覆水盆に返らず   

 11年04月04日



レルネット主幹 三宅善信  


▼「千年に一度」という大地震

 「覆水盆に返らず」とは、言わずと知れた紀元前11世紀、殷(商)の紂王を滅ぼし、周の武王となった兄姫発を補弼(ほひつ)して諸制度を整えた周公姫旦(魯国の始祖。数世紀後の孔子が理想の聖人と仰いだ)と並んで、周王朝の建国に大功のあった軍師の太公望呂尚(斉国の始祖)の言葉である。当『主幹の主観』シリーズの読者であれば、若い頃ぐうたらだった呂尚に愛想を尽かして出て行った嫁が、大出世して諸侯に封じられた呂尚に復縁を乞うたときに、呂尚は、ボウルに入った水を床に零して「この水をもう一度、この盆(ボウル)に戻してみよ(できないだろう)」と言って、復縁を断ったという故事に由来していることは誰でも知っている。もちろん、このエピソード自体は後世の創作であろう。「It is no use crying over spilt milk.(こぼしたミルクを嘆いても無駄である)」という英語の格言があるくらいだから、同様の格言が各国にあるはずである。中国語では「覆水難収(fu shu? nan sh?u)」というそうだ。

  さて、この太公望呂尚の故事から三千有余年の時代を経て、21世紀初頭の日本に話は移る。このたび東北地方の太平洋岸に甚大な被害をもたらせた東日本大震災は、M(マグニチュード)9.0という超巨大地震と大津波によって、東北各地で多くの“覆水”が起こった。その最たるものは言うまでもなく大津波である。気仙沼や陸前高田や大船渡といった三陸地方のリアス式海岸地帯では、これまでにも再三、津波の被害を受けてきた。これらの津波には、目の前の「三陸沖」で起こる地震による津波だけでなく、1万数千キロ離れた太平洋の対岸のチリやペルーで発生した大地震――太平洋をぐるりと取り巻く「環太平洋火山帯」と呼ばれる地球規模のプレート沈み込みによってできた大深度の海溝部とその反対側にできる造山活動(=火山地帯)という「地震の巣」がある――による津波まで、ジェット機並みの速度(註:津波の伝わる速度(√gh=(重力加速度9.8m/sec2X水深m)の平方根)は、海の深度によって変化するので、深度5,000mだと約800km/hの高速に達する)で太平洋の反対側からもたびたび日本を襲った。三陸沖や宮城県沖で発生した地震の場合、東北地方も「揺れ」を感じるから、その直後の津波を警戒することができるが、南米で発生した大地震の場合、当然のことながら「揺れ」なんぞまったくないから、科学的な観測および通信技術の発達する近代に至るまでは、何十年に一度、なんの前触れもなくいきなり津波が襲ってきたわけで、この地域は歴史上、何度も津波の被害を受けてきた。40年以上も前、小学校の社会科の授業で「三陸地方のリアス式海岸は天然の良港(註:私が小学生であった1960年代の日本は漁獲高世界一だった)だが、過去たびたび津波に襲われた」と習ったから、彼の地にとって津波が危険なことは誰でも知っている。それ故、規模の大小の違いこそあれ、三陸地方の各漁港と町の間には「防潮堤」が設けられていた。

  ところが、今回のM9.0という超巨大地震による大津波は、誰もが予想していた三陸地方のリアス式海岸――当然、奥へ行くほど狭くなっていくリアス式海岸では、もし、湾の入口に到達した時点で高さ3mの津波であったとしても、湾の入口部分の幅が1kmで一番奥の部分の幅が100m しかなければ、行き場を失った津波が集約されて高さが30mに達することは容易に想像できる――だけでなく、仙台平野が太平洋に開ける塩竃から福島県の南相馬まで南北100kmにも及ぶ平坦な海浜から“上陸”し、高さ2〜3mの津波が、あたかも顕微鏡画面の中で蠢(うごめ)き回るアメーバのように、スーッと太平洋岸の田畑や仙台空港の滑走路を浸してゆき、場所によっては海岸線から数キロ内陸部まで押し寄せた様子は、高さ20m程の大津波が怒濤の如く街ごと呑み込んでゆく気仙沼や大船渡といったリアス式海岸での映像とはまた別の衝撃があった。

