日本万国博覧会40周年に思う   

 10年03月15日



レルネット主幹 三宅善信  


▼ 他の万博とは「格」が違う大阪万博

 今から40年前の今日(註:開会セレモニーは、天皇陛下ご臨席の下、3月14日に開催されたが、一般客が入場できたのは15日から)、アジアで初めての国際博覧会(註:1928年に締結された国際博覧会条約に基づいて開催される国際博覧会。日本はこの条約成立時からのチャーターメンバーである。1996年までは、第1種の「一般博(universal)」と、第2種の「特別博(specialized)」と「国際博(international)」に区別されていた。条約が改定された1996年以後は、総合的なテーマの「登録博」と、限定的なテーマの「認定博」に区分変更された)である「日本万国博覧会(EXPO ‘70)」が北摂の千里丘陵の竹林を切り開いた百万坪に及ぶ広大な会場で開幕した。その後、各地で博覧会が開催されたので、それらと区別するために、あるいは、1964年に開催された東京オリンピックと比較するために「大阪万博」と呼ばれることが多いが、公式には「日本万国博覧会(Japan World Expo)」である。

 ただし、本論においても、他の博覧会と比較して論じる場合が多いので、便宜上「大阪万博」という名称を用いることにする。因みに、日本で開催された万国博(註:「万国博」という訳語は、既に幕末期の1862 年の第2回ロンドン万博を視察、1867年の第2回パリ万博には、徳川幕府・薩摩藩・鍋島藩が出展していた日本人による訳語で、百年近く遅れて「万博」に参加した中国や韓国では「世界博」と訳されている)の内、第1種の「一般博」に該当するのは、1970年の大阪万博(日本万国博覧会)だけで、その他の万博、すなわち、1975年の沖縄海洋博、1985年の筑波科学博、1990年の大阪国際園芸博、2005年の愛知地球博は皆、第2種の「特別博」である。一般博と特別博の違いは、普遍的なテーマと限定的なテーマというだけではなく、一般博では各国が独自にパビリオンを建設しなければならないが、特別博では主催者が用意した建物を参加国が利用することになっている。

40年経った現在でも堂々と鎮座まします
近寄って仰ぎ見れば
ますます神々しい太 陽の塔

 つまり、1970年の大阪万博と、その他の万博では「格」が違うということである。入場者数も、どの万博も同じ会期(半年間)で約1,500〜2,000万人だったのに対し、大阪万博のそれは、6,400万人と群を抜いている。当時の日本人の過半数が大阪万博を見に行った計算になる。ただし、2005年に愛知県で開催された「愛・地球博」の名誉のために付け加えておくが、「愛・地球博」の開催が国際博覧会協会(BIE)で承認された時点(1995年)では、旧条約下の「特別博」と「一般博」の両方の資格を有していた極めて稀なケースで、これは新条約下では、普遍的なテーマの「登録博」扱いになるため、限りなく第1種に近い第2種ということになる。因みに、今年5月1日から上海で開催される上海万博(註:中国での公式名称は「中国2010上海世界博覧会」)は、新条約下、最初の「登録博」になっている。


▼ 欧州列強に強烈な印象を与えたプリンス・トクガワ

 最初に言っておくが、私はかなりの万博マニアである。小学校6年生の時(正確には、3月14日の開会式に行った時点ではまだ小学5年生だった。この時、私は初めて昭和天皇を生で拝した)に開催された1970年の大阪万博――「地元の利」を最大限に活用して何度も見に行った――に始まって、高校2年生の時、(当時まだ返還から歳月が浅くアメリカ式に車は右側通行だった)沖縄まで一人で行った1975年の沖縄海洋博、ハーバード大学世界宗教研究所での学究生活を終え、帰途、自宅へ帰る前に成田空港から直行した1985年のつくば科学博、そして、地元大阪で再び開催された1990年の大阪花博(国際花と緑の博覧会)は、長男が生まれた翌日に大阪には珍しい大雪の中、建設中の会場に足を運んだのを皮切りに年間入場パスまで購入して何度会場に愛を運んだことか…。2005年の愛知万博(愛・地球博)にいたっては、『こころの再生・いのり館』というパビリオンまで宗教界に呼びかけて企画し、自らその運営に関わったぐらいだ。しかし、私にとって、見学したどの万博よりも遥かに私自身に衝撃を与えたのは、なんと言っても1970年の大阪万博であった。

