ウルトラマンに観る親鸞思想 ―― 「光の国」と「往相還相」 1998/8/8

レルネット主幹 三宅善信

ウルトラマンが「光の国」と呼ばれる宇宙の彼方のM78星雲から来たヒーローであるということは、45歳以下の日本人ならほとんど誰でも知っていることである。しかし、その「光の国」なるところの性格は何なのか? また、何故、ひとりウルトラマンのみならず、ウルトラセブン以下、現在放送中のウルトラマンダイナに至る二十数名の歴代ウルトラマンたちが、縁もゆかりもない人間(地球人)を助けるために、自己の身を犠牲にしてまでこの地球(なかんずく日本)に来なければならなかったのか? という問いを発するとき、わが国が生んだ偉大な思想家であり、わが国最大級の宗教教団の始祖である親鸞(1173〜1262年)の思想(「真仏土浄土」と「二種廻向」)がその背後に隠されているといわざるをえない。

私がはじめて「二種廻向(えこう)」すなわち「往相(おうそう)廻向」と「還相(げんそう)廻向」という言葉に接したのは、ハーバード大学のCSWR(世界宗教研究センター)にいた時(1984〜85年)のことである。同センターは、世界各国の学者が、ハーバード大学の施設を用いて諸宗教について研究、あるいは相互啓発するための宿泊設備を調えた長期滞在型研究施設である。私が同センターに滞在していた時を同じくして、M・ロジャースという浄土真宗を研究している初老の客員教授がいた。ロジャース博士は、仏教伝道協会(ホテルの枕元にギデオン協会の『聖書』同様、日英対訳の『仏教聖典』がおかれているのをご存じの方も多いであろう)の仏典英訳プロジェクトの一貫として、蓮如上人の『御文章(おふみ)』と呼ばれる書簡集の英訳をライフワークとしておられた。

渡米して間もない(英語も不自由な)私を捕まえて、そのロジャース教授は矢継ぎ早に質問を浴びせた。というのも、当時、同研究センターにいた日本人は、私ひとりであったからである(私の渡米と入れ替わり、数年間同センターにいた澤井義次氏=現天理大学教授が帰国した)。ロジャース教授は、連日、食事をご馳走してくれる代わりに、「後生一大事」だとか「往相還相」だとかいう浄土真宗の教学用語に対する質問を浴びせかけた。恥ずかしながら、私は、キリスト教の神学については、同志社の大学院まで行って勉強したので、それなりの知識はあったが、仏教については、ほとんど素人同然(今でもあまり変わらないが)なので、返答に窮して、慌てて『教行信証』や『歎異抄』を取り寄せて、付け焼き刃の勉強をした。そんな訳で、仏教各宗派本山の立ち並ぶ京都でキリスト教の勉強をし、アメリカの神学(キリスト教)発祥の地ボストンで仏教の勉強をするという皮肉なことになった。

さて、最初の設問である「光の国」の正体であるが、われわれ一般の日本人が「極楽浄土」という世界をイメージするとき、そこは「妙なる音楽が流れて、一年中、暑からず寒からず、金銀瑠璃瑪瑙珊瑚といった宝物でできた宮殿(どころか地面まで宝物)に住み、無限の寿命と欲しいものは何でも手に入る理想の世界」を思い浮かべるであろう。しかし、これが本当の「極楽浄土」であろうか? 「欲しいものが何でも手に入る」というのは、逆に、欲望(業)そのものの世界ではないか。第一、そのようなことは、極楽浄土といえども論理的に不可能であることはいうまでもない。仮に、極楽にいる男性Aと男性Bが同時に女性Cを愛したとすると、もし、欲望が何でも適うのならば、極楽はたちまちにして修羅場と化すのではないか? そもそもブッダは、そのような欲望(=執着)を離れることこそが、仏教の目指す境地「涅槃」であると言ったのではなかろうか? すると、「何でも欲望の充足する世界」は「極楽浄土」でないことは、明白である。

親鸞は、そこを厳しく峻別して、一般人がイメージしている「無限に欲望の充足する」極楽を「化身土浄土」といい、自力の行者が往く、仮の(方便の)周辺的な浄土であるとした。一方で、他力の信心を持つ人を迎える浄土を「真仏土浄土」と名付け、そこは「光に満ち満ちた世界」であるとした。親鸞は、阿弥陀如来のことをしばしば「無碍(むげ)光如来」とか「無量光如来」と表現していることからもこのことがうかがえる。つまり、「妨げるもののない無限の光に満ち満ちた世界」こそが、浄土(真仏土)であるということである。現在の素粒子論では、「光とエネルギーと物質そのものは同じものである」ということになっているので、親鸞の全てを光に還元する思想は、物理学的に言っても当を得ている。