  仙台平野では、考古学的調査によると、約2000年前の弥生時代の水田の地層(当然、粘土質)の上に粒の揃った海砂の層(=津波が来襲した跡)があり、その上の粘土層(=水田の地層)の上に1150年前の貞観地震による津波の跡の海砂の層が残っており、そのさらに上に、現在の水田の地層(=粘土層)があるそうだ。このことから言えることは、この辺りは、千年に一度の割合でM9.0クラスの超巨大地震が発生して、その都度、内陸部深くまで大津波が押し寄せていたということになる。また、今回の大地震による地盤沈下によって、もともと海抜の低かった場所では、仙台市の若林区や南相馬市の水田地帯なんぞは、未だに冠水したままである。


▼ 逆「金子みすゞ」的情景

  私は、今回の大津波に呑み込まれ、根こそぎ持って行かれた東北地方の沿岸部の惨状を見て、金子みすゞの詩が頭によぎった。山口県出身の金子みすゞは、私の祖父と同じ1903年の生まれであるが、1930年に服毒自殺により26年という短すぎる一生を閉じた女流詩人であるが、その作品群は長年、日の目を見ないでいた。仙崎という沿岸捕鯨の漁師町で生まれ育ったみすゞは、素朴な日常風景を多く詩の題材にしているが、1980年代の中頃に遺稿集が刊行されるや一大ブームを巻き起こし、東京大学の入試問題に採用されたり、後には、小学校の国語の教科書にも採用されたので、その後、多くの人の知るところとなった。その代表作のひとつ『大漁』という詩が、私の頭の中でリフレインしている。

朝焼け小焼けだ
大漁だ
大ば(羽)鰮(いわし)の
大漁だ
浜は祭りの
ようだけど
海のなかでは何万の
鰮のとむらい
するだろう

  もちろん、この詩のオーソドックスな鑑賞としては、鰯の大漁に湧く漁師町の情景とは裏腹に、作者はいのちを奪われるイワシの観点からこの出来事を捉えて、「楽しい祭vs悲しい葬式」という概念砕きを行っている点が見事であるということになっている。しかし、今回の大震災による大津波は、この金子みすゞの詩とは「真逆」の情景を創り出した。日頃は「万物の霊長」として食物連載の頂点に立っている人間が、津波にさらわれて1万人以上が行方不明となった。ご遺体の多くは、暗くて冷たい海底に沈んだであろう。ここが阪神淡路大震災の被災地と異なる点である。阪神淡路の時は、壊れた家の瓦礫を取り除きさえすれば、ご遺体は確かにそこにあった。しかし、今回は、家屋(特に木造)そのものが何百メートルも流された上に、津波の引き波で遺体も家屋も自動車も一切合切「海の藻屑」と化した。気仙沼港は、中華料理の珍味フカヒレの水揚げ量日本一ということは、三陸沖の海にはサメがウヨウヨ泳いでいるということであり、不謹慎の誹りを恐れずに言えば、三陸沖の海は人間の死体だらけで、ちょっとした“饗宴”が繰り広げられたであろう。まさに「逆金子みすゞ的情景」だ…。

  おそらく絶対に報じられないであろうけれども、大震災と大津波に加えて、東京電力福島第一原発による放射能漏れ事故のせいで、立ち入り禁止区域に指定された地域など、「運良く」陸上に残ったご遺体――放射能漏れ事故さえなければ、直ぐに回収されたであろうご遺体――も、1カ月以上そのまま放置され、飢えた野良犬や野良猫(元々「野良」だった犬猫に加えて、住民が緊急避難する際に見捨てられた犬猫も含めて…)に食害されていることであろう。イノシシやカラスに目ん球えぐり取られている無惨なご遺体も転がっているであろう。現代日本では考えられない「野晒し」である。テレビで映されるのは、放置されて、街中を彷徨き回る牛豚の類だけであろうが…。このような状態は、「遺体捜索」の任務に就いている自衛隊員や警察官たちにも、相当なPTSD(心的外傷後ストレス障害)をもたらすであろう。若くて屈強な男たちのこと故、一週間、風呂にも入らずにテントで野宿しようが、任務終了後に隊や署に戻り、あるいは自宅へ帰って、暖かい風呂に入り、柔らかなベッドでゆっくりと休息すれば、身体の疲れは容易に取れるであろう。しかし、無惨な野晒しのご遺体を多数目撃したことによる心の傷は、恐らく長年にわたって癒えないことであろう。今後、長年にわたって彼らのケアも必要となるであろう。


