関ヶ原の戦いは9月15日か?   

 10年09月15日



レルネット主幹 三宅善信  


▼ 不破関(ふわのせき)

  先日、初めて「関ヶ原」(岐阜県不破郡関ヶ原町)を訪れた。「関ヶ原」と言えば、誰でも、慶長5年9月15日に、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍(註:名目上の「西軍大将」は毛利輝元であるが、輝元は大坂城に居たので、実質の西軍大将は石田三成)が戦った「天下分け目の戦い」である「関ヶ原の合戦」の場所を想起するであろう。何故、この地を「関ヶ原」というかは地図をご覧になれば判るように、東国から畿内へ向かうための要衝の近江国と美濃国の国境にあって、西進しようとする大規模軍勢は、必ずこの隘路(あいろ=ボトルネック)を通らなければならない「関」のような盆地だからである。現在でも、律令時代からの東山道、近世の中山道、近代のJR東海道本線、現代の東海道新幹線と名神高速道路といった日本列島を東西に貫く大動脈が、わずか幅500mの隘路に折り重なるようにして通過している。であるから、空軍のなかった前近代までの合戦では、関ヶ原は戦略上、極めて重要な拠点であることはいうまでもない。

  しかし、この関ヶ原が戦略上の最重要拠点になったのは、慶長5年の関ヶ原の合戦の時が最初ではない。 関ヶ原の戦いを900年以上遡る672年に起こった古代史上最大の内戦である「壬申の乱」の際にも、この地は、内戦の帰趨を制する重要な戦略拠点となった。朝鮮半島における百済復興を目指した「白村江(はくすきのえ)の戦い」で唐・新羅連合軍に敗北を喫した天智天皇は、防衛上の理由から都を外敵の侵入しやすい大阪湾から近い奈良盆地から内陸の琵琶湖岸の近江宮に遷したが、朝廷内最大の実力者である皇太弟の大海皇子が居たにもかかわらず、671年11月、実子の大友皇子を太政大臣の位に就け、事実上の後継指名した(註:1999年2月、預言者ムハンマドの血を引く中東で最も由緒正しいヨルダンのハシミテ王家で半世紀にわたって王位に就いていたフセイン・ビン=タラール王は、死の直前に、長年、摂政をしていた王太弟のハッサン・ビン=タラール殿下を廃し、実子のアブドラ・ビン=アル・フセインを王太子に指名して崩御。その後、アブドラが国王に即位したが、ハッサン殿下の抑制のきいた行為から平穏裏に政権委譲が行われた)ことから、身の危険を感じた大海皇子は、皇太弟を含む全ての官位を辞して、大和国の吉野宮に隠遁した。翌年1月、天智天皇が崩じると、弱冠24歳の大友皇子が近江宮で即位した(註:1200年経った明治3年になって「弘文天皇」号を追号)が、大海皇子は7月27日に吉野を出奔し、伊賀国→伊勢国→美濃国に至り、部下に「不破の道」を封鎖させて、東国で兵を募り、ここから大軍を一挙に近江国に送り込み、瀬田橋の戦いで大友皇子軍を撃破した。翌8月24日に大友皇子が自害し、壬申の乱は終結。翌673年2月、大海皇子は大和国に飛鳥浄御原宮を造営して即位し、天武天皇となった。天武天皇は、律令を整え、八色姓(やくさのかばね)や官位を制定し、古事記・日本書紀を編纂させるなど、日本の古代国家を完成させたことは言うまでもない。

  天武天皇は即位すると直ぐに、東国から都を守るための防衛線として、不破関・鈴鹿関・愛発関の「三関」を整備させたことが、「不破関」の始まりである。以来、畿内の人々は「不破関」よりも東を「関東」あるいは「東国」と呼ぶようになった。東京一極集中が進んだ現在では逆に、この不破関よりも西を「関西」あるいは「西日本」と呼んでいる。不破関の軍事上の「関所」としての機能は、時代と共に衰えて行き、むしろ、「之より先は東国(後進地域)」という精神的なバリア(註:古来、和歌や俳句によく詠まれている)のほうが大きくなっていったが、その不破関が歴史の表舞台に再登場したのが、最初に述べた「天下分け目の戦い」である慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いである。尾張国出身の織田信長も羽柴秀吉も、京の都ではなく、肥沃な濃尾平野からこの不破関を越えて近江国に入ってすぐの琵琶湖岸(直線距離にして約20km)に安土城や長浜城を構えた。関ヶ原の合戦の西軍の将であった石田三成の佐和山城も、また、徳川四天王の内、「赤備え」の甲冑で最も勇猛果敢だった譜代大名の筆頭井伊直政も、その居城を彦根に置いたことからも、この地の重要性が窺えるであろう。


