天下りを拒否して苛められた漢検協会

 09年02月13日



 レルネット主幹 三宅善信            
                   


▼ 最近、改正された公益法人法

  財団法人「日本漢字能力検定協会」(大久保昇理事長)に関する報道が最近、喧(かまびす)しい。曰(いわ)く、「積立金が43億円ある」とか「儲かっているのに検定料が高すぎる」とか…。しかも、その批判の多くが、「営利を目的としない公益法人であるにもかかわらず、資産が多すぎる」という論調であるから驚きだ。公益法人のなんたるかを知らなさすぎる。そこで、私は「日本漢字能力検定協会」(以下、「漢検協会」と略す)とは何の利害関係もないが、いつもの「天の邪鬼(あまのじゃく)」ぶりを発揮して、今回は、漢検協会を弁護する論調で、わが国の公益法人行政について存念を述べたい。ただし、私は何も、報道されているような大久保理事長による独断的な運営を肯定している訳ではないことは言うまでもない。

  最初に、「公益法人」とは何かについて論ぜねばなるまい。ただし、これがそう簡単には論じることができないのである。私自身、内外で多くの公益法人の理事や評議員の役職を担っている。もちろん、日本国内の公益法人の場合は日本の国内法が適用されるが、英国と米国に登記されている公益法人の理事も兼ねているので、海外の当該法(この場合、英米法の体系)についても、ある程度は承知しておかなければならない。さらに、日本国内で一つの宗教法人の代表役員、三つの株式会社の取締役を兼ねているので、非営利法人と収益事業を行う営利法人(株式会社)の違いについても、一般の人よりは意識しているつもりである。ところが、「公益法人」に対する解釈ひとつをとってみても、内外では大違いなのであるから、一筋縄ではいかない。

  おまけに、日本国内の公益法人の場合についても、実は、昨年(2008年)12月1日をもって施行された「新公益法人法」(註:正確には『一般社団法人及び一般財団法人に関する法律』と『公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律』からなる)によって全面改定されるまでは、基本的には、なんと1898年(明治31年)に施行された民法の第34条によって規定されていた。しかし、こんなことで驚いては行けない。他人の土地の不法占有に関する「時効」に関する規定(註:20年間他人の土地を占有している間に一度も立ち退きを要求されなかった場合は、占有者にその土地の所有権が移動する)なんぞは、なんと、鎌倉時代の1232年に制定された『御成敗式目(貞永式目)』に淵源が遡れるくらいだ。

  という訳で、わが国に現存する公益法人のほとんどは、昨年11月30日以前に設立されたものであるから、それらの典拠(任意団体の『定款』に当たる『寄附行為』)は、民法第34条に基づいている。もちろん、多くの法人が行政指導に基づいて年一回の「総会」時に役員改選や『定款』の変更を行うであろうから、一年以内には、新公益法人法に基づく運営に変わるはずであるが、実際には、公益法人が設立される際には、特定の状況や人物を想定して設立されることのほうが多いので、そもそも「どの団体が公益法人になるか」まで含めて、基本的には民法第34条に該当する法人が公益法人となっている場合がほとんどである。第34条に曰く、その社団または財団が「学術、技芸、慈善、祭祀、宗教その他の公益に関する社団又は財団であって、営利を目的としないものは、主務官庁の許可を得て、法人とすることができる。」当然のことながら、「漢字能力検定」は、一種の技芸に当たる。

  旧公益法人法の特色は、なんといっても「主務官庁による許可制」ということである。同じ法人でも、収益事業を行う一般の株式会社は、地元の法務局へその設立を登記すれば良いだけ(註:「申請制」と呼ぶ)であるが、公益法人の場合は、お役所から「許可」を得なければならないということである。しかし、民法34条に基づく旧公益法人は、現在の考え方では、むしろ、「非営利法人」というべきであって、必ずしも「不特定多数の人の公益」にかなっているかどうかは不明である。そこで、新公益法人法では、「公益目的の法人として税法上の優遇等を受けるには、公益法人認定法に従い、公益性の認定を受けなければならない」と規定されている。もっとも、「不特定多数の人の公益」という概念自体、非常に曖昧である。漢検協会が毎年実施する「漢字能力検定試験」には、毎年250万人以上の老若男女が受験していたのだから、この点では、まさしく「不特定多数の人の公益」にかなっていると言って良い。少なくとも、「財団法人日本相撲協会」や「財団法人日本アマチュア無線振興協会」よりもはるかに「不特定多数の人の公益」に叶っていると言えよう。


