TPPの何が問題か解っていない

11年11月8日



レルネット主幹 三宅善信  


▼ 国際交渉というのは国益激突の場

  TPPに関する議論が喧しい。TPPの正式名称は「Trans-Pacific Strategic Economic Partnership Agreement(環太平洋戦略的経済連携協定)」である。2006年にこの取り組みが始まった時の原加盟国は、シンガポール・ブルネイ・チリ・ニュージーランドという比較的経済規模の小さい4カ国が、域外の大勢力に対抗するためのひとつの枠組みとして結成したのである。これらの4カ国は、シンガポールのごとき金融と工業しかない都市国家とブルネイとチリの原油や鉄鉱石といった一次産品、あるいはチリとニュージーランドのごとき農産物生産国と、それぞれ「得意」とする分野がまったく重ならない国同士が、苦手分野を相互補完しあった十分にシナジー効果をもたらす協定であった。その性格が変わったのは、2010年の10月になって、アメリカ・オーストラリア・ベトナム・ペルーの4カ国、次いで、マレーシア・カナダ・コロンビアが参加を表明した当たりから話はややこしくなってきた。何故なら、アメリカがこの枠組みを経済的には日の出の勢いである中国に対抗する地域ブロックとし、その盟主たらんと目論んだからである。

  さて、そういう状況下で、日本では、アメリカを怒らせてしまった民主党政権が、中国やロシアの露骨なまでの日本侵略の意図を目の当たりにして、大慌てでアメリカのご機嫌取りとして言い出してきたのが、わが国におけるTPP論議の不幸な始まりである。3月の大震災で、一時休戦していた国内の政治闘争も、各人が自分に都合の良いようにTPPを解釈して、やれ「このままでは日本の農業はダメになる!」であるとか、「このままでは自動車や家電産業が壊滅的打撃を受ける!」だとか、大きな声を上げて、自らの勢力を囲い込もうとしているが、日本人の中で、政治家やマスコミはもとより、具体的交渉にあたる各省庁の役人たちの中で、いったい何人がTPPの本質を理解しているといえるのであろうか? 否、「TPPの本質」という前に、「国際交渉の本質」というものをまともに理解している人がどれだけ居るというのであろうか? 少なくとも、そのことの理解ができていないまま国際交渉に望んだとしたら、日本はおそらく大損害を被ることになる。これまで多くの国際交渉で日本は失敗を重ねてきたので、一般国民のTPP反対論の中には、その具体的な内容についてではなく、「農業や工業の問題は関係ない。日本政府の対外交渉能力があまりに低いので、交渉なんかしたら、いくら日本側の主張が正しくともどうせ負けて損することになるのが見えているから交渉に参加すべきでない」という悲しいけれども、最も当を得た意見まである。

まことにその通りである。国家間交渉というのは、国益と国益のぶつかり合いであって、「言葉」という鉄砲で相手を撃ち殺し合う場である。そこには、安物のヒューマニズムとか(自己犠牲を払う)国際協調主義なんぞというものは入り込む余地がない。もし、国際交渉の場で、ヒューマニズムや国際協調なんぞという言葉が出てきたら注意したほうがよい。それは、自国の悪意をごまかすためになんらかのきれいごとを言っているに過ぎないのであるから…。そもそも、国際交渉を行うときに「武器」となるものは三つしかない。一番目は文字通り「軍事力」、次に「経済力」、そして「文化力」の三つである。文化力というのは、言い換えれば、言葉巧みに相手を言いくるめる交渉力のことである。国家間交渉というのは、必ず、「もし、わが国との交渉が巧く行かないときは、場合によっては軍事力の行使もあり得るぞ!」という担保が裏に付いているものである。だから交渉が真剣なものになるのである。その次が経済力。金の力で先方を黙らせるという方法である。しかし、「世界警察」という組織はないので、いくら大金持ちでも、軍事力を使ってむりやりこれを奪われた場合に、取り返してくれる人は居ない。だから、各国ともにお金があればあるほど「強い番犬」を飼う必要があるのである。アメリカを除いて、これらの三要素を兼ね備えている国はなかなかない。日本なんかかつては、経済力があったが今ではそれも風前の灯火で、三つともないので、国際交渉の場では相手にもされない。経済力のある内に、「強い番犬」を育てなかったことが悔やまれる。中国なんか、その経済成長よりも速いペースで「強い番犬」を育てている。


▼ ルールを作るのは俺たちだ

  しからば、日本はお先真っ暗かというと必ずしもそうではない。しかし、国際交渉に参加する前に、まず、その相手である「外国人」というものをよく知る必要がある。もちろん、世界中に二百カ国近い独立国があるので、「外国人」もそれだけ種類があるのであるが、実際に日本が直面する二国間および多国間の国際交渉の場合、そのほとんど相手は欧米人であるので、今回は特に欧米人と交渉する場合について論を進める。もちろん、対中国人や対インド人や対アラブ人等、いろいろなパターンがあるが、それらについて考える場合にも、対欧米人で考察した内容はそれなりに参考になる。