 1851年の第1回ロンドン万博以来、160年の歴史を有する国際博覧会であるが、日本が最初に出展したのは、先ほども述べたとおり、幕末の1867年に開催され、徳川幕府と薩摩藩と鍋島藩がそれぞれ出展した第2回パリ万博であった。そこから派生した「ジャポニスム」は欧州の芸術に大きな影響を与えた。近代日本の夜明けは、万国博と共にやってきたのだ。因みに、この時の日本政府(徳川幕府)の使節団代表は、将軍徳川慶喜の異母弟で弱冠14歳の徳川昭武(当時は御三卿の一人清水徳川家当主、帰国後、水戸徳川家最後の藩主となる)であった。この時、徳川昭武は、時のフランス皇帝ナポレオン3世や英国のビクトリア女王をはじめ、イタリア、オランダ、ベルギー等欧州列強各国の王侯と公式に謁見したが、育ちの良い昭武の堂々とした立ち居振る舞いは「プリンス・トクガワ」として、欧州各国の指導者に「極東の途上国」日本を「侮りがたい国」と思わせるに十分であった。万城目学氏が『プリンセス・トヨトミ』を発表する150年も前にすでに「プリンス・トクガワ」が存在したのである。


▼ 万国博の歴史は、人類の近代史と重なる

 1879年の第3回パリ万博では、現代でもわれわれの生活に欠かせない蓄音機・自動車・冷蔵庫等が登場し、フランス革命100周年を記念して開催された1889年の第4回パリ万博では、エッフェル塔が建設され、今でも、パリ見物には欠かせない名所になっている。また、1893年にコロンブスのアメリカ大陸発見400周年を記念して開催されたシカゴ万博では、人類史上初の万国宗教会議も万博の一環として開催された。このように、人類の「近代史」と万国博とは切っても切り離せない関係にある。

 1970年の大阪万博の時に初めて登場し、その後、われわれの生活で広く普及したものは相当ある。「動く歩道」、「エアドーム(「月の石」を展示したアメリカ館や富士グループパビリオン等)」、「テレビ電話(なんと会場で大量に発生した迷子の照会用に使われた)」、「ワイヤレスフォン(携帯電話)」、「電気自動車」、「ロボット」といった“21世紀”を予感させるグッズに目を奪われたものであった。それに、「民間のガードマンによる雑踏整理」もこの時から始まった。それ以前は、安保闘争をはじめ、何千にもの民衆の雑踏整理は機動隊(警察)の仕事であった。サンヨー館には「人間洗濯機」といった代物もあった。若いビキニ姿のお姉さんがニコニコしながら、透明なアクリル製の「人間洗濯機」に入っているので、ちょうど色気づく年頃に達した私は「三洋電機よくやった」と思ったものだった。と同時に、「ところで、あのお姉さん、頭髪はいったいどのようにして洗うのだろう?」と皆が思ったものだった。この「人間洗濯機」は、21世紀の現在では、形を変えて老人介護施設の入浴補助装置として実用化されているが、透明なアクリル製でないことは言うまでもない。

 「色気づく」といえば、欧米各国パビリオンのコンパニオン(註:当時は「ホステス」と呼ばれていた!)のお姉さんたちのユニフォームの大半が、当時、世界的に大流行していたミニスカートで、すらりと伸びた美脚――今では、日本人女性の脚も長くなったが、1970年当時に二十代の日本人は終戦前後の食糧難の時代に生まれていたため、お世辞にもスタイルがよいとは言えなかった――に、大いに目を奪われたものであった。因みに、当時、モスクワ大学生でソ連邦館のコンパニオンをしていた女性(ロシア人)とは、今でも交流がある。ソ連邦館の展示物で気になったのは、ソユーズ宇宙船より、サイバネティクス技術を応用した人造人間であった。全体主義国家ならサイボーグくらい創りかねないご時世だったので、不気味な気分がした。

 日本の企業パビリオンで最も「色気」があったのは、「自動車館(註:今なら、自動車産業は日本の主力産業なので、トヨタ・日産・ホンダ等、企業毎に出展しているであろうが、当時は三菱・日立・松下・三洋等の家電メーカーが企業毎に出展していた)」で、四面スクリーンで上映されていた『1日240時間』という映画であろう。ある科学者が発明した神経反応速度を10倍にするという薬「アクセルチン」にまつわるドタバタをミュージカル仕立てにした映画であるが、なんと、脚本が安部公房、演出が勅使河原宏という「太陽の塔」の岡本太郎にも引けを取らないアバンギャルドなコンビである。よく企業も彼らに発注したと思うし、彼らも資本主義の手先を引き受けたものだ。逆を言えば、ここに万国博の魔力がある。


