レルネット主幹 三宅善信
▼ 日本で何故、口蹄疫が流行るのか?
宮崎県が口蹄疫禍に見舞われている。鳩山政権の初動の悪さがここまで被害を拡大させたという点については、余人も指摘しているので、あらためて述べるまでもない。私は、今から9年前(2001年4月23日)にも本サイトで『口蹄疫騒動と東西の歴史文化』と題して、口蹄疫という家畜の伝染病について論じたことがある。口蹄疫の原因や対処法について知りたい人は、まずそちらからお読みいただきたい。もちろん、家畜の伝染病についてはまったくの素人の私ですら、あれだけのことが書けるのであるから、農林水産省の官僚はもとより、国会議員や地方の首長たち政治家も、最低限あのレベルには達しているものとして、話を進める。もし、政治家や官僚でそれだけの知識がないのであれば、即刻、その立場を去るべきである。さもないと、国民が迷惑する。
そもそも、何故、今回の口蹄疫禍がこれほど悪化したのか?「地元宮崎県と鳩山内閣の初動が遅れたから」という点もあるが、それよりももっと根本的な原因は、日本における食肉用「高級和牛」の生産システムにある。超高価な霜降り肉を生産するため、「優秀な(この場合、霜降り肉に特化した)遺伝子」を有するごく少数の牡牛のみを「スーパー種牛」として独占的に種付け(交尾・人工授精)させ続けた結果、日本中の黒毛和牛の遺伝子の型が非常に似通ってきたからである。野原の放牧地で牛が勝手に交尾していた時代(海外では現在でもこちらのほうが一般的)は、牛の一頭一頭皆、遺伝子の型がまるっきり異なってきた。しかし、現在の日本のように、黒毛和牛の遺伝子が平準化してくると、その牛がいったん感染症に冒されたら、その原因たる病原菌やウイルスは、次から次へと加速度的にその被害を拡大させていく。何故なら、それらの牛たちは皆、ほとんど同じ遺伝子の型を持っているので、病原菌やウイルスの側も、なんら遺伝子を変異させることなく、次々と感染して行くことができるからである。あたかも、今日5月22日は、国連が定めた「国際生物多様性の日」である。「多様性」こそが豊かな生物圏の持続性を担保しているのである。本年10月に名古屋で開催されるCOP10(生物多様性条約第10回締約国会議)に、私は出席する予定である。
▼ 政策に優先順位をつけることが政治である
本年1月29日、鳩山由紀夫総理の初めての施政方針演説で鳩山氏は、こう切り出した。「いのちを守りたい。いのちを守りたいと願うのです。生まれてくるいのち、そして、育ちゆくいのちを守りたい…」と、首相の施政方針演説としては極めて異例な形で、鳩山氏は切り出した。鳩山氏が総理大臣を務める「日本国の国民」だけでなく、世界(全人類)のいのちであり、さらに、地球(全生物)のいのちまで守りたいと曰わったのである。もうこうなると、政治家の演説というよりは、ほとんど「山川草木国土悉皆成仏」の天台本覚思想の領域である。さもなければ、ウルトラマンである。その意味で、鳩山氏のあだ名が「宇宙人」というのも頷ける。
「政治家」鳩山由紀夫と「宗教家」三宅善信 |
しかし、鳩山由紀夫氏は、宗教家ではなく政治家である。しかも、一億二千万人の日本人がいのちを預ける日本国の総理大臣なのである。「すべてを助ける」あるいは「すべてを裁く」というのは、宗教家の台詞(神学上の概念)であって、政治とは、「政策にプライオリティ(優先順位)をつける」こと。すなわち、「誰を助けて、誰を切り捨てるか」を冷徹に決することである。選挙もまた然り。勝者と敗者を分けるのが政治である。民主党が現在、与党の地位にあるのは、昨年夏の総選挙に勝ったから…。自民党が政権の座を追われたのは、昨年夏の総選挙に敗れたから…。それだけのことである。つまり、自分たちに投票してくれた人々(団体)に厚く、そうでなかった人々(団体)に冷たくするのが政治である。典型が、昨秋と今春の「事業仕分け」である。長年、自民党政権下で温存されてきた特殊法人や財団法人を無慈悲に切り捨てることによって、「支配者が代わった」ということを国民に印象づけるためである。他にも、何十年も工事してきた八ツ場(やんば)ダムの建設中止を住民との相談なしで決定したり、「千円高速」という選挙目的の麻生前政権の社会実験を維持するということによって、本四連絡橋の通行料が数千円もしたからこそ共存することができた本四連絡フェリー各会に引導を渡すということを意味する。
