「歴史」となった中華人民共和国

 09年01月01日



レルネット主幹 三宅善信


▼価値判断の基準は「歴史」に帰す

  2009年の幕が開けた。残念ながら、世界の現状は「輝かしい新年」というような表現を寒々しく感じさせるが、とにかく「元日」と言うことで、希有壮大な話をすることにする。日本では、政治家も経済人も、日々惹起してくる問題に対応するのが精一杯で、なかなか「マクロな視野」(註:もちろん、ここでいう「マクロ」とは、「マクロ経済」といったような「チンケなマクロ」のことではないことは言うまでもない)からものごとを分析できるという人材に欠けているが、国際的には、あるいは、歴史的には、そのような「視野の狭い」人物に率いられた国家や企業が、世界の人々の尊敬を受けることはあり得ない。このような 「マクロな視野」を持つためには、いかなる状況に直面したとしてもブレない“座標軸”となり得る基準を持たなければならない。善し悪しの解釈は別として、欧米やイスラム圏では、その「座標軸」は、言うまでもなく、聖書やコーランといった一神教の預言者がもたらせた「古代より伝わる天啓の記録」である。物事の善悪の基準は、これらによって決せられる。よって彼らのことを“啓典の民”と呼ぶ。

  では、「啓典の民(=一神教徒)」ではない人々(東洋人や世界各地の先住民たち)は、「マクロな視野」を持つためには、いったい何を「座標軸」に置いているのであろうか? それは“民族の歴史”であり、体系化された歴史書を持たない先住民の場合は“神話”である。実は、「啓典の民」にとっても、聖書やコーランに記されている内容は、被造物である世界を舞台にした創造主(ヤハウェ=アッラー)と人間との間の“救済史”であるからして、結局のところは、価値判断の基準は「歴史」に帰すことになる。英語の「history」は、言うまでもなく「His story(彼=神の物語)」である。したがって、世界で通用する政治家や企業人になろうと思えば、まず、古今東西の歴史に通じた人物になることが必要最低条件であると言える。日本人の“歴史”に対する認識の甘さ――というより、日本人は、いつどこで何があったかという「事実」に重きを置きたがるが、ここでいう歴史とは、単なる「事実の積み重ね」ではなく、ある価値観によって解釈づけられた「真実の積み重ね」のことである――とは裏腹なのが、中国人の“歴史”に対するこだわりの強さである。


▼「国家清史編纂委員会」とは何か?

  さて、今回、私が声を大にして言いたいのは、中華人民共和国(の為政者)が、本気で、自分たちを「中国三千年」(註:元々インスタントラーメンのCMから始まった「中国四千年の歴史」というキャッチコピーにはなんら根拠がないことは、拙論『クスリのリスク』をご一読いただきたい)の歴史に連なる“王朝”のひとつとして位置づけようとしているという事実である。中国にとって今年は、1949年の中華人民共和国成立から数えて60周年の佳節であり、いわば「還暦」である。中国共産党の治下、宇宙の森羅万象を象徴するという十干十二支が無事一回りしたということは、道教的歴史観から見ても、「天は中国共産党のしろしめす天下を認めた」ということになる。当の中国共産党もそのことを十分意識しており、2002年末に「国家清史編纂委員会」を立ち上げ、2004年〜2013年の十年間かけて、国家プロジェクトとして取り組んでいるのである。初年度の予算だけで2,500万元(約3億3000万円)というから、その意気込みが伝わってくる。

  注意深い読者なら、私が今、ここで「国家“清史”編纂委員会を立ち上げた」という記述をしたことに気付いて、以下のような疑問を持たれたであろう。中国共産党が編纂しなければならないのは「清史」ではなくて「中華人民共和国史」ではないのかと…?しかし、残念ながら、答えはノーである。中華人民共和国(=中国共産党政権)が編纂しなければならないのは、清朝の太祖ヌルハチ(註:女真族の愛新覚羅氏出身)が1616年に後金国を建国(註:二代目大宗ホンタイジが1636年に全満州と内蒙古を実効支配し、国号を清と改める。第三代目順治帝フリンが1644年に北京を陥落させ明朝を崩壊させ、中国全土を実効支配)してから、第12代宣統帝(愛新覚羅溥儀)が退位した辛亥革命の翌年1912年2月までの約三百年間続いた「大清帝国」の歴史なのである。