  私は、これまで三十年以上、いろんな問題で外国人と交渉してきた。そのほとんどが、生き馬の目を抜くような商売ではなく、基本的に「性善説」で成り立っているNGOや宗教指導者間の交渉であったので、かなり「甘く」なっているはずであるが、それでも、「なんでそんな無茶な論理をいけしゃーしゃーと吐けるねん?」と思えるような場面にしばしば出くわしてきた。4年前からとあるNGO団体(国連経済社会理事会に総合諮問資格を有する国際的に認知されたNGO)の国際事務局業務の一翼を担っている。その事務局の業務を担う前にも、20年以上にわたって私はその団体の国際評議員を務めたり、私の身内が国際評議員を務めていた時にはその代理として、役員会に出席してきた。この団体以外にも、いくつかのNGO団体の役員会に出席してきた。その回数は、30年間で150回に及ぶ。ここ何年かは、毎日のように欧米人(もちろん、インド人やユダヤ人とも…)とメイルやSkype等でバトルしている。それらの経験の中で私が体得した内容を披瀝する。

  まず、欧米人は「ルールを作るのは自分たちだ」という大前提を持っている。それには、「(時代や地域や文化的背景を超えた)普遍的な価値を提起できるのは西欧文明だけである」という無意識の自覚を有している。この傲慢な態度にいつも異議申し立てを行っているのがイスラム教徒たちであるが、残念ながら、この500年間は西欧キリスト教諸国が世界を支配してきたので、「西欧文明が普遍的な価値を持っている」ということを具体的に否定する対抗文明が存在しない。実を言えば、その前の数百年はイスラム帝国やモンゴル帝国の文明が世界を凌駕していたし、その前はペルシャやインドや漢文明が世界を凌駕していたのであるが、それらの国々は、発展途上国や新興国扱いである。また、国際会議の言語も、どういう訳か、英語やフランス語で行われることがほとんどである。国際間の相互主義からすれば、フランス人はフランス語で、ドイツ人はドイツ語で、日本人は日本語でそれぞれが発言するが、もしくは、世界のどの国においても話されていない人工のコンピュータ言語でお互いに意見を交換すべきであるが、実際はそうなっていない。

  仮に、百歩譲って「現状支配」を認めて、欧米式のルールで会議を行ったとしても、私が会議の席で、英語で彼らの論理を論破したとしても、彼らは決して自分たちの負けを認めようとはしない。私は膨大な資料を読み込んで、「あなたが今言ったことは、1年前の○月○日のXX会議であなたが発言したことと矛盾する」と満座の前で指摘しても、決して負けを認めるどころか、「お前の言っている意味が解らない」とか言って、言語能力の問題をすり替えて逃げる連中がほとんである。ついさっきまで、普通にしゃべり合って(意思疎通し合って)いた相手に対してでもである。現在のIT社会のおかげで、過去10年間に送受信したメイルは数万通単位ですべて保存されており、しかも、検索機能でどんどんと過去の発言まで遡って探すことができるので、たとえ相手が外国人であったとしても、非論理的な連中を論破するぐらい赤子の手を捻るようなものである。ただし、欧米人は日本人に論破されるのは悔しいので、そういうときは、彼らの不公平な優位性を維持するため、一丸となって攻撃してくる。よくスポーツの世界でも、その種目で日本人(非欧米人)が連続してメダルを取り出すと、欧米人の有利になるようにルール変更したりするのと同じである。


▼ 交渉の入り口からちゃぶ台をひっくり返せ

  しかも情けないことに、「欧米支配」を当たり前だと思いこんでいる連中が、非欧米人にたくさん居る。インド人なんかその典型である。あれだけ欧米人に頭押さえつけられながら、「あなたの意見には財政的裏付けがない。希有壮大な話だけなら誰にでもできる」と私に指摘されたら、思いっきり訛った巻き舌英語で、ギョロ目を剥いて反論してくるくせに、欧米人にちょっと褒められたら大喜びである。もっと情けないのが、日本人でありながら、欧米人のつまらない意見を唯々諾々と有り難そうに拝聴する連中である。私が欧米人を論破しても、賛否投票で、欧米人の方を持つ連中まで居る。何故なら、国際舞台に置いて、私が強くなりすぎたら、日本代表としてこれまで欧米との交渉に当たってきて欧米有利な条件で妥結してきた連中の無能さが日本国民の前で白日の下に晒されるのを恐れているからである。汚い欧米の連中は、負けそうになると、すぐにそういう日本人を捜して、ネガティブキャンペーンをはる。少なくとも、欧米との交渉に参加する者は、欧米の歴史や宗教について、圧倒的な知識を有しておく必要がある。その点、専門である宗教は言うに及ばず、歴史に対する私の知識は世界史を受験科目に取っている国立大学の現役の受験生のそれを遙かに凌駕しており、このレベルは欧米人自身でも滅多にいない。

