『スラムドッグ$ミリオネア』から何を学ぶ

13年05月10日



レルネット主幹 三宅善信

▼スワラップ在大阪・神戸インド総領事

 大阪ユネスコ協会主催の講演会で、ヴィカス・スワラップ在大阪・神戸インド総領事の話を聴いた。私の一族は、40年間以上の長きにわたって、南アジア地域の各国で、孤児院や学校や職業訓練施設を建て、識字教育・社会開発・人権教育などの活動をしてきたので、他の平均的な日本人よりもはるかにこの地域の問題に関心を抱いてきたが、それにしても、近年のインド経済の急激な発展には目を見張るものがある。しかし、光は眩しければ眩しいほど濃い影ができるのもまた事実である。

 私は、仕事柄、大阪に駐在する各国の総領事と交流することが多いが、中には、ソ連崩壊後の混乱期の1990年代に在大阪ロシア連邦総領事を務めたゲオルギー・コマロフスーキー氏のようなユニークな人材も少なくない。私が一番親しく交流させてもらった故コマロフスキー氏は、ソ連時代から外交官の道一筋を歩んでこられたが、一方で、日本の伝統文化に造詣が深く、独特の木彫仏像を数多く刻んだ江戸時代の行脚僧「円空」に関する研究や著作『日本文化揺籃の地』等、日本滞在中に多くの研究成果も残され、総領事退官後すぐに日本の大学の教授に就任したくらいだ。

ヴィカス・スワラップ総領事と三宅善信代表
ヴィカス・スワラップ総領事と三宅善信代表

ここで紹介するスワラップ総領事も、外交官であるだけでなく、小説家としてもその才能をいかんなく発揮した。スワラップ氏は、ロンドンの駐英インド大使館に勤務している2005年、次の赴任地である南アフリカ共和国、プレトリアへの転勤辞令が発令され、ロンドンでの住居の始末やプレトリアへの引越に荷物の搬送などの移転期間中の二カ月間、いったん妻子をインドの自宅へ帰し、プレトリアでの生活環境が整えばまた合流するつもりで「独身生活」を行ったが、そのわずか二カ月の間、大使館での勤務と引越の作業の合間を縫って、初めてひとつの小説を書いてみることにした。この処女小説『Q&A』(邦題『ぼくと1ルピーの神様』)こそが、わずか三年後に『スラムドッグ$ミリオネア』という題名で映画化されて「ゴールデングローブ賞」や「アカデミー賞」等名だたる映画賞を総なめにするとは、この時点では当の本人を含めて、世界中の誰一人想像すらしていなかった。


▼『クイズ$ミリオネア』

  この頃、英国では、スワラップ氏が小説を書いてみるきっかけになった「事件」が起こった。それは、英国をはじめ世界中でライセンス番組(フォーマット輸出)が放送された視聴者参加型のクイズ番組『Who Wants to Be a Millionaire?』(邦題『クイズ$ミリオネア』)である。この番組は、1998年に英国で放送が始まったが、翌年には、米国やオーストラリアをはじめ8カ国で、2000年には日本を含めて世界数十カ国で同様の番組が放送される空前のヒット番組となった。日本では、2000年から2007年まで、みのもんたの司会で「ため」を付けすぎた司会進行と「ファイナルアンサー!」の決め科白で人気を博したので、記憶に新しいことと思う。観客で囲まれた円形スタジアムの真ん中で、出題者と回答者が向かい合って座り、1問正解するごとに賞金が倍々に上がって行き、1問でも不正解になると全賞金が没収さえる基本的なルール構成は世界中共通である。

ただ、日本の『クイズ$ミリオネア』と諸外国の『Who Wants to Be a Millionaire?』(もちろん、各国の言語に訳された題名がそれぞれ付いている)の最大の違いは、その賞金額の桁である。諸外国の場合「ミリオネア」というぐらいであるから、「100万XX」といった具合に、その国の通貨で「100万」が貰える。英国の場合ね「100万ポンド」だから約1.5億円! 欧州各国なら「100万ユーロ」なので約1.3億円! アメリカでも「100万ドル」なので約1億円! その点、経済大国日本の『クイズ$ミリオネア』の賞金が1000万円と、ショボいことこの上ない…。これは、民放連の取り決めで、テレビのクイズ番組の「賞金額の上限が200万円まで」と決められていることによる。ならば、どうして1000万円もの賞金が出せるか、そして、この番組は、これまでのクイズ番組の賞金額を大きく上回る賞金額だったことが、この番組の人気の原因のひとつであった。これには、ある「仕掛け」がある。みのもんたの前に座る回答者は一人であるが、問題によっては、スタジオに着た家族や知人と相談できることになっており、これを「5人で1チーム」というふうに拡大解釈して5人×200万円=1000万円ということになっている。

しかし、それでもたいしたことない。仮に全問正解しても分譲マンションすら買えない賞金額だ…。おまけに、最近の日本のクイズ番組は、回答者が芸能人ばかりで真剣味に欠けるので面白くない。彼らは、人によってはクイズの賞金よりも高い出演ギャラを貰っているので、クイズに正解することよりも、気の利いたボケをかますことのほうが趣旨になってしまっているからだ。子供の頃(私が子供の頃は、クイズ番組は視聴者が参加したものだった)から、どのクイズ番組を視ても、「なんでも知っているボク」は、ほぼ全問正解だったので、大人になったら「クイズ番組荒らし」をして、それで食っていこうとすら思っていたのに、自分で自由に応募できる大人になったら、視聴者参加型のクイズ番組そのものが日本から姿を消していた。今でも、諸外国のクイズ番組は、回答者はほとんど全て一般人なのに…。


