金正日「車中の死」が意味するもの

11年12月19日



レルネット主幹 三宅善信  


▼ 時代のターニングポイント2011年

  本日、「北の将軍様」こと金正日(キム・ジョンイル)朝鮮労働党総書記の死去が突然、報じられた。たいてい、全体主義国家の首領の死は秘せられるが、そのうちにそこかしこから情報が漏れだし、ついには西側メディアに報じられから、後追いでその訃報が発表されることが多い(逆に、中国の江沢民前国家主席場合のように、何度も西側メディアによって「死亡説」が流されたが、その後、ピンピンした本人が「辛亥革命百周年記念式典」に登場し、メディアや情報機関の力量が問われることも多い)が、今回は、西側の情報機関も含めてまだ誰も金正日総書記の死亡情報を掴んでいない時点で、北朝鮮当局のほうから公式報道機関である朝鮮中央放送のニュース(特別放送)で発表されたのが、意外であった。もちろん、実際には「発表」になる何日か前に死亡しているが、そこでそれなりの権力闘争が行われた結果、一応の「決着」が着いたから発表されたのであるが…。

  十日ほど前から、日本のワイドショーなどでは、金正日親子を除けば最も有名な北朝鮮人であるあのチマチョゴリの女性アナウンサー李春姫(リ・チュンヒ)女史が「かれこれもう二カ月近くもTVの画面に登場していないのは何故だろう?」ということで、「重病説」や「失脚説」に併せて、「来年(2012)は金日成(キムイルソン)主席の生誕百周年の佳節に当たり、強勢大国の扉を開くおめでたい年になので、元日に颯爽とTV画面に登場するのではないか?」などと予想されたりもしたので、「もし、元日の放送に出演しなければ、それこそ重病か失脚だ」と言われたりもしていたが、本日、突然、喪服のチマチョゴリ姿で、「親愛なる将軍様金正日同志が、17日午前8:30、地方への現場指導に列車で向かわれる途中、突然、逝去されました!」と嗚咽を交えながら報じたので、さすがの私も驚いた。

  何年か後に2011年という年を振り返ったときに、日本ではもちろん「3.11東日本大震災と原発事故」ということになるのであろうが、世界史的観点から俯瞰すれば、「アラブの春」あるいは「ジャスミン革命」と呼ばれた北アフリカで連鎖的に起こった社会変革、欧州ではギリシャの財政破綻に端を発する統一通貨ユーロのシステム危機、アメリカでは「9.11同時多発テロ」に端を発するアフガン・イラク戦争の終結と超格差社会への異議申し立て(「We are the 99%」運動)、そして、年末になって顕在化したプーチンの長期“独裁”への異議申し立てである「ロシアの冬」運動であろう。それに加えて、長年、世界の安全を阻害する因子であるとされ、ブッシュ政権から“ならず者”と呼ばれたビン・ラディン氏、カダフィ大佐、そして、本日、金正日総書記の三者が揃って“不自然な死”によってこの世を去ってくれたので、「時代のターニングポイント」になった年であったと記憶されるであろう。


▼ 秦の始皇帝の死

  さて、独裁者の「列車の中での死」の一報を受けて真っ先に思い浮かんだのは、二千二百年以上前の「秦の始皇帝の行幸中の死」のである。中国大陸で数百年以上続いた小国乱立(春秋戦国)時代に終止符を打った秦王政は、紀元前221年、史上初めて中原を統一して、旧来の「王」に代わる称号として伝説の三皇五帝から採った「皇帝」という称号(註:自分専用の一人称「朕」も彼の作)を僭称し、その後、1911年の辛亥革命までこの大陸で二千百年以上続いた「皇帝制度」を始めた。それ故、「始皇帝」と名乗ったが、彼はまた、それまでこの世に存在したことのない「全能者(註:世界は一人の皇帝とそれ以外の臣民から構成されるという意味)」としての“皇帝”というものを人々に認識させるために、「天下統一」して以来、彼は煌びやかに着飾った数千人の軍団を引き連れて盛んに全国を巡遊した。始皇帝の業績の内、文字の統一(註:本来「表意文字」である漢字は、地方によって様々な異字体が存在したが、皇帝の命令を世界の隅々まで伝達させるために篆書体に統一。さらに膨大な公文書を処理するためにより簡略化した隷書体に進化)、度量衡の統一(註:世界中から等しく税金を取り立てるため)と共に、「軌」の統一(註:地道にできる荷車の通った痕にできる「轍」が「線路」の役割をして、大量の物資が輸送でき、また、戦車の迅速な移動に役立った)を強力に推し進めた。さらに始皇帝は、皇帝専用の幅67mもある「馳道」を整備して「?(車偏に温の旁)?(車偏に涼の旁)(おんりょうしゃ)」と名付けた冷暖房完備(?)の「特別車両」を走らせ、全国を巡遊した。と同時に、彼個人のための絢爛豪華な阿房宮や始皇帝陵、また、北方には万里の長城、南方には靈渠と呼ばれる大運河などの巨大事業を各地の人民を動員して建造させると同時に、苛烈な法を施行して、密告制度を奨励して、人民に対して苛斂誅求を極めた。