  中国の歴史に詳しい読者なら、この意味が解るはずである。万世一系の皇室を戴く日本とは異なり、かの国では、約3000年前の「殷周革命」(註:「酒池肉林」の故事で悪逆非道の王としてお馴染みの商(殷)王朝最後の紂王を、殷の諸侯の一人であった周の西伯侯の息子発=後の周の武王が、軍師の太公望呂尚や弟の周公旦の協力で武力革命を成功させた)以来、「(暴力的手段による)王朝の交替は“天命”によって支持されている」とされてきた。ところが、ここで大きな問題が生じる。それは、「文字の国」である中国では、どの王朝においても、文書による膨大な行政記録が存在しているにもかかわらず、ある王朝の正式な国史を編纂しようとしても、当該王朝自身ではそれを編纂できないという矛盾があるからである。

  何故なら、どの王朝も、「革命」という、生きるか死ぬかの軍事的・社会的大混乱の内にその幕を閉じるのが通常であるから、歴史家(専門職の官僚)が暢気に何百年もの歴史を振り返って編纂するなんぞということはできないからである。しかも、今まさに滅びんとしている王朝の歴史の編纂に資金を提供する人間なんかいるはずない。大方の官僚の関心は「如何に勝ち馬に乗って」次の王朝でも禄を噛み続けることができるかという一点に絞られる。これまで見向きもしなかった民主党幹部の下へ足繁く通い始めた中央官庁の高級官僚のようなものである。


▼「正史」には一定の法則が存在する

  しかし、中国には、前漢時代の司馬遷(紀元前2世紀)の手になる『史記』130巻から始まって、『漢書』『後漢書』『三国志』…と続き、17世紀から18世紀にかけて50年間の長きにわたって清朝に仕えた政治家張廷玉(註:張廷玉は、当時世界最大の辞典である『康煕字典』の編纂も行った。『康煕字典』は、収録文字数49,000余、後世の部首別漢字辞典の規範となり、現在の『Unicode漢字』の基準にもなっている歴史的辞書)らの手になる『明史』332巻までの「二十四史」と呼ばれる、二千年以上の歴史を超えて「中国の正式の歴史(正史)」として認識されている膨大な歴史書のシリーズが存在する。

  これらの「正史」には、一定の共通するルールが存在している。当該王朝の歴代皇帝の事跡について記された「本紀」の他にも、皇后・皇族・諸侯等について記された「表」、天文・地理・礼楽・法律等について記された「志」、その他のエピソードについて記された「列伝」等から構成されているが、最も大きな特徴と言えば、先述したように、「現存する当該王朝」のことを書かずに、「既に滅びた前王朝」のことについて記されているということである。逆を言えば、「前王朝の正史を編纂したもの」が、天も認めた前王朝の正統な継承者であり、現在の支配者であるということである。このルールを解り易く説明しよう。

  「正史」は必ず、以下のような構成になる。現在、この「正史」を編纂している筆者が所属している王朝は、何(十)年か前に打ち立てられたZ王朝である。ところが、「正史」の書き出しは、往々にして数百年も以前の「前々王朝」であるX王朝の末期の話から説き起こされる。「X王朝最後の皇帝であるA帝は悪逆非道の天子であった。市井には重税や苛烈な法の適用に対する人民の怨嗟の声が満ちあふれ、文武百官の綱紀は乱れまくっていた。当然の帰結として、天意はその王朝を見放し、各地では暴動が発生し、無政府状態となった。それらの混乱の中から彗星の如く現れたB将軍は、諸将の人望も厚く連戦連勝を重ねて中原の大半を実効支配し、ついには万民から推されて(天命を受けて)帝位に就いた。これが前王朝であるY王朝の高祖(太祖)B帝である。

  B帝以後も、暫くは立派な皇帝が続き、内外の制度を整え、夷敵を征服し、以後、Y王朝は、人民をよく統治し、繁栄を究めたが、数百(十)年の歴史を重ねる内に、文武百官の綱紀は弛み、病弱や愚鈍な皇帝が続いたりしたことによって夷敵の侵入まで許すこととなった。まさに内憂外患である。そして、ついにはY王朝の最後の皇帝となったC帝の時代に至り、市井には重税や苛烈な法の適用に対する人民の怨嗟の声が満ちあふれ、文武百官の綱紀は乱れまくっていた。当然の帰結として、天意はその王朝を見放し、各地では暴動が発生し、無政府状態となった。それらの混乱の中から彗星の如く現れたD将軍は、諸将の人望も厚く連戦連勝を重ねて中原の大半を実効支配し、ついには万民から推されて帝位に就いた。これが現王朝であるZ王朝の高祖(太祖)D帝である云々」というパターンが二千年以上の長きにわたって繰り返されてきたのである。


