レルネット主幹 三宅善信 ▼だんごう3兄弟?
にもかかわらず(社会的現実を反映していない)、あるいは、そうである(現実を超えたロマンがあるとみなす)からこそ、この単調な繰り返しの多い歌が大ヒットしたものと思われる。『だんご3兄弟』の社会現象化については、既に多くのひとが論じておられるので、私は、最近、ネットサーフィンをしていて発見したこの歌の替え歌(たくさんの替え歌が創られることもヒットソングの条件)のひとつ『談合3兄弟』を取り上げて、日本文化の本質のひとつに迫ってみたい。因みに、私も3人兄弟である。私の父も3人兄弟である。だから、「三兄弟」というシチュエーションを体験的にも理解しているつもりである。本エッセイを読み終えて、筆者が「3人兄弟の何番目か?」を推論するのも、読者の皆さんのまた別の楽しみかもしれない。 まず、その『談合3兄弟』の歌詞に目を通してもらいたい。わが国の官民を挙げての「談合」体質が、巧みに表現されている。ひとことで言えば、この国においては、近代立憲民主制国家にとっては最も大切なはずの社会規範の根元である成文化された法律(社会契約)よりも、利害関係者(当事者)間の「合意(この場合は「談合」)」のほうがより優先されるということである。総会屋と企業の癒着や労使馴れ合いの労働慣行といった民間レベルの事象はいうまでもなく、いくら公正取引委員会が告発しても公共事業における談合は減るどころかますます巧みにカモフラージュされて行われている現実は、昨今のニュース(防衛庁の資材調達問題等)で聞き飽きているはずだ。そもそも、談合を取り締まる法律を作る機関である国会そのものが、公開の場である議会での論戦を極力避けて、ホテルや料亭(公の場でない)での与党内・与野党間の事前調整(つまり、接待と談合)を行ってからでないと議案に乗せられないという体たらくであることからしても、「この国から談合がなくすことは不可能である」と論破しても概ね間違っていない。 そこで、見方を180度転換して、なくすことのできない談合であるのならば、談合の積極的な評価やシステム化(一部の人や企業に利益を図るのでなく、社会全体にその成果を配分できる方途を確立すること)はないものかと考え、まず、わが国の「談合体質」の源を探るところから始めてみたい。 ▼「憲法」とは何か 先ほど、「この国においては、近代立憲民主制国家にとっては最も大切なはずの社会規範の根元である成文化された法律(社会契約)よりも、利害関係者(当事者)間の合意のほうがより優先される」と述べたが、成文化された法律の中で最も基本的な(その他の法律や政令が依って立つところの)法律が憲法(constitution)であることは言うまでもない。わが国においては、文字が導入されて以来、千数百年にわたる歴史上、「憲法」と呼ばれた基本法は、わずかに3つしかない。言うまでもなく、聖徳太子の手になる『憲法十七条』(604年)と、明治22(1889)年に制定された『大日本帝国憲法(明治憲法)』と昭和22(1947)年に施行された『日本国憲法』の3つである。 歴史上のその他の法律は、多分に基本法の性格を持っていたものもあったが「憲法」とは呼ばれていない。律令体制の成立をめざした白鳳時代の『大宝律令』(701年)や平安朝の『弘仁格式』(820年)、武家政権の合法化を意図した鎌倉幕府による『御成敗(貞永)式目』(1232年)、後醍醐天皇からの権力奪取を目論んだ足利尊氏の『建武式目』(1336年)、徳川幕藩体制の確立をめざした『武家諸法度』(1615年)などがあるが、いずれの法律(律令・式目・法度)も、「全国民を法の支配の下に置く」という意味での基本法でなかったことは明らかである。わが国、最強の統治機構であった徳川幕府ですら、統合的な法律(憲法)ではなく、武家には『武家諸法度』を、朝廷には『禁中並公家諸法度』を、寺社勢力には『寺院法度』や『諸社禰宜神主法度』を、それぞれ別々に適用した。