  その始皇帝が、天下巡遊中、現在の河北省にある沙丘という地で崩じた。この世のことはなんでも自分の思い通りになると思っている独裁者が最後に願うことは「永遠のいのち」である。天下統一後の最初の巡遊の折、現在の山東省にある泰山で、周の成王(註:殷を倒して周を建てた武王はわずか二年で崩じ、実質的には二代目の成王が封建制を確立した)以来八百年絶えてなかった「封禅」の儀を執り行い、天上天下に自らが“神”同然であると宣言した。因みに、その後の二千百年以上の中華帝国の諸王朝でも、「封禅」を行った皇帝は、漢の武帝や唐の玄宗や清の乾隆帝など帝国の版図を最大限に拡げた十数人しかいない。しかし、いくら天上天下唯我独尊の存在者になったとしても、不老不死の願いを叶えることが不可能であることは、日々衰え逝く自らが一番よく知っていることである。まして、医学なんて皆無と言って良い時代である。いくら皇帝でも、流行病に罹って、あっという間に死んでしまうかもしれない。その意味では、高度に発達した医療を安価に受けることができる現代の庶民のほうがよほど上である。人類の歴史が始まって以来、否、地球上に最初の生命が発生して以来、40億年間連綿と続いてきた唯一の、しかも確実な「永遠のいのち」を得る方法は、「より多くの子孫を残すこと」である。だから、歴代の王朝は後宮に数多の美女を集めたのである。「不死」どころか「不老」を願うこともナンセンスである。ところが、始皇帝は不老不死を願うあまり、「神仙思想」などを説くいかがわしい「方士」と呼ばれる連中を近づけるようになったが、彼らの処方した怪しげな「妙薬(一説には、水銀の成分を含んだ丸薬と言われる)」を服用してかえって寿命を縮めることになった。

  始皇帝の死の経緯は、司馬遷の『史記』によると、4度目の天下巡遊の途上で患い、自らの死を覚悟した始皇帝は、匈奴を平定するために30万人の最強軍団をつけてオルドス(現在の内蒙古自治区)に派遣していた蒙恬将軍の監察役(註:武装した大規模派遣軍の将軍が手薄な首都を制圧してクーデターを起こす例がままあるので)として蒙恬に同行していた長子の扶蘇宛に、「(首都である)咸陽に戻って葬儀を主催せよ」との遺詔を作成した。現在でも、葬儀の主催者(「喪主」)を務めることが、世間から後継者(この場合は二世皇帝)として認知されるということである。ところが、常に始皇帝のお側近くに侍って身の回りの世話をしていた宦官の趙高(註:晩年の始皇帝は、神仙思想で説くところの「真人(=超人)」になろうとして、家臣の前からも身を隠して丞相の李斯さえ遠ざけ、趙高以外の人に会おうしなかった)は、その立場を利用して数々の讒言や勅令の改竄(かいざん)を行っていたが、趙高を非難すると何を讒言されるか判らないので、皆、趙高の専横を見て見ぬふりをしていた。ある日、趙高が始皇帝の搭乗する??車の中に入ると、あろうことか始皇帝は既に息絶えていた。

