誰かさんと誰かさんがサリンジャー   

 10年01月29日



レルネット主幹 三宅善信  


▼サリンジャーと大物ロック歌手

  アメリカの小説家ジェローム・サリンジャー(Jerome Salinger)(享年91)が逝った。人類最初の大量破壊兵器の登場によって、20世紀という“戦争の世紀”の性格を決めた第一次世界大戦が終結(1918年11月11日)して間もない1919年1月1日に、ポーランド系ユダヤ人の息子としてニューヨークで生を受けたサリンジャーは、欧州でナチによるユダヤ人弾圧の嵐が吹き荒れた1940年に『The Young Folks』で小説家としての第一歩を標した。サリンジャーは、メジャーデビュー作品となる『Slight Rebellion off Madison』の超一流週刊誌の『The New Yorker』への連載がまさに始まろうとしていた1941年12月に、日本の真珠湾攻撃によって太平洋戦争が開戦し、せっかく決まっていた連載が延期(終戦後の1946年に連載)になった。

  サリンジャーがそのことに腹を立てたのかどうかは知らないが、彼は自ら志願してアメリカ軍に入隊。なんと、ジョン・ウエイン主演の映画『史上最大の作戦(The Longest Day)』のモデルとなった『ノルマンディー上陸作戦(Operation Overload)』に、連合国軍の一兵卒として参加している。パリ解放(ドイツ軍から言えば陥落)後、新聞特派員として戦地取材(註:大戦時中、ほとんど国の新聞・ラジオ(現在ではテレビやネットも)は、国威宣揚企画やアンチ敵国文化・人種差別プロパガンダを大いに展開した点で、戦争責任の一端を担いでいると言える。当然、一般市民はマスメディアの言説を真に受けてはいけないことは言うまでもないというメディア・リテラシーについて心する必要がある)に訪れたアーネスト・ヘミングウエイとも出会っている。連合軍の一兵卒として、ベルリン陥落まで欧州戦線を務めたサリンジャーは、苛烈で非人道的な戦地での体験で精神を病み、現地の病院に入院。そこで、フランス人医師の女性と出会い結婚、除隊となった。帰国後、直ぐに『I’m Crazy』という作品を発表したが、彼が本当に「狂って」いたかどうかは私は知らない。しかし、その後のサリンジャーの著作が、アメリカの少々イカレた青年のバイブルとなっていったという事実は見逃してはいけない。

  そして、彼をアメリカ文壇のスターダムに押し上げたのが1951年に発表された『The Catcher in the Rye』である。この作品の日本でのタイトルは、一応、『ライ麦畑でつかまえて』という題名が現在では一般的であるが、アメリカでの刊行翌年に早くも和訳された際の邦題は、意外にも『危険な年齢』であった。そして、1964年の日本語版でやっと『ライ麦畑でつかまえて』となり、1967年版ではなんと『ライ麦畑の捕手』となった。確かに、「Catcher(キャッチャー)は捕手」のことだ。私もてっきり、麦畑で草野球している連中の話だと思っていた。1989年にケビン・コスナー主演の映画『Field of Dreams』が公開されると、「この話だったのか…?」と思ったほどだ。そんな訳で、2003年の村上春樹訳では、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』と最近の洋画の邦題のように、なんの工夫もなく単にカタカナに置き換えるだけ(しかも、定冠詞の「The」が抜けるという日本人がよくやるパターン)になっている。

  そのサリンジャーも、彼の変人の性格が災いしてだんだんと世の中との折り合いが悪くなり、度重なる離婚や人的トラブルを嫌気したのか、1965年の『Hapworth 16, 1924』を最後に断筆してしまう。ところが、世の中、サリンジャーの小説が「もうこれ以上読めない」となると、美術品同様、希少性による妙な付加価値がついてしまう。そして、田舎に隠遁していることが彼をかえって「神格化」させてしまうのだ。一時、流行った「歌謡曲や演歌の連中と一緒に(大衆迎合的なメディアである)テレビの歌番組なんかには、俺は絶対に出演しないぜ!」と意気込んだロック歌手に、かえって箔が付いて神格化されるのと同じ論理だ。その連中の“末路”を見るが良い。今では、たいてい「もの分かりの良いアラ還」となってNHK紅白歌合戦に出演しているではないか…。あと二十年も長生きすれば、故藤山一郎よろしく、最後は『蛍の光』の大合唱の指揮者まで務めるかもしれない。