▼ 前王朝の正史を編んだものが正統な後継者

  この「前王朝の正史を編纂したもの」が、天も認めた前王朝の正統な継承者であり、現在の支配者であるというルールからは、中国を実効支配する政権である限り、たとえ共産党政権であろうと逃れることはできない「黄金律(Golden Rule)」なのである。否、現在の中国共産党政権は、これまでの帝政ではない「共和制」の政権であるからこそ、余計に、自らを「中国の正統な支配者である」と位置づけるためにも、歴代の王朝と同じルールの下で「正史」を編み、「中国三千年の歴史」の中に自らを位置づけなければならないのである。

  つまり、現在の中国共産党の幹部たちは、単に世界最大の十数億の民を統べる国家の指導者としてだけではなく、千年先の歴史にもその名を刻むことにも努力を傾けているのである。おそらく、現在の日本の政治的指導者の中にそんな意識を持った指導者は一人も居ないであろう。日本の近代150年を顧みても、「歴史からの批判に耐える」ということを意識した指導者は、恐らく「最後の征夷大将軍」となった徳川慶喜と昭和天皇ぐらいであろう。中国と互していくためには、最低限、このことを体得した人物でないと勝負にならないであろう。

  このように、中国の歴代王朝が自己の支配の正統性を主張する根拠となる「正史の編纂」について述べてきたので、現在『清史』を編まなければならない必然を理解いただいたと思うが、同時に読者の皆さんの脳裏には、次なる疑問がもたげてきたと思う。それは、「台湾の中華民国はどうなっているのか?」という質問であろう。中華民国は、その後約40年間、大陸を実効支配し、共産党との内戦に破れた後も、台湾へ逃れたとはいえ、60年間の合計百年近くにわたって存在している立派な独立国であるから、当然、「大清帝国の後継者は、中華民国である」という主張がなされるであろう。

  それどころか、三百年間続いた「大清帝国」が崩壊した1911年の辛亥革命と、翌年1月の南京における「中華民国」の建国で孫文が大総統(President)となったことは周知の事実であるが、翌2月に、まだ北京の紫禁城にいた幼少の宣統帝溥儀を退位させた軍閥の袁世凱が孫文に取って代わり大総統に就任。袁世凱は1915年暮れに参政院の満場一致の推戴を受け、「中華帝国皇帝」の地位にまで就いた。もちろん、この“帝国”はわずか百日間で崩壊したいわば徒花であったが、そのわずか百日の間だけでも、袁世凱は、国旗・国歌を制定し、有力者に公侯伯子男の爵位を与え、滅びたばかりの清朝の「正史」とすべく536巻からなる『清史』の編纂作業すら「清史館」を設立して着手したのである。つまり、中国を実効支配する者にとっての「三種の神器」とは「正史の編纂」であることを意識していたのである。


▼ 日本人は「国史」に関心を抱かない

  つまり、中国の支配者にとっての「国史編纂」の意味は、われわれ日本人にとっての「正史」とは、重要さ(=関心の度合い)が比べものにならないくらい大きいのである。しかも、既に滅びた王朝(「崩壊するだけのマイナス材料があり、その結果、現王朝が成立したのである」という現王朝を正当化させる必要がある)に対する歴史的評価であるからして、当然、編纂には厳しい目が向けられる。その点、日本の正史である「六国史」(註:8世紀初頭から10世紀初頭にかけて編纂された律令国家の正史。『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』)なんぞは、全く視点が異なる。恐らく、当時の北東アジアの国際情勢に鑑みて、中国(大唐帝国)に対する日本の独自性を主張するために編まれた漢文による編年体の歴史書。タイトルに全て“日本”が付くのが中国や朝鮮に対抗する意識の現れであり、彼らに日本の「六国史」を示して、万世一系の神国であることを立証しようとしたのである。