国民の大半を占める農民や職人・町人などのいわゆる「百姓」には、適用される体系だった成文法すらなかった。有名な「切支丹禁止令」や「生類憐みの令」などは、高札を上げただけのことである。したがって、具体的な取り締まりは、現場の町奉行や代官の判断に任されていたといっても過言ではない。 また、多くの人は気がついていなかもしれないが、現在のわが国の基本法である『日本国憲法』は、昭和21年11月の「帝国」議会(衆議院と貴族院により構成)によって『大日本帝国憲法』の改定規定に基づいて全面改正されたものである。したがって、名称こそ『日本国憲法』と改められているが、本当は「改正大日本帝国憲法」と呼んでもおかしくない代物である。第1条の「天皇」に関する記述から始まって、両憲法は、表現内容は正反対であったとしても、法律自体の構造はよく似ている。この憲法の規定に従って、昭和22年4月に第1回の「国会」議員の総選挙が行われ、衆議院と参議院が構成された。したがって、現行の『日本国憲法』は、その条文にあるところの「国会は国の最高機関であり、唯一の立法機関である」という部分に、その制定の根本に矛盾があるが、これは、手続き論として「鶏が先か、卵が先か」というような話なので、ここでは問題があることの指摘だけに止めておきたい。 ▼ 第1条は国体の基本理念のはず 筆者(ほとんどの人がそうであると思う)が高等学校の歴史の時間で習った聖徳太子による『憲法十七条』制定の趣旨は、「日本を豪族(蘇我氏や物部氏等)の連合体から天皇中心の集権国家へ移行させ、当時の超大国であった隋の皇室が信奉していた仏教を大々的に取り入れることによって、東アジアの国際社会では先輩格である朝鮮半島の諸国家を飛び越して、先進国の仲間入りをしようという意図から制定されたものである(清風学園の校長先生と日本史の先生が聖徳太子に傾倒していたので、日本史の授業は、縄文時代から始まって聖徳太子までで1学期が終ってしまったことを思い出す)」ということあった。この辺りの構造は、明治維新期における欧米列強への対応と行動パターンがよく似ていて興味深い。 もし、聖徳太子の憲法制定の狙いがそうであったとするのならば、第2条の「篤く三宝を敬へ。三宝は、則ち四生(=あらゆる生き物のこと)の終(つい)の帰(よりどころ)、万国の極(きわめ)の宗なり。(後略)」と、第3条「詔(みことのり=天皇の命令)を承りては必ず謹め。君をば則ち天(あめ)とす。臣をば則ち地(つち)とす。天覆ひ地載せて、四時順(めぐ)り行き、万気通ふことを得。地、天を覆はむと欲するときは、則ち壊(やぶ)るることを致さむのみ。(後略)」は、判るとしても、その前(第1条)に「和を以って貴し為す」という一文が来ることの意味がよく解らない。およそ法律というものは、一番最初に一番大切な根本理念が掲げられているはずである。『大日本帝国憲法』の第1条は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇コレヲ統治ス」であり、『日本国憲法』の第1条では「天皇は日本国の象徴であり…」となっているではないか。因みに、『合衆国憲法』の修正第1条は「政教分離 (Separation of Church and State)」である。文字どおり、「国体(constitution)とは何か」を表明すべきである。 ところが、そんなに大切な第1条を、国家の根本理念(ビジョン)としては訳の解らない「和を以って貴しと為す」という表現が占めているのである。もし、聖徳太子の狙いが、豪族の連合国家から天皇中心の集権国家への移行であったのなら(事実、その数ヶ月前に、太子は有力豪族に対して「冠位十二階」を授け、中央集権化を計っている)、第3条の「詔を承りては必ず謹め」を第1条に持ってくるべきである。