  しかし、先の遺詔を扶蘇に届けてしまうと、真っ先に粛正されるのが自分であることをよく解っていた趙高は、この天下巡遊に随行していた始皇帝の末子胡亥と李斯を仲間に引き入れて、本物の遺詔を握りつぶして、「(不忠につき)自害せよ」との偽の詔勅を作成して、剣と共に扶蘇の元へ届けさせた。蒙恬は、この詔勅が偽物であることを見破り、かつ、30万の将兵を擁する軍勢を率いて上京すれば誤解であることが判明すると扶蘇に説いたが、扶蘇は「(たとえ偽物であったとしても)勅書を疑うこと自体が不忠である」として、賜った剣で自害し、蒙恬は獄に繋がれた。こうして「邪魔者を始末した」趙高・李斯・胡亥の三人組は、天下巡遊の行程を急遽変更し、咸陽へ引き返した。始皇帝が既に崩じていることを知られると拙いので、三人組はあたかも??車の中に始皇帝がおわすかのように演じ、死臭をごまかすために魚の塩漬けを乗せた荷車を??車に伴走させた。始皇帝が旅先で崩じたのは7月であるにもかかわらず、死臭が溢れ出すことを恐れて空調用の窓をすべて閉じたので、??車の中は、死臭と夥しい蝿であったが、趙高は平然と何時間も車内に留まったという。そして、無事、咸陽に帰り着いた一行は、始皇帝の大喪を発し、遺勅により、二世皇帝の位には、末子の胡亥が就いたと宣言した。そのとき、胡亥は弱冠20歳であったという。


▼ 情けない日韓の諜報能力

  金正日総書記の突然の訃報に接し、真っ先に私の脳裏をよぎったのが、今述べた「秦の始皇帝の死」であった。それほど、「列車の中での死」というのは不自然な現象である。北朝鮮の独裁体制が崩壊するまで、本当の真相はおそらく闇の中であろう。金正日総書記は、循環器系の病を患っていたので、心筋梗塞や脳内出血を起こしたとしたら、いくら北朝鮮でも、救急車で搬送されるであろう。また、もし、本当に地方視察の途上であれば、それなりの専門医も同行していたであろう。たしか、朝鮮中央放送の李春姫アナウンサーは、ずらずらずらっと金正日総書記の肩書を並べ立てた後、声を震わせながら「親愛なる将軍様金正日同志が、17日午前8:30、地方への現場指導に列車で向かわれる途中、突然、逝去されました。わが偉大な金正日同志が、あまりにも急に、あまりにも惜しく、われわれのそばを去ってゆかれました。強勢国家の建設と人民の幸福のために不眠不休の労苦と強行軍の道を歩み続け、積もり積もった精神的肉体過労により、列車の中で息を引き取られました…」と朗読した。

  しかしながら、偵察衛星の情報によると、ここ数日、金正日総書記専用の特別列車は、平壌市内に停車したままで移動した気配がないとのこと…。北朝鮮当局の思惑は、李アナの言葉にあるように「強勢国家の建設と人民の幸福のために不眠不休の労苦と強行軍の道を歩み続け」という要素を強調するために、「積もり積もった精神的肉体過労により、列車の中で息を引き取った」という姿を演出したかったのであろう。問題は、この二日前の死――本当は、もっと前に死んでいたのかもしれない――を何故、二日間も秘しておかなければならなかったのか? という点である。おそらく、始皇帝の死と同様、奸臣どもによって多くの偽装工作が行われたのであろう。もっと言うと、万事、情報化の時代に、よくも二日間も独裁者の死を隠し仰せたと北朝鮮当局の情報統制能力を評価し直した。

