大阪市交通局は誰を助ける?

12年3月14日



レルネット主幹 三宅善信

▼現地まで足を運ぶことが支援

  2008年に、大阪市交通局が大阪市浪速区にあるNPO法人「食と農の地域開発研究所」からの要請(同NPO法人によると「駐日ドミニカ大使館からの依頼」)に応じて、ドミニカ共和国への無償提供に応じたはずの中古の市バス(現地では、スクールバスとして使用)5台が現地へ送られずに、業者間を転売され、そのうち4台がまだ日本国内(長野県と山梨県に各1台)に留まっており、あとの2台は東日本大震災による大津波で甚大な被害を受け、ターミナルビルのボーディングブリッジが使えなくなった仙台空港で、ターミナルビルと昔ながらのタラップを使って乗り降りする飛行機の間を行き来する送迎バスとして援用されていることが判明し、問題となっている。

  大阪市交通局によると、2002年にも同NPO法人を通じて、ドミニカ共和国へ中古の市バス20台を寄贈した「実績」があるそうであるが、これとて本当に現地まで行って、それが実際にスクールバスとして使われていることをこの目で確認したのか怪しい限りである。私もこれまで三十年間ほど、NPO/NGOの活動に携わってきたが、私のモットーは、たとえ貴重な時間を割いて余分な飛行機代を支払ってでも、自分が関わっている海外での支援事業は、自分が現地まで出向いていってこの目で直接確認し、レシピアントと意見交換を行い、ドナーの意向を周知徹底させることである。例えば、過去1年間だけを取ってみても、昨年9月にはイスラエル・パレスチナで実施しているIEA(諸宗教対話)プログラムや、本年2月には南インドのケララ州で実施しているHRE(人権教育プログラム)を現地視察してきた。もちろん、国内でも、東日本大震災の被災地で行っている数々の復興支援プログラムも、現地まで何度か足を運んできたことは言うまでもない。

  しかし、大阪市交通局は、このNPO法人からの依頼に対して、そこまで行っていないものと思われる。というか、政府も自治体も、ODA(政府開発援助)等を通じての莫大な海外援助のほとんどは、銀行送金でことを済ませて、わざわざ政治家もしくは官僚が現地まで行ってその使用実態を確認しているケースはほとんどない。援助はやりっ放し。報告を受けたとしても、口頭か文書によるものがせいぜいである。国民の大切な税金を使っているという意識が弱いからである。NPO/NGOを運営するのが大変なのは、外国語による交渉でもなければ、華々しいプログラムを実施するための資金集めでもない。義捐金や支援金を集めるのはそれほど難しいことではない。問題は、事務局を維持する費用やスタッフの人件費をどう捻出するかである。


▼支援してあげて罵られる

少し考えてみれば判ることであるが、例えば、ソマリアの飢えた子供のために1万円の義捐金を誰かから頂いたとしよう。これを現地の銀行へ送金するだけでも、手数料だけで約4,000円はかかる。でも、寄付をしてくれた人は1万円が丸々ソマリアの子供の所に行ったと思っているから、誰かの善意を丸々先方に伝えるためには、こちらが相当な「自腹を切ら」ねばならないことになる。これが結構大変である。赤十字やユニセフ等の世界的な機関に寄付する場合はどうだろう? 両機関とも、世界中に何万人ものスタッフを抱えているであろし、ジュネーブやニューヨークの大きな本部ビルや、世界各地に現地事務所も数多くある。寄付を募るテレビコマーシャルも流している。その金は誰が拠出しているのであろう? もし、あなたが、ソマリアの子供たちのために、このような世界的な団体を通じて日本国内で1万円寄付したとしたら、おそらく約4分の1は日本国内の同団体の手数料に、次の約4分の1は同団体の国際本部の手数料に、最後の約4分の1はソマリア国内の同団体の手数料に差っ引かれて、実際には2,500円分ほどしか届かないであろう。そのようなことを寄付してくれる善意の大衆はご存じであろうか?

  だから、私は、私の関わるNPO/NGOでは、たとえ飛行機代やホテル代を自腹で切っても、できるだけ現地まで現金や支援物資を持って行き、自らレシピアントに手渡すことにしている。例えば、あなたが北朝鮮の飢えた子供のことを可哀想に思って、食糧やお金を寄託したとして、本当にその金品が北朝鮮の飢えた子供の口に入ると思うか? おそらく、北朝鮮人民軍の兵士の胃袋に収まるのが関の山である。あなたが本当に北朝鮮の子供たちの飢えを何とか助けてあげたいと思うのであれば、あなた自身がコメを担いで北朝鮮まで行き、コメとして先方に手渡す――コメは保存が利き、その結果、横流しされやすい――のではなく、現地であなた自身がご飯を炊いて握り飯を作り、北朝鮮の子供たちを一列に並ばせて、自らの手で彼らの口に入れてやり、その場で摂食・嚥下するのを見届ける以外に方法はない。