  したがって、遣唐使が廃止され、急激に海外への関心が薄れ、律令政治から摂関政治へと変遷すると共に、「国史」の編纂は行われなくなり、朝廷の関心は、個々人の心情を描写した定形韻文(短歌)の記録である「勅撰集」(『古今集』『後撰集』『拾遺集』『新古今集』等)へと向いていった。その後、七百年続いた武家政権の時代も、一部の熱狂的なナショナリストの個人事業――例えば、北畠親房の『神皇正統記』や徳川光圀の『大日本史』――を除いては、国家事業として「正史」が編まれることは、19世紀になって明治政府が「王政復古の正統性」を主張するため、『日本三代実録』以後の宇多天皇(9世紀末)から(孝明天皇)慶應3年までの歴史を編纂した『大日本資料』があるだけである。おそらく、そこには「万世一系の皇室」を戴くという安心感が、その時その時の為政者の心のどこかに存在するからであろう。


▼ 中華民国が鄭成功を評価するのは当然

  さて、話を元に戻すと、国共内戦に破れて台湾に逃げた中華民国の国民党政権は、台北の故宮博物院にも見られるように、「大清帝国の正統な後継者」たる地位を内外に明らかにするためにも、大量の宝物(歴史的資料)を北京の紫禁城(現在では「(北京の)故宮博物院」と呼ばれている)から持ち出した。南京から台北への遷都という国家存亡の危機もあり、中華民国では「正史」の編纂がなかなか進まなかったが、それでも、辛亥革命の50周年に当たる1961年には、全550巻の『清史稿』が刊行された。最大の特徴は、明朝最後の第17代崇禎帝が、1644年に李自成軍によって北京の紫禁城を包囲されて自害した後も、福建省の沿岸部に居た明の残存勢力が擁立した明の皇族たちによる名ばかりの皇帝5名の内の4名は、わずか2年間で清軍によって壊滅させられたが、永暦帝のみ1661年まで抵抗を続け、雲南省の昆明で殺された。鄭成功将軍と共に台湾に逃れた勢力も抵抗虚しく1683年に清へ下った。大陸での戦いに敗れて台湾に落ち延びている自分たちの政権の正統性を主張するためにも、鄭成功の政権を高く評価する必要があったのであろう。

  実は、明臣の鄭芝龍が勅命によって長崎の平戸に在住し、日本人女性との間に設けた一子「和藤内(=鄭成功)」が、故国の国難(明朝の亡国)に際して、中国各地で転戦して大活躍する『国性(姓)爺合戦』が近松門左衛門によって人形浄瑠璃の作品として発表され、元禄時代には多くの日本人が、明の亡国と清の台頭について知っていた。つまり、中国大陸と台湾との政権争いのどちらに荷担するべきかという問いは、三百年以上前に既に日本人に投げかけられている問いである。この辺りの経緯については、拙論『新国姓爺合戦:大陸と台湾どちらと組む?』をご一読いただきたい。


▼ アフリカまで進出した鄭和

  中国大陸に出現した諸王朝は、皆、基本的には「陸軍国家」であり、外洋のことにはほとんど関心がなかった。中国史上最大の版図を有した大元(モンゴル)帝国においても、理屈の上では、西方ははるか1万km以上離れたヨーロッパの最西端大西洋に面するイベリア半島まで侵略することが可能であった(実際、ポーランド辺りまではモンゴル帝国の版図となり、フランスなどでは現在でも「黄禍論」として警戒されている)が、一方、東方へはわずか200kmしか離れていない日本にすら侵攻できなかったことからも、海軍力は、伝統的に弱かったのであるが、唯一の例外が、この「大明帝国」の時代である。鄭成功と同姓で、明初の英雄鄭和(本名は馬三保)は、モンゴル帝国の時代に西方から雲南に移住したイスラム教徒であったが、明初に捉えられ去勢されて宦官となった。ところが、彼の仕えていた明王朝二世建文帝の叔父である燕王朱棣が、「靖難の変」で帝位を簒奪し世祖永楽帝として即位すると、「靖難の変」で功績のあった馬三保は、永楽帝から鄭の姓を下賜され、宦官の最高位である太監の位に昇った。

  以後、西欧の大航海時代の幕開けに数十年先行する15世紀初頭に、鄭和は7回にわたって、東南アジア各国(マラッカ海峡の通過)から、セイロン、インド、さらには、ホルムズ海峡を通過してペルシャ湾深く入り込み、アラビア半島からアフリカ大陸東岸まで到達する大航海を成功させ、大明帝国の存在を世界中に知らしめ、多くの国々が朝貢した。鄭和は、長さ120mの旗艦をはじめ60隻を超える大艦隊と3万人の兵や商人を率いていたが、これは、現在に至るまで中国史上最大の艦隊である。鄭和は、ライオン・ダチョウ・サイ・キリンなどのアフリカ大陸の珍しい動物を中国まで持ち帰った。このように、明王朝は珍しく海軍力を保持していたので、清に大陸を追われた後にも、暫く台湾へ逃れて亡命政権を維持することができたのである。これが、中華民国の編纂になる「清史」では、鄭成功の南明政権が大きく採り上げられる理由である。当然のことであるが、中華人民共和国が編纂している「清史」では、鄭成功の事跡は無視されていることは言うまでもない。