▼私が私小説を嫌いな理由

  さて、『主幹の主観』愛読者の皆さんの中には、「あの三宅善信がサリンジャーだなんて…?」と思われた向きも多々あると思う。そのとおりである。私は、英語はおろか日本語ですら「小説」(特に「私小説」)というジャンルの文学を子供の頃からほとんど読まなかった。正直、当年とって51歳になる今日まで、夏目漱石や三島由紀夫ですら一度も読んだことがない。というか、個人の創作話に過ぎない小説には興味が湧かないからである。十人居れば十人の“小説”が成り立つ。そんなものは、小学校の夏休みの宿題に出された「作文」で飽き飽きした。そもそも、ある事象に対してある人物がどう思おうと、そんなことは私とは何の関係もない。十人十色の答えが成り立つ訳だから、そんな「正解のない問題」には、はじめから興味がない。それに、「小説」という嫌に謙遜じみたネーミングも気にくわない。自ら「大説」(註:元来、為政者が統治理念や国史について編んだ“大説”に対する「一個人の言説」という意味で“小説”という用語が確立された)と言っている話でも、たいしたことないのに、はじめから「小説」なんて言っている話が面白い道理がない。

  英語では「小説」のことを「novel」と言うが、その語源となったラテン語の「novellus」は「新しい」という意味であるとおり、小説とは「創作性」が問われる文学なのである。問題はその「創作性」である。先述したとおり、十人居れば十人の話が成り立つのであるから、その「創作性」と言われても、はじめからあって当たり前のことである。かつてSMAPがヒットさせた『世界に一つだけの花』という歌謡曲があったが、「only one」は、何も人間様でなくとも、ネズミでもゴキブリでも生物は皆、「only one」の存在であるのだから、数学的に「通分する」と、すべて解消されてしまい、意味のないことになってしまう。意味のあることは、むしろ「number one」であることは言うまでもない。であるからして、私が文学作品に求めるのは、その「新しさ(創作性)」よりも、むしろ「継続性(歴史性)」のほうである。つまり、「神話」や「伝説」や「物語」によってそれぞれの民族に長年にわたって語り継がれてきた“共有性”にこそ私の関心はあった。だから、子供の時から「小説」には興味が湧かなかったのだ。


▼小説嫌いのおかげで古典への興味が湧いた

  では、その三宅善信が何故、現代アメリカ小説の中でも、マニアックな分野に入るサリンジャーについて書くのかというと、それは、大学時代の「一般教養の英語」のクラスで読まされた記憶があるからである。因みに、その教授(後に、同志社大学の学長にまでなったが…)は、必須科目であった「一般教養の英語」というほとんどの学生が嫌々させられている科目のテキストとしてジェローム・サリンジャーやウイリアム・サローヤンなどといったカルトな作家の作品――確かサリンジャーの『Nine Stories』や、サローヤンの『The Whole Voyard』だったと記憶している――を選んでくれたのである。もちろん、1970年代という時代性もあったのかも知れないが、「一般教養としての英語」の学生に対しては、もっとポピュラーな作家の作品群をテキストにしてくれたら良かったと今でも思っている。英語嫌いの上に、私小説嫌いの私にとっては、最も興味の湧かない科目のひとつであったことを今、告白しておこう。私にとって興味のある文章とは、「お利口さん」であれば、はじめの二・三行を読めば、そのページに何が書いてあるか判るような論理的な文章であって、最後の一行まで読んでみなければ結論が判らない――何故なら、主人公がどのように思おうと、それは作者の閃き次第――ような非論理的な文章には「お利口さん」のアドバンテージが機能しないからである。

  しかし、そのことは、別の意味での副次効果をもたらせたかも知れない。それは、現代米国文学への反発として、古典語への学習意欲を掻き立ててくれたからである。大学の四年間に、必須であった英語とドイツ語の他に、古典ラテン語初級と中級、古典ギリシャ語初級と中級、さらにヒブル(ヘブライ)語と、語学だけで五つの外国語を新鮮な脳に学ぶ機会を得た。複数の言語を習得することによって、言語という人類文明にとってかけがえのないものの構造について知ることができ、なおかつ、西洋文明の古典についての造詣も深まった。なぜなら、ギリシャやローマの古典――文学だけではなく、哲学や歴史や科学も――と、キリスト教の根本テキストである聖書(旧約はヒブル語で、新約はギリシャ語で書かれている)が、「翻訳」テキストではなく、努力しさえすれば、「原典」に遡及して自分で読めるようになったからである。