人道支援の難しさを理解していただけたであろうか…。人道支援とは甘っちょろいヒューマニズムなんぞとは次元が違う。しかも、その行為は、最初に書いたように、現地レシピアントの仕事ぶりを「査察」することになるから、当然、現地のブローカーやスタッフ(特に、ちょろまかしている奴)からは、疎まれることになる。インチキしている奴ほど口汚く罵ってくる。こちらは、金品を与えてやっているのに、貰っている連中から疎まれ、罵られるので大変傷つくことになるが、そんな罵詈雑言に対して堂々と反論し、彼らを平伏させられるだけの知力と忍耐力を備えた人間でないと、人道援助などには関わるべきではないというのが、私の30年間に及ぶこの道で得た結論である。


▼仙台空港へ横流しされた大阪市バス

  さて、話が大阪市交通局からの支援バスの横流し事件からだいぶん逸れたので、元に戻すと、私は、実は、この横流しされた「元大阪市営バス」に乗ったことがある。昨年6月末に石巻市で開催された国際宗教同志会の慰霊復興祈願祭に列席した際、まだまだ大津波の爪痕も生々しい仙台空港で、この「元大阪市営バス」を目の当たりにし、また、実際にこのバスに乗って、駐機場に停まっている飛行機まで移動した。路線バスとして行き先を案内するロール式の表示や、バスの「顔」の描かれた大阪市のマークである澪標が取り外されていたが、それ以外のペイントは大阪市バスそのままで、毎日、わが家の前を走っている大阪市バスの外観を見間違えるはずがない…。

大阪市のIDが取り外されて仙台空港内で活躍するバス

その際に、大阪以外の地方から参加された方々に対して、「さすが大阪市でしょう。すべての設備が津波で流出して使い物にならなくなった仙台空港にバスを寄贈するぐらいですから…」と言うと、私の話を聞いた方の中には、「三宅さん、なんでナンバープレートやこのバスが大阪市のものであった(大阪市からの寄付である)という証拠のIDになる部分のペイントが消されているのか?」と切り替えされたので、「ナンバープレートは公道を走るために必要なものであって、このような空港敷地内には、ここでしか使われない特殊車両がたくさんあって、それらにはナンバープレートが付いていないでしょう。おそらく、自動車重量税や各種の保険の取り扱いが異なるし、税金対策上『大阪市からの贈与』という形を取るために、『もはや市バスには戻らない』という意味で各種のIDを外したのでしょう」ともっともらしく答えた。

  そして、それから1カ月ほどして、当時の大阪市長であった平松邦夫氏とお目にかかる機会があった。というか、昨年後半は平松市長とは各種パーティやシンポジウム等で4回ほどお出会いする機会があったので、その際、平松邦夫市長に「先日、仙台空港で大阪市営バスが、被災地の人々のお役に立っているところを見ましたよ!」という話をした。その際、平松市長は「本当ですか? 知らなかったなぁ…」と仰ったので、「こんなん、市民に対するええ宣伝でっせ!『大阪市の支援は被災地の皆様の役に立っています!』と、HPや広報誌で宣伝しはったらよろしいでんがな」なんてね…。と、すると、平松市長は「一度、交通局に調べさせてみます」と仰った。それが、あの「横流しされた市バス」だったのだ。市長さんも知らないはずである。直接・間接にいろいろと問題の多い大阪市交通局である。橋下徹市長率いる大阪維新の会議員団との今後のバトルが楽しみである。


▼大阪市交通局と関西電力は兄弟関係

  さて、逆風だらけの大阪市交通局であるが、良いこともしているので、そのことについても触れなければ公平を欠くというものである。という訳で、大阪市交通局員が行った一大快事について紹介する。そもそも、大阪市交通局の歴史は、1903年に、市電(路面電車。日本初の公営電気鉄道)を運行したことに始まる(因みに、東京の市電もこの年から運行開始)。翌年には、ロンドンのWデッカーよろしく、日本初の二階建て電車も運行しだした。1923年に大阪市電気鉄道部は大阪市電気局に改組。1927年には、路面電車に加えて市営バスの営業が開始された。そして、早くも1933年には、日本初の公営地下鉄である「1号線(御堂筋線)」が運行を開始した。そして、戦時下の1942年、配電事業を関西配電(現、関西電力)に移管した。つまり、当時の鉄道事業者は、電力を安定供給するため、電力会社から電気を買うのではなく自ら発電していたのである。この際、大阪市は発電に関する現物資産を関西配電(通称:カンパイ)に提供するのとバーターで、関西配電(=関西電力)の筆頭株主となった。因みに、国鉄も同様で、自前の水力・火力の発電所を運用しており、国鉄の資産を引き継いだJR東日本なんか、今でも、首都圏のJR東日本各線区で使う電力の9割は自前で発電しているのである。東京電力が潰れても、JRの電車は走れるということである。そして、同年には、「地下鉄3号線(四つ橋線)」が開業している。そして、終戦後の1945年、現在の名称である大阪市交通局と改組された。