今回の口蹄疫禍でも、日本全体の畜産を守るために、「宮崎県の畜産農家に犠牲になってくれ」と政府は言っているのである。東国原英夫知事が「せめて種牛49頭だけでも、助命を…」と嘆願しても、農水省はにべもなく「全頭処分に例外は許さない!」と死刑宣告を下すのである。これが「政治の本質」である。どちらが為政者が取るべき態度と見るかは、その人の政治性の問題である。こんなことは、三百年前の『忠臣蔵』の世界観である。吉良邸に討ち入って、無事、主君の仇を取った大石内蔵助以下47人の赤穂浪士を預かった四大名家や湯島聖堂の儒者林大学頭信篤らが、公儀に「助命嘆願」するようなものである。
▼ いのちを守るのは、願いではなく力である
そもそも、本気で誰かのいのちを守ろうとすれば、その人には「自己犠牲」を厭わぬ“強い意志”と、そのいのちを害しようとする行為を撃破するだけの“強い力”が要る。この“強い力”は、実際にそれを行使しなくても、相手がその人(国家や団体)と戦うことを躊躇させるだけの“圧倒的な力”を保有していれば、それが“抑止力”となって機能する。ただ単に、「切に願う」だけでは、なんの有効性もない。日本とドイツが敗れて以来、この数十年間、世界中で傍若無人に振る舞ってきたアメリカに面と向かって戦争を仕掛ける国が無かったのは、何もアメリカが「正しい」からでもなければ、アメリカが「切に平和を願った」からでもない。単に、アメリカ合衆国の軍事力が圧倒的に強大だったからだけである。冷戦期、イデオロギーにおいてあれだけ鋭くアメリカと対立したソ連が、何千発もの大陸間弾道ミサイル(ICBM)を有しながらも、ただの一発のミサイルもアメリカに向けて発射しなかったのは、アメリカのほうが「強い」とロシア人が思っていたからである。
その点、テロリストは論理が異なる。具体的な領土と国民と財産を持った主権国家同士の戦争は、もし、戦争に敗れたら、領土や財産を奪われるリスクを負っている――したがって、これがリスク・ブレーキになり、国家の軍事行動が抑制される――が、アルカイダのごときゲリラ集団は、はじめから失う領土も国民も財産もないので、誰にだって喧嘩をふっかけることができる。これを「非対称戦争(asymmetric
war)」と呼ぶ。アメリカは、フセイン政権下のイラク共和国軍の正規軍を1週間で壊滅させることができたが、各地に点在するテロリストやゲリラ部隊の掃討は7年かかっても道半ばであることからも明白である。その意味で、アルカイダはアメリカにとっての脅威である。
▼「安保ただ乗り論」は間違えている
沖縄に駐留する米軍が、その抑止力の対象としている「仮想敵国」は、何も日本近傍の北朝鮮や中国だけではない。もちろん、沖縄に米軍基地が置かれた当初は、その仮想敵国は、共産主義陣営の二大巨頭のソ連と中国であった。その後、ソ連が解体したのを喜んだのも束の間、中国の経済力が急激に拡大し、また、取るに足らない最貧国北朝鮮が核兵器やその運搬手段(中距離ミサイル)を保有するに至って、中国と北朝鮮が「仮想敵国」になったが、その間の軍事技術の飛躍的発展は、在日米軍の短期日における世界各地への展開を可能にし、沖縄を中心とする在日米軍の「守備範囲」は、今や「東は太平洋の真ん中ハワイから、西はインド洋の西端の南アフリカ喜望峰まで」と、全地球の半分に及ぶ。特に「不安定の弧」と呼ばれるマラッカ海峡から東アフリカまでが、その「守備範囲」の最たるものである。この辺りの経緯は、私の大学(同志社大学神学部)の先輩の国際政治・軍事アナリスト小川和久氏の講演『平和を実現する祈り』に詳しいので、ご一読いただきたい。
すなわち、在日米軍の実動範囲は、@日本本土への直接攻撃、A日本の周辺事態(朝鮮半島有事、台湾海峡有事)、B日本のシーレーン防衛(マラッカ海峡から日本まで)、C「不安定の弧」の4段階である。この内、@からBまでは、直接日本の安全保障に関わるが、Cはむしろ、アメリカの世界戦略の一端を担っていると言えよう。事実、古くはベトナム戦争、最近ではイラク戦争等のアメリカの戦争で、沖縄に本拠を置く部隊が多数戦地へ赴いている。私は、日本の「安保ただ乗り論」には与しない。日本は大変な「対価」を支払っている。したがって、訳の解らない「思いやり予算」もナンセンスだと思っている。