It's Automatic:聖なる心臓交換  1998.12.5

レルネット主幹 三宅善信

▼ドナーの四十九日

「人の噂も七十五日」と言われるが、それどころか、2月28日に高知赤十字病院で行われた「臓器移植法」施行後初の、脳死による臓器(今回は心臓・肝臓・腎臓・眼球)摘出手術からまだ49日間しか経っていないのに、報道関係者によるバカ騒ぎは嘘のように収まった。もし、亡くなられた高知のドナーが仏教徒であったなら、今日は四十九日の満中陰に当たるので、冥福を祈ってこの問題に対する見解を述べたい。

「南尤阿彌陀佛」と念仏を唱えて信心決定(けつじょう)さえすれば、誰でも即、往生できるとする浄土系(法然・親鸞系)の仏教を除けば、わが国の大抵の宗派では、大乗仏教の伝統に則り、生前に悟りを開くことのできなかった(ほとんど全ての)人の魂は、死後49日間にわたって「中陰(生と死の中間=バルド・トゥドル)」の状態に置かれるという。この間に、死者が生への執着(しゅうじゃく)を捨てることができるなら、もしくは、遺された家族が死者のために十分な供養を行えば、より良い六道輪廻(りくどうりんね=天上・人間・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄)の世界に転生する(生まれ変わる)ことができるとする考え方である。生と死の中間の状態にあった魂は、49日目に新しい身体(必ずしも人間とは限らない)を見つけて生まれ変わる。もちろん、生前の全ての記憶は消し去られた上でのことである。したがって、この「中陰」の状態が明けたという意味で、四十九日の満中陰法要が行われるのである。

この解釈は、檀家制度に基づくわが国仏教界の寺院経済にとっても好都合である。キリスト教では、告別式(追悼式)が行われるだけであるので、聖職者(神父・牧師)の葬儀関連の収入は1人1回かぎりであるが、仏教の場合、葬儀(広義の「葬儀」には、告別式だけでなく、初七日…七七日=四十九日の満中陰までを含む)に関わる儀礼は長期間にわたり(その度に、お布施が必要)、しかも、一周忌・三回忌・七回忌・十三回忌…三十三回忌まであって、その間、寺院経済は安定する。30年の経つとその檀家からまた誰か死ぬであろうから、恒久的なシステムともいえる。今回は、臓器移植がテーマなので、寺院経済の話は別の機会に譲る。

さて、なぜ、私が今回の脳死による臓器移植の問題について、ふたたび筆を執ることにしたのかといえば、脳死判定騒ぎの渦中で認ためた『臓器移植と人工中絶』だけでは不十分であると感じたからである。マスコミ報道の関心は、高知の提供者から大阪大学病院での移植チームへと移り、阪大病院の医師たちは一躍新時代の脚光を浴びたのである。筆者はその間、3月26日、NCC(日本キリスト教協議会)宗教研究所(幸日出男所長)において、脳死臓器移植問題をテーマとして開催された生命倫理研究集会に各宗教からの代表数十名と共に参加した。研究集会では、日本研究家のペンシルベニア大学のウイリアム・ラフルー教授が「脳死と臓器移植をめぐる文化・宗教の比較論」と題する基調講演を行い、日米の文化比較を行った。続いて、臓器移植に教団を挙げて真っ向から反対している大本をはじめ、立正佼成会・真宗大谷派(東本願寺)・浄土真宗本願寺派(西本願寺)・黄檗宗・創価学会・金光教からそれぞれの教学研究所などから専門家が参加して大いに意見交換を行った。もちろん、筆者も求められて見解を披瀝した。


▼『死者の書』

筆者は、自分のことを「極めて合理主義的な人間である」と思っている。巷間で流行っている予言や占いなど全く信じないばかりか、このような話題について話する人の人格すら疑って相手にもしないほどである。したがって、どこかの宗教家のように「脳死は人の死ではなくて、心臓死こそ人の死だ」などとプリミティブに言われても、それだけでは単純に納得することはできない。そりゃ人間(動物もそうであるが)の臓器の中で、素人目にも一番「活きている」という感じのする臓器が心臓であるということに異論はない。たとえ、人間や動物を斬り殺してお腹を割いても、焼き肉でお馴染みのレバー(肝臓)やセンマイ(胃袋)はただの臓物の固まりであるが、切りたての心臓ならピクピク動いているからだ。それに比べて、脳なんて見た目には単なる「味噌」である。だから、長年にわたり人が、人間の「死」の規定法として「心臓死(鼓動の停止)」を採用してきたのには、それなりの合理性がある。ただ、だからといって「心臓に魂が宿っている」と言い切れるかどうかは別問題だ。