その後も、1981年には全自動運転のニュートラム南港ポートタウン線の運行を始め(註:東京の臨海新交通システムである「ゆりかもめ」の営業開始は14年後の1995年)。1990年には、世界初のリニア地下鉄である長堀鶴見緑地線を開業するなど、その後も、「私鉄王国」と呼ばれる関西において、海底や運河の下などの軟弱地盤を含む大阪市域を縦横に地下鉄(ニュートラム含む)9路線を走らせている。因みに、東京23区には地下鉄が13路線走っているが、23区内の面積が622kuなのに比べて、大阪24区の面積は約1/3の223kuしかないことを鑑みたら、その地下鉄路線の密度の大きさが判るであろう。もちろん、地上には、路線バスも大量に走っている。ただ、大阪市営地下鉄が東京のそれ(営団地下鉄=現東京メトロと都営地下鉄)と比べて収益性が低かったのは、戦前から長く続いた悪名高い「市営モンロー主義」のせいである。関西では、大阪を中心に非常に発達した郊外電車を運営する私鉄網があったのであるが、大阪市は長年、都心部に当たるJR大阪環状線の内側の地域の鉄道網の整備は、市営地下鉄のみとし、長年、阪急・阪神(ターミナルは梅田)、京阪(同、京橋)、近鉄(同、阿部野橋と上本町)、南海(同、難波)の五大私鉄の都心部への延伸、あるいは、都心部を貫通して、私鉄相互を接続することを認めなかった。したがって、東京のように、通勤・通学に用いられる私鉄の郊外電車がそのまま地下鉄に乗り入れて都心部まで行ける東京と比べて、地下鉄各路線の乗車率が落ちるという弊害が見られたが、大阪で万博が開催された1970年を契機に徐々に、私鉄の都心部への延伸が認められ、2008年には京阪中之島線が開業。2009年には阪神なんば線が開業し、先(1970年)に難波まで延伸していた近鉄奈良線と直結し、神戸の三宮から奈良まで、大阪市中心部を貫通して乗り換えなしで行けるようになった。


▼昭和20年3月14日の大阪大空襲

  さて、今日、3月14日は、大阪の人間にとっては忘れてはいけない日である。67年前(1945年)の今日、「超空の要塞」と呼ばれたアメリカ軍の新鋭爆撃機B29の大編隊274機が大阪市に大規模な無差別爆撃を行い、老人・女性・子供らを含む多数の非戦闘員が犠牲になった(註:東京大空襲はその四日前の3月10日)。その前年、サイパン・テニアン・グアム等の北マリアナ諸島にあった日本軍の基地が米軍の手に落ち、大量の爆弾を搭載でき、なおかつ航続距離の長いB29による日本本土の直接爆撃が可能となったのである。ボーイング社製のB29は、その4発のエンジンに過給器(ターボチャージャー)を用いていたため、空気の薄い高々度を飛行することができ、低高度しか飛行することができない日本の軍用機が迎撃できないため、事実上、爆弾を投下し放題であった。さらに、高々度を飛行するこの爆撃機には、与圧室を備えていたため、乗員はそれまでのような酸素マスクや防寒着(上空10,000mの気温は地上より約60℃低い)を着用する必要がなく、この技術は現在の旅客機にも援用されている。

  石造りの建物が基本の欧州では、これらを破壊するために米軍はB17で「爆弾」を投下したが、ほとんどが木造家屋であった日本に対しては、目標物以外に広く類焼するように、ナパーム弾(油脂焼夷弾)やクラスター焼夷弾(註:内蔵された小さな焼夷弾が投下途中に拡散して広範囲を焼き尽くす)といった非人道的な兵器を開発して、始めから鉄筋コンクリート造りの軍事施設ではなく、民間の非戦闘員をターゲットにした攻撃を行った。この戦争は米軍の勝利に終わったから何も戦争責任を問われなかったが、広島・長崎の原爆といい、日本全土の都市への焼夷弾攻撃といい、もしアメリカが戦争に負けていれば、無抵抗な非戦闘員への攻撃によって完全に戦争犯罪に問われているべきもので、軍艦や海軍基地といった軍事施設のみをピンポイント爆撃した真珠湾攻撃とはまったく性格の異なるものであることを明記しておきたい。