次に、「往相還相」の二種廻向についてである。「生前の行為に関係なく、末期に『なむあみだぶつ』と一度でも、阿弥陀如来の名号を唱えた(念仏した)人は、たちまちにして極楽浄土へ往生できる」という易行(他力本願)の教えは、日本仏教最大の発明であることに異論を唱える人はいないであろう。「念仏の衆生救済」の誓願を果たす阿弥陀如来が、死ねば即座にやってきて、その人を「光の国」である浄土へと導いてくれる。いわゆる「往相の廻向」である。このこと自体は、実に分かり易いシステムである。

ウルトラマンでいえば、その第1話で、調査飛行中の三角ビートルを操縦していた科学特捜隊のハヤタ隊員が、宇宙から飛来した謎の赤い光球(ウルトラマンの正体)と空中で激突し、死亡したまさにその時に、赤い光に包まれてウルトラマンとして再生したその瞬間である。ハヤタの行為や意志に関係なく、「ハヤタはまだ若い」という理由だけで、ウルトラマン(「光の国」M78星雲から来た宇宙人)の方から一方的に「いのち」が与えられたのである。いわば、「往相の廻向」である。その後のハヤタ隊員=ウルトラマンの活躍は、国民的ヒーローであるから、今さら説明する必要もあるまい。ハヤタがウルトラマンになった経緯ならびに、ウルトラマンでなくなった経緯は、最終回、宇宙恐竜ゼットンとの闘いに破れて「いのち」を失ったウルトラマンとハヤタ隊員が、ゾフィという名のウルトラマンの仲間の持ってきたもうひとつの「いのち」を赤い光球の中で分け与えられて、人間として生き返るという感動的な名場面によって再確認されている。

問題は、このウルトラマンの話だけで終わっていないところにある。1967年に始まった「ウルトラマン・シリーズ」は、ウルトラマン→ウルトラセブン→帰ってきたウルトラマン→……→ウルトラマンティガ→ウルトラマンダイナ→ウルトラマンガイア(98年9月5日スタート)と、30年を経過した今日まで、連綿と放送され続け、いつの時代も子供たちの人気者である。もちろん、これは、発案した円谷プロダクションの企画の卓越さとコマーシャリズムのなせる技に違いないが、日本人の深層心理に訴える中味がないと30年間も同じパターンの番組が継続して視られ続けるはずがない。ここに、私は親鸞思想の一展開を見いだすのである。

そもそも、地球人とは何の関係もない「光の国」M78星雲から来たウルトラマンは、その後も、セブン・ジャック・エース・タロウ……ティガ・ダイナ・ガイアと、名を変え姿を変え、地球に現れては、彼らから見れば、空を飛ぶこともできなければ、光線を発することもできない「下等な」地球人のために、いのちを賭して闘い続けるのである。これはまさに、「一度、信心決定(けつじょう)して、浄土へ往った(往相廻向)人は、必ず、もう一度、姿を変えて(衆生を助けるために)この世に生まれ変わる(還相廻向)はずである」という親鸞の「二種廻向」の思想そのものだ。親鸞の『正像末和讃』に、「南無阿弥陀仏の廻向の 恩徳広大不思議にて 往相廻向の利益には 還相廻向廻入せり。 往相廻向の大慈より 還相廻向の大悲を得 如来の廻向なかりせば 浄土の菩提はいかがせん」という句があるが、これは、「妨げるもののない不思議な光の世界(浄土)に入ったら、必ず、その光をこの世に持ってきて、光の至らぬところに光をもたらそうとする気持ちがはたらくはずである。しかも、その気持ちそのものも、初めから阿弥陀如来によってセットされているのだ」という意味である。すなわち、アク シデントとはいえ、一度、ハヤタ隊員(地球人)がウルトラマン(光の国の住人)になってしまった以上、この因縁が往相還相として永久に繰り返されるということである。

