民主主義は何を担保にすべきか

13年05月26日



レルネット主幹 三宅善信

▼住民投票は選挙時に合わせてすべき

 東京都が整備を進める都市計画道路の拡幅工事にまつわり、その道路が通過するベッドタウンのひとつ小平市で、本日(5月26日)、「道路計画の是非を問う」住民投票が実施されたが、投票率が約35%しかなく、小平市の条例が求める「50%以上の投票率」に達しなかったため、「住民投票」の行為そのものが「無効」となり、開票作業を行わずに、各自が賛否を記入した投票用紙そのものが破棄されることになった。

 最初に断っておくが、私は今回の一小平市の「道路計画の是非」はもとより、「憲法改正手続き」まで含めて「住民投票」という方法を支持しているわけではない。しかし、仮に私が「住民投票万能論者」であったとしても、今回の小平市の住民投票騒ぎの件で、住民投票を実施したかった(=道路建設に反対したかった人がほとんど)勢力は、初めから「作戦」を間違えていたと思っている。いったん「直接民主主義」という伝家の宝刀が抜かれる癖がついてしまったら、人口18万人程度の「中小自治体」においては、市議会の存在意義はますます薄まってしまう。

そこで、あくまでも住民投票を実施したくない市議会が、「住民投票の成立には50%以上の投票が必要」と決めたとき、私が住民投票推進派のリーダーなら、即座に「それなら、市長選挙や市会議員選挙も、投票率が50%に満たなかった場合には、その選挙結果を無効にしないと論理が合わないではないか?」と反論するであろう。有権者の半数以下しか投票に参加していない選挙で選出された市長や市会議員に「正当性」があるというのか? もし、政治家たちが「ある」と言えば、「それなら、投票率が50%以下の住民投票の結果にも正当性があるべきでないでないと整合性がないではないか」と主張して、広くメディアやSNSに訴えかけるであろう。

 だから、もし、私が「住民投票」運動の指導者であれば、住民投票を単独で行うような勝ち目の少ない戦はせずに、市長選挙か市会議員選挙の際に、併せて住民投票を実施するようにする。そうすれば、投票率も高まるだろうし、もし、それでも住民投票の投票率が50%を切るようなら、同時に行われている市長選挙や市会議員選挙の投票率も、ほとんど50%を切ることになるのだろうだから、政治家たちも自分たちの正当性をも問われることになって、賛否いずれの派も必死になって投票を呼びかけるであろう。また、住民投票運動の推進者たちも、選挙と同時に行うのなら、その条例案に対して、個々の政治家たちに、イエス・ノーの「踏み絵」を踏ませる良い機会にもなると思う。事実、アメリカでは、大統領選に合わせて実施される上院・下院議員選や上院・下院議員の中間選挙、あるいは州知事選の際に、多くの地方自治体で様々な「住民投票」が同時に実施される。州によっては、一度に20以上の案件が住民投票に付されることもある。

このように、政治家に対しては「言い訳」とか「逃げ」の打てない状況に追い込んで、有権者の意思表示をしてゆくことが「代議制」を取る民主主義国家では必要である。さもないと、いったん選挙の洗礼を受ければ、あとの4年間は「白紙委任状を貰ったも同然」ということになってしまうからである。「マニフェスト選挙」なんてチャンチャラおかしい。選挙と選挙の間に政党をコロコロ変える議員がいることひとつを見ても、政党のマニフェスト(政権公約)なんてなんの意味もない。しかし、政党は変えることができても、議員本人は変わることができないから、「公約」は、個別の議員ひとり一人に遵守させるのが一番良い方法である。


▼「1人1票方式」は絶対ではない

  この小平市の住民投票を報じたマスコミは多いが、この問題の抱える本質的な点にまで遡及して論じているケースは少ない。実は、この問題は、「憲法改正」問題や「一票の格差」問題といった国政レベルの重要な問題と同じ「根」を持っている。民主主義の根本原理は「多数決」の原理である。いろいろと議論を尽くしたら、最後には多数決で全体の意思決定をする。そして、いったん多数決で議論が集約されたら、反対していた人もその結果を遵守する。そうしなければ、ものごとは何ひとつ決められないからだ。そんなことは小学生でも知っている。その上、日本の学校では、ご丁寧に「少数意見も尊重しろ」とまで習う。しかし、多数決の原理を正当化するための「条件」については、あまりにも無頓着である。というか、誰もこの基本条件をまともに議論することもなく「1人1票」という原則を盲信してはいないだろうか…。

  例えば、企業の株主総会の場合だったら、出席者が1000人いたとしても、単純な「1人1票」による多数決ではない。それぞれの「持ち株比率」に応じた「議決権」が与えられており、銀行や生命保険会社のように、1社で全株式の10%をも保有してい大株主もいれば、全発行株式数の何百万分の一しか保有していない1株株主のような者もいる。だから、1000人が出席した株主総会でも、各10%を保有する大株主6者が反対すれば、残り994人が賛成しても、その提案は否決されるということもあり得る。

