「国民の祝日」の不思議 
             
1999.4.23


レルネット主幹 三宅善信


▼何を祝い、誰に感謝するのか?

もうすぐゴールデンウイークである。世間の大半の人にとって、それぞれの「祝日」の意義などどうでもいいことだ。要は、「連休が何日続くか?」のほうが関心の的である。しかしながら、GW中も仕事(かえって忙しい)の私にとっては、世間へのやっかみもあって、あえて「祝日」の意義について考えてみたい。

いうまでもなく、現在の日本の祝日は1948(昭和23)年に制定された「国民の祝日に関する法律」によって規定されている。この法律は年々改正(祝日が追加)され、一番最近では、昨年追加されたいわゆる「ハッピーマンデー」条項(成人の日と体育の日をそれぞれの月の「第2月曜日」にすることによって、土日月の3連休を増やす。2000年の1月1日施行)まで導入されたくらいだ。読者の皆さんが認識されているかどうかは知らないが、年間14回も祝日のある国は世界でも数が少ない。

もちろん、戦前にも「祝祭日」というのがあった。天長節や紀元節といった国家的祝日や新嘗(にひなめ)祭や神嘗(かむなめ)祭などの宮中神道儀礼に関わる祭日であった。「旗日」といっても、その日は「登校日」で、全校生徒が講堂に集合し、『君が代』斉唱。モーニングに白手袋で威儀を正した校長先生が『教育勅語』を奉読。短い訓話の後、「○○節の歌」を全校生徒で唱和し、「紅白饅頭(当時は甘いものは貴重)」をもらって解散(もちろん、この日は授業はない)。という段取りで、「当時の子供たちは、とても楽しみにしていた」と、父から聞いたことがある。戦前の風景も興味深いが、今回は、私が直接経験している「戦後」の祝日について考えてみたい。

たいていの国では、国家の記念日(独立記念日・革命記念日など)や宗教的に特別な日(クリスマスや釈迦の降誕会など)を「祝日」としている。米国を例に取ると、「独立記念日(7月4日)」や、建国の父「ワシントン生誕日」、さらに、キリストの復活を祝う「イースター」などである。旧ソ連だって、「革命記念日(11月7日)」や労働者の祭典「メーデー」などが、国家的イベントとして大々的に祝われた。花火大会や軍事パレードには、大統領などの首脳が国民の前に姿を現すのが常である。ところが、日本の「祝日」はこうではないのである。以下、1948年に制定された「国民の祝日に関する法律」の条文に目を通してみよう。

第一条(意義)  自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける。

第二条(内容)  「国民の祝日」を次のように定める。

元日 一月一日  年の始めを祝う。

成人の日 一月十五日(平成12年1月1日からは「一月の第二月曜日」)  おとなになつたことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます。

建国記念の日 政令で定める日(2月11日)  建国をしのび、国を愛する心を養う。

春分の日 春分日  自然をたたえ、生物をいつくしむ。

みどりの日 四月二十九日  自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ。

憲法記念日 五月三日  日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する。

こどもの日 五月五日  こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。

海の日 七月二十日  海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う。

敬老の日 九月十五日  多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う。

秋分の日 秋分日  祖先をうやまい、なくなつた人々をしのぶ。

体育の日 十月十日(平成12年1月1日からは「十月の第二月曜日」)  スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう。

文化の日 十一月三日  自由と平和を愛し、文化をすすめる。

勤労感謝の日 十一月二十三日  勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう。

天皇誕生日 十二月二十三日  天皇の誕生日を祝う。 (以下の施行細則、改正の履歴は省略)

以上の条文を読んで不思議に思ったのは私だけだろうか? 第1条の「意義」からして変っている。まず、「自由と平和を求めてやまない日本国民は」という主語からして奇妙だ。戦前のように「国家の祝祭日」というのではなく「国民の祝日」なのだという主旨を徹底するために、主語を「日本国民は」と持ってくるのは致し方ないにしても、枕詞としてなんでも「自由と平和を求めてやまない(『日本国憲法』前文)」なんて表現を付け足すことがいるのだろうか?平和であろうがなかろうが、正月から丸一年経てば次の正月がやってくるではないか。しかも、本当に各個人の自由を尊重するのなら「国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め」という表現自体がおかしい。その上、「祝い(う)」と「記念する」は判るが、「感謝し」とは、いったい「何」に感謝するのだろうか? God(神)の存在を前提に制定されている『アメリカ合衆国憲法』(その証拠に、修正第1条は「政教分離」である)ならいざ知らず、わが『日本国憲法』は、理念としては「神仏の存在を無視」して制定されているはずなのに…。