▼ リアス式海岸部における津波対策私案

  このように、今回の大震災・大津波は、日本社会に大きな影響を及ぼした。ならば、地震列島に暮らす日本人――特に、行政府――としては、如何なる津波対策を講じるべきであろうか? まず始めに、どの程度の大地震・大津波を“想定”に入れるべきであろうか? あらゆることについて言えることであるが、「100%の安全はない(目指す意味がない)」ということを共通認識としてまず持っていただきたい。例えば、超巨大台風が大潮の日に上陸し、その直後に超巨大地震が発生し、その上、隕石まで直撃して…。考えだしたらきりがない。何事にも「費用対効果(B/C)」上の合理性が必要だからである。その考え方からすれば、「住民を一人残らず赤ん坊から身体の不自由なお年寄りまで全員助ける」とか、「千年に一度の超巨大地震にも耐えられる構造」なんぞという考え方はする必要がない。どっちみち、千年間同じビルを使い続けることなんてできないし、核爆弾が直撃しても耐えられるような部屋として用いる空間部よりも構造そのものを支える柱や壁の部分のほうが大きいピラミッドのような建物を建てても、意味がないからである。しかし、百年に一度くらいの割合で発生する巨大地震や大津波は“想定”に入れた建造物を造る必要はあるであろう。人生八十年……。お互い日本列島の上に住んでいる以上、誰でも一生の内に一度くらいは、巨大地震や巨大台風に遭遇する可能性が高いからである。

  そこで、費用対効果に適った大津波対策をお教えしよう。高さ10mの「万里の長城」のような防潮堤をリアス式海岸部全体に巡らすなんて愚の骨頂である。海岸部と内陸部との間の通行の邪魔になるし、もし、そのリアス式海岸が風光明媚な観光名所でもあったりしたら、景観が台無しである。それに、もし大津波が地震発生後数分で襲ってきたりしたら、すべての通行ゲートを閉じることなど不可能であろう。確かに予告された日時にゲートを閉じる訓練なら、ゲートは5分間で見事に閉じることはできるであろう。しかし、これが盆正月やGW中の午前2時に地震が発生した場合、はたして同じように対処することができるであろうか? そこで、私なら防潮堤は、通常の大浪を防げる程度のせいぜい数メートルに留めておく。たとえ高さ10mの防潮堤を造ったとしても、11mの大津波が来たら超えられてしまうからだ。今回の大津波最高到達地点は、宮古市小堀内漁港周辺の海岸から約200mの地点で標高37.9mの地点にまで駆け上った(註:津波が海岸に到達したときの波高が津波そのものの「高さ」であるが、大津波であればあるほど、これを直接計測することは難しいので、上陸後に津波の先端部分が到達した最高遡上地点の海抜をもって「高さ」という場合もある)そうだ。

  ならば、リアス式海岸部の市町村の大津波対策はどうすればよいか? 答えは簡単である。街中の400mに一箇所ぐらいの割合で、10階建ての鉄筋コンクリート製の公共建築を建てればよい。市役所や保健所・公民館それに学校や病院・老人ホームの類で構わない。もちろん、民間の商業ビルでもマンションでもなんでも構わない。今回の大津波でも、主として木造の個人住宅が船のようにプカプカ浮いて(当然、木は水に浮く)流されたが、映像で視る限り、鉄筋コンクリート(RC)構造の建物はびくともしていない。因みに、柱と梁を鉄骨で構成するラーメン構造の建造物は、完全に流出したりはしないものの津波で流されてきた船舶や住宅等が激突した部分に大きなダメージを受けで変形してしまっている。当然、10階建てのビルには、消防法で非常階段を設けることが義務づけられているから、リアス式海岸部の市町村では、大きな地震の揺れを感じたら、とにかく、最寄りのビル(津波避難用のビルには、外部非常階段部分にそれと判るマークを付けておけばよい)に駆け上ればよい。「400mに一箇所の割合」ということは、現在、自分の居る場所からどちらかの方向へ最大200m走れば、避難用ビルに行くことができるのであるから、1分もあれば自力で歩ける人は皆、到着することができるであろう。これで、ほとんどの人のいのちは助かる。

