漢検協会→相撲協会→全日本仏教会   

 10年07月25日



レルネット主幹 三宅善信  


▼「暴力団関係者お断り」は憲法14条違反…

  本日無事、「大荒れ」の大相撲名古屋場所(七月場所)が千秋楽を迎えた。もちろん、なんで「大荒れ」かは、あらためて述べるまでもない。相撲協会を揺るがす大事件に発展した「野球賭博」問題で、この問題への「関与が大きかった」とされる大関琴光喜と大嶽親方(元関脇貴闘力)の二人が「解雇」(現役の大関が「解雇」されるのは、初めて)されたのをはじめ、大量の関取が「出場取り消し」処分を受け、半世紀以上にわたって「大相撲中継」を行ってきたNHKが中継を中止する等の“事件”があったからである。

  また、財団法人日本相撲協会の頂点に君臨してきた武蔵川理事長(元横綱三重ノ海)自らが「謹慎」処分を受け、これも「異例中の異例」であるが、力士経験のない元東京高等検察庁検事長の村山弘義氏が理事長代行を務め、初日と千秋楽には、三役力士を従えて紋付き袴姿で土俵に上がり「理事長挨拶」まで行った。その上、「相撲好き」で知られた昭和天皇がまだ摂政宮殿下であられた大正15年1月場所以来連綿と――昭和天皇が崩御された直後の平成元年1月場所においてさえ――幕の内最高優勝力士に授与され続けてきた「天皇賜杯」すら、その授与が相撲協会によって一方的に「自粛」され、栄えある伝統が途切れてしまった。唯一の救いと言えば、横綱白鵬が史上初の三場所連続15戦全勝優勝を飾って、その連勝記録を47と伸ばしたことである。おかげで、場所の前半は空席の目立った愛知県体育館も後半には「満員御礼」の垂れ幕も下がるようになり、大いに盛り上がった。

  そもそも、ことの発端となった名古屋場所での暴力団関係者の「テレビ画面写り込み」問題でも、彼らが正当に席料を支払ってその席へ座っている以上、誰も文句を言えない。大阪場所ではよく、お笑い芸人がこのテレビに写り込む場所に座っているし、九州場所では博多技芸の綺麗どころがズラーッと向正面の席に座っていることを目にした視聴者も多いであろう。テレビに写りたくない人は正面側に、写りたい人は向正面側に席を取るのが常識である。なにせ、天下のNHKがたっぷり2時間生中継してくれるのである。その宣伝効果は絶大であると言える。私なんか写りたくないから正面側に居ることが多いけれど、「取り直し」などの微妙な判定の場合、「角度を変えて、向正面側からの映像でも視てみましょう」などと言って、反対側からの映像に「お忍び」の相撲見物がバッチリ写り込んでしまったことがある。

  この民主主義国の日本では、たとえそれが反社会的団体の構成員であったとしても、特定の職業や信条を持つ人をその人の職業や信条ゆえに差別してはいけないことは、日本国憲法の第14条の1項に「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」とあるとおりであって、今回、愛知県体育館のあちこちに貼り出された「暴力団関係者入場お断り」の看板は明らかに憲法違反であると、何故、日頃は喧(かまびす)しい“人権派”のメディア関係者がこのことを問題視しないのか理解しがたい。もし、この看板の文言が「○○総連関係者入場お断り」なんて書いていたりしたら、それこそ大問題になるであろう。ともかく、東海地区の暴力団関係者が相撲の維持員席(註:俗に「砂被り」と呼ばれる土俵際最前列の特等席)に連日座ってNHKの実況中継に写り込み、それを各地の刑務所に収監されている暴力団関係者が視るという話だが、同様のことは野球場でもサッカー場でも起こりうる。それが嫌なら、刑務所の受刑者にテレビを見せなければ良いだけである。収監されている暴力団関係者に見させないために、1億2千万の日本人――最近では、モンゴルやブラジルをはじめ、海外でも大相撲中継されているからもっと多い――が、いわば「人質」にされるのはおかしな話である。


▼ 賭博が罪になるのは、胴元たる官公庁の独占が侵されるから…

  ともかく、当初の「暴力団関係者映像写り込み事件」に端を発した問題は、大相撲関係者による「野球賭博事件」へと展開していった。しかし、賭博行為の客の罪は極めて軽い。誰だって、長い人生のどこかで、いろんなことを「懸けた」経験があるだろう。重い罪に問われるのは、賭場を開帳した胴元のほうである。何故、「胴元」の罪が重いかというと、競馬は農水省、競艇は国交省、競輪は経産省、宝くじは総務省…。というように、それぞれ、中央官庁が「胴元」になって国民から金を巻き上げているので、「私設の賭場」ができれば、役所の取り分が侵害されるから、賭場の開帳を重い罪に定めているのである。