▼ 1600年9月15日には無人の関ヶ原

  そこで、私はこの夏、機会があったので、車でこの関ヶ原を訪れた際に、この狭い「盆地」のあちこちに足を運んでみた。どこもチープな看板や子供騙し緒商業施設が目立ったが、せめて公営の施設なら「少しはまし」であろうと思い、「関ヶ原町歴史民俗資料館」を訪れた。6年間も更新されていないホームページをご覧になれば、行かなくてもそのチープさはお判りだと思うが、私も、駐車場だけ借りて、わざわざ入場券まで購入して入館しようという気が起こらない資料館であった。「徳川家康最後陣跡」の近くにあるこの資料館の直ぐ脇にある「東首塚(田中吉政陣跡)」に掲げられていた「関ヶ原の戦い」について書かれた看板を見て驚いた。


英語版本文6行目に注目



  「史上最大のドラマを史跡とともに見る関ヶ原大合戦(The Battle of Sekigahara: Viewing the Most Dramatic Issue in History through the Ruins)」と大上段に銘打たれた日本語と英語を併記した看板が目に止まった。文中に「…豊臣と徳川がその命運をかけた一大決戦…」とあるが、参戦した大名の多くは「豊臣恩顧の武将」たちであって、少なくとも形式的には「豊臣家家臣団同士の成敗合戦」という大義名分であったので、この看板のような単純な記載では誤解を招くであろう。それに続く部分を日本の看板では「…慶長5年9月15日、午前8時頃…」とあるが、英語の看板のその該当箇所を見ると、なんと「…At around 8:00 in the morning of September 15, 1600,…」とあるではないか! これは、とんでもない間違いである。「慶長5年9月15日」は「September 15, 1600」ではない! 今日、広く世界中で用いられているグレゴリオ暦では「October 21, 1600」に該当する。

  当時、日本で使われていた太陰太陽暦の一種である『宣明暦』(註:平安時代に渤海使によってもたらされ、862年から1685年まで800年間以上にわたって使用された暦法。中国では71年後に改暦されたが、遣唐使廃止後、日本では独自の天体観測技術が発達しなかったので、日食の予測等で2日以上の誤差が生じていた。一方、中国では、元帝国の厳密な天体観測に基づいて1281年から施行された「授時暦」は、「グレゴリオ暦」と同じく365.2425日としているが、授時暦の制定は1582年のグレゴリオ暦の制定よりも300年早い。因みに、ローマ教皇グレゴリウス世によって「グレゴリオ暦」が制定された1582年10月15日は、本能寺の変の後、秀吉によって京都の大徳寺で織田信長の葬儀が行われたその日のことである)における「(旧暦)9月15日」なのであって、グレゴリオ暦の9月15日のことではない。もし、この英文看板を読んだ外国人がタイムマシンを「1600年9月15日の08:00」にセットしてこの地を訪れたとしても、そこには「天下分け目の合戦」どころか、稲刈り前の長閑な田園風景が広がっているだけである。合戦が起こるのは、それから1カ月以上も後の10月21日のことである。


▼ 赤穂浪士の討ち入りは12月14日のことか?

