レルネット主幹 三宅善信
▼正妻と愛妾も平等に扱わなければ…
2013年9月4日、最高裁の大法廷は、「非嫡出子の遺産相続分は嫡出子の半分であると定める民法第900条の規定が、“法の下の平等”を定めた日本国憲法第14条に違反する」として、全員(14名)一致で「違憲判決」を出した。マスコミ各社も、「多様な家族の形態が存在する現在の社会情勢に合致した判決だ」として、この決定を全面的に支持したが、私に言わせて貰えば、「日本の良識」の最後の砦であらねばならない最高裁ともあろうものが、まことに片手落ちな判決であったと思っている。
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最高裁大法廷の様子 |
誤解がないように、最初に言わせていただくが、私は決して「非嫡出子を差別しよう」などとは思っていない。嫡出子(婚内子)として生まれるか非嫡出子(婚外子)としてこの世に生を受けるかは、本人が決めることができないことなので、そのようなことで生まれてきた子が差別されてはいけないのは、何も「法の下の平等」の原則を論(あげつら)うまでもない当然のことである。ただし、「法の下の平等」の義務を課せられているのは、「公権力を行使する」側(例えば、スピード違反で取り締まるときに、「金持ちと貧乏人を差別してはいけない」というような法執行の恣意性)であって、決して、「家族の問題」への介入は許されないのである(例えば、ある家が跡継ぎを決めるときに、「誰を後継者に決めるかは、その家族自身の問題」というような意味)。
その上、今回の最高裁判決は、「法の下の平等」に関する理解の仕方が決定的に間違えている。何故なら、もし今回の判決のように「(遺産相続において)嫡出子と非嫡出子を法的に差別してはいけない」というのであれば、嫡出子と非嫡出子が生まれる原因となった「正妻と愛妾も法的に差別してはいけない」ことにしなければ、論理に整合性がつかないことになる。つまり、遺産相続の際、正妻と愛妾は公平に分配しなければならないことになる(民法第752条では「夫婦は同居し、互いに協力し扶助しなければならない」となっているとなっているにも関わらず…)。しかし、正妻というステータスは1人しか与えられない法的に保護された地位であるが、愛妾の数やいた時期は可変なので、「愛妾が何人いたか」を本人の死亡後に客観的に確定することが難しい場合も出てくる。これらの矛盾をすべて解消するためには、“重婚”を制度的に認めるしかないことになる。つまり、今回の最高裁判決は、将来「重婚の合法化」への道を開くことになるかもしれないのである。
▼公序良俗を守るのが最高裁の役目
『ハーバード白熱教室』でお馴染みのマイケル・サンデル教授に代表される「コミュニタリズム(共同体主義)」的な価値観で、今回の最高裁判決を見ても、やはり問題がある。もし、最高裁が「民法900条は憲法第14条(「法の下の平等」の原則)に反する」ということにあくまでも固執するのであれば、この際、日本国憲法のほうを改正すればよいと私は思う。憲法改正論議は、何も第9条に限定されたテーマではない。私に言わせれば、「…日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う…」なんぞという世界の現実を無視した妄想に基づいて作文された「前文」を全て削除するほうが先だと思う。国際政治の「善悪」を判断する国連安保理の常任理事国である中国自身が、自国民の人権を抑圧するだけでなく、周辺諸国に対して常に軍事的威嚇を行う一党独裁の全体主義国家であるのはもとより、日本の周辺は「ならず者国家」だらけなのに、「平和を愛する諸国民の公正と信義」なんかを前提にしていること自体が不当である。
因みに、「コミュニタリズム(communitalism)」とは、『Wikipedia』によると、「共同体主義は、現代の政治思想の見取り図において、ジョン・ロールズらが提唱する自由主義(リベラリズム)に対抗する思想の一つであるが、自由主義を根本から否定するものではない。共同体の価値を重んじるとは言っても、個人を共同体に隷属させ共同体のために個人の自由や権利を犠牲にしても全く構わない、というような全体主義・国家主義の主張ではなく、具体的な理想政体のレベルでは自由民主主義の枠をはみ出るラディカルなものを奨励することはない。むしろ、共同体主義が自由主義に批判的であるのは、より根源的な存在論レベルにおいてであり、政策レベルでは自由民主制に留まりつつも自由主義とは異なる側面(つまり共同体)の重要性を尊重するものを提唱する…」という考え方である。
つまり、人類社会にとって重要な価値とは、全体主義的な国家の統治システムのことでもなければ、リベラリズムのような「なんでもありの個人」(今回のコンテキストで言えば「重婚も可能」)ということでもない。それぞれの共同体が長年かけて形成し、保持してきた伝統や文化こそが重要――しかも、それ自体が世界の各所で多様な形態を保持している――なのである。その点からすると、今回の最高裁判決が、将来の日本社会の公序良俗に対していかに禍根を残すことになるのか、その悪影響は計り知れない。その意味でも、次の衆議院議員総選挙の際に合わせて実施される最高裁判事の国民審査においては、今回の「違憲判決」を出した判事全員に「X印」をつけて罷免を要求すべきであると思う。もし、“法の下の平等”ということを徹底したいのであれば、嫡出子・非嫡出子といった細事ではなく、現在、各高裁で相次いで「違憲判決」が出ている「衆議院議員総選挙における一票の格差」是正のほうが先決だと思う。