  私は、個別の力士や親方の誰が「野球賭博」に関わったかどうかというようなディテールには興味がない。むしろ、「野球賭博で良かった」と思っているくらいだ。何故なら、彼らは「単なる客」に過ぎないからだ。これがもし「相撲賭博」だったら、問題は全く異質なものになる。いわゆる「八百長」になるからである。力士は相撲賭博に関わってはいけない。野球関係者は野球賭博に関わってはいけない。「公営ギャンブル」として、賭博行為そのものが認められている競馬ですら、JRA(中央競馬会)関係者が馬券を購入することはご法度である。いわゆる「李下に冠を正さず」というやつである。ならば、今回の相撲関係者が「サッカーくじ(TOTO)」を購入していたらどうなっていたのであろう。何せ、TOTOの胴元は、財団法人日本相撲協会の所轄庁である他ならぬ文科省そのものだからである。


▼ 最も得した人間(団体)が真犯人

  私は今回の日本相撲協会の騒動を見て、マスコミとは全く別の疑念を持っている。この疑念は、昨年、全く別の件で思っていた疑念を明確に確信づけることにもなった。よく事件が起こったときに、その遺留品から犯人を捜査する方法と、「その事件によって誰が一番得をしたか」という点から、犯人を捜す方法とがある。「三億円事件」をはじめ、遺留品の多すぎる事件はかえって「迷宮入り」になることがある。多すぎる遺留品は、それだけ捜査陣が分散されることになり、「賢い犯人」ならば、捜査を攪乱するためにわざと遺留品をたくさん残すという作戦も取りうる。しかも、相手を殺(あや)めたり、相手から金品を奪わなくてもよい場合――たとえば、相手をスキャンダルに陥れる――なら、より物的証拠などは残らないであろう。このような場合、「証拠(遺留品)から犯人を捜す」という方法は、有効な方法とは言えない。おそらく、「その事件によって誰が一番得をしたか」という点から、犯人を捜したほうが真犯人に到達する可能性が高い。

  この観点から、今回の大相撲関係者の野球賭博事件を見ていくと、財団法人日本相撲協会は、「謹慎処分」をくらった武蔵川理事長をはじめとする理事、解雇された大関琴光喜をはじめ「出場を自粛」させられた関取衆、解雇された大嶽親方をはじめ降格や謹慎させられた親方衆など、「全敗」である。また、長年続けてきた大相撲中継のできなかったNHKも被害者であろう。当然、大相撲中継画面を利用して自分たちのプレゼンスを示してきた暴力団関係者も「損」をさせられた。ならば、「一番得をした人物(団体)は誰か?」ということになるが、これはもう明白である。文部科学省そのものである。「死に体」になった武蔵川理事長の代行を相撲協会内(=現理事陣=親方=元力士)から「理事長代行」を選ぼうとした際に、川端達夫文科大臣が人事にあからさまに介入してきた。そして、次々に「特別調査委員会」や「ガバナンス(統治)の整備に関する独立委員会」などといった物々しい名称の委員会を立ち上げ、それぞれ文科省の息の掛かった弁護士や学識経験者をその委員として送り込んで、相撲協会から自主決定権を取り上げようとしている。

  おそらく、まともに学校を出ていない(たとえ「大卒」でも、学生時代にまじめに勉強していた力士など居ないし、多くの力士は今では珍しい「中卒」である)力士出身者ばかりで構成されている財団法人日本相撲協会の理事会・評議員会の連中を、難解な法律用語を駆使して言い負かすなんて、赤子の手をひねるようなものだ。ここで注意しなければならないことは、相撲取りの鷹揚なことは、日頃は「プラスの価値観」であると国民からは見られていることである。誰も、眼鏡をかけた関取が取り組み後にコンピュータを駆使して、本日の取り組みの結果をデータ解析している様子なんかイメージしたくないであろう。取り組み後の勝利者インタビューでも、理路整然と「立て板に水」でアナウンサーの質問に答える力士よりも、少々意味不明でも、息をハアハア切らせながら、ひとこと「頑張ります」とか「ごっちゃんです」とかいう力士のほうが「相撲取りらしい」と思っているであろう。