日本は米軍に基地を無償で提供している(註:米軍に基地を提供しているほとんどの国は、「基地使用料」をアメリカから取っている)だけでもたいした貢献だし、何より、日本の高度な技術力なしには、米軍の最新鋭の兵器をいつでも使えるようにしておくだけのメンテナンスが不可能なことは明白であり、たとえ日本が「思いやり予算」を解消したとしても、アメリカ側から「日米安全保障条約の破棄」を提案してくることは、現状ではあり得ない。沖縄とそれほど変わらない東アジアにおける地政学的な位置を有しながら、かつてフィリピンにあったスービック海軍基地やクラーク空軍基地が、あっさりとフィリピンへ返還されたのは、何もピナツボ火山が噴火したからではない。フィリピンの工業技術力では、とても米軍の最新鋭兵器のメンテナンスができなかったからである。
▼ 統治能力のない鳩山政権
米軍海兵隊の普天間基地の移設問題でも、鳩山政権の迷走ぶりはどうであろう。米軍自体が「世界で最も危険な飛行場」と認める普天間基地代替地への移設については、既に1996年の橋本政権当時に「沖縄本島東海岸部」への移設で「日米合意」がなされている。1997年には、名護市辺野古地区のキャンプ・シュワブ周辺(一部地上・一部海上埋め立て)で決定し、1998年には、建設反対派の太田昌秀知事に代わって、「建設後15年間は軍民共用の空港として運用した後、返還・民間専用空港化」(要するに、タダで政府に空港を造らせる)を条件として建設を容認する公約を掲げた稲嶺惠一が沖縄県知事に当選した。長年かかって関係者間で積み上げてきた「合意」を、「できれば国外移転、少なくとも県外移設」という“公約”を主張した鳩山政権が、2009年秋に成立したのであるが、アメリカ・地元・連立(社民党)の三者を同時に納得させられるだけの“代替案”なんぞ、そう簡単に決めることができないことが判っているのに、何を根拠にするのか鳩山総理は「5月末までに決着」と繰り返してきた。
岡田克也外務大臣の「嘉手納統合案」などという世迷い言(註:基本的に有翼機(飛行機)を運用する空軍の嘉手納基地と、回転翼機(ヘリ)を運用する海兵隊の普天間基地を一体化することなど、技術的に困難を伴うことは素人でも判る。日本の外務大臣がこの程度の軍事上の常識も持ち合わせていないこと自体が各国政府を驚かせたであろう)は問題外としても、通常、このような「交渉」を行う場合、はじめから「隠し球」としての代替地――例えば、ホワイトビーチ案や徳之島案――と秘密裏に交渉を進めておき、その関係者間の完全合意を形成してから、アメリカ政府と代替地問題について交渉し、一気に成案を得て忽然と発表すべきである。いわんや「交渉プロセス」を見せることなんて外交音痴も甚だしい。そんなところを見せたら、有象無象がちゃちゃ入れてくるのは目に見えている。その結果が、今回の迷走劇である。はじめから、「無理なことは無理」というよりも、いったん沖縄県民を「その気に」させておきながら、結果的には「一周回って元の位置」では、かえって落胆も多いであろうから、罪作りな政権である。実質、これで鳩山政権の命脈も尽きた。
今回の迷走劇は、アメリカだけでなく、中国や北朝鮮にも「鳩山政権には統治能力がない」と思わせた――このこと自体、日本の安全保障上の「抑止力」を大いに加工させた――の結果の「辺野古周辺」案は、「いのちを守りたい」と切に願った鳩山総理の心情とは全く逆に、結果として、沖縄県民を落胆させ、豊かな自然が残された辺野古沖のサンゴやジュゴンのいのちまで奪うことになった。もし、この先も鳩山政権がこのまま続いたら、家畜の伝染病である口蹄疫ですらこれほど手こずったのであるから、本当の新型インフルエンザ(註:昨春、流行した「新型インフルエンザ」は、H1N1亜型だったので、90年前に世界的パンデミックを引き起こした「スペイン風」の改訂版に過ぎない)ではなくて、本当に怖いのはH5N1亜型である。この辺りの理由については、昨年5月に上梓した拙著『新型インフルエンザ出現と魚種交代』をご一読いただきたい。もし、鳩山政権下でこの新型インフルエンザのパンデミック(爆発的大流行)が起こったら、日本だけでも100万人の人がいのちを失うであろう。さらに、普天間基地移設どころか、もし、北朝鮮がミサイルを撃ってきても、ほとんど何もできないであろう。このように、国民のいのちも財産も守れない鳩山政権が残した「負の遺産」が山積みされて、「世界遺産」にならないことを願う。