  日本人が進んで参加すべきは、「世界のルール作り」の分野であって、今般のTPP論議のように、相手が提案してきた「24分野について云々」などというのでは、始めから話にならない。国際会議を始める前に、まず、「会議の公用語は何語でするか?」から始まって、「会議はいつどこで行うのか?」や「会議の構成メンバーは誰々か?」や「意志決定の方法は、コンセンサス方式か、多数決方式か?」また、「多数決とは、過半数か、2/3以上か、はたまた3/4以上か…?」といった入り口論でまず、会議を止めなければならない。つまり、「私は容易にはあなたの土俵では戦いませんよ」ということを先方に表明するのである。先ほど、多数決の方法にもいろいろあると言ったが、欧州理事会のように「1国1票」制から、欧州議会のように「議席数を人口別に比例配分」という方法だってある。小国のブルネイも1票、大国のアメリカも1票というのでは、その決定事項が実際に実行されなくなることがあり得るからである。また、国連の安保理のように「拒否権を認めるのか?」といった具合に、もめにもめなければならない。「日本が参加する以上、どの分野について話し合うかということ自体に日本の意見が反映されないのであれば、日本は参加しない」とすら言い切るべきである。

  つまり、こういった会議は、事務局というか提案国に圧倒的に有利になってしまうのである。たとえば、ある分野で、はじめから50受け入れる腹づもりのある話を最初に100とふっかけておいて、「50まで譲ってやったから、これこれの分野ではお前が譲る番だ」などという虫の良い話がいくらでも転がっている。そんな話に乗せられてはいけない。ということは、最初の24分野を大いに疑ってかかるべきである。しかも、日本の官僚には、間違った国際協調主義やヒューマニズムを信奉している連中が多いので、国益を損ねて、外国に譲歩するという話になりかねない。北朝鮮みたいであるが、国益をかけて国際会議に出る連中(政治家や政府代表の役人)は、妻子を人質に差し出して、交渉に負けたら妻子共々処刑されるぐらいの決死の覚悟で国際交渉に当たらなければ、必ずと言ってよいほど負けるに決まっている。何故、そんなことが言えるかというと、われわれの交渉相手たる欧米人は、一神教の輩であるからである。


▼ 一神教徒をやっつけるのは至難の業

  9月にイスラエルを訪問した際、ユダヤ教のラビたちと神学論争をしたが、私にとって一番興味深かったのは、彼らが真顔でしてきた「一神教徒でないあなた方日本人にとって正義の源泉はどこになるのか?」という質問であった。われわれからすれば、「正義」なんて相対的なものに決まっているじゃないか! 彼らにとって、善悪の基準は、神(ヤハウェ)の示し給うた律法であるが、われわれ日本人にはそのような絶対的な律法など存在しない。だから私はこう質問し仕返した。「世界中どこの国でも、殺人は悪いことに決まっている。しかし、数百人の子供たちがいる幼稚園にテロリストがマシンガンを乱射しながら侵入してきた。すでに百人以上の子供たちが撃ち殺された。そんな時、私の目の前にピストルがあって、幸い私はテロリストのすぐ後ろ側に居て、テロリストに気づかれずに立っていたので、そのピストルでテロリストを撃ち殺して残りの子供たちのいのちを救った」この場合、私は殺人者になるか? と…。ラビは「もちろん、そのような場合の殺人は許される」と答えた。つまり、たとえ「殺人の禁止」というような最高規範であったとしても、それはその人が置かれた状況によって変化しうるものである。つまり、最初に神が与え給うた律法ですら、相対的な規則に過ぎないと…。

  よく日本人が尊重する政治的価値として「平和(peace)」というものがあるが、欧米人にとって「peace」よりも大切なのは、「正義(justice)」である。彼らにとっては、正義のない平和なんぞ価値はない。だから、イラクやリビアを見れば判るであろう。フセイン大統領やカダフィ大佐の支配していた時代のほうがよほど「平和」であったが、その平和には、欧米人の考えるところの「正義」がなかった。だから、戦争まで起こして多くの血を流して「正義」を取り戻したのである。彼らのいう「平和」は「peace with justice」のことであって、日本人の思う鼓腹撃壌的な天下太平ではない。つまり、一神教とではない一般的な日本人が、欧米人と国益をかけて国際会議で交渉ごとを行う際には、彼(女)よほど自身が、よほど信念の強い人物でなければ、最終的には先方に譲ってしまうことになるのである。だから、「交渉官は家族を人質に差し出せ」というようなアナクロな比喩で交渉に向かう者の必死さの度合いを測ろうとしたのである。今回のTPP騒動の最中に、このような話が一度でも出たか? 出ていないようであれば、TPPはおろか、FTAでも六カ国協議でも、一切の国際交渉に参加すべきではない。さもなくば、日本の国益を損ねることになるだけであるから…。私を政府代表に据えろと声を大きくして言いたいところである。

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