  ともかく、一般国民の相撲取りに対するイメージは「気は優しくて力持ち」の無垢なイメージである。だから、力道山やジャイアント馬場全盛時代のプロレスのような悪役外人レスラーの役回り(いわゆる「ヒール」)を横綱朝青龍が一人背負っていたのである。しかし、その朝青龍も今や居なくなってしまい「お相撲さん」は皆、躰は大きくても、童顔で色白でぽっちゃりしていて「気は優しくて力持ち」のイメージに回帰してしまった。その典型的なイメージが琴光喜関であった。だから、まず、国民に、「相撲取りも腹の中ではどんな悪事を考えているか判らない奴」というイメージを植え付けることが必要であった。そこで、スケープゴートに選ばれたのが、野球賭博の常連客であったとはいえ、恐喝事件の「被害者」であった琴光喜関がスケープゴートされてしまったのである。国民一般を「相撲界の大掃除をしなければいけない」という世論に導くための周到な用意が数年前からなされていた。「八百長疑惑」や「覚醒剤使用事件」や「しごきによる死亡事件」等である。そして、満を持して今回の野球賭博事件へと展開して行ったのである。


▼ 漢検協会→相撲協会→全日本仏教会

  それでは何故、このような「事件」が起こったのかというと、答えは簡単である。日本相撲協会という財団法人には、「資産」がタップリあったにもかかわらず、それらを管理する(=分け前を分配する)理事会のメンバーには、親方=元力士以外の人間がなることができず、所轄庁である文科省の役人の天下りを受け入れなかったからである。だから、今回のような難癖を付けて、一挙に乗っ取りにかかったのである。今回の一連の騒動で、最も得をしたのは、天下りポストを確保した文科省であるのは火を見るよりも明らかである。勘の良い読者ならば、もうお気づきであろう。今回の「日本相撲協会の事件」は、昨年の「日本漢字能力検定協会(漢検協会)の事件」とまるっきり構造が同じなのである。もちろん、そのパブリック性という意味では、子供騙しの漢検協会よりも、NHKが中継全国放送までする相撲協会のほうが遥かに大きいということは言うまでもない。

  私は、昨年(2009年)2月13日に『天下りを拒否して苛められた漢検協会』という作品を、そして、3月17日には『公益とは何か?』という作品を続けて上梓した。それらの作品では、いかに文科省が自分たちの権益拡大を狙っているか、また、日頃は「天下り反対!」を声高に叫びながら、まんまと文科省の役人に乗せられて、漢検協会叩きを行っているマスコミの短慮も、丁寧に検証してきたので、今回は、そのプロセスを省略する。しかし、今回の「日本相撲協会の事件」への文科省の対応を見て、ハッキリと確信した。

  しかも、文科省の最終ターゲットは、相撲協会どころではなかったのである。彼らは、まず、岡田克也外務大臣の実家である「イオン」というスーパーマーケットを使って、世論操作を始めた。それは何かというと、財団法人全日本仏教会に対して、葬儀の際の僧侶への布施を巡る「料金の定額制化」という問題提起である。宗教家への「布施」が「懇志(自由意思による献金)」であることはいうまでもない。たとえ、そこに信仰心なんてまったくなかったとしても、葬儀時の布施が定額であろうはずがない。導師が本山の大僧正か、末寺のペーぺーの小坊主かでは「格式」が違って当然である。一着十何万円もするビンテージもののジーンズもあれば、数百円で買えるジーンズもある。厚生労働省が定めた都道府県別最低賃金ですら、東京都と沖縄県とでは2割以上の差がある。つまり、全く同じことをしても、場所によってかかる経費も異なるのである。そんな単純なこと、全国でスーパーを展開しているイオングループが知らないはずはない。


▼ 僧侶を「生活者」として捉えてみれば…

  ならば、答えはひとつである。まず、「葬儀時に僧侶は不当に儲けすぎている」という印象を一般国民に与えておいて、何か不祥事があった時に、一挙に財団法人全日本仏教会を乗っ取る算段である。そのための世論操作なのである。宗教家は、何時葬儀が入るかどうか判らないので、常に即応体制を敷いておかなければならないのである。つまり、予め日程を決めて、長期間遊びに行ったりするのは難しいのである。しかも、一般の人にとって「高額」と思われている葬儀料金の大半は、葬儀社への支払いであって、宗教家への「布施」はそれほど高額とは思えない。考えてもみて欲しい。私が十年以上前に発表した「宗派・教団別一人の宗教家を何人の檀家・信者が食べさせているか?」という問題提起を読んでいただければ判るように、宗教家(僧侶)といえども妻子を養っているので、それなりの年収が必要である。

