レルネット主幹 三宅善信
▼話題を呼んだ『天下りを拒否して苛められた漢検協会』
先月、弊サイトにおいて『天下りを拒否して苛められた漢検協会』を上梓したところ、思いの外、各方面からいろんな意見が寄せられた。その中には、かなり確度の高い情報も含まれていたが、その確度の高さ故に「情報源を秘匿」する必要がある(将来、公判に発展した場合に備えて、情報提供者の保護が必要)ので、ご紹介できないのが残念であるが、既に公表されている情報だけでも本件について考察するに十分であり、また、先の拙論の結果が如何に当を得たものであるかが、あらためてハッキリした。
また、これまで私とは縁もゆかりもなかった人々が、それぞれ本件に関して論じているブログ等でも、拙論が賛否両論をもって引用されていることを知って、「現代社会に惹起する様々な問題」について、「世間の常識」とは一風変わった形で疑問を提起するのがこの『主幹の主観』コーナーの目的であったので、その意味でも喜ばしい限りである。前作で、私は解りやすく「漢検協会問題」について論じたつもりであるが、拙論に反対している方々のブログを読むと、中には、私の問題にしている点の本質が理解できていないか、あるいは、わざと問題点をすり替えようとしているのか――場合によっては、文科省の代弁者――判らないようなサイトもあるので、もう一度、問題点を整理しておきたい。
まず、「私(三宅)は、大久保理事長(一族)による独断的な運営を肯定している訳ではないということは言うまでもない」と、冒頭に明確に述べている。そして、公益法人にとって重要な判断基準は、その法人が「不特定多数の人々の公益に叶っている」かどうかであって、「公益法人が巨額の資産(内部留保)を持ってはいけない」かどうかではないということである。否、むしろ、その法人の目的――ほとんどの公益法人の『定款(註:2008年11月30日までの旧民法34条下では『寄附行為』と呼ばれた)』には、その第一章に、当該法人の名称や所在地と共に、目的として、「当法人は、○○の普及や振興につとめ…」というふうに定められているように、法人の構成員相互の親睦や福利厚生を目的とするものではない――をより実効のあるものにするために、財政的基盤がしっかりとしたものであるほうが良いに決まっている。
▼公益法人こそ、内部留保率を高めよ。
中には、「非課税の公益法人が巨大な資産を貯め込むことはいけない」と主張している人も居るが、それも間違っている。中央政府や地方自治体も「公益法人」(註:実際に、そのように呼ぶかどうかは別としても、その権能は明らかに公益法人である)のひとつであるが、中央政府や地方自治体が大赤字を抱えているよりも、潤沢な財政黒字で住民サービスを充実させるほうが良いに決まっている。しかも、前作で述べたように、たとえ赤字が出たとしても、政府や自治体は「税金」として国民や住民から強制的に財産を召し上げることもできるし、また、国債や地方債を発行して市場からファイナンス(資金調達)することもできるが、民間の財団法人や社団法人は、基金や会費によって運営されているため、もし、巨額の赤字が発生したとしても、政府や自治体のように強制的に召し上げることもできないし、そもそもが利益を目的としない「非営利法人」であるから、金融市場における配当をつけたファイナンスはおろか、銀行からの有利子の借り入れすら難しい。もし貸し倒れになったとしても、公益法人の財産は勝手に処分できないので、公益法人の資産には担保価値がつかないのが一般的(註:たとえば、宗教法人である東大寺が金融機関から100億円を借りてそれが返せなくなったとして、金融機関が担保として大仏殿の所有権を宗教法人から移転したり、国宝である大仏殿を勝手に売却したり、いわんや更地にして商業ビルに建て替えることなんぞ許されないのは当然のこと)なのである。
