皆既日食?

 09年07月22日



レルネット主幹 三宅善信  

▼18年10日8時間周期で起こる日食

  日本では「46年ぶりの皆既日食」だそうで、ちょっとした天文ブームとなっている。そう言えば、私が幼稚園児の頃、意味も解らずに「にっしょく、にっしょく」と言って、当時は街中(まちなか)で簡単に拾うことのできたガラスの破片に蝋燭(ろうそく)の煤(すす)をつけた即席「日食メガネ」の作り方を叔父さんに教えてもらって、縁側にみんなで座って「日食観測」の真似事をしたことを覚えているが、先日、2歳年長の兄にその話をしたら、兄もそのことをハッキリと覚えていたから、おそらくその記憶は間違いないのであろう。もちろん、その当時の日本と現在の日本とでは、豊かさや情報など、あらゆる面で比べようもないが……。

  日食というのは、言うまでもなく、地球の周りを公転する月が太陽光を遮(さえぎ)ってしまうという天体現象である。太陽がスッポリと完全に隠れる皆既日食と部分日食とがあるが、燦々(さんさん)と輝いていた太陽が突然、欠けてゆき、ついには昼間でも夜のようになってしまうので、人間はおろか地上の動物たちにも与えるインパクトが大きいのは、当然、皆既日食のほうである。厳密には、地球の公転軌道と月の公転軌道のいずれもが、真円ではなく少し楕円軌道を描いているため、見かけ上の太陽の直径が月の直径より少し小さく完全にスッポリと隠れる「皆既日食(total eclipse)」と、見かけ上の太陽の直径のほうが少し大きいため、「金環食(annular eclipse)」の二種類があるが、どちらも素人目には、あまり区別は付かないであろうから、ここでは、この両者を「皆既日食」として扱うことにする。

  天文学的には、太陽と地球と月の相対的位置関係が同じになる(日食が発生する)周期を「サロス周期」と呼び、6,585.3212日(約18年10日8時間)ごとに現れる。したがって、今回の皆既日食の発生日である2009年7月22日と同じ条件の次の皆既日食は、2027年8月2日であり、その次は、2045年8月12日である。このサロス周期は、既に古代バビロニアの時代から知られており、日食の予測を正確に行うことが、地上世界を統治する帝王の責務のひとつであり、天文学者たちによって秘密裏に計算された日食の発生を予言してみせることが、人民たちをして、彼を「天子」と思わせるための演出でもあった。天文学的な知識がなくとも―洋の東西を問わず、古代においては、「暦」をつくること=帝王の権威の象徴であった―日数さえ正確にカウントできれば、日食の「予言」はそう難しいことではなかったが、問題は、「18年と10日と8時間毎」の「8時間」の部分であった。

  地球は24時間で1回転するので、8時間ずれると、日食が発生する場所が、経度で120度分(地球1周の1/3分)ずれてしまうということである。つまり、日本で観測された日食は、同じ時間帯には、18年後にはヨーロッパで、36年後には北米で観測されるということになる。そして、日本で再び同じ条件の日食が観測できるのは、54年後ということになる。言い方を変えれば、午前8時に観察できた日食は、18年後には夕方4時に観測できることになるが、もし、正午に日食が起こっていれば、18年後は晩の8時に日食が発生するのであるが、日没後のため、発生したかどうかも判らないということである。これが、古代から近世にいたるまで、「日食の予想が外れた」という時の主要な原因であった(註:通常、1サロス周期の間に、39〜40回の日食が地球上で観測されるが、あくまで「同じ条件の日食」が発生するのは、6,585.3212日毎である)


▼木曽義仲に滅亡をもたらせた皆既日食

  当サイトの目的は天文学ではないので、「日食」に対する科学的知見は最低限のものに留めて、そろそろ本題に入ろう。最初に述べたように、「正確に日食を予測する」ということは、洋の東西を問わず、「天子」にとって重要なファンクションのひとつであったから、いずれの国の宮廷でも、天文学や暦学を生業とする職能集団が形成されていた。日本の古代の律令制国家においても、「陰陽寮」という役所に「天文博士」「暦博士」「陰陽博士」などという役職が設けられており、既に、7世紀末の持統天皇の時代には、暦博士が日食の予定日を計算し、天文博士が観測データで裏付けし、これを天子に「密奏(日食の発生を予言できるのは、天子の霊的権威の象徴)」し、日食当日には、一切の国家行事や政務が中止された。何故なら、「日嗣御子(ひつぎのみこ)」たる天皇の主催する朝廷の行事が、あろうことか「太陽が欠ける」ような不吉な日に執行されてよいはずがないからであった。