▼ 日本式公益法事は社会主義国の公益法人

  もちろん、今回のテーマは、公益法人法について述べるものではないので、法律論についてはこれ以上、論ずるつもりはない。ただ、ひとつ言えることは、日本以外の多くの国(欧米先進国でなくとも、アジアや中南米の途上国等)においては、財団法人でなくとも、学校・病院・福祉施設・宗教団体・各種NGO等を含む公益法人に対して、個人や団体が寄附を行った場合は、個人や団体の所得からその寄附金額を税控除してくれるのが常識である。解りやすいように説明しよう。仮に、日米ともに所得税の累進税率が同じであったとする(ここでは、仮に1ドル=100円と換算して、100万ドルの累進税率が50%、30万ドルの累進税率が20%であったとする)。もし私がアメリカ在住で100万ドルの年間所得があった場合、その内の70万ドルを「諸宗教対話の推進」を目的とする公益法人に寄附したとしたら、私の所得は30万ドルということになって、その30万ドルの所得に20%の所得税がかかることになるから6万ドルを内国歳入庁へ納付し、残りの24万ドルが私の可処分所得となる。

  ところが、これと同じことは日本では不可能である。もし私が日本在住で1億円の年間所得があった場合、その内の7,000万円を「諸宗教対話の推進」を目的とする公益法人に寄附したとしても、日本の税務署は「そんなことお前の勝手だ」と言って、私の課税所得は1億円のままということになって、「5,000万円の所得税を支払え」ということになる。そこで私の手元には5,000万円しかキャッシュが残っていないので、もし7,000万円を公益法人に寄附したければ、金融機関から2,000万円を借金してこなければならず、しかも、その場合、私の可処分所得は0円ということになり、霞を喰って生きなければならないことになる。実際には、こんなことは不可能であるから、金持ちほど、手を替え品を替えて「脱税」や「過少申告」をしようとするのである。しかも、すべての脱税や過少申告を捕捉することは技術的にも不可能であるから、社会全体とすれば、日本のほうが非効率的になるのである。

  つまり、日本では、国民の全所得や資産から、政府がいったん「税金」という形で強制的に取り上げ、それを役所の斟酌に応じて再配分するというシステムなのである。国民は、公的分野の中から、自分に関心のある分野(たとえば、図書館に寄附するとか、難病の治療を行っている病院に寄附するとか)に自分の財産を選択的に献金するのではなく、いったん「税金」という形でぶんどってしまえば、あとは何に使おうと役人の勝手ということになる。それどころか、「再配分に関しては役人の匙加減次第」ということにして、個人や企業を官庁のコントロール下に置こうとしているのである。つまり、公的資金の使い道について、主権者たる国民の選択を信用していないのであるから、民主主義社会とは言えないのかも知れない。

  私は、これまで世界の各国で、公益法人のために「寄附」を集めてきたが、正直言って、日本ほど集めにくい国はない。しかも、外国人は皆、「日本は金持ち国である」と思っているから、日本で集まらない寄附に対して「日本の金持ちはケチである」と思いこんでいる。実際には、先ほど述べたように、金持ちでも寄附できない仕組みになっているのであるが、この日本独特のシステムをいくら説明しても、欧米人(アジアや中南米の途上国の人々にも)には理解して貰えない。理解してくれるのは、社会主義国の人々だけである。つまり、日本はある意味、「官僚統制経済の社会主義国」なのである。


▼「漢字道の家元」としての大久保家

  さて、問題の漢検協会である。結論から言おう。何故、今回、漢検協会がこれほどマスコミから叩かれることになったのか? それは、文科省の官僚の天下りを決然と拒否したからである。これだけ、「天下り」や「渡り」が問題となっているにもかかわらず、マスコミはまんまと文部官僚に作戦の乗せられたのである。確かに、大久保理事長一族による「私物化」の図式が見て取れる。しかし、日本においてはどの公益法人でも、多かれ少なかれ、特定の一族や勢力が法人の運営を牛耳っているケースがほとんどである。「戸締まり用心、火の用心♪」のコマーシャルで一世を風靡したモータボートレース界のドンが牛耳っていたかつての財団法人日本船舶振興会なんか誰でもそう思ったであろう。漢検協会なんか、まだ良心的なほうである。

  今回の漢検協会のケースで一番批判されるのは、「公益法人の巨額な資金を理事長一族が経営する関連企業に仕事を発注する形で、資金の移転を行った」ということであるが、これも全くの事実誤認である。もともと、この「漢字検定」というのは、十数年前までは大久保氏が経営する株式会社で行っていたのである。つまり、まったく民間の検定事業である。「漢検」は、茶華道や日本舞踊、囲碁・将棋といった伝統的な日本の家元制度に基づく、各種の段位や師範などの位の認定制度と同じであると考えて良い。だから、段位や級位によって検定料が段階的に上がっていくのである。つまり、大久保氏は、千家や池坊や花柳同様、「漢字道の家元」と考えれば解りやすい。門人が250万人もいる超巨大流派なのであるから…。日本文化における「家元制度」については、拙論『入学金返還訴訟と日本文化』を是非、ご一読願いたい。