人類は、その誕生の瞬間から「死」というものを見つめてきた。最も古いヒト(原人など)の生活跡でも、石器などと一緒に死者を「埋葬した」跡が残されている。この点が、他の動物と大いにことなる点だ。われわれが小学校時代に習った「他の動物と異なるヒトの特徴」のうち、「道具を使う」ことは、類人猿はいうまでもなく鳥類などでも頻繁に見られる行動であるし、「言葉を使って高度なコミュニケーションを取る」ですら、クジラやイルカたちも大いに行っていることが判ってきた。だから、ヒトと他の動物を分ける(分ける必要なのどこにもないのであるが、あえて分けてみると)分岐点は「死」の内面化であるといえよう。もちろん、動物でも、家族の一頭が死んだら悲しいに違いない。しかし、そのことがその動物の精神に内面化されるかといえば、別物であることは明らかだ。そういう意味で、ヒトにとって「死」の問題は大きなテーマであり、動物の一種であるヒトを文化を持つ人間たらしめる要因でもある。その死の問題を解決する(再生を願う)ために宗教が生まれたと言っても過言ではない。

古代エジプト人は「死」について、体系だった考え方の記録を文字として残した最初の人間である。ピラミッドやミイラはあまりにも有名であるし、数千年という悠久の時間を経た現在でも、その輝きは失われていない。古代エジプト人たちは魂の不滅を信じて、再生する時のための「器」として「身体」をミイラとして残したのだ。ミイラ化する際に摘出される臓器にもそれぞれの役割があると信じられていたが、中でも、最も重用視されたのが「アブ(心臓)」である。死者の生前中の行為を反映されると信じられていた「アブ」が、冥界の王であるオシリス神の前で、黒犬の姿をしたアビヌス神によって抜き取られ、秤にかけられる。これが、彼らが恐れた「審判」である。「死後の世界を生の世界の延長である」と考えたエジプト人たちにとっては、それこそ「後生の一大事」であった。『エジプトの死者の書』は古王国第4王朝のメン・カウ・ラー王の時代にまで遡ることができるそうだ。

一方、近頃流行の『チベットの死者の書』については、これだけで一回分の話を超える内容があるので詳しく触れる時間的余裕はないが、概念だけ書きとどめると、最初に書いたように、「中陰(生と死の中間=バルド・トゥドル)」の状態をいかに克服するかの具体的な処方が書かれてある。死のプロセス(魂の非具現化)は誕生のプロセス(魂の具現化)の逆として捉える。これらは、意識のひとつの状態から他の状態への通過である。チベット仏教では、中枢神経(シュムスナー・ナーディー)という概念を重要視し、死の瞬間、人間の「意識」は、脊柱から脳を通り抜けて、体外へと出ると考えられている。つまり「意識」こそが「世界」を認識する主体であるという考え方である。チベット仏教のこの考え方(意識中心主義)は、心理学の大家C.G.ユングが深く傾倒したように、現代人にとって受け入れやすい考え方である。それ故、現代医学においても、意識を司る臓器である脳(厳密には脳幹)が「機能停止した」ことをもって「人間の死」としようとするのである。

▼「MY LIFE」の「MY」の意味

しかしながら、「脳死を人の死」とすることと、「誰かの臓器を取り出して、別の誰かに与える(移植する)」というのとは、全く別の問題である。「臓器移植法」において、「脳死を人の死である」としたのは、あくまでも移植医療を実施するための法的な措置(殺人罪に問われないため)である。その証拠に、同じ「脳死状態」の患者でも、もし、その人が「ドナー(臓器提供意志表示)カード」を持っていなければ、治療行為は自発的死(心臓死)に至るまで際限なく続けられることになっている。ところが、同じ「脳死状態」でも、その患者がドナーカードを持っていれば(家族も同意すれば)、その人は、延命治療行為を受ける対象である「患者」としてではなく、臓器を摘出する「提供者(ドナー)」として扱われることになる。