  日本における歴史的事象について考えるとき、旧暦(太陰太陽暦)による日付と、新暦(グレゴリオ暦)による日付を混同してはいけないことは言うまでもない。例えば、『仮名手本忠臣蔵』でお馴染みの元禄赤穂事件におけるクライマックスの「吉良邸討ち入り」の場面のナレーションでは、「…時は元禄15年、12月14日、火事場装束に身を包んだ大石内蔵助以下四十七士の赤穂浪士たちは、吉良邸討ち入らんと…」という表現がなされ、事実、毎年、12月になると、テレビで「忠臣蔵もの」がオンエアされる。そして、見事、亡き主君の仇を討った四十七士たちが、本所(墨田区両国)の吉良邸から、雪の降り積もった江戸市中を浅野内匠頭の墓所のある高輪泉岳寺(港区高輪)めざして行進してゆくのを江戸市民たちが歓呼で迎えるというシーン――あれだけの集団テロ事件を起こしながら、本所から高輪まで約10kmもの距離があるのに、何故だか幕府の捕り方が捕縛に来ないのが不思議であるが――をご覧になったであろう。しかし、12月中旬に江戸(東京)で雪が降るのはかなり珍しいこととは思わないか? 答えは簡単である。「元禄15年」の大部分は1702年であるが、元禄15年12月14日(現在の日付カウント方法なら、深夜24:00を越えた時点で12月15日になっているが…)は、既に1703年に入っており、グレゴリオ暦の1月30日のことであり、一年で最も寒いその時期なら、江戸に雪が降っても不思議ではない。

  では、何故、旧暦の12月14日に「討ち入り」が決行されたかというと、「14日という日が亡き主君の祥月命日(元禄14年3月14日に、勅使供応役であった浅野内匠頭が殿中で刃傷事件を起こして、即日切腹になった)に当たるからだ」と一般に言われているが、私の見るところ、理由は別の所にある。答えは簡単である。14日なら「ほぼ満月」だからである。夜間に他家の屋敷を襲撃して、万が一、打ち損じたりしたらパーである。それには、たとえ庭木の茂みに身を潜めても探索しやすいのは満月の夜である。「忠臣蔵」の芝居でも、隣家の旗本土屋家が高張り提灯で塀越しに照明してくれて夜間襲撃をし易くしているシーンをご覧になった方も多いであろう。私は、土屋家の子孫から直接「吉良邸討ち入りの事前告知が大石からあって、旗本格の大きさの提灯よりも一回り大きなサイズの大名格の提灯を用意していた」と伺ったことがある。つまり、戦術として「満月の明かり」を必要としたのである。この逆が、湾岸戦争(1991年)以後のアメリカの軍事行動実施日である。高度なGPS誘導の米軍爆撃機や巡航ミサイルにとっては、「闇夜」はなんの苦にもならないが、装備の「遅れた」アラブ諸国の軍勢にとっては、目視確認ができない「新月の闇夜」は、著しく防衛能力が落ちるので、米軍が先制攻撃を加えるのは、ほとんど新月の前後である。

  ついでに言えば、「忠臣蔵」の芝居の中で、浅野内匠頭が庭先で切腹する際に、必ず、背後で満開の桜の花がパラパラパラーっと散っているシーンがあるが、これもおかしい。儚く散ってしまう日本人好みの人生観が、切腹のシーンと桜を重ね合わせるのであるが、元禄14年の3月14日は、グレゴリオ暦では4月21日であるから、桜の季節には遅すぎはしないであろうか? もちろん、開花の遅い八重桜ならなんとか持っているであろうが、現在では「桜」の代名詞ともなっているソメイヨシノなら、三週間前には散っているはずだ。その上、園芸品種として人間の手によってソメイヨシノが創り出されたのは幕末・維新期のことであるから、当時の江戸で最も一般的であったエドヒガン系の桜だったなら、文字通り「彼岸(春分の日)」の頃に開花するので、4月21日では、1カ月も開花時期に差があって、桜の散るシーンは「創作」ということになる。


▼ 江戸城天守閣と長浜城天守閣の嘘

  このように、歴史上の出来事が起こった年月日には、必然的な意味のある場合があるということを忘れてはならない。冒頭の「関ヶ原の合戦」の日である慶長5年の9月15日も、当然のことながら「満月」の頃のことである。実際の合戦は予想外にわずか数時間で帰趨が決したが、もっと長時間にわたる戦闘になることを考えて「満月」の頃を選んだと考えるのが妥当であろう。その意味でも、太陰太陽暦は便利である。毎月、1日(ついたち)は必ず「朔(新月)」であり、3日には「三日月」が出、15日には必ず「望(満月)」である。もし、テレビの時代劇の一場面で、月末の借金の取り立てのシーンで、満月が出ていたりしたら、それこそ「ええかげん」な考証の時代劇ということになる。他にも、松平健主演の『暴れん坊将軍』のシリーズで、江戸城が背景に映るシーンを姫路城でロケした映像が流れるが、実際の江戸城は、三代将軍家光の時代の「明暦の大火(いわゆる「振袖火事」)によって天守閣が焼失したが、「天下泰平の世に軍事施設である天守閣は不要」との理由によって、幕末まで天守閣が再建されたことはなかったので、八代将軍吉宗のバックに天守閣のある江戸城が映るのは「ええかげん」な話である。