仏教(精神だけではなくて、寺院建築等を含めた総合的先進技術という意味で)立国を目指すのであれば、第2条の「篤く三宝を敬へ」を第1条に持ってくるべきであろう。もし、私が当時の条文の作成者であったなら、きっと優先順位を@天皇、A仏教、B和、の順番にしていただろう。それが、法律としては「合理的な形」であるからだ。 しかし、聖徳太子はそのようにしなかったし、また、事実、そのほう(@和、A仏教、B天皇)が良かったから、その後、千数百年間にわたって、日本人の心に深く浸透していったものと考えられる。なぜなら、こちらのほうが日本人の心情に「自然な形」で受け入れられているからである。 ▼必ず衆(もろもろ)と論(あげつら)ふべし この謎を解く鍵が『憲法十七条』の最終章である第17条に出てくるのである。聖徳太子は、その第1条で述べたことを、彼の憲法の最終章で、表現を変えてもう一度繰り返すことで、さらに意図を強調しているのである。すなわち、「十七に曰く、夫れ、事は独り断(さだ)むべからず。必ず衆(もろもろ)と論(あげつら)ふべし。(中略)故れ、衆と相弁(あいわきまう)るときは、こと則(すなわち)、理(ことわり)を得る」の項目である。解りやすく言えば、「ものごとは皆で相談して決めなさい。相談して決めたならば、それは必ず道理に適っているのです」ということになる。一神教の神を戴く欧米式の考え方によると、「10人の内、9人が間違っていて1人だけが正しい」ということがあり得るが、八百萬の神を戴くこの国では、「10人の内、9人いるほうが正しくて、1人のほうが正しくない」ということになる。絶対的な正義の基準がないからである。 この日本人の談合体質については、文字で書かれたものとしては、聖徳太子の『十七条の憲法』まで溯れるが、実は、もっと根が深いのである。神話の時代のヒーロー大国主命(国造りの象徴)が天孫族(皇室の先祖)に、この国の支配権を譲渡する話(いわゆる「国譲り」の神話)があるが、歴史的事実を言えば、アメリカ先住民(いわゆる「インディアン」)と欧州から来た白人の関係と同じように、長年、のどかな暮らしをしていた先住民(出雲族)を追っ払って大和朝廷(天孫族)による全国支配を試みたという出来事を、征服者側の論理で書いた歴史(『古事記』や『日本書紀』)に掲載されている話であるが、このような血なまぐさい「民族浄化」出来事(その証拠に、「地上の世界」の支配権を奪われた大国主命は「冥界」の王になっている)すら、関係者間の「談合」で片づけているのである。 そういえば、古来、この国にある大きな建物を表わす言葉に「雲太・和二・京三」という言葉がある。河川でいう「坂東太郎(利根川)・筑紫次郎(筑後川)…」と同じようなランキングである。この「雲太」とは「出雲太郎(=出雲大社)」のことであり、「和二」とは「大和次郎(=東大寺大仏殿)」のことであり、「京三」とは「京都三郎(=京都御所)」のことである。現実の世界の支配者である天皇の館よりも、仏教立国の象徴である大仏殿のほうが大きい。さらに、談合によって葬り去られた過去の遺物(大国主命の鎮魂のために建てられた)である出雲大社はもっと大きい(古代の出雲大社は100メートル近い高さの巨大な建造物であったらしい)という話である。 つまり、聖徳太子の『十七条の憲法』の@和(談合)、A仏教、B天皇、という不思議な順番は、実は、この国の人々の感覚にピッタリと合致しているのである。文字どおり、「日本の伝統 談合 だんごう」なのである。そういえば、『日本書紀』(現存する『憲法十七条』はここに収録されている)の推古天皇十二年(604年)の項目に、「夏四月丙寅の朔戊辰、皇太子、親(みずか)ら肇(はじ)めて憲法十七条を作りたまふ」とある。当時の暦を現在の暦に直すと、ちょうど初夏の今ごろのことだろう。その意味でも、「憲法記念日」を5月3日にするのは正解である。 |