  そのことは、元々、古代インドの言語であるサンスクリット語やパーリ語で書かれた仏典の漢訳に関しても、同様の問題意識が確立され、玄奘三蔵法師が『般若心経』等を漢訳する際に確立した『五種不翻説』への興味へとも繋がっていった。『五種不翻説』というのは、例えば般若心経中の「…般若波羅蜜多(はんにゃはらみった)…」や「…阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)…」といった、日本語において外来語を敢えて翻訳せず、そのままカタカナ表記するごとく、表音文字である梵語の発音をそのまま表意文字である漢字の音だけを借りて表記する場合の原則論のことである。そのことから逆に、世界のどこかの国で生まれたある宗教が、民族宗教から世界宗教へと発展していく際に、どうしても通過しなければならない「外国語への翻訳」というプロセスが、実は、その宗教の神学的営みそのものであることも知った。それらの意味でも、サリンジャーやサローヤンは、私の幼少の頃からの「小説嫌い」を日本語だけでなく外国語においても確固たるものにしてくれたし、同時に外国語による古典への興味も開いてくれるという貢献をした。


▼ドリフターズから韓国の国歌まで

  そう言えば、このサリンジャーの『The Catcher in the Rye』の題名の元になった18世紀後半のスコットランドの国民的詩人ロバート・バーンズが作詞した『Comin’ thro’ the Rye』というスコットランド民謡に思いっきりスコットランド方言を使って書かれた歌詞(現在では、ほとんど現代英語版で歌われる)の中の「…Gin (If) a body meet a body, Comin' thro' the Rye, Gin a body kiss a body, Need a body cry…♪」と言う部分の「meet a body」の部分を主人公の少年が「catch a body」と間違えて覚えていることから取られているというのは、サリンジャー通には有名な話である。「…(背の高い)ライ麦畑を通ってやってきた誰かと誰かが出会ったとしても、その誰かと誰かがキスしたとしても、泣く必要があるの…♪」といった感じの歌詞であるが、この歌にはスコットランド語(英語)だけでなく、日本語においても数多くの歌詞が付けられた。

  私と同じくらいの年齢(50代)の方なら、なんと言っても、ザ・ドリフターズがテレビ番組『8時だョ! 全員集合』の中で歌った「…誰かさんと誰かさんと麦畑、チュッチュチュッチュしているいいじゃないか…♪」の印象が強いはずである。ところが、この同じメロディーで、明治時代に『鉄道唱歌』の作詞で有名な大和田建樹によって作詞された『故郷の空』という曲がある。すなわち「…夕空晴れて秋風吹き。月影落ちて鈴虫鳴く。思へば遠し故郷の空。ああ、わが父母いかにおはす…♪」がある。おそらく、70代以上の方なら、こちらの歌詞であろう。このように、同じ歌のメロディーだけ拝借して全く別の歌詞が付けられると言うことは珍しいことではない。

  バーンズが作詞した曲の内で、世界中で――もちろん日本でも――最も有名な曲は、なんと言っても『Auld Lang Syne (Old Long Since)』である。この歌詞も日本語訳をすると、「…友よ古き良き時代のためにこの一杯を飲み干そうではないか…♪」といった感じの訳ができる歌詞であるが、日本ではこの歌は、卒業式や閉店間際にかかるお客様追い出しソングの定番として知られる『蛍の光』として知られる曲である。因みに、この曲は、お隣の韓国においては、1897年に大清帝国の冊封国のひとつであった朝鮮王国という立場を排し、朝鮮王国の第26代国王である「高宗」李煕が、大韓帝国初代皇帝である光武帝として即位し、1907年に長男の「純宗」に譲位したが、1910年の日韓併合により消滅するまで十三年間存在した「大韓帝国」の国歌『愛国歌(Aegukga)』のメロディーも、また、日本の敗戦後に樹立された大韓民国の国歌も、1948年までは、メロディはこのスコットランド民謡の『Auld Lang Syne』すなわち『蛍の光』だっというから驚きだ。そうだとしたら、紅白歌合戦の最後に、大物ロック歌手が『蛍の光』を指揮をしたくらいで驚いていてはいけないだろう。


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