  一方、情けないのが、日本政府である。本日正午からの放送に先立って、朝鮮中央放送では、午前10:00の段階で、「本日正午から特別放送があるから皆、心して拝聴するように」との予告放送が行われたのであるから、「北朝鮮で重大事件が何かあった」と緊急対応体制に入らなければならないはずである。場合によってはミサイルが飛んでくるかもしれないのだから…。ところが、野田総理はこの予告を軽視していったん街頭演説へ向かった後、一般国民と同じ、NHKのニュースで金正日総書記の急逝を知り、慌てて官邸へ引き返し、緊急の安全保障会議を招集したというではないか…。また、13:00から開かれた安全保障会議に間に合わなかった閣僚も居るということで、あらためて民主党政権の危機管理能力のなさが露見された。もっとお粗末なのは、韓国政府である。特別放送のあった前日(12月18日)には、日韓首脳会議に出席するため、李明博(イ・ミョンバク)大統領は、京都に滞在していた。大統領の外遊中に金総書記が急死したのなら致し方ないが、李明博大統領がまだ韓国に居た17日の朝に既に金総書記が急死したのであるから、北朝鮮国内にはそれなりの動きがあったはずである。それをまんまと見逃したから、李大統領は「従軍慰安婦問題」なんぞというくだらない問題をぶり返すために、わざわざ来日したのである。これがもし、北朝鮮軍による侵攻であれば、今頃ソウルの街は、火の海になっていたであろう。日韓政府ともに重症である。このことは、今後検証されるであろう。


▼ 李英浩朝鮮人民軍総参謀長がキーマン?

  さて、今回の金正日総書記の急逝を受けて、北朝鮮当局は、すかさず「金正恩(キム・ジョンウン)同志が、金日成主席以来の主体(チュチェ)の偉業を継ぐ」と三代目継承を内外に宣言したが、未だに儒教的価値観が色濃く残る(例えば、1994年に「建国の父」金日成主席が急逝した際には、儒教の伝統に則って三年間の服喪期間が設定され、跡を継承した金正日も、亡き父を「永遠の主席」と讃えて「主席」の位を永久欠番にして、自らは「総書記」に就いた)北朝鮮において、長男である金正男(キム・ジョンナム)氏や次男である金正哲(キム・ジョンチョル)氏を差し置いて、末子の金正恩氏が「首領様」の位に就くのは、どう考えても不自然である。いくら、昨年9月に国防委員会副委員長および大将に就任したからと言っても、独裁者というものは、最期の瞬間までフリーハンド(=恣意的になんでも決定できる権能)を自分の手元に残しておきたいものであるから、後継者の指名権(変更権)は最期の瞬間まで握っているものである。さもないと、いくら独裁者でも代えることのできない後継者が確定したら、その瞬間から、その独裁者の政権はレイムダック化する。そのことは、独裁者本人が一番よく知っていることであり、彼はその後継者指名権を通じて、息子たちに忠誠競争をさせるのである。

  ということは、今回の金正日総書記の急逝の裏には、場合によっては、「もうお前なんか跡継ぎにしない」と言われた金正恩氏が、父を亡き者にした可能性すらある。あるいは、死の床に瀕した父の「遺命」を勝手に握りつぶして、自分の都合の良いように書き換えた可能性すらある。「焚書坑儒」のやり方を巡って、あれだけ仲が悪かったといわれる始皇帝と扶蘇ですら、死の床に瀕した始皇帝が後継者に指名したのは、はるか北方に居た長男の扶蘇だったのであるから、場合によっては、金正日総書記の指名した後継者が、はるか北京にいた金正男であった可能性がないとは言えまい。しかし、そんなことは闇の中である。真相が露見するのは、北朝鮮の金王朝が崩壊する時まで待たねばならない。そう遠い話ではないだろうが…。それまでは、その後、誰が権力の座に就いたかで推測するしかない。金正恩大将が長兄を押しのけて「皇帝(=将軍様)」の地位に就いた胡亥だとすると、この継承権簒奪の絵を描いた趙高に当たるのは、いったい誰であろうから、さしずめ、昨年9月に金正恩大将の表舞台登場と歩を合わせて、政治局常務委員・中央軍事委員会副委員長・副元帥に昇進した李英浩(リ・ヨンホ)朝鮮人民軍総参謀長あたりであろうか…。すると、丞相の李斯に当たるのは、叔父の張成沢(チャン・ソンテク)国防委員会副委員長あたりか…。歴史の説くところによると、胡亥が帝位に就いて、わずか三年で氾濫によって不世出の帝国は崩壊し、李斯も胡亥も趙高に殺された。そして、その趙高も、胡亥の異母兄である子嬰に誅せられた。はたして、北朝鮮の金王朝は今後三年間もつだろうか…?

戻る