他にも、EUの政策執行機関である欧州連合理事会は、EU加盟各国から1名ずつの代表27名で構成されるが、その意思決定に当たっては、域内の「大国」である仏・独・伊・英の4カ国には、それぞれ29票分の議決権が与えられているが、ベルギー、チェコ、ギリシャ、ハンガリー、ポルトガルのような「中国」には各12票、そして、キプロス、エストニア、ラトビア、ルクセンブルク、スロベニアなどの「小国」には各4票分の議決権しか与えられていない。これこそ「民主的」というものだ。

逆に、もし、人口6,500万人のフランスも、人口4万人のマルタ共和国も「同じ1票」だったとしたら、それこそ「非民主的」というものだ。というか、たとえそのような方法で議決されたからといっても、「大国」がその「民主的な決定」にことごとく反対したとしたら、そのような政策は実施不可能になるのは目に見えている。これらのいくつかの要素を勘案して、議決権を配分する方式は「特定多数決方式」と呼ばれており、実際には最も有効な意思決定手段であると言えよう。


▼「1人1票」制は、国民のいのちを担保にした制度

  しかし、実際には、多くの近代民主主義国家における選挙は「1人1票」制を採用している。中央や地方自治体の仕事の大部分が「税金の使い道を決める」ことであり、そして、有権者個々人の納税額には、最大で何千倍もの開きがあるにも関わらず「1人1票」である。これって、とんでもなく不合理なはずなのに…。

  それは、多くの近代民主主義国家における選挙が「1人1票」制(=いわゆる「普通選挙」制度)を採用するに至った歴史的経緯を知れば、ある程度納得することができるであろう。19世紀後半から20世紀前半にかけて、多くの近代国民国家で「1人1票」の「普通選挙」制度が導入された際、それらのほとんど全ての国家においては「国民皆兵」制度が施行されていた。つまり、いったん自国が他国によって侵略を受けたら、国民はこぞって銃を取って「お国のためにいのちを捧げる」というシステムになっていた(21世紀の現在でも多くの国民国家がこの国民皆兵制度を維持している)ことと密接に関係している。つまり、近代国民国家の国民は、一人にひとつしかないかけがえのない「いのち」というものを担保として国家に差し出しているので、その「代償」として、国政に関与するための「1人1票」の選挙権を与えられているのである。だから、多くの近代国民国家において、普通選挙権を与えられていたのは兵役の義務があった男子に限られていたのである。

  「民主主義の原型」となった古代ギリシャのポリス(都市国家)や古代ローマにおいても、参政権を有するのは戦争に従軍する「市民」に限定されていたし、幕藩体制下の日本においても、政治に参与できるのは一朝事が起これば主君のためにいのちを捧げる「武士」に限定されていた。それを全国民にまで拡げるためには、国民皆兵しかなく、近代国民国家の成立と国民皆兵制の導入は切っても切り離せないものであるという歴史の基本を忘れた論議はなんの意味もないということを肝に銘じておくべきである。


▼堕落した民主主義を立て直す方法は…

  ところが、日本をはじめ、いくつかの国では徴兵制度が廃止されにも関わらず、「1人1票」制の普通選挙がのうのうと実施され続けている。しかし、本来の普通選挙は、かけがえのない自分のいのちを担保として差し出す(いわゆる「Give and Take」)ことによって得られたものだから、逆に、この担保のない普通選挙制度は堕落してしかるべきものなのである。金を借りるときに担保が必要なくなった有権者たる国民は、国家や自治体に対して、際限なく「要求」を拡大して行くことになる。そして、そのような選挙制度によって選ばれる政治家のほうも、自分が選ばれ続けるために次々と「ばらまき政策」を続けるようになる。その当然に帰結が、日本政府の1,000兆円を超す膨大な財政赤字なのである。

  だから、有権者は選挙権があることを「有り難く」思わないので、投票率が年々、低下して行くのであり、そこで選ばれる政治家の質もますます劣化して行くのである。いったいわれわれはいつまで、このような無責任な政治制度を続けるつもりなのであろうか? 今、人生を謳歌しているわれわれの世代だけが「豊かで快適な生活」を享受できれば、将来生まれてくる子供たちに、生まれた瞬間から既に、1人当たり1,000万円の借金を背負わせてもよいというのであろうか? 私は、来年4月に5%から8%に増税され、再来年10月にはさらに10%まで増税される消費税の全額を、国の借金の返済費に回すべきだと考えている。たとえ10%消費税分全額(約25兆円)すべてを借金の返済に充てたとしても、1,000兆円の借金全額を返還するのに40年かかることになる。もちろん、実際には借金の金利がかかるので50年は必要である。

  このような堕落した有権者と劣化した政治家を一挙に正常化する民主的な方法は、納税額の多寡を勘案して、議決権を配分する「特定多数決方式(株主総会方式)」の選挙制度(=国民が財産を担保に参政権を行使する)にするか、もしくは、もし国民が「1人1票」制に固執するのであれば、速やかに徴兵制(=国民が自分のいのちを担保に参政権を行使する)を採用すべきである。約240年前、英国王の植民地であったアメリカが独立戦争を始めた際の大義名分は「No taxation without representation (参政権なくして課税なし)」であった。そのことは「No representation without taxation (納税なくして参政権なし)」という意味でもある。

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