つまり、公益法人は「黒字体質を維持する」ことが望ましいのである。もちろん、十数年間、実質「ゼロ金利」が続いてきた日本においては、そして、昨年秋の米国発の金融危機と世界同時恐慌という国際経済情勢下においては、多くの国が超低金利政策を採っているので、公益法人がその基本財産を「安全確実な国債や預貯金」(註:2005年に「ペイオフ制度」が完全実施されてからは、当該金融機関が破綻した場合、一金融機関当たりの預貯金は最大1,000万円までしか保護されなくなったので、国債や預貯金は、安全でも確実でもない「ハイリスク・ローリターン」のとんでもない金融商品と化した)で運用して、その「果実(利子や配当)」で日常の活動を賄っていくことなど、とっくの昔にできなくなっているので、「受益者」たる会員(註:公益法人法上では、構成会員のことは「社員」と呼んでいるが、ここでは判りやすくするため「会員」と呼ぶ)からの会費や受益者の検定料の類を値上げするしか方法はない。そこで、これらの「値上げ」をできるだけ小幅なものに留めるために、公益法人自身による「運用」も行われてしかるべきである。
▼ハーバード大学と公益社
たとえば、公益法人(註:学校・病院・宗教等は公益法人である)であるハーバード大学は、300億ドル(約3兆円)というその潤沢な資産を金融市場で運用して相当な利益を上げているので、あれだけの教育水準を維持しながらあの程度の学費でやっていけるのである。欧米の有力な私立大学はたいてい同じような構造(早慶など日本の主な私学の約百倍の運用規模)になっている。ただし、この1年間の国際金融市場や原油や鉱物や穀物等の一次産品市場の暴落によって、マーケットにおいて積極的に資金運用を行ってきた公益法人の大多数が、相当なダメージを蒙(こうむ)ったこともまた事実である。因みに、仏教系の駒澤大学(曹洞宗系)や立正大学(日蓮宗系)が、昨年の運用失敗でそれぞれ150億円近い損を出したことは記憶に新しい。
報道によると、問題の漢検協会は、そのような危険な金融商品に手を出していない――というよりは、テレビの画面を通しても見るからに「現金主義」の田舎のおっさん風(失礼)の大久保理事長には、そのようなハイカラな金融派生商品が理解できなかったから、何十億も資産がありながら、旧態依然たるタンス預金か、昔ながらの「土地投資」でせいぜい南禅寺付近の6.5億円の土地を購入しただけ――らしい。むしろ、「私はデリバティブが理解できた」と思っていたインテリが皆、ハゲタカファンドの口車に乗せられて巨額の資金を失ったのだから、漢検協会のケースは不幸中の幸いである。私なんか、この3年間に、自分の生涯賃金より多くの金融資産をデリバティブで失ったから、経営者としての才能(悪運)も、大久保氏のほうがはるかに上である。もう一度、言おう。「公益法人の資産は大きければ大きいほどよい」これが、私の基本認識である。課税されている団体であるかないかなんかたいした問題ではない。なぜなら、「利益を上げること」を目的に創設された事業会社でも、「赤字ゆえにまったく納税していない会社」も山ほどあるからである。
アカデミー賞映画『おくりびと』で、今、葬儀屋さんが注目されているが、全国に数多ある葬儀社で唯一の東証上場企業である「(株)公益社」(註:現在では、持ち株会社の「燦ホールディングス株式会社」の傘下の一事業会社)なんぞ、「公益」社と名乗りながら、収益事業会社そのものである。ただし、人が亡くなった際に葬儀を行うこと(法的に必要なことは、死亡届の提出と埋葬だけであって、葬儀をする・しないは遺族の自由であるが…)は日本の公序良俗に属するものであるから、その意味では、葬儀に従事することは「公益」と言える。しかも、誰でもいつかは必ず死ぬのであるから、最も「不特定多数の人々」の公益に叶っているとも言えよう。
政府が作成した新型インフルエンザのパンデミック時のワクチン接種優先者リストにも、水道・電力・ガス供給などのライフライン維持関係者と共に火葬・埋葬関係者は入っている。これは、とりもなおさず、政府が葬儀業者に公益性があると認めているからであろう。因みに、15年前に祖母が帰幽した際、私は「葬儀奉行(葬儀委員会の事務局長)」を務めた経験があるが、1,500名ほどが参列した大規模な葬儀の終了後、公益社首脳(名前はあえて伏す)に料金を尋ねたところ、「お支払いは結構です。その代わり、ちょうど(株)公益社を上場するところだから、葬儀費用に相当する株式を引き受けて安定株主になってほしい」と頼まれて、同社の株主になった。
▼文科省は最大の天下り官庁
