徒がいれば、経営者は彼に有給休暇を与えなければならないと考えられている日である。

 「ハヌカー」は、クリスマスとほぼ同じ時期なので、現在のアメリカでは、ほぼクリスマスに同化したプレゼントやカードを贈り合う商業化したショッピングシーズンである。また、ヘブライ語の「ペサハ」は、英語では「パス・オーバー(過ぎ越しの祭)」と呼ばれ、預言者モーゼの『出エジプト』の話に登場する伝染病除けの祭事である。この祭事と、日本の祇園祭との相関関係については、『都市と伝染病と宗教の三角関係』をはじめ、当「主幹の主観」で何度か紹介したので、覚えておられる方も多いであろう。

  そして、今回の話の題名にもなった「ロシュ・ハシャナー」は、ユダヤ教徒にとっての「年頭」である。ユダヤ暦(なんと今年は5769年!)の新年は、第七の月(西暦の9〜10月)に始まる。ワシントンDCの議会関係者や連邦政府関係者には、ユダヤ系の影響が大きいため、議会も「世界金融恐慌」という危機的な状況にも拘わらず、今年は、9月30日が「休会日」となったのである。そして、「ロシュ・ハシャナー」の十日後(ユダヤ暦第7月9日)に迎える「ヨム・キプール(大贖罪祭)」がユダヤ教徒にとって最重要な祭日である。ユダヤ人にとって、ロシュ・ハシャナーからヨム・キプールまでの十日間は、特に身を清めて贖罪に励まなければならない期間なのである。ヨム・キプール当日は、労働はおろか飲食すら禁じられる精進潔斎日なのである。1973年の第四次中東戦争は、このヨム・キプールの日(10月6日)を狙いうちして、エジプト軍(シナイ半島の占領)とシリア軍(ゴラン高原の占領)がイスラエルに奇襲攻撃をかけて、中東戦争の中で、唯一アラブ側が勝利した戦争である。イスラエル軍は最初の三日間で3,000名以上の犠牲者を出した。しかし、開戦後十日が経つ頃にはイスラエル軍が反撃に出て、シリア軍は殲滅(せんめつ)され、逆に首都のダマスカスを占領されそうになった。

  今回の米国発の金融恐慌は、このままでは世界同時不況へと拡大して、アメリカ人のマネーゲームとはなんの関係もなかった人々にまで、塗炭の苦しみを与えるであろうことは、グローバル化した世界経済の実情を考えると火を見るより明らかである。私が贖罪して欲しいのは、この二十年間、「マネーゲーム」という金融資本主義を際限なく拡大させてきたユダヤ資本とアメリカ、さらには、そのお先棒を担いできた人々であるということは言うまでもない。

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