  因みに、明暦の大火で天守閣が焼失した後、平安時代から800年間以上も改暦されずに使われてきた『宣明暦』を、いかに苦労して当時としては世界最高水準の暦であった『授時暦』を元に、中国と日本の経度・緯度の差を補正してわが国独自の観測技術と高度な計算法(和算)を用いて、渋川春海らの20年以上の努力によって1685年に算出された『大和暦』(註:朝廷によって正式に採用された際に、元号を取って『貞享暦』と命名)が採用された経緯については、冲方丁の『天地明察』に詳しいので、一読されることをお奨めする。暦には、このような経緯があるので、いやしくも公営(この場合「岐阜県関ヶ原町」営の歴史民俗資料館)の施設で、このような「ええかげん」な記述はしないでいただきたいと思う。同じ関ヶ原町営の「不破関資料館」もシャビーなのは残念であった。

  私は「関ヶ原」でのフィールドワークへの道中、安土時代の近江における羽柴秀吉の居城であった「長浜城」も見学した。眼下に雄大な琵琶湖を見下ろす天守閣には、ボランティアガイドも居て、この城のロケーションが海運の便だけでなく、関ヶ原の西20km、また、浅井長政の小谷城の南10kmのこの長浜城がいかに軍事的にも重要な戦略拠点に築城されたかについて懇切丁寧に「解説」してくれたが、この長浜市営のこの長浜城でも、歴史的事実に対して驚くべき「ええかげんさ」が見られた。それは、この城(もちろん「再建」されたもの)をバックに記念撮影をしようと思って、ふと、天守閣の唐破風の鬼瓦や蛙股の部分に輝くいわゆる「太閤桐」の家紋を見つけたときのことだった。秀吉がその家紋として「五七桐」を使い始めたのは、関白叙任に当たって、朝廷から新たに「豊臣」氏を賜った時、以後のことであって、大坂城や聚楽第に「五七桐」の家紋がちりばめられているのであれば納得もするが、まだ、織田信長麾下の一大名になったばかりの長浜城時代の羽柴秀吉の家紋として「五七桐」をその城郭に用いるのは、歴史上の事実の軽視も甚だしい。私は早速そのことを長浜城の受付係に尋ねたが、直ぐに回答できず、学芸員に連絡を取って回答するという始末であった。


長浜城天守閣の空破風の五七桐紋に注目

  私は今、「五七桐は豊臣家の家紋」と簡単に書いたが、これまた正確さを欠く表現であると言わざるを得ない。日本のパスポートの表紙に「菊花紋」が描かれていることは誰でも知っていることである。しかし、これは「天皇家」の紋章(註:厳密には、天皇家の家紋は「十六八重表菊」であって、パスポートのものは「十六一重表紋」であるので、別物とも言える)であって日本政府の紋章ではない。日本国の紋章は、パスポートで言えば、顔写真の貼ってあるページにある「五七桐」である。最近では、アメリカ大統領の講演台を真似て作った総理大臣の記者会見台の前にも、これ見よがしに青地に金色で「五七桐」のマークが貼り付けられているし、日本政府が授与する勲章にも「桐花章」という最上位の勲章がある。日本の叙勲制度については、2006年2月11日に上梓した『竹の園生の末葉まで』をご一読いただきたい。もっと身近なものでは、五百円硬貨の表面にも「五七桐」が図案化されている。この「現在の日本政府の紋章が五七桐」であるという事実と、「豊臣家の家紋が五七桐」であるという事実を巧く結びつけて、大坂夏の陣で滅亡したはずの豊臣家の子孫が現在まで連綿と続き、日本政府と密約を結んで、大阪中の男たちがその子孫のことを守っているという奇想天外なストーリーで書かれた小説が、万城目学の『プリンセス・トヨトミ』である。

   皆さんも、今後、歴史的な話をする時には、単にその出来事起こった年号だけでなく、季節や日付にも関心を持っていただけたら、一層、深く理解することができると思う。


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