  このような歴史的な背景を踏まえて、今まさに、北京の共産党政権が中華人民共和国の国家事業として「国家清史編纂委員会」を立ち上げ、自らを大清帝国の正統な後継者として、中国三千年の歴史に位置づけるため、『清史』を編むのである。しかし、「百日天下」の袁世凱は別としても、1911年の辛亥革命で三百年続いた大清帝国は崩壊したが、毛沢東による中華人民共和国の建国宣言の1949年までには、三十数年間の「空白」があることは紛れもない事実であり、1912年に建国した中華民国も、現在では台湾に逃れて「一地方政権」のように見えるが、三十数年間は中国大陸を実効支配したという事実も消し去ることはできない。おまけに、現在の中国東北部には、いくら日本の傀儡政権的性格が強かったとはいえ、1932年から1945年までの13年間にわたって「満州国(滿洲國)」という国家が存在し、辛亥革命によって幼少時に退位させられた清朝最後の皇帝(宣統帝)である愛新覚羅溥儀が、康徳帝として君臨していたので、歴史的「継続性」という点では、中華人民共和国のほうが弱いとも言える。逆に言えば、「だから清史を編まなければならない」のである。


▼ 大元(蒙古)帝国に学べ

  しかし、このような例は、中国三千年の王朝興亡史にいて何も今回が初めてのことではない。元の時代に編纂された『宋史』がまさに同じ問題を抱えていた。15世紀の中頃に完成した『宋史』496巻は、まさに宋代三百年の事跡を「正史」として元の宰相托克托(トクト)の手によって編まれたが、496巻というその巻数の膨大さ(註:三百年続いた大唐帝国の歴史を編んだ『旧唐書』200巻の2.5倍)もさることながら、大宋帝国が滅亡して、丸々そのまま大元帝国へと移行したわけではないという事情によるものである。ご承知のように、モンゴル高原から湧き出でたチンギス・ハーン率いる蒙古帝国は、わずかの期間に東ヨーロッパまで 達する人類史上最大の大帝国となったが、中国の中原進出は、一挙果敢という訳にはいかなかった。

  そもそも、大宋帝国は、960年に開封に都して太祖趙匡胤によって建国された。宋は、商業や芸術や文化は大変発展したが軍事力は弱かったので、常に、北方の契丹人の遼王朝に圧迫され続けたが、建国から百数十年を経過した第八代徽宗とその長男である第九代欽宗の時代には、北方に新たに起こった騎馬民族国家の金と結んで遼を討とうとしたが、逆に勢いづいた金によって開封を奪われ、徽宗・欽宗両皇帝は北方へ拉致され(「靖康の変」)帰らぬ人となった。南方に逃れた宋の皇族(欽宗の弟)趙構は、1127年、臨安(杭州)に都して高宗として即位し「南宋」を建てたので、その結果、太祖趙匡胤から欽宗趙桓までを「北宋」と呼ぶことになった。その後、南宋は百五十年間九代にわたって継続し、北宋同様文化や芸術は大いに発展したが、北方の金によって圧迫(毎年多額の金銀を強請り取られた)され続けた。

  1234年に、南北宋王朝を苦しめ続けた金が滅亡したが、新たにモンゴル高原に勃興した蒙古帝国が金を滅ぼして、その勢いのまま南宋まで呑み込み、第五代皇帝世祖フビライ・ハーンの時代に中国全土を再統一し、国号を大元帝国と改めた。したがって、北宋九代+南宋九代を全て「大宋帝国」というのであれば、大元帝国は大宋帝国の後継者であるが、事実上は、北宋の時代には遼が中国の北三分の一を支配し、南宋の時代には金が中国の北半分を実効支配していたのであるから、中国の全土を統一した大元帝国からすると、元は単に宋の後継者としてだけではなく、同時に、遼と金の後継者でもある訳である。そこで、『宋史』を編んだ宰相托克托の手によって、『遼史』116巻と『金史』135巻も同時に編まれることになった。その結果、托克托は実に合計747巻にも及ぶ三カ国の膨大な正史を編むことになるのであるが、見方を変えれば、大元帝国はそれだけ多くの国々の正統な後継者であったのである。