この二律背反性からみても、「人の死を脳死に一元化して規定する」のではなく、あくまでも「脳死を人の死」とすることは、「臓器移植のための方便」であるにすぎない。法律とはそういうものだ。たとえば、お胎の中に臨月の赤ちゃんがいる女性を誰かが刃物で突き刺して、母親は怪我で済んだが、運悪くお胎の中の赤ちゃんが死んでしまっても、法律的には、加害者は「殺人罪」ではなくて「傷害罪」である。生まれる前の人を殺しても法的には「殺人」にはならないからである。しかし、生まれる直前のお胎の中の赤ちゃんのことを「いのちじゃない」などと思っている人がいるというのだ。これと同様、「脳死臓器移植」もあくまで法律上の便法にすぎない。

 むしろ、問題は、人間の臓器を「上げたり(売ったり)」・「貰ったり(買ったり)」するべきものかどうかという議論が欠けているように思う。臓器提供行為が、他者の「いのち」を救うための美談として讃えられたりすることのほうがより問題である。高知赤十字病院でのケースは第一例目ということで大騒ぎされたが、これからドンドンと脳死からの臓器移植が行われるようになると、ドナーカードを所持している人が、交通事故や脳内出血などで重篤な状況に陥って救急病院に担ぎ込まれると、担当医もそのつもりで処置するであろうし、ほとんど自動的に、移植ネットワークのコーディネーターがやって来て、「ご本人の意思を尊重して提供なさらないのですか?」と、大切な身内を失なわんとして狼狽している家族に告げるであろう。その時、もし、家族にその気がないのであれば、一点の躊躇もなく「No」と言い切れるであろうか? 「医者の心象を悪くしたら後が大変だ」という真理も働くであろう。宇多田ヒカルの『It's Automatic』の歌詞にあるように、「It's Automatic. 側にいるだけで その目で見つめられるだけで ドキドキ止まらない No とは言えない。I just can't tell. 曖昧な態度が不安にさせるから。 そばにいるだけで 暖められるわけじゃない。 ただ必要なだけ。 寂しいからじゃない。Tell me why?」である。ドンドンと「作業」が進むであろう。

そもそも、自分の「いのち」や身体を「自分のもの」だという考え方に私は同意できない。英語で「my car」と言うときの「my」と、「my life」といったときの「my」とでは「my」の意味が違うであろう。前者の「my」は文字通り「所有格」としての「私のもの」であり、したがって、売買などの処分が可能であるが、果たして、後者の「my」については、そのようなことが可能であろうか? もちろん、不可能である。この「my」はむしろ、「自己が所有するもの」というよりは、先祖代々から子々孫々に伝わる「全体の大きないのち(仏教では「無量寿」)」から「一時的に私に管理を依存されたもの」と考えるほうが適切ではないであろうか? したがって、賃貸マンション同様、賃貸期間が終了すれば、できるだけ現状復帰して、元の所有者にお返ししなければならないのではないかとさえ思う。この考え方を、儒教では「身体髪膚これを父母に受く。敢えて毀傷せざるは孝の初めなり」といって、大切な倫理観として教えた。現代科学の遺伝子の考え方もこれとよく似ている。「身体は遺伝子という主体の乗り物にすぎない」と…。

最後に、興味深いエピソードを添えて今回の筆を置きたい。すなわち、「聖なる心臓交換」の話だ。東京に聖心女子大という美智子皇后さまがご卒業になられたことでも有名なカトリック系の大学がある。同大学の英語での表記はSacred Heartである。私は、長い間、これを「聖なる(浄い)こころ」のことだと思っていた。ところが、パリの観光名所、モンマルトルの丘に建つ白亜の教会「サクレ・クール(Sacre-Coeur = Sacred Heart)寺院」の名称の由来を聞いて愕然とした。17世紀のフィレンツェの修道院で、ベネディッタ・カルリーニ尼僧が「イエス・キリストと心臓を交換した」というのである。彼女は教会当局から睨まれて生涯獄中生活を送ることになるが、その後、その話は「肉体愛(エロス)」と「精神愛(カイロス)」の結合というテーマで神学的な議論に発展し、文字通り、肉としての心臓を採り上げた「聖心(サクレ・クール)」信仰が盛んになるのである。非常に、興味深い話だとは思わないか。

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