▼不正で全問正解した英国軍人と実力で正解したのに疑われたスラムの少年

ここで、話を元に戻そう。読者の皆さんもこの物語の前提になる英国の人気クイズ番組『Who Wants to Be a Millionaire?』の世界が想像できたと思う。スワラップ氏は、引っ越し作業の忙しいロンドン滞在中に、このクイズ番組の根幹に関わる疑惑の報に接した。それは、この番組に出演し、見事全問正解した軍人が、実は、会場にいた「仲間」と事前に符丁を示し合わせておいて、四択の問題の回答をする際に、答えが判らない場合は、それらしい動作をすると、会場にいる仲間が「咳払い」等によって正解を教えるという単純な手口であった。今では、スマホを会場に持ち込めば、たいていの知識は、ネット検索すれば簡単に得られることができるので、会場に「仲間」さえ入れれば、このミリオネアのように「ため」の入るクイズ形式では、全問正解することも難しいことではない。

映画『スラムドッグ$ミリオネア』の対決シーン
映画『スラムドッグ$ミリオネア』の対決シーン

この「事件」で問題になったことは、軍人という人並み以上の倫理規範の遵守を期待されている人が、不正手段によってこのクイズで全問正解を果たしたと言う点であるが、スワラップ氏はその設定を180度ひっくり返して、客観的にみて、「とでもこの人物が全問正解できるはずはない」と思われるような人物が、フェアプレイで全問正解したにもかかわらず、その「外見的特徴」故に、「インチキをしたのではないか?」と疑わせるというプロットを考えついた。そして、スワラップ氏は、インドのムンバイにあるスラム街で育った少年(当然、就学する機会もない)が、インドにおけるライセンス番組『Kaun Banega Crorepati』に出演して、難しい問題の全問正解をやってのけ、賞金2,000万ルピー(=約3,200万円、ただし、インドと日本の物価の差を考慮に入れた購買力平価から換算すると、3億円ぐらいの感覚)を得るという筋書きを考えた。

ただし、この少年が次々と難問をクリアして行き、2,000万ルピーのかかった最終問題まで辿り着いた時に、司会者から「何か不正をしているのではないか?」と疑われ、拷問されるという先進国では考えられないことが起こったところから、物語が始まるという演出がなされている。映画では、その辺りが緊迫を持って描かれているが、原作者のスワラップ氏が描きたかったのは、その貧困故に就学することができなかった子供でも豊富な知識を身につけることができるか? そして、あるいは、あらゆる人間には、何かの知識を得ようとする意欲と、それを身につけることができる能力が備わっているということである。それは、彼が知ったインドにおける以下のようなできごとがヒントになった。


▼人が知識を得るのに必要な条件は何か

デリーのスラム街に隣接する国立IT研究所が壁に孔を開けて、そこにスッポリと嵌るパソコンの端末を設置し、スラム街の側の人々が自由にタッチパネル式のコンピュータ端末を使えるようにするという、日本では絶対にあり得ないような実験が行われた。そこでの大方の予測は、「複雑なコンピュータなど、文字すら書けないスラム街の子供たちが使えるはずがない」ということであったが、この予測は短期間で裏切られることになった。コンピュータの使い方を習うどころか、文字すら書けなかったスラム街の子供たちが、わずかな期間でコンピュータを自由に使いこなし、世界中のサイトにアクセスして知識を吸収していたのだ…。このエピソードに触発されたスワラップ氏は、公的な教育を受けたことのないスラムの少年が、インド版の『クイズ$ミリオネア』で2,000万ルピーという超高額賞金を獲得するというアカデミー賞受賞映画『スラムドッグ$ミリオネア』の原作『Q&A』をわずか2カ月間で書き上げたそうだ。

スワラップ総領事と討論する三宅善信代表
スワラップ総領事と討論する三宅善信代表

  私は、その辺りの心境を直接、スワラップ総領事に尋ねてみた。すると、総領事は「妻子が居なかったから2カ月で書き上げられた」と笑いながら答えた。二十数年間、新聞・雑誌やウェブサイト用に毎日、膨大な量の原稿を書いているが、一向に本が書けなかった(この間に刊行できた本は『文字化けした歴史を読み解く』)理由が解ったような気がした。そうだ! 私の手元には、いつも家族が居て、日々、彼らの生み出す雑事の処理に追われていたからだったのだ…(笑)。残る人生、私もできるだけ妻子のことにかかずることを止めようと思う。こんな理由で、私の考え方を世に問うことができなかったら、人類史的損失になるからである。

  もちろん、スワラップ総領事の小説は、インド政府の公式の見解でもなんでもない。しかし、彼の書いた小説を原作した映画がアカデミー賞の作品賞を取るということは、彼の主張が世界的に影響力を有したということである。日本の外交官(政治家も)にこれほどの国際的な発信力を持った人がいるであろうか? 政治家や外交官はもとより、海外に駐在する商社マンやジャーナリストその他の民間人に至るまで、日本の主張を、公私を問わず日々世界に発信し続けてもらいたいものである。

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