  国土のほとんどがベンガル湾に面した河口デルタの低湿地帯であるバングラデシュなどは、たびたびサイクロン(インド洋における強大な熱帯低気圧)による高潮に襲われて、多くの死傷者を出してきたが、主に日本の援助によって、RC構造二階建ての「サイクロンシェルター」が千数百棟建てられ、高潮から多くの人命を守っているくらいだから、先進国である日本で、自治体と民間で10階建て程度のビル――例えば、リアス式海岸の深奥部の2km四方の平地が市街化しているとすると、25棟の10階建てビルがあれば、400m間隔という条件を満たすことができる――を建てるぐらい造作もないことであろう。少なくとも、山を削って谷を埋め立てて“高台”を形成し、そこを住宅地にするよりも遥かに工期も短く、安上がりである。東京や大阪などの大都会ならば、はじめから10階建て程度のビルなら何万棟と建っているであろうから、たとえ大津波に襲われたとしても、最寄りのビルの非常階段を駆け上がればよいので、その経済的被害は甚大なものになるであろうが、人的被害は軽微であると考えられる。


▼ 平野部における津波対策私案

  次に、今回、予想外に被害の大きかった平野部への津波の侵入対策である。仙台平野など、津波の被害は海岸線から数キロにまで達した。皆さんも映像をご覧になられたかと思うが、平坦な海岸線から陸上へ侵入した津波は、リアス式海岸でのそれとは異なり、怒濤のような破壊力というよりは、顕微鏡画面内でアメーバが移動するように、淡々と農地や住宅地(一戸建て中心)を侵してゆく。この場合の避難方法は、面積の非常に限られたリアス式海岸部のそれ(10階建てビルを多数建てる)とは異なる。そもそも、人口密度が高くないので、それほど多くのビルを建てるわけにはいかない。このような地域では、海岸から1km以内に海岸線に並行する形で高速道路を建設するのである。この場合、工法は、桁を用いた「高架」方式ではなく、断面が台形になる「盛り土」方式にするのである。片道2車線の高速道路だとすると、中央分離帯と路肩を入れても道路面(いわゆる「天端」部分)の幅が約20m。それから、盛り土の高さが5mで法面(のりめん)の角度が45度とすると、左右に各5mずつ必要なので、底辺30m・上辺20mX総延長100km(宮城県の塩竃から福島県の南相馬までの距離)という断面の長大なスーパー防潮堤を建設したことと同じなる。いざ大津波が襲ってきたら、近隣の住民はその法面を駆け上れば良いだけである。高さ5mが不安であれば、ところどころに道路標識等の支柱に登れるような梯子を付けておけばよい。

  昨秋、「200年に一度あるかないかの洪水のために、400年かけてスーパー堤防を造るのはナンセンス」と、「事業仕分け」でバッサリとスーパー堤防事業予算をカットした御仁が、この国難に際して「節電啓発担当大臣」を拝命したが、双六(すごろく)やカルタ取りで例えれば、「お手つき」で「一回休み」状態になっている人を登用するのかよく解らない。因みに、問責決議を受けて二カ月前に引責辞任をしたばかりの官房長官氏が、官房副長官としてカムバックしてきたり、やたらよく似た名称の会議を立ち上げたりと、いろいろ言いたいことはあるが、今回の目的は「政権批判」ではなく、「建設的な」提言であるからして、触れないでおく。まあ、私を復興会議や各種審議会の委員として招聘しない時点で、その内閣の力量がしれていることは言うまでもないけれど…。

  国土交通省が推進してきた「スーパー堤防(高規格堤防)事業」では、現在、堤防のすぐ脇の低地に住む人々や事業所をすべていったん転居させて、街全体を嵩上(かさあ)げしてから、再度、その地域に呼び戻さなければならないので、権利関係等で大いに揉めそうであるが、私の提言する「スーパー防潮堤高速道路」なら、難しいトンネル工事もなく、ただただひたすら盛り土をして平地を真っ直ぐに走らせるのであるから、建設期間が十年もあれば、十分100kmの工事ができると思う。しかも、取得すべき用地買収代も、津波で水没する危険性の高い地域ゆえ、そうたいしたものにはならないであろう。そのと「復興対策」事業として、地元の中小の建設業者を使って工事を行えば、現地に雇用も創出される。少し頭の切れる人なら、「このスーパー防潮堤高速道路と交差する一般道や河川はどうするのか?」と疑問を抱くであろう。確かに、このスーパー防潮堤高速道路と交わる全ての一般道路と河川のために、その都度、盛り土の土手っ腹に貫通部を開けたら、そこから津波の水が侵入してきて、「スーパー防潮堤」としての用をなさないように思われる。しかし、そんな対策簡単である。「スーパー防潮堤」を潜るトンネルの海側に半円形のすり鉢状のマウンド――当然、その高さは5m――を盛り土してそこを通せばよい。阿武隈川などの河川については、「スーパー防潮堤」が横切る箇所を“可動堰”にして、いざというときにはこれを降ろせば(閉めれば)ばよい。