 「漢検」に関しては、もともと株式会社の営利事業として行っていた事業を、当時の文部官僚が唆(そそのか)して「公益法人」化させたのである。もちろん、「所轄庁」としての監督権限の拡大と、将来の「天下り先」の確保の目的で…。この十年ほどの間に、「漢検」が伸びたのは、大久保理事長をはじめとする漢検協会の自己努力に他ならない。清水寺の森清範貫主と組んで、毎年、年末12月12日に「清水の舞台」で墨痕鮮やかに認(したた)められる「今年の漢字」は、マスコミのおかげですっかりと年末の風物詩として定着した感があるが、このイベントが始まったのは、案外歴史は浅く、阪神淡路大震災とオウム真理教による地下鉄サリン事件が日本の社会を震撼させた1995年のことからである。確かこの年に選ばれた漢字は「震」であった。後の小泉純一郎首相の登場によって定着した「劇場型」政治、「ワンフレーズ」政治の手本が、この清水の舞台の上でのパフォーマンスであったのである。このことひとつを取ってみても、大久保氏の着眼点は傑出している。「漢検」を叩くなら、オウム真理教事件のときと同様、事件発覚前に連日オウム幹部をテレビに出演させたマスコミも大いに反省してもらいたいものである。

▼ 単年度会計主義が組織を腐らせる

  しかも、「漢検協会」は、自分たちの天下り先を確保するために、官公庁が主導して創りまくった数多の「公益法人」とは異なり、国民の税金はまったく投入されていないのだから、メディアに文句を言われる筋合いはない。というより、役人が創ってきた数多の公益法人が、とんでもない金食い虫であったので、民間の公益法人が儲かってもらっては困るからである。つまり、世間の目に対して「巧く運営すれば公益法人でも黒字経営が可能である」ということが明白になってしまえば、官僚の欺瞞(ぎまん)がいよいよ白日の下に晒されてしまうからである。

  私が理事や評議員を務める公益法人でも、事務局サイドからしばしば「巨額の内部留保や繰越金を作らないように所轄庁から指示を頂いているので…」という注意が理事会・評議員会の際に出されるが、いつも苦々しく思って聞いている。何故なら、毎年「使い切り」の単年度予算主義なら、資料館や図書館といった構造物を自前で建てることが難しく、また、「○○全書」の如き出版物の刊行が難しいからである。毎年の法人自体のアドミニストレーションの経費と、大きなイベントの経費とは自ずと枠が異なるはずであるのに、これを分けることができにくくなっているのは、個人の家計におおいて、住宅や自家用車などの大きな買い物と、日々の食費を同じ枠で考えよというようなものである。しかも、国(中央官庁)が創った公益法人ならば、その予算を国家予算から回しているので、仮に歳入欠陥が生じたとしても、いわば、国民から税という形で強制的に金をむしり取ることができるし、また、国債という名の借金もいくらでもすることが可能である。

  しかし、純然たる民間が設立した公益法人の場合には、赤字が出てしまえば即、解散消滅の危機に曝される。景気の動向によって、会員からの会費や寄附の徴収はアップダウンするであろうし、「利益を上げてはいけない」公益法人故に、金融機関から借入をすることも難しい。しかも、元々、何十億〜何百億という規模の潤沢な基金があって運営されてきた財団法人にしても、この十数年間の「超低金利時代」を経て、「基金の果実(金利)で運営する」という方途もほとんど尽きてしまっている。であるからして、このような危機に備えて、公益法人が一生懸命自助努力して、内部留保率を高め、もって、法人設立の主旨に適う事業が発生した際(特に、災害救助や援助活動を行う公益法人の場合、年によって、災害発生の有無ならびに大小が極端に異なり、必要な時には、巨額な資金が一挙に必要になる)に、弾力的に運用できるように日頃から心得ておくことは、理事者として当然の責務であると考える。

  だとすると、今回の「漢検協会事件」は、マスコミが騒ぐほど、悪質なことではないと思う。これまで「理事として名前だけ連ねていた」のに、「事件化」すると、早々に「辞任」した文化人や財界人の見識を疑う。皆さんも、この事件が一件落着した後、どのような人(特に、官僚出身者)が、理事に加わるかを注視しておこう。


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