  今、檀家が100軒ある寺があったとして、それぞれの檀家に20年に1回不幸(誰かが亡くなる)が起こったとしたら、そのお寺で年間に行われる葬儀の数は5回平均ということになる。もし、僧侶が妻子を養おうとすれば、年間800万円の収入は必要であろう。もちろん、袈裟衣といった衣装の購入代金やそのクリーニング代はかなり必要である。そんな中で、それぞれの檀家が年に3万円ずつ月命日や法事の際のお布施をしたとしたら、寺院の基礎的年収は300万円ということになる。そこで、残りの500万円をどのようにして稼ぐかということになると、専ら戒名料他の「葬儀 (通夜・葬儀・初七日・満中陰等の死亡時に行われる一連の行事) 」に関する布施に頼らざるを得ない。先ほど、この寺院は年平均5回の葬儀があると書いた。だとすると、この寺院は、1回の「葬儀」当たり100万円の収入がなければ、僧侶の年収が800万円に達せず、継続的の寺院が維持できなくなっていく。

  この考え方は、原材料費や生産・流通コストから売価を算出する普通の産業生産物とは全く異なる考え方である。むしろ、陶芸作家のそれと似ている。もし、ある陶芸作家が、彼の創作活動を維持するのに1,000万円の年収が必要であるとして、彼が1万枚の皿を焼けば、一皿1,000円で売ればよい。しかし、もし彼が年に1,000枚しか作品を作らない(1日に3枚)のであれば、その皿は1万円で売らなければならない。年に100枚しか焼かないのであれば10万円だ。もし、一皿100万円もする著名な陶芸家であれば、1年に10枚しか世に出してはいけないのだ。もちろん、彼ももっとたくさんの皿を焼いているであろう。ただし、その作品が少しでも気に入らなければ叩き割らなければならない。そのことが彼の作品のレベルを高め、市場的には希少性を高めるのである。しかも、一皿1,000年の職人も、100万円の陶芸作家も、使う材料は同じ粘土である。その年収も、たいして変わらない。何故なら、どちらも陶芸を生業としながら、妻子を養っているからである。もし、経済的な論理で言うのであれば、僧侶への葬儀時の布施も、このように考えれば良い。


▼ マスコミよ、政府に踊らされるな

  ここまで書けば、読者の諸賢もお判りであろう。一般国民が食いつきやすい葬儀の際の布施というテーマを用いたこのたびのイオングループを用いた全日本仏教会(全日仏)に対する批判的世論形成を試みようとしているのである。この動きの背後にあるものは、もちろん、文科省が狙っている「本丸」財団法人全日本仏教会である。この財団法人も大きな資産を抱えている。というか、この全日仏の背後には、主要伝統仏教各宗派がほぼ網羅されており、それ以外の「神社本庁(全国8万の神社を包括)」や「教派神道連合会(金光教や大本をはじめとする教団型神道を各派の連合体)」や「日本キリスト教連合会(カトリックやプロテスタント各派の連絡機関)」や「新宗連(新宗教各教団の連合体)」等の諸団体は、明らかに人材において「全日仏」に劣るので、「全日仏さえ軍門に下せば、あとは雑魚ばかり」と文科官僚は思っているだろう。宗教法人を所轄している文化庁は、文科省の内局である。百年ぶりと言われる今回の「公益法人法」改正に伴う公益法人への締め付けの強化は、当初は、財団法人や社団法人といった団体をターゲットにしているが、文科省にとってこればあくまで「外堀」に過ぎない。文科省(政府)が本当に攻め込みたい(課税したい)真の目標は「宗教法人」であることは目に見えている。

  この一連の日本漢字能力検定協会(ホップ)→日本相撲協会(ステップ)→全日本仏教会(ジャンプ)というコースは、文科省の影響力の拡大を図ろうという企みが見え見えである。本当にマスコミが叩かなければならないのは、創意工夫と自助努力で資産を形成した「民営の公益法人」ではなく、高級官僚の天下り先を維持するために、国民の税金を湯水の如く注ぎ込んだ「官営の公益法人」だったはずである。マスコミ関係者に告ぐ、決して政府の世論操作に踊らされてはいけないと…。


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