  わが国の歴史的事件と皆既日食にまつわる話で、最も有名なのは、おそらく『源平盛衰記』にある「水島合戦」(寿永2年閏10月1日=1183年11月17日)の項であろう。都を落ちた平家一門は、三種の神器と安徳天皇を奉じて、筑紫国(福岡県)の太宰府まで落ち延びた後、体制を立て直し、瀬戸内海を東進して備中国水島(現岡山県倉敷市)で、後白河法皇による平家追討の院宣を受けた木曽義仲の軍勢と対峙した。その義仲軍が平家の水軍に襲いかかった直後に、日食が発生した。その様子を『源平盛衰記』は、「…天俄(にわか)に曇りて日の光も見えず、闇の如くになりあれば、源氏の軍兵ども日蝕とは知らず…」と描写している。いくら木曽義仲の軍勢によって都を追われた身とは言え、畏くも安徳天皇を奉じる平家の一党は、いわば「動く朝廷」であったので、文武の百官を引き連れての道行きだったと考えられる。当然、その中には、陰陽寮の役人もいたであろう。都びた風雅の流を理解できない勇猛果敢な板東武者と闘うためには、単なる足手纏いにしかならなかったこれら「朝廷の装飾物」が、唯一、役に立った瞬間である。

  官軍である平家の軍勢は、日食の発生を事前に知っていたが、木曽義仲勢は、この天変地異に大いに驚き、戦意を喪失して、命からがら都へ逃げ帰るも、後から上洛を果たした鎌倉殿の軍勢に宇治川合戦で殲滅されることになった。この後、勢いを取り戻した平家の一行は、亡き清盛が日宋貿易のための開削した大輪田泊(現神戸港西部)の福原京(木曽義仲によって破壊された)に還幸するため、摂津国(畿内)の西の端である福原まで東進し、勢力も盛り返したのである。その後の源義経による有名な一ノ谷の合戦で敗れたことは、誰でも知っているので説明の必要はあるまい。


▼皆既日食によって象徴された卑弥呼の死

  他にも、日食にまつわる日本の歴史上の出来事と言えば、つい最近(5月31日付)、国立歴史民俗博物館の研究チームによって発表された「C14という炭素の同位体を用いた放射性炭素年代測定法によって、奈良県櫻井市にある「箸墓古墳」の造営時期が240年から260年の間であると特定され、248年に崩じたとされる卑弥呼の墓である可能性が高まり、邪馬台国所在地論争に終止符を打つことになろう」というニュースがあったが、中国の正史である『魏志』の「倭人伝」によると「卑弥呼は248年頃に死んだ」ことになっているから、古来「卑弥呼の墓ではないか」と言われているこの箸墓が卑弥呼の墓である可能性が高まり、その結果、「邪馬台国大和」説が妥当性を得たという三段論法である。

  しかし、私が気になるのは、247年と248年に二年続きで日本で見ることができた皆既日食である。AD247年3月24日(グレゴリオ暦)の日没直前に日食が始まり、水平線に欠けたままの太陽が沈むという珍しい出来事が、西日本の高い山に登れば観察できたと思われる。皆既日食の日は、当然、新月になるから、日没後は真っ暗闇になる。古代人にとってみれば、真っ昼間に太陽が欠けていく皆既日食も恐ろしかったに違いないが、それでも、1時間もすれば、太陽は完全に元の輝きを取り戻すので、それなりに安心することができたであろうが、真っ昼間の太陽よりも見かけ上「大きく見える」夕陽がドンドンと欠けてゆき、そのまま日没になった後、漆黒の夜(新月なので、月は出ない)が12時間も続くことを想像してみるがよい。太陽が二度とこの世に姿を現さないのではないか? という恐怖心に駆られること間違いないであろう。その日の日没後は、太陽の居なくなった西の空に、火星・水星・金星・木星が縦一直線に並んで見えたそうである。古代人たちが、なんらかのコスミックなパワーを感じたことであろう。

  また、翌AD248年9月5日、今度は、北陸から東北地方にかけて、いきなり夜明けの太陽が欠けはじめて登り、暫くすると皆既日食になるという劇的な光景が見られたはずである。これも、せっかく昇ってきた太陽が、目の前でドンドンと暗くなって行くのであるから、人々の目には、「このまま太陽が無くなってしまうのではないだろうか?」という恐怖心と共に映ったであろう。

  私には、卑弥呼が没したと言われる時期に重なるこの二年連続の、夕暮れ時と夜明け時の皆既日食の出来事が、日本人の脳裏に深く刻まれ、後の『天の岩戸』神話として結実されたものと思われる。いずれの場合も、われわれの暮らしに恵みをもたらすお天道様が、永久にこの世から無くなってしまうのではないだろうか? という恐怖心を人々にもたらし、しかも、その天体現象が、地上の支配者である卑弥呼(日の御子)の死と関連しているのであれば、われわれは、大急ぎで「新しい卑弥呼」となるべき「日嗣の御子」をこの世に招き入れなければならないと考えて当然である。天の岩戸の前に日本中の神々(天津神)が集まって、まさに『大祓詞』にあるような「…八百万神(やおよろずのかみ)等を神集へに集へ給ひ、神議(かむはか)りに議り給ひて…」とか、「…天津神は天の磐戸を押披(おしひら)きて、天の八重雲を伊頭(いず)の千別(ちわき)に千別て聞食(きこしめ)さむ…」という状態だったのであろう。