そこで、いつものアニミズム論が登場するのである。もちろん、私たち日本人が「感謝する」対象は、「お天道様」に象徴される天地自然や「ご先祖様」であることはいうまでもない。特定の宗教的な教義や崇敬対象(神仏等)でないことは明らかである。その証拠に、わが国の祝日には、自然に関する祝日が圧倒的に多い。春分の日・みどりの日・海の日・秋分の日、これらの祝日は皆、主体は人間ではなくて自然である。それに、もう少し枠を拡げて、成人の日・こどもの日・敬老の日・体育の日・文化の日・勤労感謝の日、あたりも必然性がなんだかよく判らない。海の日があって「山の日」がないのは何故か?春分の日や秋分の日があって、「夏至の日」や「冬至の日」がないのは何故か?体育の日があって「音楽の日」がないのは何故か? これらの問いに、合理的な答えを出せる人はおるまい。なぜなら、もともとの「祝日」そのものの論理的な根拠がないからである。


▼「の」の付く祝日は…

さらに、なぜ4月29日が「みどり」の日で、11月3日が「文化」の日でなければならないのか?みどりの日が4月29日でなければならない必然がない。日本近代史に大きな功績のあった昭和天皇の誕生日と明治天皇の誕生日を残したいのなら、それぞれ「昭和の日」とか「明治の日」にすればよい。事実、戦前は11月3日は「明治節」(明治時代は「天長節」、大正から昭和20年までは「明治節」)だったではないか。アメリカだって、「ワシントン誕生日」・「リンカーン誕生日」・「M・L・キング(牧師で黒人解放運動の指導者)誕生日」という3人の近代史上の人物の誕生日を祝日(National Holiday)にしている。私は何も「アメリカを見習え」と言っているのではない。むしろ、「自然に感謝する」ような祝日のないアメリカ人は可哀想だとすら思う。「退役軍人の日(Veteran's Day 11月11日)」や「労働者の日(Labor Day 9月の第1月曜)」といった人為的な祝日ばかりである。

年間14回もある日本の祝日の中で、日程上の必然性(この日でなければならない)があるのは、元日(1月1日)と憲法記念日(5月3日)と天皇誕生日(12月23日)の3つだけである。あとの祝日は、どの日がどの日になったっておかしくない。だが、ここに日本の祝日の秘密を解く鍵がある。これらの3つの祝日には、「○○の日」という「の」が付いていない。そのものズバリである。その他の祝日には、全て「○○の日」というように、「の」が付いている。これは、成人の日やこどもの日同様、「○○の記念日」といいうよりは「節句」に近い感覚である。

2月11日の「建国記念の日」が制定される際(1966年)、これを「戦前の紀元節の復活だ」といって反対運動をした人たち(当時の社会党などの議員)がいた(そのせいか、他の祝日はすべて法律で定められているが、「建国記念の日」の日程だけは、別に政令で定められている)が、これはたまたま戦前の紀元節と日が重なるだけで、紀元節とイコールでないことは、この祝日を「建国記念日」と呼ばずに「建国記念の日」と「の」を付けて呼んでいるのがいい証拠だ。ともかく、「の」付きの祝日は全て胡散臭い(必然性がない)のだから…。因みに、このとき、敬老の日と体育の日も新たに「国民の祝日」に追加された。

わが国には、これらの「国民の祝日」の他にも、民間に広く普及している「記念日」がたくさんある。天智天皇が大津京において初めて漏刻(時計)を創らせたことに因んだ「時の記念日(6月4日)」などは時計業界によって毎年行事が行われている。「針供養の日(2月8日)」なども、洋裁・和裁関係の人が大勢社寺に詣でる。この種の「業界もの」は、ほとんど1年を通して毎日のように「○○の日」がある。その他にも、単なる語呂合わせのような「耳の日(3月3日)」や「鼻の日(8月7日)」といったものまである。これらとて、どれが将来「国民の祝日(法定休業日)」に昇格しないとは断言できまい。そう、日本の祝日は。論理的な根拠のハッキリしない日のほうが、より適しているのだから…。ここにも、日本文化を根底で支えるアニミズム的な世界が息づいているのである。





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