しかも、ウルトラマン(シリーズ)のストーリーはよくできている。最初に、怪獣なり宇宙人(どういう訳か他の宇宙人は皆、地球の侵略を狙う悪者だ)が登場して、大暴れして街を破壊し尽くす。そこで、一応、人間の英知の結集ともいうべき科学特捜隊(ウルトラ警備隊等)が出動して、怪獣(宇宙人)退治を試みる。つまり、ここは「自力」の部分である。しかしながら、結局は怪獣や宇宙人の方が強力で、隊員たちは散々にやられてしまう。万策尽きて、人類の側に打つ手がなくなったときに、救済者であるウルトラマンに縋る気持ち(他力)が生じる。と、その瞬間に、ウルトラマンが光の中より出現し、あっという間(3分間ということになっている)に、怪獣(宇宙人)を退治してくれて、また光の中へと飛び去ってしまう。この単純なストーリーの中に、自力から他力へのベクトルの転換と救済の顕現が内包されているのだ。

私が小学生の頃、一番不思議に思ったことは、粗暴な怪獣を退治するのは良いとして(これも現在ならば、絶滅の恐れがある稀少動物として「ワシントン条約」で保護されるべきものであるが)、どうしてウルトラマンは、地球人より遥かに文明の進んだバルタン星人(第2話と16話)やザラブ星人(第18話)と自らいのちを懸けて闘って、地球人を守らなければならないのかが常に疑問であった。それどころか、自分の住んでいる星の寿命が尽きたので地球への移住を希望し、縮小化して長い宇宙旅行を行ってきた20億3000万人のバルタン星人(非戦闘員の一般市民と考えられる)の搭乗した宇宙船を一撃のもとに破壊したウルトラマンのジェノサイド(大量殺戮)の方が、どうしても許せなかった。バルタン星人やザラブ星人から見れば、地球人こそ粗暴で下等な動物に過ぎず、人類が牛や豚を家畜化しているのと同様、地球人を奴隷化しても倫理的な問題点はないはずである。

この点を鋭く突いたのが、メフィラス星人の話である。第33話「禁じられた言葉」に登場したメフィラス星人は、一風変わった宇宙人であった。この知力・体力ともに抜群の宇宙人は、ウルトラマンと互角の実力を有していたが、他の宇宙人のような破壊的なことはせずに、テレパシーによって自分の圧倒的な実力(バルタン星人・ザラブ星人・ケムール人等を操り、フジ隊員を巨大化させる)見せつけた後、一少年(フジ隊員の弟サトル)を捕まえて、人間の心を試したのである。メフィラス星人は、少年に「『地球をあなた(メフィラス星人)にあげます』と言いさえすれば、少年の欲しいものは何でも与える」と約束するのであるが、サトル少年の心を動かすことができず、やっとの思いで登場したウルトラマンとの闘いもほどほどに、ウルトラマンに対して「よそう。宇宙人同士闘っても仕様がない」と言って、一方的に闘いを中止し、宇宙の彼方へと飛び去ってしまう。

つまり、ウルトラマンが地球人類に肩入れしていることの不思議さ、不合理性を自らの番組で指摘しているのである。このウルトラマンの人類に対する一方的な不思議な肩入れ(他力)こそ、人類救済にかける阿弥陀如来の大慈大悲と共通するものがあるのである。ハヤタ隊員と縁あって「光の国」から来たウルトラマンが、勝手に怪獣や宇宙人と闘って、地球人類を救済してくれるのである。しかも、ひとり初代ウルトラマンだけでなく、歴代のウルトラマンたちも皆、入れ替わり立ち替わり(『皇太子聖徳奉讃』において、親鸞は、自らを、救世観音→勝鬘夫人(インド)→惠思大師(中国)→聖徳太子(日本)→親鸞…の「生まれ変わり」と規定している)同じように助けてくれる。 これまさに、「真仏土浄土(光の国)」と「往相還相の二種廻向」の親鸞思想そのものではないか。もちろん、毎日放送や円谷プロの人たちが、そのような宗教哲学的なことを考えてウルトラマンを創ったのではないであろうが、親鸞以来800年、日本人の無意識の中に流れる浄土思想が、いみじくもウルトラマンという子供向けのテレビ作品に顕在化し、それ故に、30年間という長寿番組シリーズとなり得たのだと思う。

なお、近日中に、本編の続編ともいうべき「堕落したウルトラマン ―― 異安心タロウ」を執筆する予定である。


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