  また、日食が起こると、これを事前に知っていた人間でも、相当興奮するのであるから、そのようなことを知りもしない動植物たちは、大変な興奮や恐怖心を覚えるであろう。天子とは繋がりのない、豪族(国津神)たちは、「…国内(くぬち)に荒振神(あらぶるかみ)等をば、神問はしに問はし給ひ、神掃(かむはら)へに掃へ給ひて、言問(ことと)ひし…」とか、そこら辺の山川草木まで「…磐根木根(いわねきね)立草(たちくさ)の片葉をも事止(ことや)めて、天の磐座放(いわくらはな)ち…」と、興奮している様子が、『大祓詞』からも見て取れる。これらは、後に、6月末と12月末の「大祓」という行事に定式化されるが、それよりもずっと以前の時代の、日食に遭遇する(=祭祀王が急に崩じる)という記憶を何処かに留めおくものであるような気がしてならない。


▼日本食が広まって、日本国が蝕まれる

  ここまで、「日食」について、つらつらと思いつくことを書き連ねてきたが、当『主幹の主観』シリーズを愛読してきてくださった読者の方なら、「もっと根本的な疑問があるはずだ」と、心の何処かで叫んでおられるであろう。そう、最近のマスコミ報道を通じて、私も大変、気になっていた根本的な問題がある。それは、この国では、いったいいつ頃から「皆既日食」という表記を用いるようになったのか? という疑問である。十年ほど前までは、間違いなく、テレビの画面には「皆既日しょく」と奇妙な漢字仮名交じり表記が出ていたはずである。同様のテレビ独特の漢字仮名混じり表記には、「ら致事件」とか、「誘かい犯」というのもあった。もちろん、常用漢字の使用規制を厳密に守ろうとした結果であるが、かえって漢字の熟語の一部をかな書きされたら読みづらいことは言うまでもない。と言うわけで、最近では、「拉致事件」とか「誘拐犯」といた具合に、たとえ熟語内の漢字の一部が常用漢字でなかったとしても、全部を漢字書きするようになったことは、望ましいことである。

  しかし、「皆既日食」の「食」の字は、小学校の低学年で学習する漢字であって、これをわざわざ「しょく」と仮名書きする必要はないはずである。ところが、かつては、テレビの画面に「皆既日しょく」とスーパーが流れていたのは、その「しょく」という漢字が「蝕(しょく)」という漢字だったからのはずである。そう正しくは、「皆既日蝕」のはずである。この減少は、見かけ上の太陽が、月の影によって「蝕(むしば)まれる」のであるから、当然、「食」ではなくて「蝕」でなければならない。ところが、「Google」で検索しても、「皆既日食」の1,760万件に比べて、「皆既日蝕」はわずか33,300件と、極端にヒット数が減少する。失礼にも「もしかして:皆既日食」なんて表示が出る始末である。そこで、話題の言葉を採り上げて、ヒット数の拡大を意図しているわが『主幹の主観』コーナーでも、しぶしぶ『皆既日食?』と、食の字に「?」を付けることで、かろうじて抵抗の意思を示そうとしているのである。

  もし、「皆既日食」が正解だと言うのなら、「世界中悉く日本食を食べている」という意味になるはずである。しかし、よくよく考えてみると、確かに、世界中のあらゆるところで、日本食を食べることができるようになったのであるからして、また、それが単に、日本人観光客のホームシックを癒すためのものではなく、現地に暮らす現地の人々の生活にとって「cool(格好良い)」なものとして、広く受け入れられるようになったのであるから、それはそれなりに評価されるべきものであるはずである。

  一方で、昨今の、政治や経済における日本の国際的地位の急激な低下は、まさに、中国やインド等によって、日本の産業が蝕(むしば)まれているのであって、その意味では、まさに「皆既日蝕」と言えなくもない。古代人ならいざ知らず、現代人の生活とはなんら関係のない天体現象が、いつの間にか「皆既日食」になってしまい、現代日本人が暮らしてゆかねばならない国際社会が、いつの間にか「皆既日蝕」になってしまっているのでは、たまったものじゃない。古代の国家の為政者たちは、「皆既日蝕」の日は、「天意」を尊重するため、丸一日身を縮めて国家行事を謹んだのであるが、現代の為政者たちは、「身を慎む」どころか、衆議院の解散を受けて、全国各地に飛び散って、大はしゃぎをしているのである。単なる「風」だけでなく、この未曾有の国難の時期に当たって、せめて、国際社会においてこれ以上、日本の地位が蝕まれることのないような指導者が選ばれてくることを祈るような心境である。

 

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