  この「スーパー防潮堤」の外側(海側)では、主として農業や畜産や漁業など、大規模な設備投資の不要な産業を展開すればよい。百年に一度の大津波の際には、人命の保全だけを考えればよい。津波の冠水によって大規模な塩害を受けた場合には、公的資金を投入して、客土や土壌改善をすればよい。そして、大規模な設備投資を必要とする工場――今回の大震災ではこれらが大きな被害を受け、たとえ復旧したとしても、その間に、世界各国のメーカーは調達先を別の国や場所に移してしまうだろう――などは、この「スーパー防潮堤」の内側(陸側)に設置すればよい。原材料や製品の輸送の関係で、どうしても海浜に工場を建設したい場合は、その箇所だけこの「スーパー防潮堤」を少し海寄りに建設するか、お城の「郭(くるわ)」のように、この「スーパー防潮堤」から出っ張った城壁のようなものでそこを囲めばよい。


▼ 原発についても、さんざん問題指摘してきた

  このように考えてくれば、最初に述べたように、「100%の安全はない(目指す意味がない)」ということを共通認識としてまず持った上で、何事にも「費用対効果(B/C)」上の合理性に基づく――すなわち、われわれ納税者の負担が最も少ない形で執行される――施策を考えるべきである。政治とは、「何を犠牲にして、何を守るか」を峻別する意思表示であって、綺麗事や甘っちょろいヒューマニズムのお仕着せは、「最大多数に最大不幸」をもたらすだけである。また、こういう状態を表して「人災」と呼ぶ。日本列島の上に住む以上、地震・津波・台風・噴火等の天災を避けることはできないが、「人災」は、われわれの政治的意思次第で避けることができるはずである。

  今回の東日本大震災中、最大の人災は、東京電力福島第一原発の原子炉建屋の水蒸気爆発と、その後の炉心と使用済み核燃料の冷却水の大量散布による放射線漏れ事故と、政府や東電の危機管理能力を欠く対応であることは、世界的にも明々白々である。私は、十年以上前から、当『主幹の主観』シリーズにおいて、1998年9月2日に上梓した『とんだミサイル威嚇』では、北朝鮮の弾道ミサイルテポドンのターゲットが青森県六ヶ所村の「核燃料貯蔵再処理施設」であったことや、その数日後に上梓した『李下に冠を?:発射事前予告できない理由』では、その2年前に起きた高速増殖炉もんじゅの事故が、IAEA(国際原子力機関)の監視体制を謀って原爆の材料となるプルトニウムを貯め込むためという大胆な類推を行った。また、1999年10月27日に上梓した『もうひとつの「Y2K」問題』では、大規模停電による電力供給のストップで稼働中の原発――この時は、関西電力高浜原発1・3・4号機――が緊急停止するという内容を取り上げた。また、2000年1月26日に上梓した『速佐須良比賣(はやさすらひめ)のお仕事』では、放射性汚染物質を海洋投棄する日本人の心情を8世紀前半(奈良時代)に成立した『中臣の大祓』に基づいて分析。また、2001年11月23日に上梓した『遥かなるイスカンダル』では、放射能除去装置があるというイスカンダルを目指す自衛隊の話。また、2003年1月28日に上梓した『「もんじゅ」を活かす知恵が必要』では、経済産業省のあまりにも「自己中心的な政策」の正当化や、東京電力をはじめとする電力事業者の不明朗な態度が、良識ある国民に不信感を募らせていると指摘した。また、2006年2月26日に上梓した『小泉政権は日本のチェルノブイリ』では、20年前に起こったチェルノブイリ原発事故がソ連の崩壊を早めさせたという見解を展開した。

  このように、私は、原発問題についても、「もんじゅ」の事故以前から原子炉建屋内に窒素を充填しておくことを推奨するなど、それなりの見解を持って論じてきたので、近いうちに、福島第一原発の事故についても論じる予定である。大津波によって街中が海水に覆い尽くされた「覆水」だけでなく、福島第一原発の行く末は、まさに「福島原発から零れた放射能汚染水(略して「福水」)」の処理をどうするかに懸かっているのである。政府と東電の後手後手の対応によって、強制避難を余儀なくされた人々が、住み慣れた「ふるさと」へ帰ることができるのは、いったいいつ頃のことになるのであろうか? 恐らく、お盆の頃になっても帰ることができないであろう。まさに「盆に返らず」である。


戻る