次ぎに、「文科省の天下りを拒否したから苛められた」という私の説に、「文科省の天下りは他省庁と比べてましなほうだ」と反論しているサイトもあるが、これも大間違いである。誰の目にも判りやすい、政官財が癒着した巨額な公共事業の利権にまつわる国土交通省や経済産業省のごとき、あるいは、福祉という巨大な予算や巨額の郵貯マネーを持っている厚生労働省や総務省関連のごとき天下りや渡りと比較して、文科省という役所がそもそも予算規模の小さい「二流の官庁」であるから、その「悪行ぶり」が目立たないだけで、宮内庁から防衛省まで、日本のありとあらゆる官庁(もちろん、地方自治体も同じ)には、天下りという弊害があると理解すべきである。
これらの天下り連中を喰わせていくために、巨額の税金が投入されていることに、納税者はもっと怒るべきである。公金が一円も投入されていない漢検協会が、あれほど資産を増やすことができたのに、税金や国債や財政投融資などの公的資金を湯水の如く注ぎ込まなければ成立しない官公庁立の“公益法人”こそ、即刻廃止すべきである。物事にはすべからく「費用対効果(B/C)」というものが付いてくるので、これを判断基準にすることは結果的には正解を導くことになる。なぜなら、価値観が多様化している成熟社会において、図書館が大事か、体育館が大事か、公民館が大事かは、人によってその優先順位は異なるであろうし、客観的な順位付けなど不可能であるからである。
因みに、『wikipedia』によると、国家公務員出身者(省庁別)が役員になった公益法人の数は、内閣府69、総務省175、法務省26、外務省146、財務省106、文科省659、厚労省439、農水省327、経産省445、国交省623、環境省65、防衛省21とあるから、文科省は、談合や賄賂まみれで「土建屋べったり」の国交省と並んで、日本で最も多くの天下り役人を垂れ流している官庁ではないか!
そのような文科省からの天下り要請を敢然と蹴った(だから、「国策捜査」で苛められた)漢検協会こそ、天下りを批判するメディアなら、「よくやった」と誉めこそすれ、理事長一族の公私混同といった些細な問題に囚われて、全体構造を見逃すべきではないと思う。なぜなら、そもそも、公金によって設立された「○○公団」や「○○公社」とは違って、漢検協会の資産は全て民間からの任意の資金だからであり、その使われ方に、漢検協会の会員でもないわれわれが、とやかく言う権利はないのである。ちょうど、財団法人日本相撲協会が、国技館をどこに建設しようが、力士の給与を幾らに決めようが、優勝賞金を幾らに設定しようが、彼らの勝手であるように…。文科省からすれば、漢検協会は「豚は太らせてから喰おう」と長年かけて(わざと見逃して)育ててきた餌だったのである。
▼より多くの人の利益のために
そもそも「公益法人」とは何か? 公益法人は「公益法人は積極的に不特定多数の者の利益の実現を目的とするもの」ということになっている。その目的を実現させるために、その団体を、一個の自然人と同様に、法的保護の対象にし、かつ、契約行為の主体者になれるようにするために、中央政府もしくは地方自治体によって法人格を与えられた(註:今回の法改正によって、かつてのように主務官庁による認可制から、自己判断による登記制に変更)というよりは、法人格を有していると見なされた存在である。
「公」という漢字の反対の意味の漢字はいうまでもなく「私」である。公立学校に対して私立学校、公営電鉄に対して私営電鉄…。「公」という漢字と「私」という漢字の共通の部分は「ム」の部分である。漢字の「ム」は、呑み込む「口(くち)」であり、国構えに象徴される「抱え込む」という意味である。それから、「公」という漢字の「ハ」の部分は、「入口を開く」とか「分ける」という意味である。つまり、誰でもが自由にアクセスすることができるという意味(状態)である。
一方、「私」のほうはと言うと、漢字の「ム」の部分は、「公」と共通であるが、「禾(のぎへん)」の部分の意味は、稲穂の漢字に見られるように、「穀物の穂」の意味である。つまり、収穫物を自分だけで食べてしまったり、どこかへ抱え込んでしまうという状態を意味する言葉(文字)として、三千年ほど前に中国で成立した。この「公・私」の概念規定の相違は、現在においても有効であると言えよう。省益の拡大や天下り先の確保に汲々としている官庁から、もはや「公務(Public
Service)」の名称は返上して貰うべきである。せめて官庁のできることと言えば、「天下り」の派遣ではなく、不景気で失業した民間企業の余剰人員の「天上がり」受け入れ先になることを宣言すれば、世間の目もちょっとはましになるのだけれども…。