  このような状況下、日本第二の都市であった大阪への攻撃は、3月13日から14日へ日付が変わろうとする午後11:57に港区市岡元町への第一波攻撃で始まった。当時の日本の大都市は、米軍の夜間爆撃を警戒して「灯火管制」が敷かれていたので、真っ暗であったが、グアムから飛来したB29の編隊43機が落とした焼夷弾による大火災が目印となって、爆撃機の操縦士なら誰でも簡単に上空からターゲットをロックオンすることができた。続いて、午前0:10から、テニアンから飛来した107機が浪速区塩草を照準に第二波攻撃を行った。因みに、大正区のわが家は、港区市岡元町の東約500m。浪速区塩草の西約1kmの場所にあるので、この間、合計150機のB29による絨毯爆撃を受け、周囲の家屋はほぼ全焼したそうであるが、奇跡的に焼け残ったわが家に祖父は、近所の焼け出された人々百数十人を収容して、彼らに寝る場所と食糧を提供した。また、焼け落ちる四天王寺の五重塔を目撃した父から聞いた話であるが、理科系の学生であった父は、「その炎が赤色や青緑色をしていたので、伽藍の材料にストロンチウムや銅が使われていたのだな」と、「不思議なもので、限界状況下で妙に冷静に分析できた」と話していたのが記憶に残った。もちろん、翌朝の大阪市内は焼け焦げた死体がゴロゴロ転がっていたそうである。

  続いて、サイパンから飛来した124機が午前0:20から爆撃を開始しようとしたが、当初予定されていたターゲットの西区阿波座と北区扇町は、大阪市内の大部分(註:現在のJR大阪環状線の内側のほとんどの部分)が猛火になっていたため(当然、大阪市上空は猛煙で視界が極めて悪かったと思われる)、照準が定められずに、適当に爆撃したそうである。米軍側の記録によると、この日の爆撃の終了時刻は午前3:25であったので、約3時間半の間に、当時世界最大の爆撃機であったB29、274機から大阪市民に対する深夜の無差別攻撃が継続された。爆撃が終わっても当然、消火活動などとてもできるわけがないから、火災自体は地上の可燃物を焼き尽くすまでは消えない。「大阪大空襲」と呼ばれる米軍による空爆は、これを含めて8回実施され、すでに日本の『ポツダム宣言』受諾が伝達された後の、8月14日(終戦の前日)まで繰り返され、多くの無辜の民が犠牲となった。


▼交通局員の機転によって多くのいのちが救われた

  ただし、これだけなら、当時の日本の大都市はどこも似たような状況であったと思われるが、ここに、大阪市交通局に関わるある逸話が残っている。大阪市中心部の南半分で業火に包まれて逃げ場を失った人々の中で、停まっているはずの地下鉄に乗って安全地帯へ待避することができたという人が少なからず居る。この事実は、戦争が終わって半世紀以上公に語られることがなかったが、20世紀の末になって、ある新聞に読者の体験談が掲載されたことから、次々に「私もそうして生き残った」という証言がもたらされたのである。それらの話を総合すると、3月13日の終電の運行終了後から14日の始発の運行開始までの数時間は、今でもそうであるが、さまざまな理由から、地下鉄駅への進入路のシャッターは閉められることになっているが、その晩に限っては、何故か心斎橋駅や本町駅や大国町駅のシャッターが開放されており、走っていないはずの地下鉄に乗って、焼けてなかった梅田方面へ避難して助かったそうである。

  もちろん、何事にも燃料や物資の不足していた戦争末期の頃ゆえ、本来なら運行していない地下鉄への電力の供給もストップさせられていたであろうし、また、運行サービス時間帯以外に、地下鉄の構内に一般人を入れることは、運行安全マニュアル上も許されることではない。にもかかわらず、いのちからがら逃げ惑う人々を助けるために、当時の地下鉄運行関係者(運転手・駅員・送電係・配車係等)らが一丸となって地下鉄を動かし続けたからこそ多くの人のいのちを救うことができたのである。しかし、この素晴らしい事実は、五十数年間人々へ語られることはなかった。大阪市交通局の職員たちは、個別のレベルでは、厳密に言えば「職務規程違反」であったのかもしれないが、全体としては抜群の連係プレイで市民のいのちを救ったのである。現在、橋下徹市長との間で、自分たちの既得権益の維持を目的にバトルしている大阪市交通局の労働組合であるが、もし、大阪大空襲時の彼らの大先輩たちのように、自らの権益の維持に汲々とするのではなく、「大阪市民全体への奉仕者」であるという自覚の下に服務すれば、おそらく市民は交通局職員の見方になるはずである。そのためにも、「シロアリのような職員」を自ら追放するぐらいの覚悟がないと、カメレオンのような市長に皆、餌食にされてしまうであろう。

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