  しかも、漢民族とは全く異なる北方の遊牧民族であるにも関わらず、中国を支配した以上は、漢民族の手法によって全力で「正史」を編んだのである。共産党政権とはいえ、同じ漢民族である中華人民共和国の権力者たちが、百年も前に滅んだ『清史』の編纂に必至になるのは当然の帰結である。このように、複数の地方政権すら糾合して「正史」を編むという手法が大元帝国によって示されている以上、中華人民共和国においても、前王朝である大清帝国からの「政権の委譲」が一挙に進まず、数十年にわたる紆余曲折を経たとしても、一向に構わないのである。


▼ 2009年は中国にとって最も「危険な年」

  巻頭に述べたように、2009年という年は、毛沢東による中華人民共和国の建国から満60周年の佳節(還暦)であり、十数億の中国人民と共産党政権にとっての意味は、われわれ日本人の想像を遥かに越えて大きい。さらに、今年は、1919年の『ベルサイユ条約』に不満を抱いた中国人民による反日運動である『五四運動』から数えて90周年の年でもあり、1929年の世界金融恐慌から数えて80周年でもあり、人民解放軍の抑圧に抵抗したダライラマ14世がチベット脱出・インドへ亡命した『チベット民族蜂起』(中国側は『チベット動乱』と呼ぶ)から数えて50周年の年でもあり、民主化を求めて中華人民共和国の象徴である天安門広場に終結した丸腰の学生や一般市民たちを装甲車で鎮圧したに1989年の『天安門事件』から20周年の年でもある。このように、今年は、中国共産党政権にとって、何が勃発するか判らない“危険な年”である。昨年夏の北京オリンピックまで十数年間にわたって「改革開放」の旗印の下、市場経済化を進め、世界で最も急速に成長して生きた中国の経済が、アメリカ発の世界金融恐慌の混乱の淵に投げ込まれ、富裕層と貧困層の間のとんでもない格差が顕在化した。これらのことは皆、不安定要因と成りうるのであって、共産党中央も「不測の事態」の勃発に神経を尖らせていることであろう。

  こんな中で、昨年12月26日、ソマリア沖の「海賊討伐」のために、中国海軍の艦船三艇が出港した。このことの意味をもっと重要視する必要がある。日本の政治家たちは「定額給付金を出すの、出さないの」といった相変わらず低レベルの国会論戦を繰り返しているが、その間に、中国はさっさと海軍を派遣した。明らかに、五百年まえにアフリカまで行った鄭和の大艦隊の再現である。中国の意志を国際社会に見せつけるのが目的である(実は、現在、中国海軍は「空母」を建造しようとしている)。本当のことを言うと、ハイテク装備した小型艇で神出鬼没する海賊に対して、ミサイルや重火器で武装した正規軍の巨大な艦艇はあまり有効な取り締まり手段ではない。海賊もバカではないので、正規軍の艦艇には絶対に向かってこない。図体がでかくて動きの鈍いタンカーやコンテナ船を狙ってくるのであるから、もし、民間人の人質を取られでもしたら、いかなハイテク装備のイージス艦でもほとんど役に立たない。

  では、なぜ、ソマリア沖まで海軍を派遣するのか? ソマリア沖(=アラビア半島沖)に終結した各国の海軍および周辺諸国(中東の産油国)に対しての「プレゼンスの証明行動」以外の何者でもない。「海賊取り締まりには、自衛隊ではなく専門職の海上保安庁の艦艇を…」などと寝ぼけたことを言っている政治家や言論人が居るとしたら、私は彼らの政治センスを疑う。麻薬の密輸なんぞとはまったく別のオペレーションなのである。日本もサッサと4艇以上の海上自衛隊の護衛艦を派遣し、ソマリア沖の海を「旭日旗」をはためかしてプレゼンスを示すのが正解である。ましてや、ソマリアの内戦への介入や、アフガニスタンへの地上部隊の派遣なんてナンセンスである。自衛艦があちらこちらの国の港に給油に立ち寄って、スエズ運河も通過して、ガザ沖まで行ってただその姿を見せてくるだけで十分である。政治とは、自らの意志を「見せつける」行為であり、その営みを「歴史に刻みつける」行為なのである。

戻る