▼ 日本人の日常生活を変えた万博

 万博はまた、単なる最先端技術の展示場としての機能だけでなく、人々の生活そのものをも変え、ひいては、日本人の考え方にも変化を及ぼした。先に述べた電化製品のように、「21世紀を予感させる新技術」でなくとも、あるいは、欧米ではすでに「普通の生活の一部」になっていたようなものでも当時の日本ではもの珍しかった。考えてみれば、敗戦後の焼け跡のゼロからの出発からまだわずか25年しか経過していないのだから…。食文化では、ピザ、ハンバーガー、フライドチキン、缶コーヒー、ヨーグルト等その後の日本人の食生活の定番になったものも1970年の大阪万博が実質的に本邦初お目見えである。はじめてこれらのものを食べたときにカルチャーショックは、未だに舌の記憶に残っている。

 また、万博に展示するため南洋の島から大阪へ連れてきた怪獣が大暴れするウルトラマンの『怪獣殿下(ゴモラ)』や、映画『ガメラ対大魔獣ジャイガー』を視て、「もうすぐ始まる『万博』ってどのようなものなのだろう?」と想像を膨らませてものであった。それから40年を経た現在でも、映画『二〇世紀少年』シリーズのように、大阪万博が大きなモチーフとなっている作品すらあるくらいだ。その後、日本で開催された1975年の沖縄海洋博、1985年の筑波科学博、1990年の大阪花博、2005年の愛知地球博のどれひとつ取ってみても、それらをモチーフにした映画や小説が作られたか? 三波春夫らが「こんにちは〜、こんにちは〜♪」と歌った『世界の国からこんにちは』に匹敵する国民的万博ソングがあったか? 太陽の塔に匹敵するインパクトのあるメモリアル(遺構)は残されているか? 答えは、すべて「ノー」である。つまりは、日本における万国博は、1970年の大阪万博の段階で、すべては出尽くしたのである。すなわち「空前絶後の万博」だったのである。

背面にある顔「過去の太陽」と三宅善信
「太陽の塔」とほぼ同じ造形の三宅善信

 よく、戦後日本の「二大国家的イベント」として、1964年の東京オリンピックと1970年の大阪万博を挙げる人がいるが、私から言わしてもらえば、このふたつのイベントを比較することすらナンセンスである。東京オリンピックは、世界に日本の復興を印象づけ、大阪万博は日本人に世界の中の日本を印象づけた。このように、同じ世界的イベントとは言っても、わずか二週間しかその開催期間がなく、その上、世界の超一流アスリートたちは一般市民たちとは隔離された特定の場所(選手村や競技施設内)に居て、日本人とは容易に交流できなかったテレビ見物型の東京オリンピックと、6カ月間もの長期にわたって、敗戦国日本の一般市民に対して戦勝国(大阪万博に参加した主な国は戦勝国)のコンパニオンたちが笑顔でサービスしてくれた一般市民参加型の大阪万博とでは、それを「体験」した日本人の数も質も大いに違っていて当然であろう。

 かくして、「こんにちは〜、こんにちは〜♪」と、世界の国からではなく、連日、日本国中から津波のように押し寄せた「大衆」?-6カ月間に日本の総人口の半分以上で、万博史上最高の6,400万人が来場! この記録は、40年経った現在でも、まったくもって更新されていない160年間に及ぶ万国博史上最高記録である――によって、「万博」という「非日常」世界が共通体験化されていったのである。大阪万博以前と以後とでは、日本の社会はすっかり変容した。安保闘争をはじめとする政治への国民の能動的な意思表示は消滅し、しかも、皮肉なことに、その3年後(1973年)のオイルショック(石油危機)によって、無制限な「人類の進歩」があり得ないことも知ってしまった。さらに、万国博でお目見えして、その後、一般市民の間に普及した高度電気通信技術の成果によって、わざわざ混雑する万博会場まで足を運ばなくとも、それらが紡ぎ出す“未来”を仮想体験できるようになってしまったということである。その意味で、多感な少年時代に、日本万国博覧会をリアルに体験できた幸運を改めて噛みしめたい。


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